第1講 古代メソポタミアの知恵
宗教学から「知恵の御霊」へ
 宗教を全体としてとらえようとするのが宗教学である。この学問は、未だ文字を持たない過去へとさかのぼらなければならないから、その方法論としては、第一に考古学、すなわち過去の遺跡の発掘調査がある。宗教考古学のこの方法は、地層の堆積から遺跡、遺物を掘り出すことで、その宗教の年代と様態とを特徴づけていく。宗教考古学のこの方法と神話、伝説、儀礼などの記録とを総合することによって過去の宗教の歴史が見えてくる。
 ところで、ヘブライ・キリスト教の流れに関心を抱く者たちは、ここでひとつの幸運に巡り合う。それはメソポタミアという特定地域においては、遺物や遺構が、これに付随する粘土板や文書と共に、そこに発生した宗教がどのような変遷をとげたのか、その歴史的経過を比較的明瞭に物語ってくれるからである。このようなことが可能になるのは、聖所や神殿のある聖なる場所が、本来のその宗教が別の宗教に取って代わられても依然としてそこが聖地であり続けるからである(後藤光一郎『宗教と風土』)。メソポタミアにおいては、宗教の最古の段階から諸宗教、諸文化の中心となった場所が、幾層もの地層的堆積となってあちこちに遺されている。ここでは時間は過ぎ去らない。堆積するのである。私たちは、このようにして、ヘブライ・キリスト教の源流を古代メソポタミア地域の宗教とその文化へとさかのぼることができる。
 この講座が意図しているのは、ヘブライ・キリスト教の宗教経験について語ることである。それは、旧約ではヤハウェの霊から現象するものであり、新約ではイエス・キリストの聖霊の働きにかかわる。しかしこれとても多岐多様な諸相を見せるから、その中でも特に「知恵の御霊」の視点から、宗教的変遷に焦点をあててみたい。なぜ「知恵」の御霊なのか? この辺を読者と共に探るのが筆者の願いである。
古代メソポタミア
 ユーフラテス河の流域では紀元前5000年頃から農耕が営まれていて、この地方は世界でも最古の文明発祥地のひとつとして知られている。シュメール語の民が、北部のイラン地方からこのメソポタミアへ侵入して、前3500年頃にユーフラテス川周辺に都市国家を成立させた。シュメールのウル第一王朝の頃、ギルガメシュ(前2700年頃即位)がウルクを首都として全域を支配した。
  前2300年頃、メソポタミア北部にアッカド王国が成立すると、メソポタミアは、北部のアッカド王国と南部のシュメール王国とに分かれた。アッカド語は、後にバビロニア語になる。「預言者」はアッカド語で「ナブーム」と言い、ヘブライ語の「ナービー・預言者」はここから出ている。南部のシュメール王国には、聖書にその名がでてくる都市ウルク(創世記10・10)とアブラハムの出身都市ウルがあった。
 アッカド王国の成立とほぼ同じ前2500年頃に、北シリアにエブラ王国が成立した。1970年代に、エブラ王国の存在した地域から1万4000点以上に及ぶ粘土板文書が発見された。これらは楔形(くさびがた)文字を用いたエブラ語で書かれているが、シュメール文字のものも多数発見されて、両者の交流が盛んであったことを示している。エブラ語は、ウガリット語、フェニキア語、古代ヘブライ語などと同じくカナン語圏(現在のパレスチナ)に属すると考えられるから、この発見によって、古代の南部メソポタミアのシュメールからマリを経てエブラへとセム系の文化圏が広範囲に存在していた可能性がでてきた。アブラハムが、ウルからハランへ上がり、そこからシケムへと降った経路がこの地帯とぴったり重なる。エブラ文書にも「預言者・ナブー」がでてきて、この語は、カナン語圏では共通して「神に呼び出され神に代わって語る人」を意味していた。
