5章 福音書の「人の子」
      
■福音書の「人の子」用語
  
イエスの頃のユダヤでもガリラヤでも、ダニエル書に出てくるアラム語の「人の子」(バル・ェノシ)は、一般に「人/ある人」の意味で知られていた。個人を指す場合には、「あの人」という言い方をした。しかし、場合によっては、「人の子」に自分自身を含めて用いることがあった(日本語で、「私も人の子だから」という場合に近い?)〔Gerhard Friedrich ed. Theological Dictionary of the New Testament. Vol. VIII. Trans. by Geoffrey W. Bromiley. Eerdmans (1972) 403. 略してTDNT。以下、同様 〕。新約聖書の「人の子」は、ヘブライ語あるいはアラム語の「人の子」のギリシア語訳であるから、当時のギリシア・ローマの人たちには、なじみがなかったであろう。
 新約聖書で、無冠詞の「人の子」が、神から遣わされた特別な「メシア」であることを指しているのはヨハネ5章27節で、ここは、ダニエル書7章13節の「人の子」が指す黙示的な啓示者の意味を受け継いでいる。新約聖書で、ギリシア語の冠詞付の「人の子」(ホ・ヒュイオス・トゥ・アンスロープー)が、特別な「メシア」(The Messiah)の意味で用いられる最初の例はマルコ2章10節で、イエスは、ここで、神だけができることを人間である自分(イエス)が行なうことができると証ししている〔TDNT(8)430--31.〕。
■「人の子」と終末
 新約聖書で言う「人の子」で、最初に注目したいのは、マルコ13章16節の「(天の)大いなる力と栄光を帯びて、雲に乗って降る人の子」である。ここは、明らかにダニエル書7章13節の「人の子」を踏まえている〔TDNT(8)450--51.〕。マルコ13章は、終末での裁きを預言するダニエル書の「黙示思想」を引き継いでいて、新約聖書の「小黙示」と呼ばれている。このような黙示思想は、イザヤ書13章9〜10節にも現われるから、ユダヤ=キリスト教の黙示思想は、イザヤの頃にさのぼるのであろう。
 しかし、こういう「人の子」は、はたして、イエス本人が、実際に語った「人の子」像だろうか? この疑問に応えるのが、マルコ13章31〜37節である。ここでは、「人の子」が終末に到来する「その日、その時は、誰も知らない」とあるから、時間的に見れば、同24〜26節で語られる「切迫した」終末的な人の子到来とは、やや異なっている。31〜37節のほうが、実際のイエスの言葉に近いという見方がある〔TDNT(8)450.〕。これだと、イエスは、かなり「間延びした」終末を伝えているように思えるが、はたして、そうなのか?イエスの説く終末にかかわるこの「時間的な」疑問の源は、実は、イエス自身の語る「人の子」と、イエスが説いた「神の国到来」との両方の相互関係に潜んでいる。イエスは、自分に啓示されている神の国が、「すでに到来している」という「終末の成就」を告げると同時に、「人の子」が苦しみを受けてから、復活して再び到来することを告げている。だから、そこには、終末の「現在的な切迫」と、「再臨による終末」という、現在から将来にわたる終末の「二重の時期」が語られていることになる(マルコ8章31節/同9章1節/なおマタイ11章2〜6節を参照)。
 このように、マルコ福音書からは、「人の子」イエスの到来による終末の「現実性」と、終末の最終的な到来への「未知性」と、一見相容れない時間的二重性を読み取ることができる。この二重性を解消するのが、ルカ17章20〜26節である。ここにも、ダニエル書に見る「神の王権の地上への終末的顕現」を読み取ることができる〔Francois Bovon. Luke 2. Trans. by Donald S. Deer. Hermeneia. Fortress Press (2013) 514.〕。ここは、イエス復活以後に十一弟子が抱いた疑問に応える箇所であるが、イエスの実際の言葉が伝承されていると指摘されている〔前掲書〕。例えば、「観察できるかたち」(20節)とは、イエスの頃に実際に行なわれた終末到来への預言を指しており〔前掲書〕、「ノアの出来事」(26節)も実際にイエスが語ったことであろう〔TDNT(8)451.〕。ルカ福音書は、ここで、イエスの神の国が「今の時にあなたがたの中にある」ことを告げてから、受難と復活を経た人の子が、「稲妻が突然輝くように」再臨するのは、何時のことなのか? それは、誰にも分からないと告げるのである。
