第10講 フィロン
フィロンについて
  フィロン(前20/25〜後45/50?)は、アレクサンドリアに住むユダヤ人で、ヘレニズム・ユダヤ教を代表する哲学者である。その著作はほとんどが残っていて、大部分が、創世記を始めとしていわゆるモーセ書の解釈と注釈である。それ以外にも『瞑想の生活について』とか『永遠の世界について』などがある。フィロンの家族はアレクサンドリアのユダヤ人の名門であったようで、彼の甥アレクサンドロ=ティベリウスは、後46〜後48年にパレスナのローマ総督であった(新約聖書に出てくる「ティベリアの市」は、この甥の名にちなんだものか?)。フィロンがこのような名門の家柄であることから、彼の思想が、当時のアレクサンドリアの一般的なユダヤ人、あるいはユダヤ教をどこまで代表しているのかについては評価が別れている。しかし、彼が当時のアレクサンドリアのユダヤ社会を代表する人物であったのは間違いない。
 アレクサンドリアに住むユダヤ人とギリシア人との間に、争いが起こり、このためにギリシア人によって、ユダヤ人が皇帝礼拝を無視しているとローマ皇帝ガイオスに訴えられる事件が起こった(後39/40)。このため争いの両派から3人ずつの代表が、皇帝の前で弁明を行うことになり、フィロンはそのユダヤ人側の代表に選ばれた。エウセビオスは、彼の『教会史』(T88〜89)の中でこの時の模様を伝えている。皇帝ガイオスは、フィロンの弁明を途中でさえぎり、彼に退出を命じた。ガイオスがたいそう立腹したのは明かであった。ユダヤ人に処罰が下るのを恐れた同伴者に向かって、フィロンは「ガイオスはわたしたちに怒りを示したが、彼はすでに神を敵にまわしている。だからあなたがたも勇気を持つように」と言ったと伝えられている。
創造と神の言葉
 フィロンは、『創造について』(18〜20)の中で、神による宇宙創造を、一つの都市を設計して建築する人の譬を引いて説明している。先ず建築家は、都市全体の像を心の内に創造する。それから、記憶という内面の力によって、まるで鑞に刻むように、その都市の細部までを思い起こして心に刻み込む。それから石や材木を用いて、都市の建設にとりかかる。「同じ方法で、神の言葉(ロゴス)が宇宙を秩序づけるのは、神によって思念された〔イディアの〕宇宙によるよりほかの根拠はない」〔Philo I,17〕とフィロンは述べている。
  ここには、宇宙が「神の言葉(ロゴス)」によって秩序づけられていると同時に、そのような宇宙の構想が、神の「イディア」によって創り出されているという思想がある。しかも、創世記で語られる神の創造が、プラトンのイディアと結びつけられることによって、彼の聖書解釈が、ユダヤ人だけに向けられているのではなく、それ以外の諸国民にも共通する普遍性を目指しているのを知る。もっとも、彼の言う「神のイディア」とは、決して哲学的に自由な発想から生まれた思念のことではない。フィロンによれば、それは旧約聖書に「神の言葉」としてすでに啓示されている。したがってフィロンは、聖書に啓示されている「神の言葉」の真理以外に自分の哲学の根拠を持たない。すでに書かれている「神の言葉」が、神の「イディア」の根源なのである。
フィロンの聖書解釈
 フィロンの解釈によれば、エデンの園を潤す4つの河には、「命を生み出す力」が具わっている。「河とは生み出す力であり、善のことである。それが神の知恵(ソフィア)から流れ出ている。これが神のロゴス(言葉・理性)である。」(Philo I,188)彼は、モーセこそ、神の言葉の啓示を受けた最大の人物だと考えていたから、彼の著作の大部分が聖書解釈、とくにモーセ書を中心とするのはこのためであろう。ちなみに、フィロンは七十人訳を「神の言葉」だと考えているが、これは当時のエジプトのユダヤ人全体の傾向であったらしい。エデンの河の解釈でも分かるとおり、フィロンの聖書解釈は独特の方法によっている。河が命を生み出す。その河は「善」を意味する。その「善」は河の源である「神の知恵」から流出する。それが「神の言葉(ロゴス)」となる。ここに見られるような寓意(アレゴリー)こそフィロンの聖書解釈の特徴であって、彼はこの手法を、ギリシアのホメーロスの作品の解釈から学んだといわれる。
