エッセネとクムラン宗団
エッセネとテラペウタイ
   エッセネ派の由来について簡単に記すと、前2世紀半ば頃のマカベア戦争で、ギリシア系の政治権力に対して勝利をおさめたハスモン家は、祭司職を独占することになった。しかし、この家がダビデの家系ではないこと、また戦争のためには安息日を無視することなど、その戦闘的で民族主義的な路線は、多くのユダヤ人の全面的な賛成を得なかった。ダニエル書の黙示は、このようにあまりにも現世的な王国思想に賛成できない信仰から生まれた。ハスモン家の祭司制度に真っ向から反対したのが、クムランを中心とするエッセネであった。彼らは、黙示的な終末の戦争によって、<光の子>が<闇の子>(必ずしも異教徒だけではない)に勝利して、純粋なエルサレムが終末に実現する時を待ち望んだ。これに対して、ファリサイ派は、現実の祭司制度を容認しつつ、口伝の律法的な解釈による<きよめ>の生活を重視する路線をとった。これが、ハシディームがエッセネとファリサイ派に分裂した背景である。しかし、ファリサイ派は、政治的には現職の祭司制度を容認しながら厳格な律法的な浄めを実行しようとしたために、逆にヘロデ王やヤンナエウスの政策と衝突し、小さな衝突が避けられなかった。<きよめ>は、ここでは宗教的な象徴性を帯びた政治的問題であった。これが「エッセネ」と呼ばれる宗団が生じた背景である。
 フィロンは、『すべて善人は自由である』の中で、パレスチナのシリア地方にいるエッセネと呼ばれる人たちのことを詳しく紹介している〔Quod Omnis,XU75〜91〕。彼によると、エッセネ派は、その地方だけでも4000人以上いて、その名は「聖/敬虔」を意味している。彼らは都市の俗化した生活を避けて地方の村々に住んでいる。個人としての金銭も土地も所有せず共有の財産で生活している。また剣や盾などの武器はいっさいつくらない。彼らの間に奴隷は一人もいない。それは彼らが「すべての人を同じように生み育て、名目ではなく実際にすべての人を兄弟として造った母のような自然の定めを無にしてはならないと考えるからである」〔Quod Omnis,XU79〕。彼らは無益な哲学論議を避けて「神の存在と宇宙の創造」だけを原理としているが、倫理的な生活面ではきわめて熱心で、「神の霊感なしでは人間の魂に宿らなかったであろう律法」によって訓練されている〔Quod Omnis,XII80〕。彼らの探求方法は、アレゴリーの手法によって祖先から伝えられた伝承を解釈することである。彼らは、内においても外に向いても敬虔と聖さと正義を身につけていて、「神を愛し美徳を愛し人を愛する」〔Quod Omnis,XII83〕の三つを生活の規範としている。信仰を同じくするその共同体内では、自由に家に出入りし、衣服は共通で、食事は共同の定めに従っている。フィロンはこのように述べてから、彼らを真に自由な生活をしている「美徳の選手」〔Quod Omnis,88〕として賞賛している。
 フィロンは、エッセネについてさらに『ヒュポセティカ』でも言及していて、「これらの人々は、その聖さのゆえにエッセネと呼ばれ、ユダヤの多くの町や村に、大勢のグループを成して住んでいる」〔Hypoth.T:11〜1〕と述べてから、彼らは家族のように生活し、病気の老人たちをも手厚く看護し、また結婚は自由を束縛するという理由でこれを避けていると言い、さらに加えて王侯たちでさえ彼らの生活を賞賛していると述べている。
 ところが、フィロンは、彼の『瞑想の生活について』の中で、エッセネの人たちとは別に、エジプトに住んでいるテラペウタイと呼ばれる人たちの生活についても紹介している〔De Vita Contem.21以下〕。彼らはアレクサンドリア近くのマレイア湖近辺にある空気の心地よい場所に、適当に分散した家々に彼らだけで生活している。それは「人間嫌いからではなく、自分たちと性格を異にする人たちとの交際は無益で有害だと考えるから」(De Vita Contem.20)である。
