4章 ダニエル書の「人の子のような者」
      
 以下の記述は、主として、TDOT(Theological Dictionary of the Old Testament)の(1)の「人」(イシ/イーシ)の項目(222〜235頁)と、TDOT(2)の「子」(ベーン)と「人の子」(ベン・アーダーム)の項目(143〜165頁)と、そのほかに、コリンズの『ダニエル書註解』の付記「人の子のような者」(Collins. Daniel. Excursis: "One Like a Human Being."304--310.)などにも準拠している。また、阿部拓児『アケメネス朝ペルシア――史上初の世界帝国』中公新書(2021年)その他の辞書、文書も参照した。ただし、筆写(私市)なりの解釈と反論も併せている。
■用語
  「人の子」のヘブライ語は「ベン・ェノーシ」(人間の子)/「ベン・アーダーム」(アダムの子)(ダニエル書8章17節)/複数では「ブネ・(ハ)アーダーム」(アダムの子たち)である(ダニエル書10章16節。ここは複数であるが、これを「一人の人の手」と読み替える場合がある)〔TDOT(2)160頁〕。ほんらい、「人の子」とは、人間一般を指す用語で、「人」に近い意味で用いられることが多い(詩編144篇3節)。こういう「人の子」用法は、カナンの古都市ウガリットの時代(前2000年頃〜前1200年頃)にさかのぼるようである。
 アラム語では「バル・ェノシ」で(ダニエル書7章13節)、強勢形は「バル・アナシャー」であり(紀元後2世紀以降には「エ/ア」が抜ける場合が多い)、これは、ほんらい、不特定の「ある人」を指している。ただし、「人の子」という言い方は、公用のアラム語では用いられなかったようである。なお、旧約聖書のアラム語では、「エナシ」は、不特定の「(ある)人」を意味している(ダニエル書2章10節/同5章5節/同6章8節)〔TDOT(2)161頁〕。ダニエル書で、「人の子」に「〜のような/〜に見える」が付いているのは、それが「幻」(ヴィジョン)で見えたことを言い表わそうとするからで、「人」あるいは「人の姿に見える」ことを意味する。
 さらに、ダニエル書では、「人」あるいは「人の子(のような)」が用いられている例として、天使ガブリエルが「男姿(ガベル)に似て」とあり(ダニエル書8章15節)、このガブリエルが、ダニエルに向かって「人の子よ」(ベン・アーダーム)と呼びかけている(同8章17節)。天使ガブリエルについては、「先にわたし(ダニエル)が幻で見た人(イシ)」ともある(同9章21節)。また、「顔は稲妻、目は燃える松明」で畏怖を与える「亜麻布を着た一人の人(イシ)」も出てくる(ダニエル10章5節)。ただし、ここは「天使」のことではなく、むしろ、天上の神自身の聖性を具えた「ある者」に近いであろう。また、川の両岸に立って、世の終末を予告する天使たちも「人(イシ)」と言われている(同12章6〜7節)。なお、コリンズは、ダニエル書の「人の子に見える者」と関連させて、エゼキエル書8章2節の「人の姿のようなもの」(原語の「エシ=燃えている火」を「イシ=人」と読む)の用法にも注目している〔コリンズ前掲書306頁〕。
「人の子姿」の解釈
 「人の子」(ベン・アーダーム)は、エゼキエル書に93回でてくる(旧約聖書の他の文書では多くて数回程度)〔コリンズ前掲書304頁(注)243〕。だから、ダニエル書の「人の子」も、エゼキエル書の「人の子」用法を受け継いでいると考えられる。しかし、ダニエル書7章13節の「人の子」は、ある特定の「共同体」を指すとも見なすことができるから、ユダヤ人には、ダニエル書のこの箇所の「人の子」は、「敬虔なイスラエルの民」を指すと受け取られた〔TDOT(2)165頁〕。また、紀元後のキリスト教徒は、ダニエル書7章13節の「人の子に見える者」とは、「キリストの民」として成就される以前の「ユダヤ人共同体」のことであり、とりわけ、マカバイ時代にユダ・マカバイに率いられてアンティオコス4世に勝利した「ユダヤの民」を指すと考えられた〔コリンズ前掲書308頁〕。ただし、こういう共同体的な解釈に対しては、「個人的な」人の子解釈もあり、「人の子(に見える者)」は、ユダヤ人の間では、特定の人間としての「メシア」のこと、特に「ユダ・マカバイ」を指すとも解釈された。ダニエル書7章の「人の子」は、また、紀元後の「ラテン語エズラ記」や福音書では、「超自然の人物」と受け取られ、後代のキリスト教徒の間では、とりわけ、「イエスその人」を指す預言であると解釈された。
 ダニエル書の「人の子に見える者」の意味については、これを(1)天へ登るほどに高められた特定の人間、(2)集合体としての特定の民、(3)天上から降下する「ある聖なる人物」の三通りに大別することができよう。このように、ダニエル書7章の「人の子に見える者」については、その解釈に諸説があり、一定しない。ただし、これを集合的ではなく、ある特定の「個人」を指すと解釈する場合が「圧倒的に多い」ようである〔コリンズ前掲書308頁〕。
■「人の子姿」は天使か?
