ガラテヤ書の霊性
コイノニア会講話:2005年4月17日

【聖句】
(1)ガラテヤ 1:6キリストの恵みへ招いてくださった方から、あなたがたがこんなにも早く離れて、ほかの福音に乗り換えようとしていることに、わたしはあきれ果てています。
(2)ガラテヤ 2:16けれども、人は律法の実行ではなく、ただイエス・キリストへの信仰によって義とされると知って、わたしたちもキリスト・イエスを信じました。これは、律法の実行ではなく、キリストへの信仰によって義としていただくためでした。なぜなら、律法の実行によっては、だれ一人として義とされないからです。
(3)ガラテヤ 3:14それは、アブラハムに与えられた祝福が、キリスト・イエスにおいて異邦人に及ぶためであり、また、わたしたちが、約束された御霊を信仰によって受けるためでした。
(4)ガラテヤ 3:23〜24信仰が現れる前には、わたしたちは律法の下で監視され、この信仰が啓示されるようになるまで閉じ込められていました。こうして律法は、わたしたちをキリストのもとへ導く養育係となったのです。わたしたちが信仰によって義とされるためです。
(5)ガラテヤ 4:9しかし、今は神を知っている、いや、むしろ神から知られているのに、なぜ、あの無力で頼りにならない支配する諸霊の下に逆戻りし、もう一度改めて奴隷として仕えようとしているのですか。
(6)ガラテヤ 5:1この自由を得させるために、キリストはわたしたちを自由の身にしてくださったのです。だから、しっかりしなさい。奴隷の軛に二度とつながれてはなりません。
(7)ガラテヤ 6:15割礼の有無は問題ではなく、大切なのは、新しく創造されることです。
〔新共同訳〕

【講話】
(1)過去を観る視点
   今年は復活祭が例年より早く、3月27日でしたので、今日は、遅れてのコイノニア会の復活節です。そこで、今続けているガラテヤ人への手紙の講話のシリーズの続きをするのではなくて、ガラテヤ人への手紙を全体として見た場合に、その霊性についてごくおおざっぱに皆さんにお話ししようと思うのです。
   パウロはこの書簡で、ガラテヤの信徒たちに対して、あなたがたがわたしから教えられたイエス・キリストの十字架と復活の福音、この福音によって降るキリストの御霊の働き、これからどうして離れていくのか? こう警告しています。どうしてこのようなことになったかと言えば、ガラテヤの信徒たちのところへ、ユダヤ主義的で律法主義的なユダヤ人キリスト教徒たちが訪れて、「キリストの御霊だけではまだ完全ではない。それだけではキリストにある生活を送ることができない。正しいキリスト者の生活を送るためには、聖書(旧約)の伝統的な律法とその制度に従った生活をする必要があるのです。だから割礼を受けなければなりません。」こう教えたからです。
   そこでガラテヤの信徒たちは、言われるままに割礼を受けて、ユダヤ教の伝統的なモーセ律法に従う生活を始めようとしました。するとこれを聞いたパウロが、「ちょっと、待ちなさい」と言った。「あなたがたは、せっかく与えられたキリストの御霊の祝福を失おうとしている。」こう警告したのです→聖句の(1)。なぜパウロはこのような警告をしたのでしょうか? これがガラテヤ人への手紙の主題です。
   昔マルキオンという神学者がいました。彼は異端の神学者で、パウロはモーセ律法を完全に否定したと考えました。しかし、モーセ律法を否定するのも間違いなら、律法主義のユダヤ人キリスト教徒たちのように、モーセ律法を福音と一緒にするのも間違いです。モーセ律法と福音との関係は、簡単ではありません。うっかりすると誤った方向へと向かうおそれがあります。十字架と復活だけを信じて、律法を全く否定するのも誤りです。逆に十字架と復活を律法主義的な聖書解釈と結びつけるのも間違っています。両方とも誤りです。
   ここでパウロは、律法主義者的なユダヤ人キリスト教徒たちを批判していますが、それでは、パウロとこれらのユダヤ人キリスト教徒との違いはどこにあったのでしょう? 創世記17章14〜16節には、神はアブラハムとその子孫に対して、祝福の約束をお与になったとあります。この「アブラハムとその子孫への祝福の約束」ですね、これについて、パウロと彼等とでは解釈の仕方が違うのです。→聖句の(3)
   パウロは、「アブラハムの子孫」とは、キリストのことであると言います。そしてキリストの十字架と復活を通して与えられるキリストの御霊、これこそ、神がアブラハムとその子孫に与えた約束の成就だと言うのです。つまり<アブラハム→キリスト→御霊の賜>。こうパウロはとらえたのですね。ところが、律法主義的なユダヤ人キリスト教徒たちは、そうではなく、アブラハムの子孫とは、イスラエルの民、すなわち自分たちユダヤ民族のことであると解釈しました。そしてこのユダヤ民族に、神はモーセ律法を授与して、この律法を通して祝福の約束を与えたと言うのです。つまりユダヤ主義的な人たちは、<アブラハム→イスラエル民族→モーセ律法>。このようにとらえたのです。