 それぞれの家には、聖なる小部屋があり、そこで聖なる生活にいたる秘義へと導き入れられる。その小部屋には彼らの知識を完全にする律法と預言者の宣託と詩編など以外は、食物その他をいっさい持ち込まない。彼らは、寝ていてる夢の内にも、聖なる哲学について栄光に満ちた真理を口に出して語る。夜明けと日没に二度彼らは祈る。聖書を読み、アレゴリーによって先祖以来の哲学を学ぶ。「テキストの字義通りの言葉は、その奥に隠された性質の意味を啓示する象徴だと考えるからである」〔De Vita Contem.28〕。フィロンは更に続けて、このテラペウタイの生活を詳しく紹介している。
 フィロンが紹介しているテラペウタイとパレスチナのエッセネとは、多くの点で共通するところがある。ただ、エッセネが倫理的な生活に重きを置いているのに対して、テラペウタイの方は瞑想を重視している。またエッセネ派では結婚を避けているが、テラペウタイではそのような禁欲はいっさい述べられていない。しかもフィロンは、テラペウタイについて、「このような類いの人たちは、人の住む所ならどこにでも居る。ギリシアの内にも外部にもいるし、特にエジプトには多い」〔De Vita Contem.21〕と述べているのである。おそらくフィロン自身の家の近くにもこのような人たちが居たのかもしれない〔Philo,\,106〕。
 フィロンより1世紀ほど後のエウセビオスは、彼の『教会史』で、フィロンのこのテラペウタイの記録を詳しく紹介し、かつ引用している〔『教会史』U17〕。
 エウセビオスは、使徒マルコがエジプトへ伝道に遣わされたという伝承を踏まえた上で、「フィロンのこれらの言葉は、明らかにそして疑いもなく、わたしたち(キリスト教徒)の間の交わりのことを言っているように思われる」と述べて、フィロンのテラペウタイというのはキリスト教徒のことであると断定している。実はわたし自身もフィロンの記録を読みながら同じようなことを考えていた。
 フィロンは紀元前20年(?)から紀元後45/50年の人であるから、キリスト教徒がアレクサンドリアでこのような生活をしていた可能性がないこともない。だが、エッセネは言うまでもなく、テラペウタイもキリスト教徒ではない。ただ聖書や預言者を学んでいるところから、当時東地中海に広く散在していたディアスポラ(離散のユダヤ人)であったと考えることができる。ただし、彼らの生活が、後のキリスト教の修道院の先駆けとなったと考えられている。フィロンの紹介の仕方は、当時のギリシア・ローマ世界の人たちに理解されることを意図していて、このためにやや理想化され、普遍化されて描かれているのを考慮しなければならないだろう。
 エッセネ派についての記録は、フィロンの他に、ヨセフスがその『ユダヤ戦記』第2巻(119〜66)で詳しく紹介している。彼は当時のユダヤを代表する教派として、まずファリサイ派をあげ、ついでサドカイ派と「高潔な生活をすることで知られるエッセネ派」をあげている。ファリサイ派とサドカイ派については簡単に記しているが、エッセネ派については異常な長さで詳しく紹介している。ヨセフスはこの戦記をユダヤ人以外の人にも宛てて書いているから、エッセネ派の人たちがどんなに高潔な生活をしていたかを誇りを持って書き記したようである。彼の記事は、フィロンのそれと共通するところが多いが、エッセネ派がどこの町にも住んでいること、旅行するときには盗賊に備えて武器を持つ以外はなにも持たないこと、自分たちの内部のことをたとえ殺されても外部の人に言わないこと、律法と安息日を厳守していると述べている。注意すべき点は、エッセネには別の宗団があって、その中では子供をつくる目的で結婚が許されていると報じていることである。
 エッセネに関するもう一つの記録は、大プリニウスの有名な『博物誌』の中にある。『博物誌』第5巻の第15項目「ユダヤ」の項目の中の73番「エッセネ族」とあるのがそれである。この呼び方からも分かるように、プリニウスは、エッセネをユダヤ民族の中でよほど違った人たちだと思ったらしい。「ユダヤ」の項目の中では、わずか四つの報告しか記されていないのに、その記事の半分近くを「エッセネ族」が占めているのは、よほどこの派の人たちが彼の心に深い印象を与えたらしい。「これは全世界の他のすべての種族以上に珍しい種族である。というのは彼らは婦人というものをもたず、すべての性欲を絶ち、金銭をもたず、ただ椰子の木のみを友としている。