コヘレトの言葉

時のめぐり

 コヘレトの言葉は、聖書の中でも不思議な書である。これが書かれたのはBC200年前後とされている。これよりやや時代が下るシラ書の作者も知恵の書の作者もコヘレトの言葉を知っている。実際に正典に入れられたのは、AD96年という遅い時期であるが、紀元前1世紀には、コヘレトの言葉は、すでに正典に近い評価が与えられていたようである〔Barton 3〕。作者は、エルサレムの神殿近くに住む富裕で身分の高い老人であり、家族のいない孤独な人であったらしい〔Barton 64-65〕。「コヘレト」というのは、「集会で語る者」を意味する女性名詞である。しかし、作者が男性であることは、「エルサレムの王、ダビデの子」という冒頭の言葉からも分かる。このタイトルから、この書はソロモン王の作であると伝えられてきたが、この説に疑義を呈したのはルターが最初らしい。
 この書には、一貫してある種の無常観が流れていて、このことが、コヘレトの言葉を聖書中でも特異な存在にしている。ジークフリードという学者は、この書に「非ヘブライ的な悲観主義」を見いだし、それが原作者の特徴であると考えた〔Barton 28〕。このような視点から、彼は原作者の思想に反すると思われる部分を、後の編集者の手による挿入であると見なしたのである。ジークフリードに代表されるような説から、この書には後代の編集の手がかなり加えられているとみなされた時期があった。しかし現代では、その行き過ぎが訂正されて、編集はごく限られた部分とされている。7章27節のコヘレトの言葉とあるのや、12章8節に「とコヘレトは言う」とあるのが編集者の挿入である。
 ジークフリードの言う「非ヘブライ的悲観主義」という見方は、現在では認められていない。むしろ、作者の思想が、ギリシア世界の影響の中にあるパレスチナにおいても、基本的にはヘブライの伝統に根ざすというのが通説であるInterpreter's II 7〕。それでも、この書には、一貫して「空しさの哲学」とでも言うべきものが流れているのは否定できない。この意味で、この書は、正統的なユダヤ教から見れば異質な性格を持つ。「主の言葉」も語られないし、先祖からの引用もない。作者はひたすら自分の体験に基づいて語っているように思える。では、正統ユダヤ教と異質でありながら、しかもヘブライの伝統に基づくと云われるこの書の性格とはなんなのだろうか。
 
 わたしたちがここに見るのは、同じことが繰り返される「めぐる現象界」の姿である。ここには、現象界を支えている時間のめぐり、すなわち循環する時間感覚がある。確かにこのような時間感覚は、旧約のそれとは異なっているように思える。もっとも、こういう現象界の流転は、少なくともわたしには違和感を覚えさせないが。太陽のめぐりの下で営まれる人間のあらゆる労苦も、作者の目には「空しい」と映る。

 こういうコヘレトの洞察は、さらに進んで人間の基本的な価値観にまで及ぶ、

 ここでも、作者は「太陽の下で起こる最も悪いこと」(9章3節)、すなわち善い者にも悪い者にも「だれにでも同じひとつのことが臨む」のを見る。それは、死に神のようにすべての人に等しく降る。作者には、神の律法も、正義も道徳も、一切が積極的な意味を持たないかのように見える。ここには、人間とこれを取り巻く現象界へのある種の透徹した視点がある。だが、こういう視点をギリシアのストア派やエピクロス派などと結びつけるのは正しくないであろう。それは、根源的には、例えば詩編の49編をさらに徹底させたところに生じるようなヘブライの知恵の系譜に属していると見るべきであろう。たまたま独りのすぐれた知者が、自己の体験から学んだやや諦めにも似た悲観主義として理解されているうちは、この書が示そうとする知恵の意味をわたしたちは悟ることができない。そうではなく、作者は、ソロモンの雅歌や箴言の知恵の伝統を受け継ぎながら、これをさらに徹底させているのである。この書が、それ以後の知恵文学に受け継がれ、正典として認められるにいたったことは、このようなイスラエルの知恵の流れの中に、この書を正しく位置づけて初めて納得できることを忘れてはならない。
では、いったいこの書の作者が到達した知恵とは、どのようなものだろう。