■「人の子」の山上の変貌
 イエスの山上での変貌は、主(ヤハウェ)が、イエスの弟子たちに顕現したことを表わしている(マルコ9章2〜8節/ルカ9章28〜36節)。マルコ9章2節から29節までの「人の子」の変貌物語は、これを前半の2〜13節と、後半の14〜29節の二つに分けることができる。前半の変貌の部分のほうが、ほんらいイエスの復活顕現の物語であったというのが定説になっている〔Adela Yarbro Collins. Mark. Hrmeneia. Fortress Press (2007).414--416.〕。イエスの変貌は、ここで「人の子の復活」と関連づけられているが(マルコ9章9節)、マルコ福音書9章が語るのは、明らかに、人の子の「復活」ではなく、人の子の「神性の顕現」のほうである〔Collins. Mark. 415.〕。人の子の変貌が、その復活と関連づけられているのはその通りであるが、その資料としては、むしろ、出エジプト記24章15〜17節のシナイ伝承のほうがより適切である〔Collins. Mark. 420.〕。したがって、ここで人の子イエスによって顕現するのは、かつてモーセに「私は居る」(「ハイヤー」する)と告げたヤハウェ自身なのである。マルコは、ギリシア・ローマの「神顕現」の手法を採り入れているという見方があるが〔Collins. Mark. 418.〕、ヘレニズムの影響よりも、私たちがすでに見てきたとおり、マルコは、ここで、旧約聖書のシナイの神顕現にさかのぼる伝承を受け継いでいると見なすほうが、より適確であろう。
 福音書の「人の子」の「変貌」"transfiguration"あるいは「変身」"metamorphosis."(マルコ9章2節参照)は、「高い山の上」で生じる(マルコ9章2節)。そして、この山上の出来事は、そのまま、人の子の「山頂からの降下」(同9節)へつながる。神顕現の場である高い山の上が、山を降った下界の神顕現へとつながるこの構成に注目したい。山上での変容では、人の子イエスの着物が「真っ白に輝く」(ダニエル書7章9節参照)ことで、「地上から超越した存在」へと変身する〔Collins. Mark. 414.〕。「生きたまま天上に昇った」とされるエリヤとモーセと、変貌の人の子イエスと、この三者に接したペトロは、言葉を失い、その場所での神顕現を記念して社(やしろ)あるいは神殿を建てようと提案している〔前掲書〕。
 「天の雲」とそこから聞こえる「至高の神の声」(マルコ9章7節)は、私たちがすでに見てきたように、天蓋(ラーキア)を境界とする天上と天下、あるいは、荒れ野でイスラエルの部族の間に宿った「神の箱」に伴う神顕現へ、さらに言えば、ダニエル書7章9〜14節の「人の子姿」が啓示する神顕現に通じている。しかし、イエスの変貌は、これに留まらないで、山頂から降下した「人の子」イエスは、下界で、悪霊を追い出すことで、その神性の現実性を帯びた臨在を証しする。その上で、「人の子」の「受難」と「死者からの復活」(マルコ9章9節/12節)を予告している。私たちは、ここに、福音書が告げる「人の子イエス」が、天上の神の玉座と天下への神の臨在とを結ぶ神顕現を啓示しているのを読み取ることができる。「神にはあらゆることが可能」(マルコ9章23節)だからである。ペトロが社(やしろ)を建てようと提言したのは、人にできることは、神から遣わされた人の子を「ただ信頼する」そのことだけであると、ここでマルコ福音書は語っている(マルコ9章23〜24節)。
■「人の子」と受肉