日々、人生に疲れ、運命の波によってそこに追いやられた人々が多数、彼らの生き方を採用するために加わることによって補充せられ、同じ数を保っている。かくして何千年という年月(こんなことを言っても信じ難いことだが)一人も生まれてこないのに一種族が永久に存続するのだ」〔『博物誌』225〕と記している。プリニウスはエッセネ派の起源を知らないから、そのことが何千年も続いてきたと思ったのだろう。しかし、彼の記事の最後には、エッセネ族の住んでいる下手の方向には以前エンゲディの町があったが、現在では死灰の山にすぎなく、その下手にはマサダの城砦があると述べているのが注目される。なぜなら、これは後で述べるクムランの遺跡の位置とぴったり一致するからである。
 エッセネは、古来、上に引用したこの3人の記録によってその存在が知られていた。しかし、これら以外にあまり資料がなく、したがって、その詳しい実体は長らく謎のままであった。その実体と信仰の内容が知られるようになったのは、今世紀に行なわれたクムランの遺跡の発掘とそこで発見された多数の文書のおかげである。この発見は、エジプトのナグ・ハマディという場所で、グノーシスに関する大量の文書が発見されたのと並んで、今世紀における聖書学での二大発見とされている。わたしたちは今や、クムランの死海文書群を通じて当時のユダヤとエッセネの思想をかなり正確に知ることができるようになった。
 先に述べたように、フィロンは、エッセネについて、彼らがユダヤの多くの町や村に住んでいると証言し、またテラペウタイについて、このような共同体が、ギリシアの内外にもあり、特にエジプトに多いと述べている。テラペウタイが、離散のユダヤ人の共同体の一つであり、パレスチナのエッセネと共通する点が多いことから、このようなさまざまな形態のユダヤ人共同体が、パレスチナを中心に、小アジア地方からマケドニアとギリシアとエジプトにまで、広い範囲に存在している姿がここに浮かび上がってくる。
 ちなみに、これまでの伝統的な歴史観では、ユダヤを含むパレスチナ地方をいわゆる「オリエント」(東方)と見なして、これが「西欧」に属するギリシア・ローマ文化圏と対照されてきた。しかし、最近では、むしろ、エジプトとパレスチナから小アジアとギリシアを含む東地中海一帯が、一つの文化圏を形成していたと考える方が正しいと思われるようになってきた。この見方によれば、ヘブライの(旧約)聖書とギリシアのホメーロスの作品とは同一文化圏に属することになる。このようにして、わたしたちは、東地中海一帯に広がっていたディアスポラのユダヤ人共同体が、その地方、地方で様々の形態をとりながら、しかもユダヤ教としての統一を保ちつつ広がっていたという図式を描くことができる。おそらく、そのようなユダヤ教共同体の周辺には、これもまた多様なヘレニズムの諸宗教が大小さまざまな共同体を成して存在していたに違いない。
 しかも、パレスチナのユダヤ教だけに限ってみても、先に述べたファリサイ派、サドカイ派、エッセネ派の三つに分類するだけではすまない。その他に、急進的な祭司たちから結成されたと思われるゼロータイ(熱心党)がいて、武力でローマからの独立を勝ち得ようとしていた〔Chilton,184〕。ファリサイ派の中でも、ヘロデ王の保護を受けていたヘロデ党と呼ばれる人たちもいた。また、エッセネ派に近いセクトとしては、ナゾレ派(ナジル人から出た呼び名?)というのがあった。最初期のクリスチャンもこの名で呼ばれたことから、この派が注目される。さらにエビオン派(「貧しい人たち」)と呼ばれる人たちもエッセネに含まれると考えられている。この「貧しい人たち」も、パウロが言及しているように、初期のクリスチャンと関わりのある言い方である。またソロモン王の時代の祭司ツァドクは、エルサレムを追われてエジプトに下り、ツァドク派を形成した、この名もクムラン系の「ダマスコ文書」に「ツァドクの子孫」として出てくる〔『死海文書』257〕。
クムランの遺跡
