4章 ヴェーダの祭祀と供犠
■アシュヴァメーダの祭儀
 アシュヴァメーダは馬の供犠であり、これは「世界の支配者」としての地位を得た王だけが行なうことができた。この祭儀は、国の汚れを浄め、豊饒と繁栄を保証するもので、これへの準備のために1年を要した。一頭の雄の競走馬と、ほかに百頭の競争馬が選ばれ、雌馬から遠ざけられた。祭儀の競争は三日間続き、二日目に最初の一頭の馬は、雌馬を見せられてから戦車につながれ、王子がこれを引いていく。多くの家畜が供犠として献げられてから、この馬も窒息死させられてプラジャーパティ神の化身となる。100人の従者を従えた王妃4人が、その馬の屍(かばね)を囲んで、覆いを掛けられて添い寝をする。その間、祭司たちは卑猥な冗談を言い合う。式が終わると他の馬は解放される。この馬の祭儀の起源はおそらくインド・ヨーロッパ諸民族にさかのぼるのであろう〔エリアーデ『世界宗教史』(1)247頁〕。
 アシュヴァメーダはほんらい春の祭りで、この祭りでは、馬が宇宙開闢(かいびゃく)(プラジャーパティ)と同一視される。馬は宇宙の原初の水と関連づけられて、宇宙創造の行為を象徴するのだが、この祭儀は「密儀」とされる秘教であった。おそらく、この馬は王族の権力と社会階級の規範を再建する意義を担うのであろう。「アシュヴァメーダを知らぬ者は何事も知らないのにひとしく、バラモンとは言えない」と言われていた〔エリアーデ前掲書248頁〕。
■ディークシャー(死と再生の儀礼)
 死と再生の儀礼ディークシャーとは、人が自分を供犠として献げることである。これによって、人は「供犠とされて死に」同時に「母胎への回帰としての受胎」を授かる。人は三度産まれる。一度目は両親から、二度目は供犠を行なう時、三度目は死んで火の上で焼かれる時である。こうして人は新しい存在になる。ディークシャーを受ける者は、これを授ける祭司によって水を浴びせられる(精液の象徴)。特殊な納屋(子宮の象徴)に入れられる。衣(羊膜の象徴)を着せられる。その間、彼の手は閉じられている(胎児の姿)。このようにして人は「真の誕生」を受ける。人は本当の意味ではまだ生まれてはいないのであって、供犠によってこそ生まれるからである〔エリアーデ『世界宗教史』(1)249~50頁〕。
 供犠を受けることによって、人は神々に近づく。供犠に犠牲獣が献げられる場合は、その獣は供犠を受ける者と同一視されて神々に献げられる。しかも、この供犠行為は、「アグニ(火の神)よ、汝自らを供物とせよ!」とあるように、神々自身の供犠行為に見習うことでもある。こうして獲得された人の神格化は、その人個人だけでなく、社会や自然をも再生させ恵みをもたらすとされた。人身御供(ひとみごくう)もこれと同様の目的で行なわれたと考えられる〔エリアーデ前掲書251頁〕。
■ラージャスーヤ(王の即位)
 インドの王の即位も前述のディークシャーにならうものである。
 第一段階として、王は即位に先立つ一年前からディークシャーを行なう(母胎に宿る間を象徴)。即位の式典は新年に行なわれる。その後、さらに一年ディークシャーを行なう。これを短縮した形の式典が、王の即位更新を象徴して年ごとに行なわれる。王は宇宙を内包し、懐胎されている間に宇宙と同一化されて、宇宙の支配者として誕生する。
 第二段階として、宇宙を体現する王は、先ずバラモン・カースト(バラモン階級)と、次に民衆と、神秘的は婚姻行為を行なう。これは王が、バラモンと民衆の子宮から誕生するためである。式典は男性を象徴する水と女性を象徴する水との結合、さらに黄金(火の象徴)と水の結合という象徴行為を伴う。
 第三段階として、王が宇宙と国と民衆の全体の支配者としての地位を確立するために行なう儀式がある。王が腕を上げることで、宇宙の開闢を告げる。その時王は宇宙を支える宇宙樹となる。王が塗油(とゆ)を受ける時、腕を上げたまま王座に立つ。王座は宇宙の臍(へそ)であるから宇宙の中心であり、その上に立つ王は宇宙の軸である宇宙樹に化身する。次に王に聖水が撒かれる。これは原初の水であり、王が体現する宇宙樹に沿って流れ下る水が大地を潤す。王は四方に向かって歩を進めることで天頂に登る。こうして王は、天地の四方と季節の支配者になる。この死と再生の儀礼的な行為は、次に述べる天地創造の神話へとつながるものである〔エリアーデ前掲書252頁〕。
