民数記2章1節~31節によれば、荒れ野を旅するイスラエルの民が宿営するときには、会見の天幕を中心に、北側にダン、アシェル、ナフタリの諸部族が宿営し、南にルベン、シメオン、ガドの諸部族が、東にユダ、イッサカル、ゼプルンの諸部族が、西にエフライム、マナセ、ベニヤミンの諸部族が宿営した〇なお、レビ族は、中央にある天幕の仕事に携わる。これで見ると、地理的には「十二部族」の支配になるが、レビ族を加えると、正確には、全部で「十三部族」になる。ただし、筆者(私市)は、地域的に南部のユダとシメオンを一つに見なして、「イスラエルの十二部族Iと呼ばれる場合があると聞いた記憶がある。天幕を囲む諸部族は、それぞれの父祖の旗印を掲げなければならない。また、宿営は、天幕から「距離を置いて」(聖書協会訳)宿営しなければならない。この宿営の仕方からも察せられるが、荒れ野を旅するイスラエルの民は、十二部族からなる連合軍であり、その行進も宿営も、それぞれの陣営ごとに旗印を掲げて行なわれていた。この軍事共同体は、同時に、モーセを頭(かしら)とする政治共同体であり、モーセ律法は、この目的のために重要な機能を担うものであった。軍事と政治の両組織の項点には、十二部族全体を導く「神の箱」があり、宿営は、この箱を護衛する形で行なわれた。
荒れ野でのイスラエルの民の実態は、それぞれ独立した諸部族の連合体であって、その連合を一致させ統一させるものが、神の箱として、祭儀的に表象されるヤハウェ神への一神教であった。だから、この一神教は、部族連合という政治的かつ軍事的な同盟関係と切り離すことができない。それぞれに父祖の旗印を掲げながら、しかも祭政一致を保持する妙技は、このように、それぞれの部族の独自性を超える「聖なる超越性」によって初めて達成されるからである。比較的小さな部族から成る共同体内部での差異を克服するためには、このような宗教的な理念が肝要であり、これこそ、ヤハウェ神の聖性に具わる根源的な機能である。部族ごとの宿営は、この聖性を囲みこれを護持しようとすることで、ヤハウェへの敬虔な想いを表すものであった。土地を持たなかったイスラエルの神ヤハウェは、このようにして、民と「共に歩み」、民と「共に戦い」、民を護ることで、民への親近性を顕し、同時に、民を超えて支配する「聖性」を保持するという、相矛盾するとも言える両性を具えることができたのである。
【補遺】イスラエルの「十二部族」の名称については、創世記35章22~26節/民数記2章2~31節/歴代誌上2章1~2節/ヨハネ黙示録7章5~8節にでている。民数記だけは、レビを含む十三部族の名称がでているが、創世記と歴代誌上では、マナセが抜けた十二部族であり、ヨハネ黙示録では、ダンが抜けた十二部族になっている。〔『新共同訳:新約聖書注解』(Ⅱ)日本基督教団出版局507頁を参照〕
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