 コリンズは、ダニエル書7章13節の「人の子のような者」について、あらまし、次のように推論している(コリンズ前掲書304〜319頁)。
 ダニエル書7章の前半では、四つの生き物(獣)が、それぞれの王たちを象徴する寓意(アレゴリー)として登場する。この生き物たちは、続く「日の老いたる者」と「雲に乗って来る人の子のような者」から見れば、明らかに対照的な存在である。ところが、「日の老いたる者」についても、「人の子のような者」についても、前半の四つの生き物に対して与えられているような具体的な寓意が、この二者にはなんら示されていない。この二人者と共に「聖なる者たち」が出てくるが、このことは、この二者が、「王/王国」に関連していることを意味する。では、二者は、具体的に何を指し示す象徴なのか? 「聖なる者たち」もこの点を明らかにしていない。したがって、これら二者は、ヴィジョンとして表わされる象徴(寓意)の「外にいる」存在であると見なすべきである〔コリンズ前掲書305〜306頁〕。
 ダニエル書では、「人の子」(ベン・アーダーム)は、エゼキエル書にならって、天使が、ヴィジョンを見ている者に呼びかける時に用いられている(ダニエル書8章17節)。また、ヴィジョンを見ているダニエルのほうも、天使ガブリエルを「人/男姿(ゲベル)のような」と見ている(8章15節)。その他の例でも、「人のような姿」は、天にいる者たち/天使たちに用いられる場合が多い。エゼキエル書の「人(エーシ)のような姿」(同8章2節)とあるのも天使を指している。したがって、ダニエル書のヴィジョンでも、「人の子のような者」は、神の天使を指すと見なすことができる〔コリンズ前掲書306頁〕。コリンズは、さらに、「至高のお方の聖なる者たち」(カディーシェ・エルヨーニン)(ダニエル書7章18節)についても検討を加えた上で、同7章13節の「人の子(バル・ェノシ)のような者」とは、天使長の一人ミカエルだと推論している〔コリンズ前掲書318頁〕。
■天使説への反論
 上述したように、ダニエル書7章13〜14節の「歳月を経て長らえた方」と「人の子のような者」とは、ダニエルのヴィジョンが伝える象徴性の「外にある」とコリンズは見なしている。しかし、この解釈には、落とし穴が潜むから注意しなければならない。
 「日の老いた者」と「人の子のような者」は、「王権/王国」と「王」に深く結びついていて、「王権/王国」と「王」の表象として、この二者とも、7章前半の四匹の獣と通底する。「王」と「王国」とが重なり合うから、個人と共同体という二重の意味を「人の子らしき者」に読み取ることができるのは、このためである。この点から見直すならば、「日の老いたる者」と「人の子に見える者」は、これに先立つ獣たちと同様に、ダニエルに啓示されているヴィジョンの寓意性の「外(そと)にある」と見るのは適切でないであろう。コリンズは、天使説を提示しているが、ダニエル書では、玉座の周囲にあって「日の長らえたお方」に仕える聖なる者たち(天使)が、たとえ、天使長のミカエルでもガブリエルでも、王として「王権」を授かり、玉座から降下する「王国」を継ぐことはない(ダニエル書10章13〜14節)。