 アブラハムが、イサクを捧げる場面では、「アブラハムが目を凝らすと、遠くにその場所が見えた」(創世記22・4)とある。この箇所を、彼がどのように解釈しているのかを『夢について』から見てみよう。

  ここでフィロンは、人間が神の言葉(ロゴス)のもとへ来ることが、神を知ることの第一歩にすぎないと言う。人は神に導かれて、神のロゴスのもとへ来る。しかし、いざ来てみれば、その先はさらに遠いのである。人は、さらにそのかなたに、いわば神の言葉の奥に、「別の神」がおられるのを知る。言うまでもなく、「別の神」とは、聖書に証しされた神とは異なる神のことではない。聖書に証しされた神の言葉(ロゴス)のさらに奥に、神の本質が隠されている。彼はそれを求めてさらに旅を続ける。しかし、行くほどに、「神は被造物からはるか遠くにおられる」ことを発見するにすぎない。ここで語られるのは、どこまで行っても、人間には近づくことのできない、したがって、到達することのできない神の本質である。
 フィロンの寓意的な聖書解釈は、それまでのユダヤ教の聖書解釈に比べて独特である。しかし、そういう聖書解釈の方法を彼が用いたのは、聖書を広く異邦の諸民族に証しするための単なる方便からだと考えるなら、それは誤りであろう。その独特の聖書解釈は、フィロンの宗教哲学の本質から出ていると見るべきである。フィロンの思想は、ヘレニズム的、すなわちギリシア的な要素を多分に含むと言われるが、今見たように、彼の宗教哲学は、ヘブライの伝統的な宗教性に深く根ざしている。
 では、ギリシア哲学と彼との違いはどこにあるのだろうか。まず第一に、彼は、真理がすでに〔旧約〕聖書に啓示されていると見ている点である。「異邦の民」が捜し求めてきた真理は、すでに聖書に啓示されている。真理、すなわち神の本質は、人間の側からはこれを知ることができない。真理は、どこまでも神の側が、人間に向かって言葉を通じて語りかけることによって認識される。それは、神が、人間とかかわりを求めようとする神の側からの働きかけであり、その結果が、人間への神の顕現である。しかも、その顕現は、聖書という神の言葉を通じることで初めて人間に啓示される。ギリシア的な思想とフィロンとの決定的な違いがこれである。
 もう一つの違いは、すでに述べたように、人間は、どこまで行っても神に最終的には到達することができないことである。この点は、ギリシア思想、あるいはヘレニズムの宗教哲学とは本質的に異なると言えよう。例えば、ストア哲学では、人間が宇宙に内在するロゴス(言葉・理性)を認識して、これに達することが可能である。言うまでもなく、それは選ばれた少数の人たちであろうが、少なくとも人間の側からそのロゴスに到達して、これを把握するのは不可能ではない。こうして、人間は、努力によって、「完全な」存在となることができるのである。ヘレニズムの秘義的な宗教では、例えばミトラ教のように、選ばれた人間は、神の奥義(ミュステーリオン)にあずかり、そうすることで「至福のヴィジョン(エクスタシー)に到達する」、すなわち神の秘義を己のものとすることができ、こうして神との合一を果たすことで「目的に到達する」ことができる。ところが、先に見たように、フィロンの場合は、人間が神に近づこうとしても、神はその「はるかかなた」にいる。この点がヘレニズム宗教やギリシア哲学とフィロンとの違いである。
フィロンのヘレニズム性
  では、フィロンがヘレニズム的であるといわれるはなぜなのだろう。今度は、逆にこの点に注意してみよう。先に引用したように、「神の言葉(ロゴス)が宇宙を秩序づけるのは、神によって思念された〔イディアの〕宇宙によるよりほかの根拠はない」とフィロンは言う。ここでは、「神の言葉」が「神の思念」すなわち「神のイディア」によって根拠づけられている。「イディア」は、言うまでもなくプラトン哲学の重要な概念であって、端的に言うなら、人間がその感覚で認識できるあらゆる事物の根源には、これらのもろもろの事物を成り立たせる形相、すなわち「かたち」「原型」とでも言うべきものが存在している。これらは、肉体的な感覚では認知することができないが、魂の純粋な観想を通じて、これを認識することができる。したがって、「イディア」は、肉眼で見る感覚世界を超越した純粋な思念の中にのみその存在が認められる。
