1章 古代インダス文明
■古代インドの時代背景
 今回は、「仏教の旧約」とも言うべきヴェーダの宗教を扱い、続いて釈迦と孔子について述べたいと思う。筆者は、常々、日・韓・中のエクレシアを主体とする東アジア・キリスト教圏が将来誕生すると考えている。東アジアのキリスト教を考える上で避けて通ることができないのは、釈迦と孔子の二人だからである。
 古代オリエントのメソポタミアでは、前3000年以前からスーサやウバイドなどティグリス河とユーフラテス河の河口付近で農耕と定住による都市国家が成立し、前3000年から前1500年の間には、二つの河の流域に多数の都市国家が存在していた。しかし、ティグリス・ユーフラテス両河と、古代インドの西を流れるインダス河との間では、ペルシア湾に注ぐマンド河の流域(現在のイラン南部)に前3000年以前からヤヒヤと呼ばれる都市国家があるのみで、それ以外に、メソポタミアとインダス河の間には、古代の農耕によるめぼしい都市国家は見あたらない〔週刊朝日百科『世界の歴史』(2)神々と王権(1988年)30頁〕。
 1921年頃からの発掘によって、現在のアフガニスタンとインドの間にある西パキスタンを流れるインダス河流域の中程のモヘンジョ・ダロと、河の上流にあるハラッパーで、高度な都市文明が存在していたことが明らかになった〔渡辺照宏『仏教』岩波新書(1992年)58~59頁〕。この文明は、前3500年~前2000年にわたり、ヒマラヤ山脈からインドの西へ、さらにアラビアに通じるアラビア海までの広い地域に及び、メソポタミアとも交易があったようだ。しかし前1800年頃に突然(?)滅びている。
 モヘンジョ・ダロの遺跡は、小高い丘の上にあり、そこから麓に拡がり、縦12メートル、横7メートルの立派な浴槽へつながっている。これは、おそらく宗教的な沐浴のためであろう〔週刊朝日百科『世界の歴史』(2)19頁〕。遺跡全体は赤煉瓦造りで、道路も下水も完備していて、金、銀、銅、真鍮、青銅製の武器や器具や工芸品も見つかっている。特に滑石(なめりいし)でできた2~3センチ平方の印章が500個ほど発掘され、そこには、人や動植物のほかに文字も刻まれているが、この文字はいまだに解読されていない。
 インダス文明では、彫像が少なく、あっても比較的小さい。高さ16・5センチほどで、髭を生やしていかめしい面持ちの神官像が発掘されている〔前掲書19頁 〕。この文明では、王墓、王像、戦争碑など王権を誇示する遺物が発見されておらず、武器や都市の防護設備も貧弱であるから、都市は、神官の集団によって統治されていたと推定されている。しかし、武器や防護施設が貧弱な割には、焼き煉瓦の頑丈な建物、立派な排水溝、整備された道路など、高度な都市文明を築いていたことが分かる。このことから、都市の政治は、商人や手工業の職人たちによって運営されていたと思われる。王権の存在を否定することはできないが、古代オリエントの王権都市国家とは異なり、宗教を司る神官の集団を頂点に、商人や技能職人集団などの市民が実権を握っていたと推定される。インダス文明のこのような「庶民/市民姓」は、後の釈迦の仏教にも大きな影響を与えていると考えられよう。
 インダス文明の担い手はドラヴィダ民族と呼ばれる民であったと考えられている。ドラヴィダ民族は、イラン高原からインドの北西部に移動し、前4000年代の中頃に、アフガニスタンの台地から南下して、南インドからスリランカにいたるインド亜大陸に広く分布していた。しかし、前2000年頃からのアーリア民族の侵入によって、下層民として階級(カースト)制度に組みこまれていった。現在も南インドからスリランカにわたる住民は、ドラヴィダ系の幾つかの言語に分かれているから、ドラヴィダ語族と総称されている。
■インダス文明の宗教
 印象の文字が解読できないために、この文明の宗教についてはまだ分からないことが多い。しかし、現在の段階で、ほぼ以下の点が確認されている。
(1)太母(母なる女神)崇拝とこれに基づく神々への崇拝。
(2)父祖への祖霊崇拝があり、この男神の座像は、後のシヴァ神と類似すると指摘されている。
(3)原初のヨガと瞑想が行なわれていた。
(4)樹木崇拝が、魔除け、あるいは蛇などの危害から身を守るために行なわれていた。
(5)リンガ(男根)崇拝が行なわれ、これも後のシヴァ神へつながる。
(6)善霊と悪霊の働きを信じる魔術、呪術などが行なわれていた。
(7)死者と共にその生前の遺物も供犠として焼却された。
(8)水による浄めの沐浴が行なわれた。
 インダス文明の宗教は、ヒマラヤからインドの全域にわたる広い範囲で行なわれていたと考えられる。この宗教は、後のアーリア民族の侵入によってヒンズー教へ継承される。ほんらい遊牧民であったアーリア人の侵入は、武力的な破壊と政治的な圧政をもたらしたが、宗教的には、むしろ侵入者のほうが地元の宗教に感化される過程が進んだと考えられる。この受容過程は、侵入者の武力的、政治的な侵略と征服に比して、長期にわたり徐々に進行していった。その結果、前4世紀末にインドを統一したマウリヤ王朝以後も、ジャイナ教とヒンズー教へ、さらに仏教へも、この過程が継承されていくことになる〔By Jayaram. V. The Religion of the Indus Valley Civilization. Hinduwebsite.com. India.〕。4
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