天の玉座と地の臨在
    3章 「主(ヤハウェ)の箱」と「会見の天幕」
■契約の箱「アローン」
 前章では、「天」(シャーマイム)の下にある「大空」(ラーキ(−)ア)が、神の玉座から発する臨在の働きの場であることについて触れた。そこで、今回は、「イスラエルの神の臨在」を支える最古の「主/神の箱」伝承と、「主(ヤハウェ)なる神の臨在」との関わりについて考察したい。
 「主の箱」の由来は、モーセが十戒を刻んだ2枚の石板を「アカシアの箱に収めた」ことに始まる(申命記10章3〜5節)。「主(ヤハウェ)の箱」(民数記10章33〜35節)は、「主/神の契約の箱」とも称されて、古代イスラエルの宗教的な祭儀において核心的な地位を占めている。「主の箱」は、「ケルビムの上に座しておられる万軍の主の契約の箱」(サムエル記上4章4節)とも称されるから、この名称の違いに基づいて、「主の箱」は、荒れ野時代のイスラエルには存在せず、イスラエルがカナンの地に定住した後に初めて、カナンの祭儀から取り込まれ、「ヤハウェの箱」と名を変えたという説さえある。ヨシュア記3章6節の「契約の箱」物語が、カナン定着以後に、イスラエルの歴史を語る「物語」として、荒れ野時代の伝承から変容されているのはその通りである。しかし、その物語が、古代イスラエルほんらいの歴史に全く根拠を持たないと見るなら、それは謬りであろう〔TDOT(1)369頁〕。なお、この点については、章末の「付記」を参照していただきたい。
  ヘブライ語の「アローン」は、ほんらい「箱」「骨箱」「棺(ひつぎ)」のことである。出エジプト記25章10節では、この「アローン」が、「主(ヤハウェ)の箱」として出てくる。それは、アカシア材で作られていて、長さ1メートル12センチで、幅と高さは同じで67センチほどである。長方形の箱の四隅には支柱が付いていて、それら四支柱の上の部分に、金の輪が取り付けられている。これらの金の輪に、金で覆われたアカシア材の棒二本を箱の左右に通して、御神輿(おみこし)として担ぐようになっている。
 出エジプト記25章17〜20節では、この箱には、純金でできた蓋(ふた)(カポーレット)が付いている。これは、「贖いの座」(ハ・カポーレット)として、その上に贖罪の血を注ぐことで、罪を「覆(おお)う」(カーファール)から、大事な「覆い」(カーファル)である。その贖いの座の上には、金でできた二つのケルビム像が置かれている。ケルビムは、両翼をまっすぐ前に延ばした姿勢で、箱の蓋の前部と後部に、座るようにして向かい合って取り付けられている。だから、両翼同士が箱の上で交差し、贖いの座全体を覆っていることになる〔フランシスコ会聖書研究所訳注(サンパウロ)167頁/出エジプト記25章付属図参照〕。箱の中には、モーセがシナイで啓示された十戒を刻んだ契約の石版(二枚)が納められている。
 ただし、出エジプト記の主の箱に関する記事は、イスラエルの捕囚期前後に、祭司資料編集者たち(P資料の作者)によって編集し直されている〔TDOT(1)365頁〕。祭司資料編集者たちは、すでに消滅したかつてのソロモンの神殿の至聖所に置かれていた契約の箱を出エジプト記の記事に投影させているからである。だから、荒れ野時代に担がれていた「主の箱」が、エジプトから持ち出された宝石で飾られていたのは確かであるが〔TDOT(1)366頁〕、その箱の上に置かれたいたとあるケルビムには、ソロモンの神殿の至聖所に置かれていた二体のケルビム像か反映されているから、はたして出エジプト記の記述通りなのか疑問である〔TDOT(1)365頁〕。
会見の天幕
 シナイの山でモーセ律法を授けられたイスラエルの民は、「主の契約の箱」(民数記10章33節)を、ちょうど日本の「御神輿(おみこし)」のように担いで、シナイを出発し、ようやくカナンの地の東部へたどりついた。ヨシュア記3章13節では、この「契約の箱」が、「全地の主である主の箱」と称されて、ちょうどモーセが紅海の水をせき止めたように、ヨルダン川の水をせき止めたとある。