 プラトンの思想は、現代では、いわゆる「観念論」として、非現実的な思想の代名詞のように扱われることが多いが、本来のプラトンの思想はそのようなものではないであろう。直接プラトンの言葉を『パイドロス』(249, B. C. D)から聞いてみよう。

 プラトンはここで、人間が真の意味での「知」に到達するためには、「雑多な感覚」から出発して純粋な思考によって「単一なるもの」へと進まなければならないと述べている。このような真の意味の「知を愛する人・哲人」は、少数ではあるが、「完全な秘義にあずかる」ことができ、「完全な人間」となることができるとプラトンは言う。このように彼の「イディア」論は、知的・理念的な要素が強く、それだけに聖書に啓示された人格的な神、すなわち「神格・ペルソナ」としての神概念とは異なっている。しかも、ギリシア語の「ロゴス」には、言葉の奥にある「思念・理念」を意味すると同時に、「語られ発せられた言葉」をも意味することに注意する必要があろう。フィロンはこのギリシア語の二重性を十分に心得ている。フィロンの神は、プラトン的な理知性と同時に人間に向かって「言葉を出して語りかける神」という独特の面を持つからである。だから、フィロンの神が理知的であることのみに目を向けると、一面的な断定に陥ることになろう。わたしの見るところでは、フィロンは、本質的には哲学者であって神学者ではない。したがって、彼の神観がギリシア的な理知性を強く有していると見るのは誤りではない。ちなみに、この点が、フィロンが、当時のアレクサンドリアの一般のユダヤ教をどこまで代弁していたかを考えるときに問題とされるのである。だが、このことが、後で述べるように、彼の信仰が理神論的であると断定する根拠にはならない。
 フィロンのヘレニズム性として指摘されるもう一つの点は、彼が、世界を感覚界と英知界とに二分していることである。この点を彼の『モーセの生涯について』(U,127)から見ることにしよう。

  このようないわゆるギリシア的二元論は、フィロンの寓意的な聖書解釈と深くかかわっているが、今はその点に触れない。ただ、この二元的な世界は、彼の信仰の歩みとも深くかかわっているのに注意してほしい。信仰の「歩み」と言ったのは、彼が、真理の神を尋ね求める道程をこの感覚界から英知界への魂の巡礼としてとらえているからである。このような観点は、彼の『アブラハムについて』において、アブラハムの生涯を貫くフィロンの一貫した視点となっている。感覚の世界を抜け出して、真の実在である「在りて在る方」を求めるところにフィロンの歩みの心髄がある。言うまでもないが、旧約聖書の伝統には、このような二元的な視野は薄い。光と闇、神と悪霊のような二元論を旧約に見いだそうとすれば不可能ではないかもしれないが、究極においては、これらは主なる神によって造られ、したがって、神に支配されているのである。
ロゴスとソフィア
 先の引用で見たように、フィロンには、「ロゴスの二重性」がある。彼は『モーセの生涯について』の中で言う。「ロゴスには二重性がある。外に向かう発言であり内に向かう思念である。」(Philo VI,37)この二重性は、宇宙論的に言えば、見えない超越の英知界に宿るロゴスと、人間が見ることのできる具体的な感覚界に宿るロゴスとして二重に認識される。わたしたちは、ここに見るロゴスの二重性にこそ、フィロンのロゴスとソフィアとの関係を探る手がかりを見つけることができると思う。フィロンにとっては、ロゴス(言葉)とソフィア(知恵)は実質的に区別されない。『逃亡と発見』で彼は言う。「〔神の力は〕早く走ることのできる人には、息もつかせずまっすぐ至高の神的な言葉(ロゴス)のもとへ、すなわち知恵(ソフィア)の泉へと急がせる。彼がその泉から汲んで、死から解き放たれて、報いとして永遠の命を得るためである。」(Philo X,62〜63)。これで分かるとおり、彼はソフィアの存在を認めてはいる。しかし、彼女は、ロゴスとほとんど同じ意味に用いられているのである。
  その一方で、初めに引用した『寓意的解釈』(Philo I,188〜89)では、神のソフィアはエデンの園にたとえられていて、そこから流れ出て命を生み出す河は神のロゴスである。ここでは、ソフィアはロゴスを流出させる根源となっている。けれども、これは必ずしもフィロンの女性的な知恵に対する高い評価を意味してはいない。彼は、女性的な考え方が感覚界に属するとみている。アダムとエヴァとが罪を犯した後に、神がアダムに呼びかける創世記の解釈で、フィロンは、アダムを人間の心にたとえて次のように言う(『寓意的解釈』3巻)。
