2章 バラモンの宗教
■インド・ヨーロッパ諸民族
 現在の黒海の北部から東部にかけて、前5000年~前3000年の期間、部族の首領を祀る墳墓(クルガン)と呼ばれる古墳の文化が存在していた。これの担い手が、後に「インド・ヨーロッパ諸民族」と呼ばれる人たちの起源だと推定される〔エリアーデ『世界宗教史』(1)208~209頁〕。彼らは、農耕を営み牛や羊を飼い、馬を使用していたが、基本的には牧畜の民であり、遊牧生活と族長制度を保持していた(これらの特徴は古代のイスラエルの民と類似している)。この民は、軍事的に組織化されていて、彼らの行く所、侵略と征服による都市の略奪の「恐るべき破壊の痕跡をとどめている」〔前掲書〕。彼らは、ヨーロッパ北東部へ侵入し、南下してメソポタミアを征服し(前16世紀頃)、ギリシアを征服し、東へ向かって、アフガニスタンを越えて侵攻し、インド・アーリア民族として知られることになる(前2000年頃)。その影響はなんと19世紀まで続いていると言う〔前掲書〕。
 インド・ヨーロッパ諸民族は、戦争と征服を目的とする宗教的特徴を具えている。その一つは「天の神」(デイウォス)で、これがラテン語の「デウス」となり、サンスクリット語の「デヴァ」となる。天は宇宙創造の「父」(ペーレ)として崇拝される(現在の「パパ」の語原か)。天の聖性は雷鳴や雷雨、これに由来する「火」(ラテン語「イグニス」/サンスクリット語「アグニ」)、太陽(ラテン語「ソール」/サンスクリット語「スーリア」/ギリシア語「ヘーリオス」)、「風/霊」(ギリシア語「プネウマ」/サンスクリット語「プラーナ」)などの姿で神格化されている。ただし、大地の太母神は限られた地域でしか見られない。
 インド・ヨーロッパ諸民族の神話と宗教は以下の特徴を具えている。
(1)供犠(くぎ)行為を重んじる。
(2)言語と歌による呪術・祈祷を重んじる。
(3)祭儀/祭祀によって世界を更新する。
(4)神殿を建立せず、供犠を伴う祭祀は人の住居近くで行なわれる。
(5)神話の内容は口伝によって伝承される。
 注目すべきは、「聖」を表わす特定の用語がなく、「聖性」は、神から命令されて人が行なうべき献酒や祝宴として、あるいは逆に、神から禁止される行為(タブー)としての両面を持つ。だから、聖性は二つの用語で表わされる(これがラテン語の「サケル」と「サンクトス」に対応し、ギリシア語の「ヒエロス」と「ハギオス」に対応する)〔前掲書212~213頁〕。ただし、インド・ヨーロッパ諸民族の宗教も、地域により、また時代により、多様化するのは例外でない。
■アーリア民族のインド侵入
 「アーリア」とは「高貴な」を意味し、これが現在の「イラン」の語原である。この語は、ほんらいインド=ヨーロッパ語族の総称であった。特にインド=イラン語族に属する人たちは、自らを「アーリア」と称した〔『広辞苑』〕。アーリア人は、ほんらい中央アジアの遊牧民で、馬上で巧みに弓矢を引く戦闘的な民であったが、その一部がインドに侵入してインダス文明を滅ぼし、彼らの言う「皮膚の淺黒い鼻の低い」原住民を「ダーサ」(奴隷)と呼んで、下層民とした(前2000年頃より)。
 ほんらいアジアを含むユーラシア大陸の南部一帯には原人が住んでいたが、アフリカで誕生したホモ・サピエンス(新人)が、10万年ほど前にアラビア半島に移動した。そこからヨーロッパと東方のふたつに分かれて、東方へ向かったほうが、イランを横切りインドに拡がり(7万年ほど前)、そこからマレーシアへ、さらにオーストラリアへ拡がった。これが、ドラヴィダ族以前のインドの最初期の原住民である。これに対して、インド・ヨーロッパ諸民族は、アフリカから西方の黒海沿岸に移住したホモ・サピエンスから出たことになる〔『地球46億年の旅』43号20/24~25頁〕。インド・ヨーロッパ諸民族は、その激しい攻撃性と内的な結束力だけでなく、なによりも呪詛的な祈祷(ブラフマン)によるエクスタシーと、これから生じる詩的霊感、そこから編み出された多神教の神話において優れていた。この民は、ホモ・レリギオースゥスの原初の性格を最も顕著に受け継いでいると言えよう。