  ここで注意してほしいのは、律法主義者たちの信仰は、アブラハム以来のイスラエル民族の歩みという過去の伝統に根ざしていることです。ですから先祖アブラハムと次に来るモーセ律法、これらを通して、現在の自分たちの宗教的な有り様を観ています。ところがパウロは、そうではないのです。アブラハムの子孫というのは、イエス・キリストのことである。そしてこのキリストを通して与えられている神の祝福とは、キリストの十字架と復活によって降るキリストの御霊のことである。この御霊がガラテヤの信徒たちに与えられている。こうパウロは教えるのです。律法主義者たちは、過去のイスラエルの伝統を通じて現在の自分たちを観ています。ところが、パウロのほうは、キリストの御霊を授かっているガラテヤの信徒たちこそが、ほんとうの意味での「アブラハムの子孫」だと言うのです。すなわちパウロは、「現在自分たちに与えられているキリストの御霊」を通して、アブラハムとイスラエルの過去を観ているのです。彼等が、過去のイスラエルの歴史と伝統から現在の信仰をとらえているのに対して、パウロのほうは、逆に、今与えられているキリストの御霊の働きを通して、逆に過去へさかのぼって、過去をもう一度「見直して」いるのです。彼等は過去から現在を観ています。パウロは現在から過去を見直しています。過去は「見直す」ことができるのです。だから過去は「変わる」のです。絶対ではないのです。これが、パウロと律法主義的なユダヤ人キリスト教徒たちとの見方の違いです。
(2)信仰か行ないか
   パウロと律法主義者たちとの違いがもうひとつあります。律法主義的なユダヤ人キリスト教徒たちは、モーセ律法は神からイスラエル民族に与えられたのだから、この律法を「守り行なう」ことが、神の祝福を得る道である。こう考えるのです。ところがパウロはそうではありません。十字架と復活のイエス・キリストの御霊に与ることが、神の祝福を得る道だと考えるのです。だから、モーセ律法を取り込む必要はないのです。どうしてパウロはこう言うのでしょうか? パウロは律法を否定しているのでしょうか? あるいは、イスラエル民族の過去を否定しているのでしょうか? そうではありません。でも、パウロを批判する人たちは、パウロがモーセ律法とイスラエル民族を否定すると思いこんだのです。ユダヤ人キリスト教徒たちの中でさえも、パウロをこのような目で見る人たちがいました。ではなぜパウロはモーセ律法は要らないと言うのでしょうか? それは、イエス・キリストを「信じる」ならば、それ以外のいっさいを入れる余地がなくなるからです。→聖句の(2)
   イエス様を「信じる」というのは、イエス様の人格、イエス様というお方を信頼することです。イエス様に全くお任せすることなんです。そこには、信仰と律法、信仰と自分の考え、信仰と自分の行ない、この「と」は要らないのです。「と」があると、信仰は信仰でなくなるのです。主様の御霊にあって、いっさいを主様にお任せします。どうぞ、このわたしを導いてください。これがほんとうの信仰であり、信頼です。ですから、律法を行なって、自分の行ないによって神様からの恵みに与ろうという思いはいっさい入ってこないのです。だからパウロは、イエス様の御霊のほかに、これと併せてモーセ律法をも守らなければならないという教えに反対するのです。
(3)キリストへ来るまで
   だからパウロにとって、過去は絶対的ではありません。モーセ律法も絶対的なものではありません。それは、歴史のある段階で与えられたものにすぎないからです。決して律法の否定ではないのです。過去を否定するのでもないのです。先祖を否定するのでもないのです。ただこれらを常に新しく「見直す」のです。過去を絶対化してこれにしがみつくのではない。先祖も過去も伝統も、このイエス様を信頼し、イエス様の御霊から逆に振り返って観た時に、ああ、そうだったのかと分かるのです。こうして、自分と自分たちの過去を正しく「位置づける」のです。
   現在の日本には、戦後民主主義を否定する人たちがいます。また戦後民主主義を絶対化する人たちもいます。戦前の日本を美化して、これに戻ろうとする人たちがいます。戦前を美化して戦後を否定するのは、おかしなことです。戦前も戦後も、どちらも日本の歴史です。平和憲法も日本の歴史。それ以前の明治憲法も日本の歴史です。どちらがいいのか、どちらが正しいのか? これを過去から現在を観て考えるのではないのです。イエス様の御霊にあって、主様の御霊に導かれて、その時々に、「ああ、そうだったのか。こういう意味があったのか」と、過去を見直して、これらを新しく「位置づける」のです。これがパウロのしたことです。
   では、キリストの御霊にあって過去を観た時に、パウロには何が見えてきたのか? イスラエルの過去が、自分の過去が、今自分がキリストに救われるための準備だったこと、このことが見えてきたのです。過去の自分の歩みも、過去の日本の歩みも、今の時にイエス様が日本人であるわたしたちに顕れてくださるためであった。こういうことが分かるのです。そうか。今わたしがここにいるために、ああいうことがあったのだ。イエス様の十字架と御復活から降る御霊、これが今この国に注がれています。このために過去の日本があったのだ。このことが示されて来るのです。