 キリスト教の初期の時代では、聖書解釈において、ギリシア的な解釈論、特に、ホメーロスが語る神話を読み解く方法として寓意的な解釈法が用いられた。この解釈の方法論は以後の伝統となり、ヨーロッパでは、ギリシア的な神話解釈の方法論が、聖書解釈にも適用されたという経緯(いきさつ)がある。だから、ギリシア的な比喩の構成論理が、そのまま、聖書の比喩解釈にも適用される場合が多く、欧米では、比喩(直喩/暗喩/寓意)をギリシア的な比喩の論理構造において読み解こうとする傾向が強い。しかし、福音書のイエスの「たとえ」に見るように、ヘブライの「比喩」(マーシャール)は、ギリシアの比喩構造よりも、はるかに幅が広く、多様な比喩の様式を包含しているのを見落としてはならない。だから、ギリシア的な比喩の論理をそのままヘブライの比喩を解く方法に適用するのは適切でないであろう。この意味で、ダニエル書7章9節以下の場合も、7章前半の寓意を引き継いでいると見なすほうが、より作者の意図の沿うことになろう。
■「人の子姿」とは何か?
 では、いったい、ダニエル書7章13節の「人の子のような/に見える者」とは、何者だろう? 
(1)「王」と「王権/王国」こそ、ダニエル書を構成する象徴が、一貫して啓示する本質的な意義である。ダニエル書7章では、天上の「玉座」に坐している「日の長らえた方」の「聖なる玉座」から、天下へ向けて「(裁きを意味する)炎」が川となって流出する。エゼキエル書同様に、ダニエル書においても、このように、天に逆らう地上の王権に向けて、玉座からの聖性が「裁きの炎」となって、人の世へ向けて啓示/顕現される。これが、ダニエル書7章でのダニエルのヴィジョンの最も重要な主題であろう。ここでは、玉座におられるお方の聖性が、そのまま、天蓋(ラーキア)の下に啓示されるという特性を具えていて、しかも、それが、「人間の姿に見える」ことが大事なのである。
(2)このような「人の姿」は、一人の天使のようにも見えるが、天使ではない。「天使」は、玉座に「仕える者」(attendants)として、玉座に側近く控えているが、天使は、たとえ、ガブリエルやミカエルのような最高位の天使と言えども、「王権」を授かることで「王国を支配する」ことはない。
(3)「人の姿」は、「ダニエルが見ているヴィジョン」であるから、そこで語られる「聖なる者たち」が、「神の霊と知恵を宿す」ダニエル自身に代表される「聖なるイスラエル共同体」と深く関わることは明白であろう。そうだとすれば、「ダニエル」個人が、いわば、イスラエル共同体を代表する「人」になろう。だからと言って、「人の子」すなわち「ダニエル」個人ではない。また、人の子を地上の「聖なるイスラエルの民」と同一視することもできない。「人の子」は、このように、個人と共同体の両方を含む二重性を帯びているのである。
(4)ダニエル書7章の「聖なる者たち」について言えば、「聖なる者(たち)」は、「神の天使たち」を指すという見方と、「イスラエルの民」を表わすという二つの解釈が成り立つ。
 これらをまとめると、ダニエル書においては、「王」とその「王国」が、時代と共に入れ替わるが、「人の子に見える者」が、はたして、ユダヤ人が考える個人としての「メシア」のことなのかは確認できない。また、この人物が、聖徒で構成された民のことなのか、個人としての聖なる人物なのかを判別する決め手もない。だが、ダニエル書では、「メシア」としての個人が、同時に「共同体的な人格」を帯びるという「人格的合成の原理」が提示されているのは確かであろう〔Norman Portous. Daniel. Old Testament Library. SCM Press (1965)111.〕。
■ヘブライの「神人」