 わたしたちはここで、エッセネ派の中心的な拠点となっていたと考えられるクムランの遺跡について『聖書考古学大事典』(418〜26)によって確認してみよう。死海の北西の沿岸近くにある洞穴で、ベドウィンの羊飼いが、偶然一つの写本を見つけた。1947年のことである。そこでこの洞穴の遺跡調査が行われた。さらにその洞穴から、1キロほど沿岸沿いに南に下ったヒルベルト・クムランで、1951〜56年にかけて、5度の調査が行われた。さらに1958年には、ヒルベルト・クムランの南3キロにある水源地の近くに、一つの建築群が発見された。最初の洞穴発見から、この間にかけて、この周辺に次々と写本の収めてある洞穴が全部で五つほど発見された。
 このようにして、クムランの南にある建築群を中心にして、その周囲に全部で26ほどの洞穴が発見されたのである。その建築群は、南はワディ・クムランの谷に面し、北と西は峡谷に面する切り立った台地の一角を占めていて、南北100メートル、東西80メートルに渡って広がっていた。現在の欧米の最大規模の聖堂よりもはるかに広い。建物は数々の部屋に仕切られていて、谷から引いた水が、初期には8つ、後期には7つの貯水場に給水されていた。それらの部屋は、集会兼食堂室、写本室、炊事場、食器室、陶工の作業室、炉、家畜小屋、などに整然と区分けされていた。しかし、ここで日常の生活が営まれた形跡がないことから、そこが宗教的な目的にだけ用いられる修道院であることが分かったのである。そこには、身をきよめるための浴槽が二つあり、そこで浸礼(バプテスマ )の儀式が行われたと思われる。建物の周辺には、土器や壷に収められた羊や山羊の骨が発見された。それらはあきらかにクムラン宗団独特の宗教的な食事のためである。遺跡の西には大規模な墓地があり、1100もの数の個人墓地が南北一列に並んでいて、すべてが男性の墓であった。さらに東にのびた部分には、やや無計画に婦人や子供たちの墓があった。
 これらのことから、この建物は、この地域のいたるところに散在した共同体の人たちの宗教的なセンターであったことが分かる。クムランの修道院を中心にして生活していた人たちの数は、最も多いときでも200人くらいであろうと推定される。これらの人々は、羊を飼ったり、その土地に合う穀草類を潅漑を通じて栽培したり、なつめやしの栽培も行われていた。塩やアスファルトを製産したり、陶工を行うなどさまざまな職業に従事して生活していたようである。これに似た共同体の建物とこれを中心とする住居が、クムランから南に沿岸沿いに3キロほど下がるアイン・フェシハにも存在していた。
 クムランの遺跡が使用されていた時期は、大きく三期に分けられる。初めはBC8世紀から6世紀まで、すなわち、ユダ王国のバビロン捕囚の頃までのものである。その後、ここは放棄されていた。次の時期は、それから数世紀を経て、ヨハネ・ヒルカノス(BC134〜104)の時代、早ければ、ヒルカノスの叔父ヨナタン(BC152〜142)の時代に始まった。ところがこの地が、大地震と(おそらくはその時の)大火で廃虚となった。この大地震は、BC31年に起こったことが報告されており、遺跡で発見された貨幣によってもこれが確認されている。次の時期は、前の時と同じような共同体によって、ヘロデ・アルケラオスの治世に、おそらくBC4〜1年の間に再開された。この時期に八つあった水槽が七つになったが、建物はほとんど前のままの規模で造られている。この時期の終わりは、ユダヤ戦争の時に、ローマ軍によって、AD68年6月に占拠され破壊された時である。それからここは、73年、すなわちユダヤ戦争最後のマサダの陥落の時までローマ軍の駐屯地であったらしい。マサダはクムランのはるか南にある死海沿岸の切り立った台地で、ここがユダヤ人の最後の抵抗拠点となった。追いつめられたユダヤ人たちは、クムランから沿岸沿いにマサダまでを最後の抵抗線にしたようである。クムランの遺跡には、殺された人の骨が見つからないことから、ここの人たちは、マサダのユダヤ人と合流して最後まで闘ったか、あるいはおそらくシリア地方へ脱出して行ったのかもしれない。
 以上から分かるとおり、クムラン宗団の最終期は、BC4年頃からAD68年までである。しかも、それ以後この宗団は姿を消している。この時期は、ちょうどイエスの誕生(BC4?)から、バプテスマのヨハネの宣教、イエスの受難、原初キリスト教の成立、福音書の伝承資料の成立期と重なる(「マルコによる福音書」の編集がAD70?)のである。