 ウル第3王朝の崩壊後には、シュメール・アッカド地方の支配をめぐり都市国家どうしの戦いがはじまった。バビロンのハンムラビ王が、前1760年頃にシュメールとアッカドの支配者となり、「肥沃な三日月地帯」と呼ばれたメソポタミア(ペルシャ湾に接する今のイラク南部)の文化はこうしてバビロニア人に受け継がれることになる。
メソポタミアの洪水伝説と叙事詩
 メソポタミアの神話と叙事詩については記すべきことが多い。だがここでは主な作品の要点だけを指摘するにとどめたい。
『アトラ・ハシース物語』は洪水伝説である。「アトラ・ハシース」とは「最高の賢者」を意味する(『古代オリエント集』筑摩世界文学大系)。この伝説では、人間が急速にふえすぎて世界が騒々しくなったために、神々は洪水を起こして人間を滅ぼそうとする。知恵の神エンキは、ひとりの人間アトラ・ハシースに舟をつくるように命じた。彼が家族や動物を舟に乗せると暴風雨になり大洪水になった。舟はたすかったが、ほかの人間たちは土と化したとある。ここでは人間の数が増えすぎたことが洪水の原因となっているが、人口の急増が社会的問題となっていて、これが環境破壊につながった可能性がある。エンキは人間のために神々に執り成して、知恵の人アトラ・ハシースを立てて人類を救おうとするのである。
 『ギルガメシュ叙事詩』は、ウルクの王ギルガメシュの英雄的叙事詩である。英雄ギルガメシュはウルクの暴君であった。人々が天の神アヌに苦しみを訴えると、アヌはギルガメシュに対抗させるためにエンキドゥを造らせた。ギルガメシュとエンキドゥは死力を尽くして闘ったが、ついに互いの力を認め合って友情が生まれた。ギルガメシュはエンキドゥと共に、杉の森の番人フンババ退治にでかけ、激しい闘いの末フンババは彼らによって倒された。遠征からもどると、ギルガメシュはアヌの娘、女神イシュタルから求婚される。ところが彼はこれを断わったために彼女の怒りを買う。イシュタルは父アヌに願って、ギルガメシュを滅ぼすために「天の牛」を送るが、これもふたりが力をあわせて殺してしまう。神々は相談の上、罰としてエンキドゥを死に定めた。エンキドゥは、涙ながらに見守るギルガメシュの前で死んでいった。
 ギルガメシュは自分の死を怖れ、永遠の生命を求めて旅にでる。酒屋の女主人シドゥリから永遠の生命など求めるのもむだだと説かれたが、あきらめずに旅を続け、ついに知恵の人ウトナピシュティムに出会う。ウトナピシュティムは、神々が洪水を起こそうとしていることを天の神エアから教えられ、瀝青を塗った箱舟をつくり、一族や動物たちと共に乗りこむと洪水になったこと、舟はニシルの山にとどまって彼らは助かり、神々から永遠の生命が与えられたことなどをギルガメシュに物語る。ギルガメシュは、ウトナピシュティムから、海中にある若返りの草の在処を告げられ、海中からこれを得て帰路につくが、途中ヘビに草を食べられてしまい、悲嘆にくれてウルクへもどった。
 この知恵の人ウト・ナピシュティムこそノアの元祖である。エゼキエルが、ダニエル、ヨブと並んでノアを「知恵の人」としているのはこのためである(エゼキエル14・14)。エア(エンキと同一)は知恵の神であり、ギルガメシュも「すべてを味わい知った」知恵者である。しかし、酒場の女主人シドゥリの言葉にも、またこの詩全体にも人の死が大きく影を落としていて東洋的な無常観を漂わせている。ギルガメシュは都市の人であり、エンキドゥは都市の城壁の外に広がる原野で暮らす家畜飼育民たちを代表していて、都市の民と牧畜の民との争いと和解が、このふたりの友情に反映していると見ることができる。ふたりの友情をダビデとヨナタン物語の源流と見る説もある。またフンババは杉の森を守るためにおかれた番人であったが、ふたりはフンババを倒して杉を伐採し、材木をウルクへ運ぶ。ここには明らかに都市化の問題が提起されている。
