5章 輪廻と解脱          

■サンサーラ(輪廻)とモークシャ(解脱)
 以下では、『バガヴァッド・ギーター』からの引用によって、「輪廻」と「解脱」の思想を探ろうと思う。『バガヴァッド・ギーター』は、小篇ながら、インドの古典として、ヒンドゥー教が世界に誇る珠玉の聖典である〔上村勝彦訳『バガヴァッド・ギーター』岩波文庫(1992年)219頁。以下、この作品の本文からの引用はこの訳による〕。『バガヴァッド・ギーター』の成立は、紀元1世紀頃とされるから〔『バガヴァッド・ギーター』221頁〕、釈迦(前6世紀中頃〜前5世紀中頃?)を境にして時期的に見れば、ヴェーダの宗教(バラモン教)から、これを受け継いだヒンドゥー教の時代にあたる。その上、仏教の影響も受けているから、この作品では、バラモン教と仏教とヒンドゥー教が重なり合うことになる。
 『バガヴァッド・ギーター』(神の歌)は、全18巻の大叙事詩『マハーバーラタ』の第6巻に編入されている。インドにおける戦において、ほんらいは同族関係にあったパーンダヴァ軍とカウラヴァ軍が対峙した時に、パーンダヴァ軍のアルジュナは、神々をも巻き込んだ同族同士の闘いの意義に疑問を抱いて、戦意を失いかけた。この時に、「聖なるバガヴァット」がアルジュナを鼓舞するためにヨーガの秘法を説いたのが『バガヴァッド・ギーター(神の歌)』である〔『バガヴァッド・ギーター』解説15頁〕。
 『バガヴァッド・ギーター』の本文では、「聖なるバガヴァットは告げた・・・・・」で始まる種々の教えが語られ、これらの教えは「クリシュナ」の教えとされている〔上村勝彦訳『バガヴァッド・ギーター』219頁以下の解説〕。「クリシュナ」という人物は、前6世紀?の『チャーントーギア・ウパニシャッド』に出てくる(同2巻17章6節)。この人は前7世紀に実在した英雄的な人物であったらしい。彼は死後に神格化されて、ヒンドゥー教の一派で、ヴァースデーヴァ神を信奉する人たちによってこの神と同一視されるようになり、「ヴァースデーヴァ・クリシュナ」として崇められた。この一派は、ヴァースデーヴァ神を「バガヴァット(世尊)」と仰いだから、「バーガヴァタ派」と呼ばれた。さらにブラーフマナ文献の後期には、ヴァースデーヴァ・クリシュナがヴィシュヌ~の化身であると見なされるようになった〔『バガヴァッド・ギーター』解説220〜21頁〕。こうして、紀元9世紀には、ヒンドゥー教において、クリシュナ神話が完成することになる〔『岩波仏教辞典』215頁〕。
 
(42)愚者たちはヴェーダ聖典の言葉に喜び、他に何もないと説き、華々しい言葉を語る。
(43)欲望を性(さが)として、生天に専念する彼らは、行為の結果として再生をもたらし、享楽と権力をめざす多種多様な儀式についての、華々しい言葉を語る。
(45)ヴェーダは三要素よりなるもの(現象界)を対象とする。三要素よりなるものを離れよ。アルジェナよ。相対を離れ、常に純質(サツトヴァ)に立脚し、獲得と保全を離れ、自己を制御せよ。
(46)いたるところで水が溢れている時、井戸は無用である。同様に、真実を知るバラモンにとって、すべてのヴェーダは無用である。
                   〔『バガヴァッド・ギーター』2章より〕
 ヴェーダの神々は、時代と共に最高神プラジャーパティへと神々の役割が収斂(しゅうれん)されていく。人は祭祀を執り行なうことによって、プラジャーパティ(造物主)へ供犠を捧げ、このことを通じて、自分の個我(アートマン)を再創造することができた。それだけでなく、太陽や雨や大地をも含む自己を取り巻く宇宙全体をも再創造することができた。不滅の存在であるプラジャーパティから、ブラフマン(祭祀を含む宇宙の神秘的な根本原理)が出て、ブラフマンから発して、人の祭祀と供犠行為が行なわれる。供犠の供物は太陽を昇らせ、太陽の運行が雨をもたらし、雨が食物をもたらし、食物が生類を行為へ導き、その行為が循環して祭祀の供犠行為へ戻る〔『バガヴァッド・ギーター』注156頁〕。