 私たちは、人の子と「終末」に関わる「時間的な」二重性について見た。今度は、人の子の有り様に関わる「存在的な」二重性について考察したい。最初に採り上げるのは、ヨハネ5章17〜30節である〔TDNT(8)464--65.〕。ここで、イエスは、自分を遣わされた方を「わたしの父」(17節)と呼んでいる。これは、イスラエルが、自分の父祖を「アーブ」(父)と呼び、その「父祖」と一体化した神を、「自分たちのヤハウェ神」(ヤハウェ・エロヘヌー)と呼んでいたことを受け継いでいる。ここで、人の子は、ちょうど、ダニエル書7章の「人の子姿」が「歳月を経た方」から授かったと同様に、この世における「裁きの権能」を授与されている(ヨハネ5章27節)。それだけでなく、「人の子」イエスは、ダニエル書12章2節にあるように、人を「復活させ/目覚めさせ」て、ある者には「永遠の命」を与え、ある者には「裁き」を行なう権能を有する(ヨハネ5章27〜29節)。しかも、その権能の行使の時は、ダニエル書では、未だその時期が明確ではなかったのが、ヨハネ福音書では、「命の授与」と「裁き」とが、人の子によって、「今の時に」すでにその権能が行使されるのを見る(ヨハネ5章25節)〔TDNT(8)465.〕。ダニエル書では、天上の玉座が地上にその権能を顕現することが「終わりの時」だと告げられている(ダニエル書8章17〜19節)。ところがヨハネ福音書では、玉座の臨在が、「今の時に」地上に実現するという事態が生じることによって、天上の玉座の超越性と天下への玉座の臨在の「存在論的な矛盾」が、「人の子」イエスを通じて解消するのである。
 このような事態が実現するのは、天の玉座の臨在が、「神の言(ロゴス)」として、地上に降下することによってであり、しかも、その降下の「人の子姿」が、「ほんものの人間」であることによって初めて可能になることが分かる(ヨハネ1章14節)〔TDNT(8)466.〕。しかも、この「人間となったロゴス人の子」は、受難と復活と昇天を通じて「あげられる」という「空間的な」方法によって、己の権能を確定する。こうして、人の子イエスは、地上を去った後も、その権能を地上において働かせ続けることができるのである。このようにして、ダニエル書7章14節の「栄誉/ほまれ/栄光」が、ヨハネ福音書の「人の子」に成就することになる(ヨハネ17章1〜2節)。
 なお、新約聖書の「人の子」を、グノーシス思想で言う「真人」と関連づける説もあるが、グノーシスと黙示思想とユダヤ=キリスト教との相互関係が、よく分からないから、この節は否定されている〔TDNT(8)414頁〕。ただし、古来にさかのぼれば、天然の「大宇宙」(マクロ・コスモス)と対応させて、人間を「小宇宙」(ミクロ・コスモス)の体現者だと見る思想があり、この思想は、キリスト教にも受け継がれて、ルネサンス期のヨーロッパでは、例えば、レオナルド・ダ・ビンチが、この思想を受け継いでいる。
 福音書で言う「人の子」について、最大の課題は、これの「終末性」をどのように見るのか?である。「終末」を「将来」と同一視するなら、人の子は「現在」とは関わらない。「人の子」は、天上に座するから地上には降下しない。したがって、地上の闇とも関わらない。このように見るなら、「人の子」はグノーシス思想に近くなる。これに対して、ヨハネ福音書では、「人の子」は、天から地上に降下した神の言(ロゴス)である。未来だけでなく、人の「今の時」にも働く。したがって、復活は、昇天の前段階として、二つは同一視されない。復活のイエスは、聖霊(ヨハネ福音書では「パラクレートス」)となって、人々に宿る。新約聖書の「人の子」は、このような「二重性」を具えているのである〔TDNT(8)415頁を参照〕。だから、新約聖書の「人の子」は、ダニエル書の黙示的な啓示にさかのぼるだけでなく、「人の子」を地上のイエスと結びつけることで、マルコ8章2〜8節の「山上の変貌」に見るように、それまでの黙示的な「人の子」顕現を新たに解釈し直したものである。
              玉座と臨在へ