 『エヌマ・エリシュ』は、古代バビロニア王国において、バビロニアの主神マルドゥクに奉納された祭儀文である。世界が生まれる以前には、淡水をあらわす男神アプスーと、原初の海で塩水をあらわす女神ティアマトと、生命力を代表するムンムが存在していた。アプスーとティアマトから5代目に知恵の神エアが生まれ、その息子がマルドゥクである。ところがアプスーが自分の子孫たちを滅ぼそうとしたので、この父神は逆に自らの子孫であるエアによって殺される。太母ティアマトは夫が殺されたのを怒り、毒蛇やキングと呼ばれる竜を造って、アプスーの仇を自分の子孫にかえそうとした。エアの息子マルドゥクは、大風を吹かせて彼女と竜を倒し、このティアマトの母体をふたつに裂いて天のドームと大地とを造り、こうして彼女の体から森羅万象が産まれ出た。
 「ティアマト」は創世記冒頭の「深淵」を意味するヘブライ語「テホーム」の語源であり、世界が創造される以前の「原初の深淵」を意味する。「テホーム」は「ティアマト」がヘブライ語ふうになまったと考えられる。彼女は大自然が母性として現われる太母(たいも)である。また、マルドゥクが彼女の体をふたつに裂いて天井をつくり天の水を統治させたのは、創世記で水をふたつに分ける大空の創造と類似している。
知恵の諸相
 ここでメソポタミアの知恵を基にして、「知恵」の諸相を整理し概観してみよう。
(1)先ずティアマトに見られる最古の太母の知恵がある。 世界の創造神話には、このように母なる女神が登場する。だが彼女は、美しく恵み深い相だけを見せるとは限らない。インドのカリー女神のように、真っ黒な顔で大きな舌を出してすべてを飲み込む恐ろしい姿をとることもある。日本流に言えば慈母に対する鬼母になろうか。この黒い女神の相は母制社会から父制へ移行する段階で生じたもので、怨念や憤りや深い悲哀を現わす。
(2)シュメールのイナンナやアッカドのイシュタルなど、女神や妻や処女の女性的な「知恵」がある。ギリシアでは、「知恵」のこの相は「ソフィア」と呼ばれて、「理性・言葉」を意味する「ロゴス」と共に思想的・宗教的に重要な意味を持つ。聖書ではこの知恵は変容を遂げて、モーセと共にいたミリアムとなり、イエスの母マリア(この名はミリアムから)、ヨハネ福音書のマグダラのマリア、さらに聖母マリアへつながる。
(3)アプスーやエンキに見られる父神の知恵がある。またギルガメシュに見られる都市や神殿建築など職能や技能、さらに知識に関わる知恵があり、さらにギリシア神話のアポロのように学問・芸術の知恵がある。
(4) ギルガメシュとエンキドゥに現わされている調停と和解の知恵がある。ギルガメシュは、生と死、人生の無常を悟る知恵に到達するが、この知恵の流れは旧約のコヘレトの言葉につながる。
(5)知恵の最高の姿がアトラ・ハシースやウトナピシュティムに見られる「執り成しの知恵」である。人間には往来が禁じられている領域があって、生者と死者や神と人との領域がこれである。また男と女、神々の憐れみと怒り、善霊と悪霊などの対立がある。これらは単に区別されているだけではない。善悪の価値基準によって優劣が決められ、差別化されてもいる。これらの対立は表裏をなしていて、ただ執り成しの「知恵」だけがその矛盾を克服することができる。
先史時代から聖書へ
 以上きわめておおざっぱに聖書以前の「知恵」の神話・伝承について述べた。これらの神話や洪水伝承は聖書に受け継がれているが、両者の継承・断絶関係は単純でない。かつて新約聖書のギリシア語は、古代の詩人ホメーロスなどの「異教の」ギリシア語とあまりに違うので、聖霊に霊感された特別なギリシア語であると信じられていた。ところが発掘によって、新約のギリシア語が、当時地中海世界で広く用いられていたコイネーと呼ばれる日常のギリシア語であることが分かったのである。だからといってこの発見が、聖書の権威を弱めることにはならなかった。逆に、これによってより正確で分かりやすい翻訳が可能になり、現在私たちはその恩恵を受けている。