 祭祀における供犠行為は、人がこれを行なう動機となる「因」からが生じるものであり、供犠の執行は、供犠が結ぶ「果」となる。供犠行為に伴うこの「因果」(いんが)関係は、この地上に限られることではなく、供犠の執行者は、その祭祀行為(カルマン)を通じて、死後に神々の世界へ達することができた。このように、全ての祭祀行為は、これを行なう「因」から生じ、これがもたらす「果」にいたる。
 「因果」とは、現代の自然科学で言う「原因」と「結果」を意味するよりも、むしろ、人の祭儀行為を通じて生じる人間と宇宙の一切の「成り立ち」の根本的な原理を指す。したがって、この因果関係の普遍性は、供犠の執行者の供犠以外の生活全体をも含むから、人が生きている間に行なった無数の行為は、この地上でも天上でも、必然的にこの因果の法則に組み込まれる。こうして、人の行為も世界の成り立ちも、一切が因から果が生じ、その果が因となって次の過程が始まるという因果の連鎖の中に組み込まれることになる。
 宇宙は、最も純粋な精神性の原理である「純粋精神(プルシャ)」と、物質界の原理である「根本原質(プラクリティ)」との二つの原理によって成り立つ。物質界の根本原質(プラクリティ)は、さらに、高次のものから、順番に、「純質(サッティヴァ)」と「激質(ラジャス)」と「暗質(タマス)」の三つのレベルに分かれていて、これらを三構成要素と言う(45節)〔『バガヴァッド・ギーター』注149頁/153頁〕。すなわち、現象界は、物質の根本原理であるプラクリティから生じて展開するこれらの三要素から成り立っている。この現象界は因果の法則に支配されているから、ヴェーダの祭祀を正しく行なうことで、人が「生天」(2章43節)を果たして、天界に生まれることができたとしても、なおも輪廻の世界から脱却することができない。祭祀は、その果報として、現世の物質的な繁栄とこれに続く生天を目指すものであるから、人はたとえ生天しても、因果によって結局は地上に戻り、あるいは冥界に下ることになる。だから、人がヴェーダの聖典に従いヴェーダの祭祀を行なっても、「欲望を性(さが)として、生天に専念する彼らは、行為の結果として再生をもたらし、享楽と権力をめざす多種多様な儀式について、華々しい言葉を語る」にすぎないことを知るのである(2章43節)〔『バガヴァッド・ギーター』注149頁〕。
 ヴェーダの神々は、プラジャーパティ(造物主)が最高神となるにつれて、次第にその価値を失っていくが、そのプラジャーパティの創造を支える供犠行為さえも、「因果」(いんが)の法則によって、次第にその価値が貶(おとし)められることになる。供犠をもたらす「因」と供犠がもたらす「果」との因果関係は、祭儀や供犠に限らず、人の業もすべての事象をも「因果の法則」によって支配するから、この思想が発展すると、人の善行(善因)は善い結果(善果)をもたらし、悪行(悪因)は「悪果」をもたらすという「因果応報」思想へ行き着くことになる。この因果の思想は前800年頃に始まるが、ヴェーダ聖典の後期のウパニシャッドの時代(前6世紀〜前3世紀)になると、「供犠による世界もやはり滅びる」と見なされるようになり、それまでの供犠万能も次第にその価値が衰え始める〔エリアーデ前掲書271頁〕。
 
(10)造物主(プラジャーパティ)はかつて祭祀とともに生類(プラジャー)を創造して告げた。――これ(祭祀)によって繁殖せよ。これが汝らの願望をかなえんことを。
(13)祭祀の残りものを食べる善人は、すべての罪悪から解放される。しかし、自分のためにのみ調理する悪人は罪を食べる。
(16)このように回転する(祭祀の)車輪(チャクラ)を、この世で回転させ続けぬ人、感官に楽しむ罪ある人は、アルジュナよ、空しく生きる人だ。
               〔『バガヴァッド・ギーター』3章より〕