クムラン宗団とエルサレム
 「共同で食事し、共同で賛美し、共同で審議する」〔『宗規要覧』Y3〕ことを目指したクムラン宗団は、現代のわたしたちの目には、きわめて民主的で「無教会的」な印象さえする宗教的共同体である。二千年を経過した今日でも、わたしたちの宗教的・倫理的な基準が彼らのそれよりもどれほどか高められているのだろうか?クムラン宗団のテキストを読みながら、わたしは幾度となくこう自問せずにおれなかった。確かに、ここには、わたしたちが、キリスト教として現在信じているものの根のようなものがある。
 しかしながら、クムランの人たちがその信仰生活を形成するに当たって、彼らの眼前に見据えていたのは、今日のわたしたちのそれとはかなり違った風景であった。先にハシディームの成立過程で指摘したように、クムランの人たちがある意味で常に意識していたのは、「荒野にある」彼らの拠点からほど遠くない西方に厳然とそびえているエルサレムの神殿であった。そこは、正統性を自認するユダヤ教の「本山」であり、そこでは日毎におびただしい数の動物の犠牲が神に捧げられ、祈りの香がたかれ、着飾った祭司たちの手で様々な儀式が執り行なわれていた。西はギリシア・ローマから、東ははるかパルティア王国の東方から、南はナイルの源から、北はカスピ海の沿岸から、離散のユダヤ人たちがこの「本山」を目指して巡礼に訪れる。そこには、ローマの権力に支配された祭司制度と律法の注釈に秀でた律法学者たちが大勢いた。
 クムランの人たちが、このエルサレムに対して、ある意味で激しい対抗心を燃やしていたのは事実である。それは彼らが、エルサレムを正統な神殿として認めなかったからではない。たとえば、ユダヤと境を接して北にあるサマリアでは、エルサレムの神殿に対抗して、サマリア独自の神殿が、ゲリジムの山にはあった。サマリアの人たちは、捕囚から帰還してきた「バビロンの影響を受けた」ユダヤ人たちをもはや正統のユダヤ教の後継者とはみなさなかった。このサマリアの反目は、そのままそっくりユダヤの人たちのサマリア人への軽蔑と裏表をなしていたのは言うまでもない。クムランはエッセネ派の根拠地であり、この派に近い人たちが、大勢サマリアにも住んでいた。したがって、クムランの人たちも、サマリアの人たちのエルサレムに対する対抗意識を幾分か分かち持っていたと考えられる。しかし、クムランの人たちのエルサレム神殿に対する見方は、サマリア人のそれとは少し違っていた。彼らは、エルサレム神殿を中心とするユダヤ教を正統だとみなしていた。まさにその故に、彼らはそこで行なわれている宗教を拒否したのである。だから彼らのエルサレムに抱く気持ちは、対立と言うよりはむしろ憎悪に近かった。
 クムランの人たちから見れば、エルサレム神殿で行なわれている礼拝は、とうてい容認し難いものであった。そこで行なわれるきらびやかな祭儀、その律法解釈、大祭司一族を中心とする祭司たちの贅沢な暮らしぶり、とりわけ、おびただしく捧げられる動物の犠牲は、それが血による罪の贖いというユダヤ教の最も中心的な祭儀に関わるだけに、祭司が執り行なう祭儀を重要視するクムラン宗団にとっては、とうてい容認できなかった。神殿に捧げる犠牲よりは、祈りと礼拝による霊的な犠牲をこそ重視すべきだからである。
 彼らから見れば、地上の権力(ローマ帝国)と妥協したエルサレムの祭司制度は、それだけで偶像礼拝とほとんど変わるところがなかった。「災いだ、流血によって都を築き/不正によって町を建てるものよ」というハバクク書(2章12節)の言葉は、そのまま彼らのエルサレムの宗教指導者に向けられていた。偽りの礼拝、虚偽の犠牲、欺瞞の説教、これがクムラン宗団が当時のエルサレムの神殿礼拝に投げつけた言葉であった〔『ハバクク書註解』X6〜11〕。