■天地創造の由来
 インドの天地創造神話も先史時代からの伝承を受け継いでいるが、これの成立は比較的後代になってからである(この点で旧約聖書の天地創造神話の成立と類似)。インドの天地創造神話には、ギリシア的な宇宙論と共通するところが少なくない。ヴェーダの天地創造は、次の四つに分かれる〔エリアーデ『世界宗教史』(1)253頁〕。(Ⅰ)原初の水の受胎。(Ⅱ)原初の巨人の解体。(Ⅲ)有無一体の単一からの発生。(Ⅳ)天地の分離に始まる。
〔Ⅰ〕原初の水の受胎
(1)太初において、ヒラニア・ガルバ(黄金の胎児)は顕現せり。その生まれるや万物の独一の主なりき。彼は地を安立せり、天をもまた。――ーいかなる神にわれらは供物もて奉仕すべき。
(5)彼により天は強力にして、地は堅固なり。彼により太陽は支えらる。穹窿(きゅうりゅう)もまた。彼は空界において空間を測量す。――ーいかなる神に・・・・・。
(7)深大なる水(原初の水)が一切(万物)を胎児として孕み、火(熱)を生みつつ来たるとき、彼はそれより、神々の独一の生気として顕現せり。――いかなる神に・・・・・。
                 〔『リグ・ヴェーダ讃歌』10巻121篇より〕
 『リグ・ヴェーダ讃歌』は、創造の神の精液を表わす「黄金の胎児」が、原初の水の上を飛翔するという太古の神話を継承している。「火を生みつつ来たる」(7節)とあるように、この黄金の胎児から火の神アグニが誕生したとも言われる。『アタルヴァ・ヴェーダ』(10巻7篇7節)では、創造主(プラージャ・パティ)が「一切の世界を支えて固定したスカンパ(宇宙の柱)」の内には太初の水が包含されていて、この柱にはもろもろの世界と宇宙の最高原理(ブラフマン)と有無そのものまでが統合されている(同10節)。しかし、ヴェーダの詩人はここで、「いかなる神に供物を献げるべきか?」と繰り返し問うことで、この創造主を特定することを避けている。
〔Ⅱ〕原初の巨人の解体
(2)プルシャ(原初の人)は、過去および未来にわたるこの一切(万物)なり。また不死界(神々)を支配す、食物によって成長するもの(生物界、人間)をも。
(3)彼の偉大はかくのごとし。されどプルシャはさらに偉大なり。一切万物は彼の四分の一にして、四分の三は天界における不死なり。
(5)彼よりヴィラージュ生まれたり。ヴィラージュよりプルシャ生まれたり。彼生まれるや地界を凌駕(りょうが)せり、後方においても、また前方においても。
                 〔『リグ・ヴェーダ讃歌』10巻90篇より〕
 原初の巨人プルシャ(人)は、ここでは宇宙の総体を象徴するから、男女の区別を有しない両性具有である(ギリシア神話で男神ヘルメスと女神アプロディテーが合体した「ヘルマプロディートス」にあたる?)。このプルシャから女性的な創造エネルギーであるヴィラージュが誕生するが、同時にヴィラージュからプルシャが生まれるから(同5節)、ここにはインド神話特有の循環発生を見ることができる。
 「神々がプルシャを供物として献げる」(同6節)ことで宇宙が誕生する。神々がプルシャを切り分かつ時(同11節)、その口からブラーフマナ(バラモン/祭官階級)が、その両腕からラージャニア(王族・武人階級)が、その両腿からはヴァイシャ(庶民階級)が、その両足からシュードラ(奴隷階級)が生まれた(同12節)。しかし、「神々は祭祀(プルシャ)によって祭祀(プルシャ)に祭祀を捧げた」(同16節)と循環するのを見ると、プルシャは神々へ捧げられる犠牲であると同時に、プルシャは犠牲を捧げる供犠の神それ自体でもあることになる〔エリアーデ『世界宗教史』(1)254頁〕。宇宙、生命、人間はプルシャの身体から発生したものであるから、プルシャは、宇宙と人間に対して超越的であると同時に内在的でもある。この点で、古代メソポタミア神話のティアマットと同様に、インドの宇宙開闢神話は、太古の神話を引き継いでいると言えよう。人間はこの宇宙全体の四分の一しか知ることができないから、残りの四分の三は、不死の神々のみが知ることになる(同3節)。