 だからといって、祭祀それ自体が全く破棄されるわけではない。逆に、祭祀は最高神である絶対者に対して捧げるものであるから、その行為自体は、果報を求めることなく、ひたすら無償の祭祀として行為しなければならない。このように果報を求めない無償の精神に基づく祭祀行為を「祭祀の残りものを食べる」(同13節)と言い、これを行なう者は、祭祀の神秘な神髄としての「ブラフマン」に到達する。これに対して、果報を期待して祭祀を行なう者は「自分のためにのみ調理する人」と言われる。祭祀の火に投じられた供物は太陽に達し、太陽から雨が生じ、雨から食物が生じ、これによって生類が生じる。祭祀行為なしにはブラフマン(宇宙を成り立たせる根本原理)は遍在しないから、現象世界も存続できないことになる。だから人間は、祭祀行為を通じて、「祭祀の車輪(チャクラ)」(同3章16節)を回し続けなければならない〔『バガヴァッド・ギーター』注155頁〕。
 
(41)この世で決定を性とする知性は唯一である。決定を欠いた者たちの知性は、多岐に分かれ、限りないが。
(50)知性をそなえた人は、この世で、善業と悪業をともに捨てる。それ故、ヨーガ(実践)を修めよ。ヨーガ(実践)は諸行為における巧妙さである。
(51)知性をそなえた賢者らは、行為から生ずる結果を捨て、生の束縛から解脱し、患いのない境地に達する。
                 〔『バガヴァッド・ギーター』2章より〕
(22)たまたま得たものに満足し、相対的なものを超え、妬み(不満)を離れ、成功と不成功を同一に平等に(同一)に見る人は、行為をしても束縛されない。
(23)執着を離れ、(束縛から)解放され、その心が知識において確立し、祭祀のために行為する人にとって、その行為は完全に解消する。
                 〔『バガヴァッド・ギーター』4章より〕
 「決定を性とする知性」(41節)とは、最高の絶対存在に心を集中することで、絶対者に結びつこうと求める知性のことである〔『バガヴァッド・ギーター』注148頁〕。祭祀行為に潜むこの秘儀を悟ることこそ、真の知識であり知性である。逆に、供犠のこのような神秘に無知なことを「アヴィドヤー(無明)」という〔エリアーデ前掲書274頁〕。このように、供犠重視が後退するにしたがって、『バガヴァッド・ギーター』(紀元1世紀頃)の時代には、ヴェーダ聖典の供犠に潜む秘儀的な「真の知識」に到達することが求められるようになる。この「唯一の真の知性」(同2章41節)に到達する実践が「ヨーガを修める」技法である(同50節)。己の行ないの結果(果報)を求めることなく、ひたすら真の知性に向かって「決定する」者は、一切の被造物が同一で平等であることを悟る境地に達する(同4章22節)。これが輪廻から脱した解脱の境地であり、人がこの境地に達することで、最高の絶対的なブラフマンとの合一をはたすことになる。人がこの解脱に達する道を「ヨーガの巧妙さ」(同50節)と言う。だから、「祭祀のために行為する」(同4章23節)とあるのは、祭祀による一切の果報を放擲することと同じである〔『バガヴァッド・ギーター』注149〜150頁〕。
 
聖バガヴァトは告げた。・・・・・
(4)愚者はサーンキヤ(理論)とヨーガ(実践)とを別個に説くが、賢者はそうは説かない。一方にでも正しく依拠すれば、両方の成果を得る。
(16)非有(身体)に存在はない。実有(個我)には非存在はない。真理を見る人々は、この両者の分かれ目を見る。
(17)この全世界を遍(あまね)く満たすものを不滅であると知れ。この不滅のものを滅ぼすことは誰にもできない。
(39)以上、サーンキヤ(理論)における知性(ブツディ)が説かれた。次に、ヨーガ(実践)における知性を聞け。その知性をそなえれば、あなたは行為の束縛を離れるであろう。
(54)アルジュナはたずねた。「クリシュナよ、智慧(ちえ)が確立し、三昧(さんまい)に往(おう)する人の特徴はいかなるものか。叡智が確立した人は、どのように語り、どのように歩むのか。」
(55)聖バガバヴァットは告げた。――「アルジュナよ、意(こころ)にあるすべての欲望を捨て、自ら自己(アートマン)においてのみ満足する時、その人は智慧が確立したと言われる。」
                 〔『バガヴァッド・ギーター』2章より〕
