(3)ニカイア信条
アレイオスは、北アフリカのリビアの生まれで(250年)、シリアのアンティオケアのルキアノスのもとで学んだ。その後に、エジプトのアレクサンドリアに赴き、アレクサンドロス(312/13年にアレクサンドリアの主教に就任)によって小教区司教に任命された。しかし、アレイオスが、「御子は神から生まれた者であり、神とは異なり、生まれる以前に御子は存在しなかった」と説いたために、賛否両論が生じた。アレクサンドロスは、アレクサンドリアで教会会議を開いて討議し、その結果、「御子の非存在の時期」についての教説を<否定する>信仰宣言に署名するようアレイオスに要請した。しかし、アレイオスは、これを拒否し、このために彼は破門された(318年)。アレイオスは、パレスチナに赴いて、カイサリアのエウセビオスらの支持を受けた。そこで、ビティニア(現在のトルコ北西部で黒海に面している)で教会会議が開かれることになった。その結果、アレイオスの教説は正統と認められた。このために、アレクサンドロスは、逆に、アレイオスの復権を要求された(320年)。アレイオスは、アレクサンドリアに戻り、分派を形成した。324年に、ローマ帝国の皇帝コンスタンティヌス1世は、ホシウスを使者としてアレクサンドリアへ派遣した。アレクサンドロスは、教会会議を開いて、アレイオスの件をさらに検討するようにホシウスに要請した。その結果、325年に、シリアの(?)アンティオケアで、教会会議が開かれた。そこでホシウスが提示した信条案は、アレクサンドロスの信条案に近いものであった。
同年の325年に、コンスタンティノポリスの対岸にあるニカイアで、第一回公会議が開かれ、西と東の両方から、併せて300名ほどの司教が集まった。東部(パレスチナ)の流れを汲むアレイオスによる御父への御子従属説に対抗して、アレクサンドリアの主教アレクサンドロスは、御父と御子(と聖霊)とが、同一本性であることを主張した。この時、後に正統派の指導者となるアタナシオス(295頃~373年)もアレクサンドロスに随行している。アレイオスとアレクサンドロスとの中間には、パレスチナのカイザリアのエウセビオスたち穏健派が多かった(主としてオリゲネスの流れを汲む人たち)。
コンスタンティヌス帝臨席の下での会議の結果、アレクサンドリアのアレクサンドロスが勝利を得て、アレイオスは、断罪・破門されて追放された。アレイオスは、328年に、コンスタンティノヌス帝によって呼び戻されたが、アレイオスの復権が宣言される前夜、彼はコンスタンティノポリスで急死した。
【二カイア信条】
我々は信じる、唯一の神、万物を支配する御父、見えるものと見えないものすべての造り主を。また、唯一の主、イエス・キリスト、神の子、御父かち生まれた独り子なる御子、即ち、父の本体(ウシア)から〔生まれた方〕、神からの神、光からの光、真の神からの真の神、生まれた者(gennethenta)であり造られた者(poiethenta)ではない方、御父と同一本体の方(ホモウシオス)、天と地にあるすべてのものがこの方を通して作られた方、我々人間のため、我々の救いのために下り、受肉し、人間となり、苦しみ、三日目に復活し、天に昇られた方、また生ける者と死せる者とを裁くために来られるであろう方を。
また、聖霊を。
「〔御子が〕かつて存在しなかった時があった」とか、「〔御子は〕生まれる前には存在しなかった」とか、「存在しないものから作られた」とか、他の
実体(ヒユポスタシス)または本体(ウシア)から〔作られた〕者である、もしくは造られた者(ktiston)であるとか、神の子は変化・変易し得る者であるとか主張する者らを、使徒伝来のカトリックの教会は排斥する。(小高毅訳)〔『原典古代キリスト教思想史』(2)226~27頁〕
〔注〕「エウセビオス」は、現在のトルコ南東部でエデッサに近いサモサタのエウセビオスと。パレスチナのカイザリアのエウセビオスと(『教会史』の著者として有名)、黒海に近い(現在のトルコ北西部の)ニコメディアのエウセビオスと(アレイオスを支持?)、現在のトルコ中部で当時のフルギア州のドリュライオンのエウセビオスと、そのほかも併せて6人の「エウセビオス」がいるから注意。
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