   モーセ律法はキリストが到来するまでのイスラエルの準備期間でした。→聖句の(4)旧約聖書の時代は、イエス様が到来するまでの準備期間であり、律法はわたしたちをキリストへ導く「養育係」であったとパウロは言うのです。イスラエルにとっての過去の伝統は旧約聖書の時代です。同時に、それぞれの国、それぞれの民族にとって、イエス様の福音に出合うまでには、それぞれに過去の歴史があり、それぞれに伝統があります。この日本の歴史の場合も、今ここで主様がこのようにわたしたちに顕われて、こうして御霊の福音が語られています。だから、イスラエルの歴史がイエス様への準備期間であったとすれば、わたしたちの歴史もキリストが到来するための準備期間であったことが分かるのです。ここで初めて、日本の伝統の良さが分かるのです。だからパウロは、イスラエルの過去の律法とガラテヤの信徒たちの過去の宗教とを重ね合わせて見ています。→聖句の(5)ガラテヤの信徒たちが、モーセ律法を受け容れることは、彼等の異教の過去の伝統へと逆戻りすることだとパウロは言うのです。
(4)保護と監視
   ではパウロは、新しい福音の光に照らされて、イスラエルの過去をどのように観たのでしょうか? ユダヤ主義的な人たちや律法主義者たちは、過去を規範として自分たちの生き方を観ています。けれどもパウロはそうではなかった。ではパウロから観たイスラエルの過去とはどういう歴史だったのでしょうか? 彼は、イスラエルの歴史をそれ以外の国々のいろいろな歴史、異邦人(諸民族)の歴史の中に自分たちの歴史を置いて観たのです。世界の国々の歴史とイスラエル民族の歴史とを全く同じように観たのです。そこから初めて、イスラエルの民には、こういう導きがあったのだ。こういう特長があったのだ。このことがパウロに見えてきました。
   だからパウロは、イスラエルの律法制度の歴史も諸国民の宗教的な制度や慣習も、基本的には同じレベルに置いて観ているのです。では彼は、イスラエルと諸民族の律法や宗教制度から何を読み取ったのでしょうか? パウロは、過去のモーセ律法の果たした役割を「保護する/監督する」ことであったと述べています。つまりモーセの律法制度は、イスラエル民族を「保護して」きたと言うことです。いろいろな意味で護ってくれた。これがひとつの面です。けれどもこれは一面です。パウロは同時にその裏に欠点も観ています。それはなにか? 律法制度は、イスラエルの人たちを「監視し隷従させてきた」ともあります。どちらにも共通するのが、「保護する」ことであり、同時に「監視する」「支配する」「隷従させる」ことだったのです。日本人は、長い間、伝統に縛られてきました。過去の伝統や制度は、日本の人たちを「監督」し「束縛」してきたのです。この「過去の呪縛」から、イエス様はわたしたちを自由にしてくださった。こうパウロは観ているのです。
   けれども、イエス・キリストが顕れた今は、最早それらどちらの束縛からも自由になることができるのです。ガラテヤの信徒たちは、もはや過去の伝統や宗教的しきたりに縛られない。さりとて、いわゆる聖書的な律法主義にも縛られてはならないのです。どちらもキリストの御霊からの逆戻りになるからです。→聖句の(5)
(5)自由と創造
   ではそこから何が生まれるのでしょうか? そこからは「新しい創造」が生まれるのです。これらの束縛から完全に解放されて、全く新しい主様の御霊にある自由、これが、パウロの福音の大事なポイントなのです。パウロはキリストの御霊を通して、ガラテヤの信徒たちに何を伝えようとしているのでしょうか? 新しい視野に立って、自分の過去を観る。日本の歴史を観る。そしてそこから、新たな自分の生き方を「創造する」。これが「自由」の意味です。→聖句の(6)束縛「からの自由」とは、束縛が「ない」状態のことです。しかし、ある事柄を「しない」自由だけではまだ十分とは言えません。そこからなにをしていくのか? どういうことを実現していくのか? ある事柄を「する」自由ですね。これが「創造する」自由です。イエス様の御霊に全部お任せして、いっさいの束縛から解放される時に、人は自分の生き方を創り出していくことができるのです。この働きこそ、キリストの御霊の働きです。またそこにこそ、わたしたち一人一人に与えられる「祈り」があるのです。祈りは自由をもたらし、自由は創造をもたらすからです(コリント第二3章17節)。ガラテヤ人への手紙の「自由」とはこういう意味です。従来のいっさいの呪縛から解放されて、新しく見直し、そこから新しく創り出していく。これがガラテヤ書の霊性です。→聖句の(7)
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