 天上の神から遣わされた天使が、「人」あるいは「人に見える」存在であることは、先に述べた。しかし、その者が、ほんとうに「天来者」なのか、それとも「実の人間」なのか?この見分けがつけ難い。アブラハムの甥ロトのもとに遣わされた「二人」は、神の「御使い/天使たち」(ハ・マルアヒーム)だとある(創世記19章1節)。この二人は、創世記19章10節と同12節では「その人たち」(ハ・アナシーム)と呼ばれる。ところが、彼らは、15節で再び「御使いたち」(ハ・マルアヒーム)に戻り、同16節で、又「その人たち」(ハ・アナシーム)になる。ところが、同18節で、ロトは、「主よ」(アドナィ)と呼びかける。この「主」が、同21節でロトに語るその内容から判断するなら、「ヤハウェ」その方であることは確かであるから、いったい、18節で、ロトは、誰に向かって語っているのか? 二人に向かってなのか? それともヤハウェにか?、この区別がつき難い。ロトの家族の「手を掴んで町の外へ連れ出した」二人は、「人のような二人」であり、しかも、彼らは「御使いたち」であり、この二人は、「主」であるヤハウェと一体なのである。
 ロトの物語は、これに先立つ、創世記18章で、アブラハムの独子イサクの誕生物語を引き継ぐ形で語られている。創世記18章2節では、天の御使いか(?)と想われる「三人」(シェロシャー・アナシーム)を見ると、アブラハムは「地にひれ伏して」彼らを迎える。この三人は、アブラハムとサラに「男の子が生まれる」と告げるが、彼らも同16節で「その人たち」(ハ・アナシーム)と呼ばれる。しかし、続く同17節で、彼らもまた、「主」であるヤハウェと一体であることが分かる。
 このように、「人」(アナシーム)とヤハウェの「御使い」(マラーク)とは、相互に入れ替わるから、人なのか天使なのかが、見定めがたい。しかも、彼らは「神御自身が帯びる権威」をもって語るから、彼/彼らは、神自身の代理であるばかりか、「神それ自体を表わす」ことさえある(ヨシュア記5章13〜15節を参照)〔TDOT(1)233頁〕。
 士師記13章でのサムソンの誕生を告げる物語では、「ヤハウェの御使い」(マルアフ・ヤハウェ)が、マノアの妻に「男の子の誕生」を告げる。この御使いは、同6節で「神の人」(イシ・ハ・エロヒーム)と呼ばれているから、神の聖性を具えた「人間」である。彼が人間であることは、この「神の人」が、「まるで神の御使い(マラフ・ハ・エロヒーム)のように見えた」(同6節)とあることから、逆に推察できよう。この彼が、再び「神の御使い」(マラフ・ハ・エロヒーム)として妻に現われるが、この「神の御使い」とは、先に「まるで神の御使いに見えた人」だから、このように呼ぶのか?それとも、ほんとうの意味で「神から遣わされた天使」のことなのか?そのどちらとも見分けがたい。続いてマノアは、「その人」(ハ・イーシ)の所へ来て、「あなたが(息子の誕生を告げた)その人(ハ・イーシ)か?」と尋ねているから(同11節)、どうやら「人」の意味に近いようだ。「その人」は、そこから、六度にわたって、繰り返し「ヤハウェの御使い」(マルアフ・ヤハウェ)と呼ばれる(13節/15節/16節/18節/20節/21節)。ところが、最後に、マノアは、「私たちは<神ご自身を>見た」と告白するのである。
  だから、ここでは、「神(エロヒーム)の御使いのように見える人(イーシ)」が、ほんとうの「人間」でありながら、その「神の人」とは、実は「神ご自身」にほかならないこと、しかも、その彼が、「ヤハウェの御使い」と呼ばれていることに注目したい。ここの「彼」は、なんとも「不思議で驚くべき」(同18節)存在である。士師記の最終編集は、比較的遅く、捕囚期以後だと考えられるから、「神自身」とも「神の御使い」とも「人間」とも見定めがたいこの「人のような者」は、ダニエル書10章5〜9節/同12章6〜7節で、ダニエルが見たヴィジョンに現われる「人」(イーシ)に通じていると考えられる〔TDOT(1)233頁〕。