 一見するとヨブ記のエリフの言葉に通じるような言葉である。だがこの節は、エリフのように、「神は人間の行いに従って報い、おのおのの歩みに従って与えられる」(ヨブ記34章11節)のだから、沈黙して神の裁きを待つべきであると説得しているのではない。むしろ、ここで作者は、そのような人間的な判断の論拠づけそれ自体がまったく無意味であること示唆している。人間がどのように知力を尽くしてみても、神の前に正しくあろうとする努力それ自体さえもが、完全に無意味になるような、そういう空しいところまで、作者の知恵は及んでいる。それは、完全に隠された神の前に立たされた人間の言葉である。ルターは、そのガラテヤの信徒への手紙注解の中で、こういう「隠れた神」の前では、人間の理性は、獰猛な獣のように反逆のうなり声をあげると喝破しているが、まさにそのように、人間の知恵では及ばない、というよりは、そもそも絶対に知ることが「許されていない」神がここにはある。
   ここでは人間は、本来の理性なり知力なりを完全に停止させられて、まったくの「空」の中で神に向いて立つ。作者が、「神は人間が神を畏れ敬うように定められた」(3章14節)と言うとき、それは、まさにこういう境地を指すのであろう。だが、そのような知恵が、いったい人間に可能なのだろうか?そういう空の中で、それでもなお「神を畏れ敬う」ような服従へと向かう知恵とは、すでに人間の限界を超えるものではなかろうか。言い替えるなら、そういうところに人間が立つことができるなら、そもそもそのこと自体が、人間の限界を超えたなにか次元の異なる知恵に支えられていることを示唆してはいないだろうか。コヘレトが到達した、というより彼が指し示そうとするのは、まさにこのような知恵の姿である。だからそれは、「人間の」と呼ぶにはあまりにも「神的な」知恵である。このような神的な起源を持つ知恵に、わたしたちはソフィアの姿を見る。
   この書が正典に入れられた理由をわたしはこのような理解を抜きにしては考えることができない。だから、もしも、この書を、神の道を窮めようとする人間の知恵が、ついに到達できないところに生じる挫折と諦観の書であると受け取るならば、それは大きな誤りを犯すことになろう。
神の知恵と人間の知恵

 この節は、この書の心髄である。「永遠を思う心」は神から来る。したがって、この書に現れる知恵とは本質的には「神が授けられる賜」であるInterpreter's II 11〕。ところが、REBもNRSVも共に「永遠を思う心」という所を「人間が過去と未来を知る知識」と訳している。人間には、ある一定期間の過去と未来を知る知識がある。しかし、それは、神の初めと終わりとを知るまでにはいたらない、というほどの意味に解釈しているのであろう。人間には有限の時間しか知ることができないから、神の無限の時間を知ることはできないというのは、論理的に整合性のある解釈である。原語ははっきりと「永遠」を意味するが、これを「限られた時期」のように解することも語学的に許されるのであろう。バートンにいたっては、「神は人間の心に無知を入れた」〔Barton 98〕とある。彼は原語の「永遠」という語をそのまま受け入れることができない。その理由は、ここに作者の「神概念をかいま見る」〔Barton 101〕ことができるからであると言い、バートンによれば、作者の神は、人間が対等になるのを妬むからだとある。
 このような解釈は、コヘレトの言葉の作者の唱える空しさの哲学に、人間の知恵の限界を見ようとする視点から生じている。ヘルムート・ケスターは、イスラエルの知恵が「人間性のもつ神的本質に基づく」〔ケスター 325〕と表現している。彼は、主として知恵の書やフィロンのことを考えているようであるが、これは「知恵」の定義として、ある意味で極めて適切である。その適切さは、その撞着法(矛盾した表現)にある。その矛盾は、「人間性」ということと「神的」ということとをより厳密に定義しようとすればいっそうはっきりと露呈してくる。イスラエルの伝統的な神学によれば、「神的」であることと「人間的」であることとの間には越え難い溝がある。この溝は、律法を通じて啓示されたヤハウェの厳しい父性原理と無縁ではない。このような神概念を基本に据えてコヘレトの言葉の世界を観ている限り、律法的な善悪を離脱したとも言える作者の姿勢は、神に対する懐疑主義としてしか映らないのであろう。事実、ケスターは、この書を「世界の成り行きのもつ不条理と人間的実存のもつ無常性をむしろ強調した」ものと受けとめて、「この懐疑的態度についての最も明白な証言である」〔ケスター 326〕と述べている。
 このような解釈は、コヘレトの言葉に、神の啓示と人間の知恵との間の埋め難い落差を読み取ろうとするところからきている。ここでは、イスラエルの知恵が、そもそも本質的に、ソフィアの知恵として神的な起源を持つことが見落とされているのである。少なくとも知恵を支える神的な起源が制限され、そうすることで、コヘレトの知恵が矮小されている。ここでも、箴言の知恵で先に示唆したのと同じことが生じているようにわたしには思われる。この書に現れる「空の知恵」を、単に人間の知恵の挫折を暗示するものとしてしか理解できないとすれば、それは、人間と神との断絶の際(きわ)に立って、この両者を結ぶ神的な知恵が理解不可能だからである。「永遠を思う心」と「神の業を知ることが究極には許されない」こととの間に、神学的に論理的な整合性を欠くからである。こういう見方からは、「神を畏れ敬う」作者の姿勢と「すべては空しい」と喝破する視点との狭間にあって到達した「空」を満たす「神的な知恵」を悟る視野は開かれてこない。なぜなら、ソフィアの知恵が、しかも彼女だけが果たすことのできるのは、まさにこの神学的論理では決して埋めることのできない断絶を満たすことだからである。
 神と人間との間に介在する越え難い溝は、そのままでは「虚無」につながる。しかし、コヘレトの言葉が切り開いたのは、そのような虚無ではなくて「満たされた無」の世界への可能性なのである。わたしたちは、ここに、ソフィアの究極の役割を見る。いったい欧米の神学者には、この虚空を満たす神的な知恵、ソフィアの無心の世界が見えてこないのだろうか。この「空の知恵」は、作者が到達したもうひとつの重要な「時」の概念へとわたしたちを導く。

