ガラテヤ人への手紙から
コイノニア東京集会講話:2005年5月15日
【聖句】
(1)ガラテヤ 1:6キリストの恵みへ招いてくださった方から、あなたがたがこんなにも早く離れて、ほかの福音に乗り換えようとしていることに、わたしはあきれ果てています。
(2)ガラテヤ 2:16けれども、人は律法の実行ではなく、ただイエス・キリストへの信仰によって義とされると知って、わたしたちもキリスト・イエスを信じました。これは、律法の実行ではなく、キリストへの信仰によって義としていただくためでした。なぜなら、律法の実行によっては、だれ一人として義とされないからです。
(3)ガラテヤ 3:14それは、アブラハムに与えられた祝福が、キリスト・イエスにおいて異邦人に及ぶためであり、また、わたしたちが、約束された御霊を信仰によって受けるためでした。
(4)ガラテヤ 3:2324信仰が現れる前には、わたしたちは律法の下で監視され、この信仰が啓示されるようになるまで閉じ込められていました。こうして律法は、わたしたちをキリストのもとへ導く養育係となったのです。わたしたちが信仰によって義とされるためです。
(5)ガラテヤ 4:9しかし、今は神を知っている、いや、むしろ神から知られているのに、なぜ、あの無力で頼りにならない支配する諸霊の下に逆戻りし、もう一度改めて奴隷として仕えようとしているのですか。
(6)ガラテヤ 5:1この自由を得させるために、キリストはわたしたちを自由の身にしてくださったのです。だから、しっかりしなさい。奴隷の軛に二度とつながれてはなりません。
(7)ガラテヤ 6:15割礼の有無は問題ではなく、大切なのは、新しく創造されることです。
    〔新共同訳による〕
【講話】
(1)私の信仰体験
   今回はコイノニア会の初めての東京集会で、ここには初めて参加された方もおいでになります。実は今お手元にお渡ししたガラテヤ人への手紙からの聖句は、この4月にコイノニア会の遅れた復活祭の集会の時にも用いたものです。その時には、「ガラテヤ書の霊性」と題しましたが、今日は、同じ聖句ですが、「コイノニア会の霊性」としてお話ししたいと思うのです。聖句は同じですが、内容は、重なるところ、違うところがあります。
   私は過去において三度の大きな転換をせざるをえませんでした。ひとつは戦中から戦後にかけての価値観の大転換です。太平洋戦争が始まったのが、昭和16年12月8日で、私が小学校3年の時だったと思います。終戦が、昭和20年8月15日で、私は旧制中学の1年でした。「涙滂沱としてしたたる」、その時の感想文にこう書いたのを覚えています。その頃の私は、軍人勅諭を暗唱していた軍国少年だったわけです。6歳年上の叔父が、19歳で、台湾沖の航空戦で戦死しました。この時を境に、日本の国は、軍国主義からアメリカ式の民主主義へと一変しました。
     もうひとつは、昭和27年、大学1年の冬に、フィンランドの宣教師さんから信仰を教えられたことです。その年に洗礼を受けて、翌年の大学2年の正月に、異言の聖霊体験を受けました。大学卒業後に、献身して宣教師さんの通訳や翻訳をしたのですが、この方々が、ファンダメンタリズムの立場から日本の過去を完全に否定することに疑問を抱くようになりました。その頃、無教会で聖霊体験をした小池辰雄先生に出会う機会が与えられ、その教えを受けることになったのです。先生が京都の私の家まで来てくださって、宣教師さんと働いていた同じような信仰の仲間3,4人と祈り会を持ちました。わたしたちは、今まで世話になった宣教師さんの宗団と別れて、ファンダメンタリズムの日本否定から、「南無キリスト」とお祈りする小池先生の弟子へと大転換をしたのです。これが三度目の転換です。
   実はパウロもふたつの大きな転換を行なっています。ひとつは、律法主義的なファリサイ派から、イエス・キリストを信じるという大きな転換です。もうひとつは、ユダヤ人キリスト教徒となったパウロが、その中で、律法主義的なユダヤ人キリスト教徒たちの信仰の有り様を否定する立場をとって、エルサレムのキリスト宗団とは異なる道を歩んだことです。別れるきっかけは、アンティオケアでのペトロとの衝突にありました。ガラテヤの問題は、この時のアンティオケアでの事件の続きと考えることができます。なぜなら、パウロは、事実上アンティオケアの教会から別れて、テモテたちとガラテヤを通りエフェソを拠点にして伝道していたからです。