(17)他方、自己(アートマン)において喜び、自己において充足し、自己において満ち足りた人、彼にはもはやなすべきことがない。
(18)彼にとって、この世における成功と不成功は何の関係もない。また、万物に対し、彼が何らかの期待を抱くこともない。
                〔『バガヴァッド・ギーター』3章より〕
 人の魂は、地上を離れた至福であれ、苦悩であれ、死後の世界から再び地上へ戻るという「輪廻(りんね)」(サンサーラ)の法に支配されている〔エリアーデ『世界宗教史』(1)272頁〕。真のリシ(黄金の仙人)にとっては、神々も供犠も重要でない。苦行の最終目的は真の自己(アートマン)に到達することだからである。「無(アサット)から己を有(サット)へと導け。闇から光りへと自己を導け、死から不死へと自己を導け!」(『ブリハッド・アーラニヤカ・ウパニシャッド』1巻3章28節)〔エリアーデ前掲書271頁〕。
 ヒンドゥー教の前身であるバラモン教において、初めて断片的な輪廻思想があらわれたのは、バラモン教最終期のブラーフマナ文献ないし最初期のウパニシャッド文献においてである。ここでは、「輪廻」という語は用いられず、「五火」と「二道」の説として現れる。五火説とは、五つの祭火になぞらえ、死者は月にいったんとどまり、雨となって地に戻り、植物に吸収されて穀類となり、それを食べた男の精子となって、女との性的な交わりによって胎内に注ぎ込まれて胎児となり、そして再び誕生するという考え方である。二道説とは、再生のある道(祖霊たちの道)と再生のない道(神々の道)の二つを指し、再生のある道(輪廻)とは、すなわち五火説の内容を示している〔インターネットWikipedia「輪廻」より引用〕。
 後期の『バガヴァッド・ギーター』においては、祭祀行為そのものの価値が失われて、供犠行為の内に隠されている秘教的な知性それ自体が求められるようになる〔エリアーデ前掲書273頁〕。最高原理を追求する知性を知らない無明(アヴィドヤー)な者は、因果(カルマン)の法則による輪廻(サンサーラ)の循環からの解脱(モークシャ)を果たすことができない。因果の連鎖に左右されることのない知性(智慧/叡智)を確立した人だけが「寂静」(サーンティ)に達する。これが「ブラフマンの境地」と言われるものである。古くは、煩悩の火が吹き消されたこの状態が「ニルヴァーナ=涅槃(ねはん)」とも呼ばれたが、後には、生存中に煩悩を滅して寂静に達することを「有余(うよ)涅槃」と呼び、心身共に離脱した入滅の状態を「無余(むよ)涅槃」よ呼んで区別するようになった〔『岩波仏教辞典』647頁〕。人は臨終に際しても、「寂静」(サーンティ)の境地にあれば、ブラフマンにおける涅槃(ねはん)に達するから、輪廻から完全に解脱することになる〔『バガヴァッド・ギーター』解説225頁〕。
 
(10)諸行為をブラフマンに委ね、執着を捨てて行為する人は、罪悪により汚されない。蓮の葉が水に汚されないように。
(11)身体により、意(マナス)により、知性(ブツディ)により、また単に諸感官のみにより、ヨーギンたちは行為を成す。自己(アートマン)を清めるため、執着を捨て。
(12)(行為のヨーガに)専心した者は、行為の結果を捨て、窮極の寂静に達する。専心しない者は、欲望のままに、結果に執着して束縛される。
(15)主君(個我)は何人の罪悪をも、善行をも受け取らない。だが、知識は無知により覆われ、それにより生類は迷う。
(16)しかし、知識により彼らの自己(アートマン=個我)の無知が滅せられた時、彼らの知識は太陽のように、かの最高の存在を照らし出す。
(18)賢者は、学術と修養をそなえたバラモンに対しても、牛、象、犬、犬喰(いぬくい)に対しても、平等(同一)のものと見る。
(19)意(こころ)が平等の境地に止まった人々は、まさにこの世で生存(輪廻)を征服している。というのは、ブラフマンは欠陥がなく、平等である。それ故、彼らはブラフマンに止まっている。
(24)内に幸福あり、内に楽しみあり、内に光明あるヨーガは、ブラフマンと一体化し、ブラフマンにおける涅槃(ねはん)に達する。