 このようなエルサレムに対する憎悪は、彼らが本来エルサレムの神殿で行なわれるべき祭儀を尊ばなかったからではない。反対に、彼らが、正統と言われるファリサイ派以上に、祭儀を重視していたからである。いかに彼らが祭儀を重視していたかは、彼らの用いた暦が、エルサレムとは別個の暦で、祝祭日が必ず一定の日に来るように工夫された複雑な暦(太陽暦と太陰暦とを組み合わせたもの)であったことからも想像できる〔『死海文書』36〜38〕。クムランの人たちから見れば、このようなエルサレムを待ち受けているのは、かって預言者たちがエルサレムに対して行なったように、滅びの預言以外にはなかった。それは、神からすでに捨てられた「古い」エルサレムであり、そこで行なわれる契約も「古い」契約であった。彼らの暦は、それゆえに、ただエルサレムと違っているというだけではなかった。それは、全く新しい時間、この滅びの近づく終末の時間を生きるための「新しい」契約に入るための暦であった。入団者は、この新しい契約に入るために(彼らはそれを「恩恵と悔い改めの契約」と呼んだ)、水の洗礼を受けなければならなかったが、このために、ペンテコステの日が特に割り当てられていた。
 彼らが、祭儀を重視したのは、罪の赦しの贖いをそれだけ重く見ていたからである。しかも、彼らの「罪の赦し」とは、エルサレムのそれよりもいっそう内面的で、己の罪の赦しをより徹底させることにあった。彼らが求めたのは「完全な道」、すなわち純粋で汚れのない真実な礼拝であり、それは己自身をば神に霊的な犠牲として捧げることにほかならなかった。彼らにとって、割礼は「心の前の皮と堅いうなじに」〔『宗規要覧』X5〕ほどこすべきものであった。それゆえに、彼らの祭司職は、エルサレムのそれよりもはるかに神聖な畏怖を伴うものであった。
 にもかかわらず、彼らが実際に行なった祭儀は、きわめて簡素で、極度に凝縮した象徴性を有していた。たとえば、年の最も重要な祭りである過越祭においても、過越の子羊を食べることではなく、種のないパンを食べることが、犠牲を捧げる重要な意味となっていた〔スイーリング 242〕。彼らの祭儀とは、絶えず、聖なる水で「きよめ」を行なうことと、パンと葡萄酒とで食事をすることであった。彼らがなによりも待ち望んでいたのは、メシアの顕現と、新しいエルサレムと新しい神殿が、汚れのない神聖な姿で到来したときに、神の都で「メシアの宴」に連なることであった。しかし、この日が到来する前に、この世を支配している「キティーム」、すなわちローマ帝国との戦いを経なければならない。それは武力の戦いである以上に、霊的な神の戦いであった。『戦いの書』は、この聖戦に臨む彼らの信仰と意気込みを余すところなく伝えている。しかし、終末は、ただローマとの戦いで終わるものではなかった。彼らに与えられている黙示によれば、それは世界全体と宇宙それ自体の崩壊につながる大異変となるはずであった。
バプテスマと聖なる食事
 洗礼の水は、それ自体重要な働きと意味を持ち、「きよめ」の完成にとって欠くことのできないものとされた。体と心のきよめは、いくつもの段階を経て、繰り返し行なわれなければならなかった。したがって、「きよめ」は、一定の段階に到達した者による階級的な位階制度を形成していた。洗礼の場所は、祭儀的な重要性を帯びていた。洗礼を受けて、新しい契約に入る場合に、異教徒はユダヤ人にならなければならなかった〔『死海文書』32〕。とりわけ、ペンテコステの契約の更新に際しては、水の洗いはきわめて大切な意味を持っていたのである。
 聖なる食事も、クムラン・エッセネ派では、重要な宗教的な意味を有していた。しかし、それは、キリスト教の場合のように、食事と一応切り離された聖餐とは異なって、実際の食事それ自体であった。パンと葡萄酒は、一人の大祭司の手によって、選ばれた正式の会員にのみ許された。それは、終末にメシアによって開かれる聖なる宴会の予型として、メシアの来臨を希望するものでもあったが、この大祭司は、やがて現われるべきイスラエルのメシアよりも上位に位置すると考えられていた〔『死海文書』33〕。クムラン宗団は、エルサレム神殿での動物の犠牲を拒否したから、このパンと葡萄酒とは、エルサレム神殿での動物の犠牲に代わる霊的な犠牲を意味していた。彼らは、メシアの来臨によって、新しいエルサレムとそこに純粋な神殿が再建されることを待ち望んでいたからである。しかし、この聖なる宴は、一般の会衆には開かれておらず、宗団に加入していても、「多数者」と呼ばれる人たちは、葡萄酒に与ることは許されなかった。こういうわけで、この「多数者」と「会議に出る人たち」、すなわち、大祭司の手から直接パンと葡萄酒を授かる人たちとの間には明確な区別があった。