  なぜエヴァは非難を受けないのか。それは、彼女がアダムに、すなわち心の働きであるロゴスに含まれているからである。それでは、フィロンのソフィアとロゴスはどのように関連づけられるのだろう。フィロンは「それはエヴァが身を隠したから」だと説明する。これは、フィロンのソフィア観を知る上で重要である。ソフィアはロゴスと必ずしも一体ではない。またソフィアはロゴスと対等でもない。彼女はロゴスの陰に「隠れて」いるのである。ところが、エデンの園では、ソフィアはロゴスの流れの「源」である。しかも、そのロゴスは、「外に現れるロゴス」と「内に向かうロゴス」という二重性を帯びている。このことから、フィロンにあっては、「隠れたソフィア」とは、実は「内なるロゴス」と同じ、あるいは内なるロゴスの根源となっているのが示唆されてくる。彼の言う「ロゴスの思念性」の奥には、実はソフィアが潜んでいる。しかも、この「内なるロゴス」が、英知界を意味するとすれば、ソフィアは、英知界の奥に潜み、英知のロゴスを成り立たせる働きをしていると見ることができるであろう。
 だが他方では、女性的なものが感覚界に属しているというのがフィロンの考え方である。感覚界は、そこから人間が離脱すべき物質的な「悪」の世界であることを思えば、フィロンの女性観は必ずしも肯定的であるとは言えない。わたしたちはここに、一方では女性的な知恵が、ソフィアとして、英知界の最も奥に潜み、他方では、女性の感覚的・肉体的な存在が感覚界を現すものとして否定的にとらえられているのを見る。すなわち、古代の神話にもしばしば現れたように、女性的なものは、ここでも、上と下とに分離・分裂されるのである。一方には、清純なソフィアが高く崇められ、他方では、悪の感覚界が女性を現すものとして低い次元を占める、という二重構造をここにも見ることができよう。
フィロンにおける女性的なもの
  ギリシア哲学、特にプラトンと結びついたフィロンの宗教哲学は、キリスト教に大きな影響を与えることになる。フィロンで形成された英知のソフィアが、やがてマリア崇拝としてヨーロッパ中世のキリスト教で大きな位置を占めるようになるからである。フィロンにあっては、ソフィアは、より高次な存在として、ロゴスの「陰に隠れる」。このことは、女性的なものを積極的、肯定的に評価することと必ずしも同一ではない。このような形で、すなわち女性的なものに制限を加えつつも、他方ではこれを「祭り上げる」という分裂は、ヨーロッパの12世紀では、宮廷風恋愛(courtly love)という独特の女性崇拝を生み出すことになる。現代のイギリスやアメリカの女性たちが克服しようと闘っている「差別」が、アジアの状況といくらか異なるのは、こういう歴史的な背景があるからであろう。ちなみに、アジアでは、このような形の「差別」は、「母性崇拝」という形をとっていると言えるかもしれない。
 フィロンのソフィアに戻ることにしよう。わたしたちは、フィロンでは、本来英知界にあってソフィアと呼ばれるべき存在が、ロゴスという男性名詞で置き換えられているのを知った。この点について彼は言う。

 「第二の地位」が女性であると言うのは、単一なもの〔数字の1を含めて〕は男性であり、それから分かれたもの〔数字の2〕は女性を現すという、当時の数秘学の考え方が背後にある。ともあれ、本来はソフィアであり、したがって、女性的なものを含む知恵が、フィロンにあっては男性名詞で置き換えられている。わたしたちは、ここにソフィアからロゴスへの転換の過程を見ることができる。
  このことは、ソフィアの内実それ自体が男性化されたことを意味するのだろうか? そうではないであろう。フィロンにあっては、ロゴスは、二重性を帯びて規定されている。だから、ロゴスの裏面では、ソフィアがいぜんとしてその実体を失ってはいない。ただ、ソフィアは、その実体を隠し、このためにその働きが狭められているのは否定することができない。「ソフィアの流れで満たされた神的なロゴスが、ソフィアの代表とされている」(Philo V,62〜63)のである。