〔Ⅲ〕有無一体の単一からの発生
(1)そのとき(太初において)無もなかりき、有もなかりき、空界もなかりき、その上の天もなかりき。何ものか発動せし、いずこに、誰の庇護の下に。深くして測るべからざる水は存在せりや。
(2)そのとき、死もなかりき、不死もなかりき。夜と昼との標識(日月・星辰)もなかりき。かの唯一物(中性の根本原理)は、自力により風なく呼吸せり(生存の徴候)。これよりほかに何ものも存在せざりき。
             〔『リグ・ヴェーダ讃歌』10巻129篇より〕
 太初は、暗黒に覆われて、ただ未分化の「唯一なるもの」だけが存在していたとある(ネオプラトニズムのプロティノスが言う未分化の「モナド/単一なるもの」を想わせる)。「不死」も存在しなかったとは、神々もそこにはいなかったことである。ここには、神話的要素を排除し、人格化した創造神を脱却し、中性の宇宙の根本原理に迫ろうとするリグ・ヴェーダ思想の最高峰の哲学が、不可知の最高存在である「唯一なるもの」として現われる〔岩波文庫『リグ・ヴェーダ讃歌』322頁〕〔エリアーデ『世界宗教史』(1)255頁〕。
 しかし、人の行なう「苦行」(タパス)によって生じる熱力は、この「唯一」の中から、すなわち原初の水の虚空から、その「発現力」(アーブー)によって「胚胎」を出生させることになる。この発現力は「レータス(種子)」となって、そこから「カーマ(欲望)」が現われ、その欲望が「レータス(種子)」となって「マナス(意)」が生じた。この「マナス」が、男性原理と女性原理へと、二つに分裂することで創造が始まる。したがって、神々は世界の創造に関与しない。だから、世界の創造を知るものは、最高天にあって宇宙を観る存在だけである。世界は自らの存在それ自体の展開によって創造し始めることになる。生む者の欲望(カーマ)から、意識だけでなく、宇宙そのものも生じるという仏教哲学の萌芽をここに見ることができよう〔エリアーデ前掲書256頁〕。
〔Ⅳ〕天と地の分離
  先の『リグ・ヴェーダ讃歌』(1巻32篇1節)で見たように、インドラは、ヴァジュラ(電撃)によって、アヒ=ヴリトラ(蛇)を殺して、水を流出させ、山々の腹を切り裂いた。彼は、その「息荒き勢いをもって、英雄的な偉大な力によって、天と地を恐れさせた」(『リグ・ヴェーダ讃歌』2巻12篇1節)。彼は「動揺する大地を固定し、空間を測量して天を支えた」(同2節)とある。インドラによるこの「天と地の分離」は、メソポタミアやエジプトなど古代の半神(デミウールゴス)として、人類に広く伝わる神話を受け継ぐものである。インドの神々は、女神アディティと、水と地から生まれたと語られているが、神々は、その不死性をアグニから授かったとも、ソーマによって受けたとも言われる。しかし、神々もまたインドラと同じように「苦行」(タパス)によって不死を得たとされているが、それは、ある種の供犠行為を通して初めて到達できたようである〔エリアーデ前掲書256頁〕。
■プラジャーパティ(造物主)とタパス(苦行)
(11)まことに、太初には、ここは無の存在であった。これについて彼らは言う「その無の存在とはなにか?」それは確かにリシたちのことである。無の存在とはリシたちのことである。これについて彼らは言う「それらのリシたちとは誰のことか?」リシたちは、疑いもなく、生気を与える大気のことである。この宇宙が存在する以前においては、それらのリシたちは、宇宙を求めて厳格なる苦難で疲れ果てた、それゆえ彼らは「リシ」(苦行する者/金色の仙人=金仙)たちと呼ばれる。
(22)この生気を与える大気の内に確かにインドラがいた。彼はその力によって他の生気を発熱させた(発火させた)。発火させるが故に、彼(インドラ)は発火者である。この発火者を彼らは神秘(秘義)によって「インドラ」と呼ぶ。神々は秘義(秘儀)を好むからである。生気は発火されて7人の人間(プルシャ)たちを創った。