 インドへ侵入して原住民を征服したアーリア人は、諸部族に分かれ、「ラージャ」と呼ばれる部族長の軍事的な指導によって統率されていた。彼らは、都市文明も文字も知らず、歌/音楽と踊りを好み、「ソーマ/スラー」と呼ばれる酒を好んだ。『マハーバーラタ』は、前1400年頃にインドの中央で大規模な戦争があったことを伝えているから〔上村勝彦訳『バガヴァッド・ギーター』岩波文庫(1992年)「まえがき」〕、おそらくこの闘いが、アーリア人による東部ガンジス河流域への進出の契機となったのであろう〔エリアーデ『世界宗教史』(1)220頁〕。
 アーリア人は、さらに南進と東進によって全インドを支配するが、インド東部のガンジス河を支配するまで500年ほどかかっているから、その間に現地民との混合が進んだと考えられる。このため、アーリア人と現地民の混血は「悪魔」あるいは「黒魔術師」と見なされるようになる。この過程で、支配者と被支配者との区別は、宗教と言語による差別と対応するようになった。アーリア人の支配地域は、南インドだけでなく、北インドのマガダ国にも及んだが、その支配の実態は明らかでない。その間に、被差別民は「ムレーッチャ」と呼ばれ、この呼称は次第にインド以外の異教徒をも指す用語になった〔平凡社『世界大百科事典』ネット版〕。
 アーリア人がインドに侵入してから、現地民の(?)マガダ国系のマウリヤ王朝(前320~前180年)が滅亡するまでの時期は、次の四つに区切られている〔朝日百科『世界の歴史』(2)19頁〕。
(1)ヴェーダ時代前期(前2000年~前1000年)。
(2)ヴェーダ時代後期(前1000年~前600年頃)。
(3)仏教成立時代(前600年~前320年)。
(4)マウリヤ朝時代(前320~前180年)。
 注意したいのは、インダス文明が滅亡して、インドに政治と経済を中心とする本格的な都市が出現するのは、(3)の仏教成立時代になってからで、しかも、それらの都市はガンジス河流域の平原である。このことは、釈迦の生前の時代とその後の仏教の時代が、きわめて流動的で複雑だったことを物語っている。
■インドの階級制度
 アーリア人がインドに侵入してから成立した古代インドの制度は、「4ヴァルナ」と「4住期」制度から成り立っていた〔朝日百科『世界の歴史』(2)19~20頁〕。この制度は、(2)の時代に始まり、(3)の時代に整えられ、(4)以後の時代へと継承される。
 ヴァルナ制度によれば、全住民は、バラモン(司祭階級)とクシャトリヤ(王侯・騎士階級)とヴァイシャ(庶民階級)とシュードラ(奉仕階級)の四つに区分される。(2)のヴェーダ時代後期の末頃から、シュードラ層のさらに下に、最下層の「不可触民」と称される階級が設けられた。彼らは、異なるヴァルナの間の混血など、どのヴァルナにも属さない人たちで構成されたようである。
 4住期制度とは、バラモンからヴァイシャまでの上位三つの階級の人たちだけに関わる制度である。彼らは、まず10歳で入門式をあげ、アーリア社会のメンバーとされる。
(1)バラモン教師のもとでヴェーダ聖典を学ぶ(学生期)。
(2)学問を終えて家の家業を継ぎ、結婚して子を設け、祖先を祀る(家長期)。
(3)老境に入ると息子に家業をゆずり、森林に隠棲して清らかな日を送る(林住期)。
(4)宗教的な完成を求めて游行する(游行期)。
 ただし、この制度はあくまで建前であって、実際にこれが厳守されたわけではなく、四つの住期を全うした人は少なかったと思われる。この制度の特徴は世襲制と宗教重視である。宗教は、バラモンが指導権を握っていたから、古代オリエントや中国のように、祭政一致の強大な王権が出現することは、原則として難しかったようである。しかし、ヴァルナ制度が成立するとともに、実権は首領である王に移行するようになるから、官僚と軍隊に支えられた専制君主の出現を許すことになった。ただし、この場合でも、王権はあくまで俗界にとどめられて、王権がバラモンの生活を保障する形で両者は利用しあっていたようである。
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