(2)ガラテヤの信徒たちの問題
    パウロはこの書簡で、ガラテヤの信徒たちに対して、彼から教えられたイエス・キリストの十字架と復活から降るキリストの御霊の働きから、あなたがたはどうして離れていくのか? こう厳しく警告しています。ガラテヤの信徒たちが、どうしてこのようなことになったかと言えば、彼等のところへ、ユダヤ主義的で律法主義的なユダヤ人キリスト教徒たちが訪れて、「キリストの御霊だけではまだ完全ではない。正しいキリスト者の生活を送るためには、(旧約)聖書の伝統的な律法とその制度に従った生活をして割礼を受けなければなりません。」こう教えたからです。
    そこでガラテヤの信徒たちは、言われるままに割礼を受けて、ユダヤ教の伝統的なモーセ律法に従おうとしたのです。するとこれを聞いたパウロが、「ちょっと、待ちなさい」と言った。「あなたがたは、せっかく与えられたキリストの御霊の祝福を失おうとしている。」こう警告したのです→聖句(1)。なぜパウロはこのような警告をしたのでしょうか? これがガラテヤ人への手紙の主題です。モーセ律法を否定するのも間違いなら、モーセ律法を福音と一緒にするのも間違いです。モーセ律法と福音との関係は、簡単ではありません。うっかりすると誤った信仰へと向かうおそれがあります。
(3)パウロと律法主義的なユダヤ人キリスト教徒
     パウロとこれらのユダヤ人キリスト教徒との違いはどこにあったのでしょう? それは、創世記15章と17章にあるように、神はアブラハムとその子孫に対して、祝福の約束をお与になりました。このアブラハムとその子孫への祝福の約束について、パウロと彼等とでは解釈の仕方が違うのです。→聖句(3)パウロは、「アブラハムの子孫」とは、キリストのことであると言います。その上で、キリストの御霊こそ、神がアブラハムとその子孫に与えた約束の成就であると言うのです。つまり<アブラハム→キリスト→御霊の賜>。こうパウロはとらえたのです。ところが、律法主義的なユダヤ人キリスト教徒たちは、そうではなく、アブラハムの子孫とは、イスラエルの民、すなわち自分たちユダヤ民族のことであると考えました。そしてこのユダヤ民族に、神はモーセ律法を授与して、この律法を通して祝福の約束を与えたと信じたのです。つまりユダヤ主義的な人たちは、<アブラハム→イスラエル民族→モーセ律法の祝福>。このようにとらえたのです。
   ここで注意してほしいのは、律法主義者たちの信仰は、アブラハムからイスラエル民族という過去の伝統に根ざしていることです。ですから先祖アブラハムとその後のモーセ律法、これらを通して、現在の自分たちのあり方を観ています。ところがパウロは、そうではありません。彼がアブラハムの子孫と言うのは、イエス・キリストのことです。このキリストの十字架と復活による御霊が、今現在、ガラテヤの信徒たちに与えられているのです。律法主義者たちは、過去のイスラエルの伝統を通じて現在の自分たちを観ています。ところが、パウロのほうは、キリストの御霊こそが神の祝福であり、これに授かっているガラテヤの信徒たちこそが、ほんとうの意味での「アブラハムの子孫」ですから、今現在自分たちに与えられているキリストの御霊を通して、自分たちのあり方を観ています。だから、現在の御霊の視点から、逆に過去を振り返って、アブラハムとモーセ律法という過去を観ているのです。パウロは、過去へさかのぼって、過去をもう一度「見直して」いる。過去は決してなくならない。しかし、過去は「見直す」ことができるのです。だから過去は「変わる」あるいは「変える」ことができるのです。これが、パウロと律法主義的なユダヤ人キリスト教徒たちとの見方の違いです。過去は決して絶対不変ではないのです。
(4)プロのクリスティアノス