           〔『シャタパタ・ブラーフマナ』6巻1篇1連より〕
 そこで彼らは、一人一人を臍(へそ)の上と下とに分けて圧縮して、7人を一人にまとめた(同33節)。勝れた部分は「頭」とし、そこに息をおいた。全体をまとめて「体」(サリラ)とした(33節)。こうしてこの人は「プラジャーパティ」(創造/生成の主)となった。プラジャーパティこそが祭壇の火、すなわちアグニ(火神)である(55節)。このプラジャーパティは、苦行によって自己を複製し始めた。彼は、先ず最初に全てのブラーフマン(中性)、すなわち「三識」を創った。これが彼の基礎となる土台となった。それゆえ彼らは言う。「ブラフマン(ヴェーダ/梵)こそ全ての土台である。」この土台に立って苦行(タパス)が行なわれる(同88節)。
〔『シャタパタ・ブラーフマナ』6巻1篇1連より〕〔以下の英訳より重訳。Internet Sacred Text Archive:Hinduism:Satapatha Brahmana Part III (SBE41), Julius Eggeling tr.(1894)〕
 いかなる宗教にも修行/苦行はつきものであるが、インドの苦行は他に見られない特異性を帯びている。発言を断つ沈黙の戒、食を断つ断食、性欲を断つ禁欲、夏に火の側に座り、冬に冷水を浴びる。片足だけで立ち続ける苦行もある。これら様々なタパス(苦行)によって、行者は超能力の神通力を獲得するとされている。したがって、怒りのあまり人を呪うことや愛欲によって女性と交わることによって苦行の効果が消滅することになる〔『岩波仏教辞典』203頁〕。苦行とは、自己を神々への供犠とすることによって、宇宙を創造するために殺されたプルシャ(真の人)に見習うことである。これによって創造と生成の業を行なうプラジャーパティ(創造主)となるためである。
 「プラジャーパティ」(造物主)は、バラモン教(ブラーフマニズム)が到達した宇宙の根本原理である。「バラモン教」とは、ヴェーダ聖典に準拠したインドのバラモン階級による宗教を指す。ヴェーダは、ほぼ前500年頃(釈迦誕生の頃)に、その全聖典が成立した。このために、特に欧米では、釈迦による仏教の成立前後のインドの宗教を区別するために、仏教以前のインドの宗教を「バラモン教」と呼び、仏教以後のそれを「ヒンズー教」とする。しかし、「プラジャーパティ」に関する限り、この二つの区別は必ずしも適切ではない。『リグ・ヴェーダ』に始まる宇宙の根本原理(ブラーフマ)への探求は、ウパニシャッド聖典の成立(前6世紀~前3世紀)によって頂点に達するからである〔『岩波仏教辞典』667頁〕。
 バラモン教は、ほんらいヴェーダ賛歌の神々から世界が産まれ発生したとする多神教であるから、世界は神々の体から発生したと考えられていた(流出説)。しかし、バラモン教のヴェーダ祭祀の根本原理を成す「ブラフマン(梵)」(中性)は、神々の最高神として単一神とされることで、ユダヤの一神教と同様に宇宙の創造主に近く、「プラジャーパティ(造物主)」とされるようになった(前11世紀頃)〔『岩波仏教辞典』515頁〕。ただし、「ブラフマン」(中性)とこれを体現する「プラジャーパティ」は、ヴェーダ時代の後期より男神「ブラフマー」に取って代わられることになった。
 ミルチア・エリアーデは、プラジャーパティの「創造」とユダヤ教の一神教的な創造とを同一視してはいない。エリアーデは、プラジャーパティが単一の精神的な存在であることを認めつつも、プラジャーパティの創造は、欲望(カーマ)の刺激による発熱と発汗から生じる放射によると見なしている。創造には彼の精液が関与していると見るから、プラジャーパティの創造には性的な内容が含まれている。この創造性は、苦行(タパス)によるところが大きい。苦行(タパス・発熱)は、自らを極限まで熱くして、そこから放射する創造の業に参与する。苦行は、これによって人をある種の神秘的なエクスタシーへ到達させる。