(25)罪障を滅し、疑惑を断ち、自己(アートマン)を制御し、すべての生類の幸せを悦ぶ聖仙(リシ)たちは、ブラフマンにおける涅槃(ねはん)に達する。
                 〔『バガヴァッド・ギーター』5章より〕
■アートマン(小宇宙)とブラフマン(大宇宙)
(16)世界にはこれら二種類のプルシャがある。可滅のものと不滅のものである。可滅のものは一切の被造物である。不滅のものは「揺るぎなき者」と言われる。
(17)しかし、それと別の至高のプルシャがあり、最高のアートマンと呼ばれる。それは不変の主であり、三界〔天界と地界と地下界〕に入ってそれを支持する。
(18)私は可滅のものを超越して、不滅のものよりも至高であるから、世間においても、ヴェーダにおいても、至高のプルシャであると知られている。
              〔『バガヴァッド・ギーター』15章より〕
 今まで述べたヴェーダの宗教の霊性をわたしなりに理解し得た範囲でまとめるなら、次のようになるであろうか〔エリアーデ『世界宗教史』(1)275〜80頁を参照〕。
 インドの宗教的霊性の本質には、人間と人間界を含む宇宙への認識へ到達しようとする祭祀、とりわけ供犠行為がある。人は、己の捧げる供犠行為によって、自己と宇宙への認識に達するだけでなく、さらに、その宇宙と自己をも再創造することができる。このような認識と行為は、太古からの宗教的エクスタシー体験を受け継ぎ、これをさらに透徹して追求するところに初めて生じる宗教である。ヴェーダの修道者たち、特に「リシ」(黄金の仙人/聖仙)と呼ばれる人たちが追求したのは、宇宙と生命と人間の運命を全体として支配する窮極の存在であり、かつその原理である。「プルシャは、過去および未来にわたるこの一切(万物)なり。また不死界(神々)を支配す、食物によって成長するもの(生物界、人間)をも」(『リグ・ヴェーダ讃歌』10巻90篇2節)とあるように、この至高の存在は「プルシャ」(不滅の神性な存在/真の人など)と呼ばれる。「そのとき、死もなかりき、不死もなかりき。夜と昼との標識(日月・星辰)もなかりき。かの唯一物(中性の根本原理)」だけが存在していたとあるのがこれである〔『リグ・ヴェーダ讃歌』10巻129篇2節〕。この至高の存在は、人が聖なる祭祀において、宇宙的な意義を担う供犠行為と深く関わっているから、リシたちは、供犠行為の本質を求める瞑想を通じ真正な智慧に導かれてこれに到達しようと苦行を積んだ。
 至高のプルシャは不滅で無限の永遠性を具えている。それは、世界を創造する「主」であるが、ある者はこれを宇宙そのものと同一視する。他の者は、プルシャを太陽、月、人の言葉などに内在する神性を具えた存在(「神我」という訳もある)だと見る。さらに他の者は、プルシャを世界と生命と人の意識を生じさせる「不滅なもの」だと見なす〔エリアーデ前掲書275頁〕。このプルシャはまた「ブラフマン」とも呼ばれている。
 ブラフマンについては、「生命は彼の体、その姿は光、その魂は空間」〔エリアーデ前掲書275頁〕と言われ、自らの内に、全ての行為と欲望、匂いと好みなどを内包する。だから、ブラフマンは、「人の全ての行為、全ての欲望を含み、同時にこの世界全体をも含むもの」として「アートマン」(人の心に宿る個我)とも同一視されることになる。人の真正な個我がこの世を離れる時に、その「わたし」はブラフマンの中へ入ることになる。だからプルシャ=ブラフマンが宇宙と人間を創造した後で、この根源的な唯一者は、宇宙の諸領域と、人間の領域にも入り込み、そこで唯一者は「水に溶けた塩粒」のように現存する〔エリアーデ前掲書(注)36/469頁〕。