   パウロと律法主義者たちとの違いがもうひとつあります。律法主義的なユダヤ人キリスト教徒たちは、モーセ律法は、神からイスラエル民族に与えられたのだから、この律法を「守り行なう」ことが、神の祝福を得る道である。こう考えています。ところがパウロはそうではありません。十字架と復活のイエス・キリストの御霊に与ることが、神の祝福を得る道だと考えるからです。だから、モーセ律法を取り込む必要はないと言うのです。パウロは律法を否定しているのでしょうか? あるいは、イスラエル民族の過去を否定しているのでしょうか? そうではありません。でも、パウロを批判する人たちは、パウロがモーセ律法とイスラエル民族を否定していると思いこんだのです。ユダヤ人キリスト教徒たちの中でさえ、パウロをこのような目で見る人たちがいました。ではなぜパウロは、モーセ律法は要らないと言うのでしょうか? それは、イエス・キリストを「信じる」ならば、それ以外のいっさいを入れる余地がなくなるからです。→聖句(2)
      イエス様という人格、イエス様というお方を信頼することは、イエス様に全くお任せすることです。信仰と律法、信仰と自分の考え、信仰と自分の行ない、この「と」は要らないのです。「と」があると、信仰は信仰でなくなるのです。主様の御霊にあって、いっさいを主様にお任せします。だからどうぞ、このわたしを導いてください。これが信仰であり信頼です。だから、律法を行なって、自分の行ないによって神様からの恵みに与ろうという、そういう思いはいっさい入ってこないのです。こうしてパウロは、ひたすらイエス様の御霊から、自分の過去と民族の過去を観ているのです。
      私は伝道者ではありません。牧師でもありません。神学者でもない。私は職業を持った「ただの」クリスチャンです。でも、言葉のほんらいの意味での「クリスチャン」です。少なくともそうなりたいです。「クリスティアノス」というギリシア語は、「キリストにある者」「キリスト者」と言う意味です。これは生活の全領域をイエス・キリストに明け渡して生きている人のことです。私はプロの聖職者ではありませんが、プロのクリスティアノスです。ほんらいクリスチャンは全員プロでなければなりません。仕事も何もかも、全部主様に委ねる。これがプロのクリスティアノスです。職業は大学の教師でしたが、霊的には、これ以外のプロ意識はなくてもいいのです。
(5)「旧約」の律法諸民族
   ではパウロは、新しい福音の光に照らされて、イスラエルの過去をどのように観たのでしょうか? ユダヤ主義的な人たちや律法主義者たちは、過去を規範として自分たちの生き方を観ています。けれどもパウロはそうではなかった。ではパウロから観たイスラエルの過去とはどういう歴史だったのでしょうか? 彼は、イスラエルの歴史をそれ以外の国々のいろいろな歴史、異邦人(原語は「諸民族」)の歴史の中に自分たちの歴史を置いて観たのです。世界の国々の歴史とイスラエル民族の歴史とを全く同じように観たのです。そこから初めて、イスラエルの民には、こういう導きがあったのだ。こういう特長があったのだ。このことがパウロに見えてきました。
   モーセ律法は、キリストが到来するまでのイスラエルの準備のためでした。→聖句(4) 旧約聖書の時代は、イエス様が到来するまでの準備期間だったのです。イスラエルにとって、イエス様に出会うまでの過去が準備の時代であったのなら、ちょうど同じように、それぞれの国、それぞれの民族には、イエス様の福音に出会うまでに、それぞれの過去の歴史があり、それぞれに伝統があります。イスラエルの歴史が、イエス様への準備期間であったとすれば、ガラテヤの信徒たちにとっても、自分たちの過去は、同じ意味でイエス様に出会うための準備期間だったはずです。ペトロを初め、律法主義的なユダヤ人キリスト教徒たちには、こういう見方をすることができませんでした。エルサレムのキリスト宗団にはこれが観えませんでした。だからアンティオケアでペトロとパウロとが衝突したのです。
     わたしたちの場合も、今ここで主様がこのようにわたしたちに顕われて、こうして御霊の福音が語られています。このことを通じて、過去の日本が、このための準備であり期間であったことが分かってくるのです。イエス様の御霊に触れて初めて、日本の伝統の良さが分かるのです。同時に、日本の過去の本当の意味が見えてくるのです。パウロは、イスラエルの過去の律法とガラテヤの信徒たちの過去の宗教とを重ね合わせて見ています。だからこそ、ガラテヤの信徒たちが、モーセ律法を受け容れることは、彼等の異教の過去の伝統へと<逆戻りする>ことだとパウロは言うのです。→聖句(5)