 供犠行為による再生が生じないならば、プラジャーパティは、自らの存続によって年ごとに衰弱する。プラジャーパティの年ごとの循環的な営みを疲労から再生させることこそ供犠のほんらいの意義なのである。祭儀の重要性がこれであり、祭司が夜明けにアグニに祭火を奉献しなければ、「太陽は昇らない」であろうとある(『シャタパタ・ブラーフマナ』2巻3篇1連5節)〔エリアーデ前掲書260頁〕。供犠はプラジャーパティを再創造するだけでなく、祭儀の呪術力によって、供犠執行者自身もまた新しい身体を作り、天に上昇して二度目の誕生を遂げることになる。供犠執行者の個我(アートマン)を回復するためにも、供犠は欠かせないものであり、供犠行為を通じて、プラジャーパティ(ブラフマン)とアートマンとの合一が果たされるからである〔エリアーデ前掲書262頁〕。こうして、苦行者は、自己自身(アートマン)を神々に供犠として捧げることを通じて、自己を再創造すると同時に他者をも創造する。「供犠はプラジャーパティである」と言われるのはこの理由からである。プラジャーパティの供犠は1年を区切りとして循環する。だから、宇宙の創造と循環する年と火の祭壇の三つは、後期のヴェーダ宗教の供犠全体を構成することになる〔エリアーデ『世界宗教史』(1)258~59頁〕。
■ヴラティーヤの祭儀
(1)彼(ヴラティーヤ)は立ち上がれり。彼は東方に向かって進めり。ブリハット(旋律の名)とラタンタラ(同じ)、アーディティア神群と一切神群とは、彼に従いて進め入り。・・・・・彼にとり東方において信念は娼婦にして、ミトラ(同盟神)はマガダ国人(または吟遊詩人)なり。識別は衣服、昼はターバン、夜は頭髪、両ハリタ(?)は二個の環飾、カルマリ(?)は宝玉、過去と未来とは二人の従僕、意は粗雑なる車、マータリシュヴァン(神名)とパヴァマーナ(ソーマ)とは粗雑なる車の二頭の牽獣(けんじゅう)、ヴァータ(風神)は御者、旋風は突棒(とつぼう)、名声と栄誉とは二人の前駆者なり。かく知る者に名声は到来す、栄誉は到来す。
     〔辻直四郎訳『アタルヴァ・ヴェーダ讃歌』15巻2篇より〕
 ここにでてくる「ヴラティーヤ」は、ヴェーダ聖典の比較的後期(前1000年以降)の『アタルヴァ・ヴェーダ』からのものである。ヴラティーヤは、正統バラモンの圏外にいた特殊な宗団であったようだ。彼らは、おそらく、アーリア人社会の周辺部の人たちであり、異邦人あるいは先住民と見なされていたのであろう。あるいは、アーリア人でも正統派に従わなかった異端者たちだったかもしれない〔辻直四郎訳『アタルヴァ・ヴェーダ讃歌』240頁〕。
 ヴェーダ宗教がこれら周辺の人たちに浸透するにしたがって、そこに様々な苦行者(ムニ)が現われる(釈迦は、シャーキャ族から出たムニ〔苦行者/聖者〕として「シャーキャ・ムニ=釈迦牟尼」と称される)。これらの苦行者は、この讃歌にも見られるように奇態な姿をして、独自の忘我状態から、シャーマン的なヨーガの技法を発達させたようである〔エリアーデ『世界宗教史』(1)268~69頁〕。しかし、ヴラティーヤの進むところ、マルト神群もインドラもヴァルナもソーマもヴィシュヌもルドラもアグニもプラジャーパティも、彼に従うとあるから〔『アタルヴァ・ヴェーダ讃歌』15巻14篇より〕、彼らは、瞑想により宇宙の様々な原理と合一することで、最高神の領域に至ることができたようである。ヴラティーヤの供犠執行には、詠唱者の役割を演じるマガダ国人と娼婦たちがいた。その祭儀では、マガダ人あるいは祭儀の参加者と娼婦との交接がおこなわれたようである。「聖婚」思想に基づくこれらの性的な結合は、後に秘跡化されてタントリズムを形成することになる。忘我的なエクスタシーの霊境は、ソーマ酒などの力を借りて行なわれたと思われるが、このようにして到達する神秘的な体験は、やがて苦行やヨーガの技法が発達するにつれて洗練され、ウパニシャッドの時代(前4世紀頃)には、社会生活を捨てて「林」において瞑想に身を捧げる隠遁の求道的な苦行者となった。ヴラティーヤ祭儀は、この頃、伝統的なバラモンの宗教が深刻な危機に陥っていたことを示しているのかもしれない〔エリアーデ前掲書270頁〕。
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