 エジプトのテラペウタイの場合には、このような区別は存在しなかったようである。彼らは葡萄酒を飲むことはしなかった。食事は、年齢の順に秩序正しく行なわれ、それは水とパンとであった。しかし、この宴には、賛美の合唱や踊りが加わり、「預言者モーセと女預言者ミリアムに導かれて」、神の愛の酒による宴会が男女の合唱となり踊りとなって参加者を酔わせるのであった〔ブラック126〕。
終末信仰と二元論
 クムランの信仰をその基底において支えているのが終末信仰である。もっとも、終末信仰それ自体は、必ずしもクムラン独自のものではない。しかし、クムラン宗団の場合は、この信仰は、その教義全体を根拠づけてこれを徹底させるものであった。それは、ファリサイ派のような律法主義に基づくものではなく、独特の聖書解釈と預言者的な黙示に基づいている。わたしたちは、このような黙示の伝統が、ヨハネ黙示録によって受け継がれているのを見るのである。
 クムランの終末信仰の基本には、二元論がある。すなわち、光りと闇、正義の子らと偽りの子ら、ツァドクの子らとベリアルの子らなどである。このような二元論は、終末における正義と不義との戦いに備えるための聖戦志向と重なり、宗団の最高の目的は、この聖戦に参加することによって勝利を得ることにあるとされた。クムラン宗団において、結婚よりも禁欲が優先されたのは、このような要請が教義化されたと考えることができる。このことは、禁欲が、たとえばギリシアのストア派のように、それ自体として重視されたのではないことになる。財産の共有も、やはり終末的な切迫と無関係ではないであろう。それ以上に重要なのは、この終末的な聖戦意識が、クムラン宗団の生活と祭儀と教義の全体を流れている<きよめ>と密接に結びついていることでなはないかと思う。禁欲もこの「きよめ」と結びつけて見るときに、クムランの信徒たちの真意を理解することができる。戦闘はイスラエルでは、古代から禁欲を要請してきた。白い麻の衣をまとった童貞の信徒(男性)たちが〔『戦いの書』Z10〕、サタンとの聖戦に勝って、メシアの宴に与るという思想は、キリストの花嫁として純潔を貫いた信徒が、麻の衣を着て子羊の婚宴に参加するという新約のヨハネ黙示録(19章8節)とつながると思われる。
 二元論に基づく信仰では、霊魂と肉体との二元的な価値観が対比されることで、霊魂の不滅が優位をしめる結果になる。終末的二元論は本来イランの宗教からユダヤ教が受け継いだものであり、さらにその上に、霊魂不滅の信仰には、ヘレニズム思想の影響を見ることができよう。しかし、クムラン宗団では、それらの伝統や同時代の宗教の流れが融合して、独特の黙示思想を形成している。彼らの黙示思想は、ユダヤ教の預言者的な霊性へと純化されることで、その二元論的な性格をいっそう徹底させることになった。
 このような徹底した霊的二元論は、自分たちの共同体と外部とを峻別するだけでなく、個人としての人間存在それ自体の内面にまで及び、人間の罪性への透徹した自覚に達していた。「義を行う者は、御子と同じように、正しい人です。罪を犯す者は悪魔に属します」(第一ヨハネ3章7〜8節)という厳しさは、字義通りクムラン宗団の教義に当てはまるように思う。そこから生まれるのは、人間性に潜む罪性への深い洞察であり、「何人も胎内から不義の中にあり、白髪になるまで背きの罪責を負う。このわたしは知っている・・・人間に義はなく、人の子に全き歩みのないことを。義の業はすべていと高き神のもの、人の子の歩みを全うせんとて神が造りたまうた霊によらずば、人間の道は定まらない」〔『感謝の詩編』Y30〜31〕という自覚は、このような透徹した視点から生まれた告白であった。実に宗団の最高位の者でさえも「蛆虫にすぎない死者」とみなされ、しかも神はこれをも「塵より永遠の交わりに加え」られるのである〔『感謝の詩編』XT12〕。このような信仰から、悔い改めと、これによる神の贖いと恵みの<きよめ>に入る契約思想が根拠を与えられるのである。
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