■ヤハウェ神
 筆者(私市)は、ダニエル書7章13節の「人の子のような者」は、「主」(アドナイ)と呼ばれたイスラエルの「ヤハウェ」との関わりが深いと見ている。ヤハウェは、「わたしはヤハウェ、あなたの父(アヴィーハ)アブラハムの神(エロヘ・アブラハム)である」(創世記28章13節)とあるように、イスラエル民族にとって、何よりも先ず、「父」(アーヴ)の神である。同様に、モーセも言う。イスラエルは、「立つも倒れるもヤハウェ次第」であると(民数記14章11〜19節)。だから、サウル王の息子ヨナタンは、ダビデにこう言う。「ヤハウェがあなたと共に居るように!父(サウル)と共にいつも居られたように」(サムエル記上20章13節後半)。ソロモン王が「イスラエルの神(エロヘ・イスラーエール)ヤハウェ」に捧げた祈りも同様である(列王記上8章15〜16節)。
 この「ヤハウェ神」(エル・ヤハオワー)が、天地を創造して、すべての人にその息(霊)を与える「主」(アドナイ)であることを明記している箇所は、イザヤ書42章5節だけである。「ヤハウェ神」は、続く6節で、「わたしこそヤハウェ」と名乗り、「あなた(イザヤ)を呼び出し、民の契約とし、諸国民の光とし、闇に住む者を獄屋から救い出す」(イザヤ書42章6節)のである。しかも、この「主ヤハウェ」(アドナイ・ヤハウェ)は、イザヤを遣わしたその方だとある(イザヤ書48章16節)。「主(アドナイ)ヤハウェ」というこの独特の言い方は、イザヤ書でも、ここ16節だけにでてくる言い方で、これは、おそらく、捕囚期以後の加筆であろう。
 イザヤ書の「ヤハウェ神」(ヤハウェ・エロヒーム)は、ほかにダニエル書だけに出てくる。ダニエル書9章の祈りでは、「ヤハウェ神」が、「私たちのヤハウェ神」(ヤハウェ・エロヘヌー)として、また「わたしのヤハウェ神」(ヤハウェ・エロハイ)として、4度でてくる(ダニエル書9章10節/13節/14節/20節)。ただし、「私たちの主なる神」(アドナイ・エロヘヌー)も2度でてくる(同9節と15節)。
 数少ない「主(アドナイ)ヤハウェ」のほうでは、「わたしを遣わし、わたしを主の霊で満たす」とある(イザヤ書48章16節)。この「主ヤハウェ」は、「あなたを贖う方」であり「イスラエルの聖なる方」(ケドッシュ・イスラーエール)である。超越の神(エロヒーム)が、民に親しい霊の働きとなって人に贖いの業(わざ)を行なう「ヤハウェ」として具体的に顕現する有り様をここに読み取ることができよう。まことに、「主、主、憐れみの神」(ヤハウェ、ヤハウェ、エル・ラフム)である(出エジプト34章6節)。
■化体するヤハウェ
 筆者(私市)は、ここで、ダニエル書7章13節の「人の子のような者/人の子姿」は、「主」(アドナイ)と呼ばれたイスラエルのヤハウェ自身が、天から下界に「人」として啓示されたことを言い表す用語ではないかと見ている。以下に、その理由を述べよう。
 先ずあげなければならないのは、エジプト王ファラオが、知恵の人ヨセフを指して言う「その人に神の霊(ルアハ)が(宿る)人(イシ)」である(創世記41章38節)。ヤハウェがモーセに命じて選ばせたイスラエルの指導者ヨシュアについても「その人に霊(ルアハ)が(宿る)人(イシ)」(民数記27章18節)とある。主の預言者も「霊の人」(イシ・ハ・ルアハ)と呼ばれるが、ホセア書では、残念ながら、この「預言者」が、「正しい」意味ではなく、「狂った」霊の人(イシ・ハ・ルアハ)と呼ばれている(ホセア書9章7節)〔TDOT(1)233頁〕。