 同じように、ヘブライ民族は、かつては異教世界の中で唯一独自の神観を保持していたと考えられてきた。しかし現在では、聖書以前の様々な人類の知恵や霊性が聖書に流れ込んでいることが分かってきた。私たちは聖書にそれまでの人類の知恵がすべて含まれているからといって、それだけ聖書の権威が損なわれ、信仰のより所が失われたとは考えない。逆に聖書自体が証しするとおり、聖書の「知恵」は「過去を知り、未来を推測し、あらゆる言葉を理解し、謎を解く」(知恵の書8・8)ことを悟るのである。
 女神イシュタルは、旧約においてエステル(異説もあるがこの名はおそらくイシュタルから)という「知恵の后」に変容した。エステル記は低い評価を与えられることもあったが、正典として民衆の間で愛されてきた。ルツを始め旧約には女性的な知恵が底流にあって、この流れはイエスの時代にまで及んでいる。なぜ家父長制の強かったユダヤ教から、原初キリスト教においてあのような女性の活躍が生まれたのか。その謎を解く鍵がここにあると思われる。ところが聖書ではこのイシュタルの系譜が、フェニキアの月の女神でバアルの配偶者アシュトレトとして断罪されてもいる(列王上11・5)。同じ女神が、ある場合は受容され変容するのに、他の場合には悪霊として拒否されるのである。この違いはどこから来るのだろう。
啓示と聖書解釈
 ある女神が異教の霊であるからという理由だけで拒否されるのではない。ではもともと邪悪な霊性を有するからかと言えば、そうでもない。ではなぜアシュトレトは断罪されたのか? 神の御霊との出会いにおいて、そう「判断された」から、「邪神」あるいは「悪霊」と「なる・される」のである。その霊が善悪どちらの霊に判断されるかは、御霊との出会いそのものにある。その判断は「その時その場で」臨む神の御霊の啓示による。どのような霊性も聖霊との出会いにおいて本性が露わにされ、露わにされたその時点で、その霊性が悪霊と「判断される」なら悪霊と「なる」。だから、それ以前には霊性それ自体が「悪霊」であるという認識は存在しない。
 神の御霊にある「ミシュパト」(判断・裁定)とは、ある具体的な出会いにおいて「判断し裁定する」決断的な行為を意味する。霊性の善悪は、出会いそれ自体の中で、判断する側の決定にかかっている。それは一種の「かけ」でさえある。例えば闘うのが凶か吉かは、祭司が胸にかけたウリムによって「判断し」(民数27・21)決定する。だからそれまでは、女神が悪霊かそうでないかは未決定のままなのである。ソロモンがアシュトレトに迷い、イスラエルの民も彼女に迷った(エレミヤ44・16以下)のはこのためであろう。
 御霊にある啓示は「現在」の時に臨む。しかし現在は過去の上に成り立つから、啓示は同時に過去をも逆照する。女神イシュタルが、場合によってはエステルに変容し、別の場合にはアシュトレトとして拒否されるのはこの理由による。このようにして預言者や聖書記者は、その時に臨む神の御霊の言葉に従って相手の霊性を裁定する。すなわち彼らは、この仕方で霊性なり現象を判断し、これを「解釈する」のである。だから、ある霊性や現象をどのように「解釈する」のか「される」のかが、人間の生き方にきわめて重要な意味を持ってくることが分かる。御霊の導きが求められるのはまさにこの点にある。御霊はなぜそのように「判断した」のだろうか? 聖書の中でこれを読み解くことが聖書解釈の鍵となってくることを知っていただきたい。だから、聖書をただ字義どおりに受けとるだけではなく、書かれている内実を御霊によって洞察し「解釈する」こと、これが私たちひとりひとりに求められてくることになる。
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