進化論について
  進化論(The theory of evolution)は現在では非常に複雑な様相を見せています。一般に言ういわゆる「進化論」と科学的な意味で言う「進化理論」とはずいぶん異なります。しかも、その科学的な進化理論も、根本的な課題を抱えていますから、その全貌を説明することはできませんし、筆者にその資格もありません。ここでは、主として、吉川浩滿『理不尽な進化』朝日出版(2014年)を引用しながら、私なりに理解した範囲で述べさせていただきます。
 ダーウィンは、その進化論の核心となる進化の概念を「自然淘汰」"natural selection" という用語で表しました。ところが、この淘汰を行なう主体としての「自然」とは、突き詰めると「神」のことではないか?という議論が生じたのです。「ナチュラル」には、「自然が淘汰する」という淘汰の主体を表わす意味と、「自然に具わる本性の働きによって(生物が)淘汰される」という生物それ自体に内在する性質を指す二重の意味が含まれている点に注意してください。このために、進化をもたらす主体が「神」であるという含みを避けるために、ハーバート・スペンサーは「適者生存」"survival of the fitter" という概念を提起しました。この用語をダーウィンに強く推奨したのは彼の友人であり進化論の共同者であったフレッド・ラッセル・ウォレスです。ダーウィンはウォレスの申し入れを受けて、「適者生存」を採り入れ、『種の起源』第五版(1869年)の第4章を「自然淘汰、すなわち最適者生存」"Natural selection, or the survival of the fittest" と題しました。「神」ではなく「自然淘汰」というこの定義は、これ以後、キリスト教信仰と進化論を対立させる根本原因となり、その影響は現在も続いています〔吉川浩滿『理不尽な進化』朝日出版(2014年)114〜24頁〕。
 「自然淘汰」も「適者生存」も、生物に進化をもたらすその主体性はなにか? という問題を特定することを回避した巧みな用語でした。「適者」とは危機的な状況に自分なりに順応出来たことを指すのか?それとも、なんらかの危機的な状況を生き延びる資質をたまたま具えていた、あるいは「与えられて」いた、ということなのか?そのどちらの意味にも解釈できます。だから、「適者」とは強者のことではなく、優越者のことでもなく、従来と全く異なる与えられた環境に適応する異種遺伝子を<創造する>ことができたかどうかを意味することになります。しかしながら、適者を生存させるその「主体」は、いぜん隠されたまま謎であり続けるのです。この用語は「生き残る種は適者である。ではだれが適者なのか? それは生き残った種である」のように同語反復を含むことになりますから、現在の生物学では用いられることがなくなり、現在では主として「自然淘汰」が用いられています。したがって、それ以後の進化論は、ある生物の種に進化もたらす真の主体を特定することなく、もっぱら遺伝子の「機能面」に目を向けて、これを数式で記述する方向をたどることになります。進化のメカニズムと、そのメカニズムが分岐によって形成する全体像(これは樹木のように分岐した姿をとるので「生命の樹」と呼ぶことができます)、この二つは別個の問題であり、進化のメカニズムそれ自体が、生命の樹が表す歴史的な意義を説明することはしません〔吉川前掲書280頁〕。進化論とキリスト教の対立は「自然淘汰」と「適者生存」をもたらすその「主体の謎」が意味することを正しく認識しない誤解から生じたものであり、進化の窮極の主体性の問題を正しく認識するならば、進化論とキリスト教は、なんら矛盾することなく両立することをこの経緯は教えてくれます。
 さらにもう一つ、ここで付け加えておきたいことがあります。それは、進化論を宗教的な意義と結びつけることに対して、欧米では現在も警戒する傾向があることです。進化論とキリスト教信仰との結びつきに対するこのような警戒は、かつてナチスが、進化論を、民族間、人種間の優劣と結びつけて「アーリア民族至上主義」を唱えたことに起因するものです(これを「優生学」と言います)。先の補遺で、「東アジア」という地政学的な概念が、国家間の軍事支配を含むことを指摘しましたが、進化論も、もしもこれが国家や民族と関連づけられると、民族至上主義だと誤解されるおそれがあります。わたしが「人類の進化」をイエス・キリストのエクレシアと結びつけるは、そのような民族至上主義や人種差別とはちょうど正反対の方向を指し示すためであることを知ってほしいのです。
 生物は、その身体であれ生態であれ、なんらかの決まった「かたち」を具えています。それだけではなく、鼻で匂いをかぎ、目でものを見、手足で移動するという生物たちの器官や行動は一定の目的に資するような精密な構造と機能をもっています。古来、人びとは、生き物たちが有するこうした精妙な仕掛けに驚嘆の念を抱きつづけてきました。そこから、なぜ生き物たちはそんな風にできているのか、生物の身体や行動がもつ複雑なかたちはどうしてつくられたのか、という問いが生まれてくるのは自然なことです。この問いに長いこと答えを与えてきたのは、宗教であり神学でした。生物学や地質学といった個別科学が制度化される以前には、動植物や鉱物などの収集や分類を行う博物学(natural history)という学問が自然の事物を研究していました。そうした博物学の時代において、自然を研究することは神の摂理を知ることにほかならなかったのです。18世紀の英国の詩人アレクサンダー・ポープの言葉にあるように、この問いに取り組むことは、「自然を通して自然の神へ」と向かう探究だったのです〔吉川前掲書229〜230頁より〕。
 「たとえば荒野を歩いていて一個の石ころを踏み、どうしてその石がそこにあるのかと尋ねられるとする。何故かは知らないが、おそらくはずっとそこにあったものなのだと答えるに違いないし、この答えを莫迦げたものだと言い切るのはそれほど易しくはないだろう。しかるに荒野で一個の時計を見つけた場合はどうであろうかと言うに、それがどうしてそこにあるかと問われて上の如き答え、即ちそれはずっとそこにあったに違いないのだという答えがどうして当てはまらないのだろうか。最初の場合に通用する理屈が何故、第二の場合には通用しないのであろうか。それは次の如き理由によるのであって、これ以外の理由はない。即ち、われわれが仔細に時計を観察するにつれて、その各部分が或る目的をもって組み立てられ、結びつけられているものだと判るからである。一日の時間の推移を示すよう調整された運動をうみ出させる目的で組み立てられ構成されたものである、と (そして、こうしたことが石には見出せない、と)。(……)そうなれば次の如く想像する他はない。この時計にはそれをつくった存在がいたに相違ない。現にこうしてわれわれの便益に役立っている目的のためにこれを組み立てた、この構成を差配し、この用途を匠んだ一人もしくはそれ以上の匠みがいつか、どこかに確かにいたのに違いない、と」〔吉田浩満『理不尽な進化』231〜32頁より〕。説明方法において自然神学と袂を分かったダーウィニズムは、この原初の問いに答えようとする点では、いまだに自然神学の後継者であって、現代の進化理論はこの問いに答えてはくれないのです。
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