 主なる神の霊を分与された人が「霊の人」(イシ・ハ・ルアハ)なら、主なる神から格別の扱いを受けた霊能の人は「神の人」(イシ・ハ・エロヒーム)である。「神の人」(イシ・ハ・エロヒーム)は、列王記上と下を併せて50回以上、エレミヤ書に35回ほどでてくるが、その他の文書では1〜5回ほどと少ない。この呼び方は、モーセ(申命記33章1節)、サムエル(サムエル記上9章10節)、ダビデ(ネヘミヤ記12章24節)、エリヤ(列王記上17章18節)、エリシャ(列王記下4章7節)、南王国ユダの預言者シェマヤ(列王記上12章22節)、同じく南王国ユダのイグダルヤ(エレミヤ書35章4節)たちに宛てられている。
 「神の人」の役割は、国王に向けて語り、あるいは、神から託された預言を民に告げることにある。ところが、ここに、どこからともなく来て、去って行く、あるいはこの世から消えて逝く不思議な「神の人」(イシ・ハ・エロヒーム)がいる(サムエル記上2章27節/列王記上13章1節など)。だから、「神の人」のほんとうの正体は、まだよく分からない〔TDOT(1)233〜35頁〕。
 このように、聖書では、「神」と「人」(イスラエルの民)を結ぶ者として、「神の御使い」(マラフ・ハ・エロヒーム)、「神の人」(イシ・ハ・エロヒーム)、また、「ヤハウェの御使い」(マルアフ・ヤハウェ)という言い方がでてくる。ところが、聖書は、「ヤハウェの人」(イシ・ヤハウェ)という言い方を決してしないのである〔TDOT(1)234頁〕。「神の人」が、超越的な「神」に具わる聖なる属性を分与された「人間」を指すとすれば、「ヤハウェ」という固有名詞それ自体に、すでに「人」に具わる人格性が具わっているから、「ヤハウェの人」という「二重の言い方」ができないと考えられよう。
 アケメネス朝ペルシアの3代目(?)の王ダレイオス1世(治世前522年〜486年)が、自ら制作したと言われる「ベヒストゥーン碑文」には、立ったまま敬意を表しているダレイオス1世の面前に、神性を帯びた人物が居る。彼は、翼を具え、燃える火の上にある円盤の中に立って、ダレイオスに王権を授けようとしている。この碑文の図像は、火の働きを尊ぶゾロアスター教の教えを表わすとも言われるが、ゾロアスター教の主神アフラマズダだけではない。碑文の中には、「臨在しますその他の神々」という言い方が2度もでてくる。だから、この碑文の図像を見た者は、広大な版図を有するアケメネス朝ペルシアの諸民族それぞれが、自分たちの神々をその図像のアフラマズダに読み込むことで、宗教的な差異を超える「神々の神」から王権を授かるペルシア王へ忠誠を誓うという仕掛けが潜んでいる〔阿部拓児『アケメネス朝ペルシア――史上初の世界帝国』中公新書(2021年)94〜95頁〕。
 これで見ると、ダニエル書の時代の「神」(エロヒーム)にも、諸民族の神々をも包含する王国の支配者たるペルシア王(ダレイオス)が帯びている超越した「神」の後ろ盾(だて)を連想させるものがあったことが分かる。そうだとすれば、イスラエルの民が「自分たちのヤハウェ神」(ヤハウェ・エロヘヌー)と呼び、ソロモン王が「イスラエルの神(エロヘ・イスラーエール)ヤハウェ」と呼んで捧げた祈りには、イスラエルの父祖/父(アーブ)と一体化した「ヤハウェ」が、固有の人格性(人間性)を帯びて唱えられ信じられていたと見ることができよう。このように見るならば、ダニエル書7章13節においては、玉座にいます「神」(エロヒーム)の傍らに居る「一<神>同体」のヤハウェこそ、「人のように見える」姿をとって、迫害に苦しみ、これをを克服しようとするイスラエルの民に顕現する「人(ヤハウェ)の子姿」の正体ではないであろうか。
                 玉座と臨在へ