 したがって、ブラフマンは、宇宙と人間に内在的であると同時に超越的であり、宇宙と別個でありながら宇宙の諸実在に遍在する。しかも、ブラフマンは、人の心に「アートマン(真の自己)」として内在するから、真の知性を具えたアートマンは、死後、ブラフマンと合一することになる。祭祀における供犠の神髄を悟らず、真の自己に目覚めることなく「無明」に留まる者は、「サンサーラ(輪廻)」の法則に支配されてさ迷い続けることになり、一方アートマンとブラフマンとの合一を遂げた者は、その個我がほんらいの源に溶け込むから、「ある種の非人格的な不死性を形成する」ことになる〔エリアーデ前掲書276頁〕。この合一は、哲学的な知的推論の結果として獲得されるものではなく、瞑想という霊的な修行(苦行)を通じて初めて可能になることに注意しなければならない。だから、合一は、霊的(宗教的)な高度のエクスタシー体験において初めて達成される。合一が「光り」で表現されるのは、それがブラフマンとアートマンの両方を象徴するからであり、生命の源を「太陽」にたとえたヴェーダ古来の伝統を受け継いでいるからである。「神々よ、今日太陽の昇るとき、われらを困厄と誹謗(ひぼう)より救え。そをわれらにかなえよ、ミトラ、ヴァルナ、アディティ(無垢の女神)、シンドゥ(河の神)、プリディーヴィー(地の神)、はたまたディアウス(天の神)は」〔『リグ・ヴェーダ讃歌』1巻115篇6節〕。
 ところで、先に指摘した至高のプルシャと至高のブラフマンとは、どのような関係にあるのだろうか。プルシャは「金色をした創造者」と呼ばれるが、その創造は、ブラフマンを胎として、「アルジュナよ、一切の母胎において諸々の形態が生まれるが、大ブラフマンがそれらの胎である。私(聖バガヴァット/クリシュナ=プルシャ)は種子を与える父である」(『バガヴァッド・ギーター』14章4節)とあるように、至高のプルシャは、ブラフマンの胎に胎児を宿らせることで、プラクリティ(物質原理)を生じさせる。至高で不滅のプルシャが、ブラフマンを通じてプラクリティ(物質原理)を生み出すのなら、ブラフマンには物質的な原理であるプラクリティが含まれていなければならない。だとすれば、至高で不滅のプルシャと同一視されるブラフマンには、高次の不滅性と低次の物質原理(プラクリティ)の両方が具わっていることになる。このような大ブラフマンには、「因」となる高次のブラフマンと「果」となる低次のブラフマンが、因果の法則によって存在していると考えられる〔『バガヴァッド・ギーター』204頁の注(4)〕。
 至高のプルシャ(『バガヴァッド・ギーター』ではクリシュナ=最高ブラフマン)が存在し、これが高次のプラクリティ(不滅のプルシャ)と低次のプラクリティ(物質的原理としてのブラフマン)に分かれて、相矛盾する二様式となる。低次のプラクリティから「個我/個物」が生じるが、人の心に潜む真正な「アートマン(自己)」は、無明の中にあっても、「ヨーガの巧み」を通じて解脱に到達することができる〔『バガヴァッド・ギーター』15章注208頁〕。
 したがって、不滅で無限なブラフマンの中には、身体的な可死性と身体を離れた不死性、絶対と相対、精神性と物質性、人格と非人格性など相矛盾する様式が併存することになる。このように相矛盾する様式が併存すること、真のリシたちは、「知性」によってこれを悟ることで初めて、完全なる認識に到達するのであろう〔エリアーデ前掲書279頁〕。宇宙と生命、そこから生じる自然と人間には、感覚と知覚だけでなく、精神的な修行の道も与えられている。リシたちは、感覚と知覚だけでなく、精神的な修行をも通じて、プラクリティ(自然と精神的な行為)の中にも、原初の最高原理である唯一のプルシャにも、実は二つの様相が認められることを悟るのである。ブラフマンとアートマン、言い換えると、大宇宙と小宇宙の類似性と対応関係、これの全体像に相矛盾する二様性が潜むこと、この神秘を悟ることで、人は初めて「モークシャ(解脱)」に達することができるのであろう。物質界にとらわれるアヴィドヤー(無明)と、その中で欲望する諸々の「カルマン(行為)」、これらを支配する因果の法則、この「サンサーラ(輪廻)」から、初めて「モークシャ(解脱)」に到達する道が啓けてくるのであろう〔エリアーデ前掲書279頁〕。
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