 これに始まる一連の「時の詩」は、先に引用した3章11節を結びとして、この書全体の基調を形成している。作者の空の知恵は、地上に生起する一切の現象をそれぞれの「時」としてとらえる。時間と空間とが一体となったこの「時」こそ、福音の出来事の基調となる重要な意味を持つことをわたしたちは知っている。コヘレトには世界と出来事が徹底的に不透明なものに見えるのに、他方では彼は世界がまったく神のなされる業に引き渡されていることをも知っている、という著しく逆説的な現実の前に立たされる。コヘレトにこの神の行動がある実在的な力また現実性として把握しうるものとなる点というのは、まさしくすべての出来事に定められた時の経験なのである」〔ラート 345〕というラートの指摘は正しい。太陽のめぐりの下で時々刻々移り行く万象を、作者は、自分自身の存在をも含めて、それぞれの時の中に観る。作者には、神とはまさにこの「時を創造するお方」として映る。時の創造、これだけは、人間の理解を超えるものとして神のみ手に握られていることを作者は悟る。ここにも彼の「空の知恵」があり、彼のソフィアが到達した究極の姿が映し出されている。
 コヘレトは、古代の伝統的な教師の説、すなわち「神への信頼が人間を正しく導く」という理性的な理解を超えるところまで行ってしまった。しかし、そのゆえに、彼が諦めと傍観者としての虚無の空にたどりついたと考えるのは正しくないであろう。彼が到達した知恵は、人間の生来の知性によって得られたものではなく、神から来る賜であろう。「神は、善人と認めた人に知恵と知識と楽しみを与えられる」という2章26節の言葉は、編集者の挿入とされている。だが、彼が注意深く挿入したこの言葉は、まさに作者の知恵が神からのものであることを語りたいのであろう。この編集者は自分の挿入の意味を十分に知っている。だからこそ、「これもまた空しく、風を追うようなことだ」でこの挿入を結んだ。この書が正典に入れられる価値があることを、この編集者は正しくも見抜いたのである。
 ディロン(Dillon)というインド・イラン系の学者は、この書に表された思想に通じるのは、世界の宗教では、仏教以外にありえないとして、この書の作者にアショカ王による仏教布教の影響を見ようとした〔Barton 27〕。当時仏教の影響が、パレスチナにまで及んでいたのはありうることであろう。しかし、ディロンの結論は、おそらく彼の勇み足であろう。重要なのは、むしろ、このような思想が、ヘブライの伝統的な「知恵」の中から生まれたこと、しかも、それが期せずして仏教の悟りと通じ合うところまで行ったというまさにそのことであろう。人間が、心を尽くして英知を求めるとき、神は、洋の東西を問わず、そのような人たちに「光を与える」からである。これが、コヘレトが、ヘブライの知恵文学の中で到達したソフィアの姿である。
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