 サムエル記上4章にあるように、「主の契約の箱」は、常に、「イスラエルの敵」に立ち向かい、これと戦う際に、その威力を発揮する大事な「聖櫃(せいひつ)」であった(民数記10章33〜35節)。しかし、イスラエルの「主(ヤハウェ)/神の箱」について考える時、大事なことは、「箱と闘いとの密接な関係」だけではない。それよりも重要なのは、この箱が、「主」(ヤハウェ)あるいは「神」(エロヒーム)の臨在それ自体と同一視されることで、「(ケルビムの上に坐す)主/神の玉座(throne)」と見なされていることのほうである(士師記20章26〜28節参照)(サムエル記上6章1〜5節も参照)〔TDOT(1)369頁〕。
ここで注目すべきは、荒れ野における「契約の箱」"the Ark of the Covenant"と「会見の天幕」"the Tent of Meeting" との関係である。主(ヤハウェ)は、この「契約の箱」が置かれた天幕で、モーセとの「会見」を行なった(出エジプト記25章21〜22節)。しかし、申命記では、「契約の箱」だけが語られて「会見の天幕」についてはいっさい触れられていない。出エジプト記25章10節では、御神輿(おみこし)のような「(主の)箱」と、その箱を覆う「贖いの座」と、これに仕える二つのケルビムを作ることが語られている(同17節/同19節)。さらに、出エジプト記26章1節で、「幕屋」"the Tabernacle"[REB][NRSV]を作ることが語られる。ところが、この「幕屋」は、出エジプト記27章21節では、「会見の天幕」"the Tent of Meeting"[REB][NRSV]と呼ばれているから、こちらのほうが、荒れ野時代のイスラエルの「天幕」伝承をそのまま伝えている。(主とモーセとの)この「会見の天幕」は、イスラエルの民の宿営から離れた所に張られているから、「聖なる天幕」である(出エジプト記33章7〜10節)。だから、イスラエルの普通の民がこれに近づくと「罪を負って死ぬ」ことになりかねない(出エジプト記28章40〜43節)。
 「主の臨在する箱」は、御神輿(おみこし)として民とともに歩むけれども、これが、ひとたび天幕に安置されると近寄りがたい「聖なる天幕」に変容する。民の間を親しく歩む「主(ヤハウェ)の臨在」と、天幕に坐す「主(ヤハウェ)の聖性」には、神の「玉座」"throne"とその「臨在」"presence"について、可動性(mobility)と不可動性(immobility)という二つの矛盾するとも言える属性が具わることが見えてくる。神の玉座に具わる超在性(transcendence)と、これが、神の臨在となって民に及ぼす内在性(immanence)と、これら二つの神の御臨在の有り様は、神の「神の玉座とその臨在」が、民に及ぼす「二つの自己矛盾」する側面を現わしている。玉座と臨在とに関わるこの「謎」が、「箱」と「天幕」に象徴されていることが見えてくる〔TDOT(1)366頁〕。出エジプト記26章1節の「ハ・ミシュカーン」(天幕/幕屋/聖所/神殿)〔Langenscheid's Hebrew=English Dictionary. 200.〕には、このような謎が秘められていることを知る。
 以上をあえて簡略にまとめると、前章では、」「天蓋」(ラーキア)が、天上界の超越した神性と、天下の生命保存の世界と、その両方の機能を媒介していることを指摘した。今回は、「天蓋」のその機能が、イスラエルの神の超越性と内在性の両方を具現する「神の箱」が担っていたことを指摘したいのである。
                天の玉座と地の臨在