      パウロは、過去のモーセ律法の果たした役割を「監督する/保護する」ことであったと観ています。つまりモーセの律法制度は、イスラエル民族を保護してきた。いろいろな意味で護ってきた。これがひとつの面です。けれどもこれは一面です。パウロは同時にその裏に欠点も観ています。それは律法制度が、イスラエルの人たちを「監視し隷従させてきた」ことです。イスラエルは、長い間、宗教的伝統に縛られてきたのです。日本人の場合も、過去の伝統や制度は、日本の人たちを保護してきました。しかし同時に、監督し束縛してきました。過去の呪縛です。こうパウロは観たのです。だから、ガラテヤの信徒たちは、自分たちの過去の伝統や宗教的しきたりに縛られてはならないのです。さりとて、いわゆる従来のユダヤ主義の聖書的な伝統や律法主義にも縛られてはならないのです。どちらもキリストの御霊から観れば逆戻りになるのです。
    これには、ガラテヤの信徒たちはさぞ驚いたことでしょうね。自分たちは、過去の異教的な宗教を捨てて、ユダヤ人キリスト教徒たちの教えるとおりに、過去のイスラエルの聖書を信じて、これからはユダヤ風にするのだ。こう思っていたからです。ところが、パウロから、それはあなたがたの過去の異教的な束縛へと「逆戻りする」ことと同じだと言われたのですから。これは驚いたと思います。
(6)自由と創造
   自分たちの過去へ戻るのでもない。さりとてユダヤ式に聖書の教えを受け入れるのでもない。ではそこからいったい何が生まれるのでしょうか? そこからは「新しい創造」が生まれるのです。これらの束縛から完全に解放されて、全く新しい主様の御霊にある自由、これが、パウロの福音の大事なポイントです。パウロはキリストの御霊を通して、ガラテヤの信徒たちに何を伝えようとしているのでしょうか? 新しい視野に立って、自分の過去を観る。日本の歴史を観る。そしてそこから、新たな自分の生き方を「創造する」ことです。→聖句の(6)ある事柄を「しない」自由だけではまだ十分とは言えません。そこからなにをしていくのか? どういうことを実現していくのか? ある事柄を「する」自由ですね。これが「創造する」自由です。
     では「創造」とはなにか? いろいろあるでしょうが、新約聖書の言う「創造」とは、宇宙レベルと個人レベルで見ることができます。ガラテヤ人への手紙は、個人レベルの御霊にある創造に関連していますが、コロサイ人への手紙では、宇宙レベルでの創造について語られています。ただし、コロサイ人への手紙は、パウロの教えを受けた人(エバフラスか?)の書いたものだと言われいます。個人のレベルとしては、まずなによりも「新しい自分自身」の創造です。変容です。聖書ではこれを「新しく生まれる」と言います。イエス様の御霊に全部お任せして、いっさいの束縛から解放される時に、人は自分の生き方を全く新たに創り出していくことができるのです。この働きこそ、キリストの御霊の働きです。またそこにこそ、わたしたち一人一人に与えられる「祈り」があるのです。祈りは自由をもたらし、自由は創造をもたらすのです(第二コリント3章17節)。ガラテヤ人への手紙の「自由」とはこの意味です。これがガラテヤ書の霊性です。→聖句の(7)そして、これこそが、コイノニア会の霊性です。
   今日ここにおられる方々の中には、すでに集会を始めておられる方々がいます。また、そうするべく召されている方々もいます。本日は、私が関西から東京へ来ましたが、将来、必ず、皆さんの中から、関西のコイノニア会へお出でになって、お話くださる方々がでると思います。

本日は、司会者の希望によって、聖餐を戴きます。交わりを現わすのにこれは最もいい方法です。私は、聖餐とは、「食べる」御言葉、「飲む」御言葉だと信じています。御言葉は、聴くことができます。絵画や彫刻によって観ることもできます。また活字として目で読むこともできます。しかし、聖餐は味わう御言葉です。洗礼の水は、体で浴びる御言葉です。ですから、聖餐は、具体的な教団や組織を意味するものではありません。キリストの「からだ」とは、わたしたちの存在それ自体だからです。聖餐は霊的な交わりを意味するものであって、組織を意味するものではありません。だから、洗礼を受けている人は、聖餐を戴くのが望ましいことです。しかし、洗礼を受けていない方でも、信仰を持っている人、また受けたいと希望する人は、これを戴くことができます。
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