 わたしたちは、シラ書で、知恵が律法と一体化され、その過程の中で、ソフィアの働きが狭められるのを見た。しかし、フィロンではこのような知恵と律法との一体化は認められない。むしろ、ここでは、プラトン的な二元論が、ロゴスの二重性という形を取ることで、ソフィアの働きを弱めているのである。しかし、シラ書とフィロンとの対比と同時に、わたしたちはここで、フィロンが知恵の書とほぼ同時代人であることを思い出さなければならない。当時、アレクサンドリアのみでなく、ヘレニズム世界に広くイシス崇拝がさまざまな宗教的要素を取り込みながら広がっていた。知恵の書もフィロンも、アレクサンドリアにあって、このイシス崇拝の影響を強く意識している。しかし、その影響のされ方は、両者の間ではまったく異なる。
 知恵の書においては、イシス崇拝は、積極的にソフィア崇拝に取り込まれて、そうすることで、ソフィアはほとんどヤハウェと同一視されるまでになった。ただし、このことは、ヤハウェとイシス崇拝との混淆が行われたことを意味するのではない。むしろ、知恵の書では、このような過程を経ることによって、イシス崇拝をも含む偶像礼拝を逆に厳しく糾弾することが可能になったのである(知恵の書13・10以下)。
 ところがフィロンにおいては、英知界のソフィアは、神の名によって、男性名詞であるロゴスに置き換えられ、こうすることによって、イシス崇拝の影響が排除されているのである。ひょっとすると、スコットの言うように、「知恵の書によって到達したソフィアの高い位置を見て、イシス女神のような〔ソフィア〕の姿に、フィロンは、家父長的なヤハウェ宗教の男性的一神教が侵されるのではないかとひどい恐怖を覚えた」のかもしれない。そうだとすると、不思議なことに、フィロンにおいては、知恵の書に現れるようなエジプトの偶像礼拝に対する激しい攻撃は、少なくとも生の姿では現れない。また、イシス女神を厳しく否定する論述も出てこない。むしろ、「この崇高な天界のソフィアには多くの〔いろいろな〕呼び名がある」(Philo I,174〜75)ことになる。地上に現れるさまざまな神々の姿は、天上にあるソフィアの原型の写しにすぎない。こうフィロンは考えているようである。彼女は、天にあってロゴスの源でもある。「モーセの父は神で、彼は万物の父であり、モーセの母は知恵で、彼女を通じて宇宙が存在するにいたったのである。」(Philo V,68〜69)
フィロンの神認識
 フィロンは、彼独特のプラトニズムによって、人間には認識することの許されない神を人間が知るとはどういうことかを考える。人は神をそれ自体として知ることはできない。ただ、神の側から人間に己を顕現するときにのみ、その恩寵を通じて、すなわち、神の働きを通じて神の存在とその属性とを知ることができるにすぎない。単一の純粋である神が、こうして多様な姿を取って人間に現れる。しかし、人間には、感覚的に認知できる世界と、観想によって感覚の世界の奥に潜む英知の世界を知ることとの双通りの知り方がある。宇宙の原理として、わたしたちが認識できる世界は、ロゴスの世界である。神はこの宇宙をロゴスによって秩序づけておられるからである。しかし、そのロゴスの現れの奥にはもう一つのロゴスの源流がある。それが知恵なるソフィアである。ロゴスは外に現れ、人間の理性によって認識することができる。しかし、その奥に潜むソフィアは、観想によってのみ察知することができる。その際に、ソフィアは、ロゴスよりもさらに高次の知恵を体現する。
 このようにして、知恵の書に表されたソフィアとロゴスとの一体化は、フィロンでは、ロゴスの優越性に取って替わられる。しかし、ここでのロゴスの優越性とは、シラ書の場合のように、律法によってソフィアの女性的性格を限定するのではない。フィロンでは、ロゴスの優越性は、哲学的な探求、特にプラトン的なイディア論から生じている。フィロンでは、ソフィアは、いわばその表現であるロゴスの陰に身を隠す。フィロンが「ロゴス」を実質的な「ロゴス=ソフィア」の意味をこめて用いるのはこのためである。女性名詞のソフィアが、男性名詞のロゴスに置き替えられていく過程をわたしたちはここに見ることができるであろう。
 フィロンのプラトニズムは、しかし、同時にきわめてヘブライ的な性格を合わせ持つ。彼の哲学の根底には、先に述べたとおり、人間が決して近づくことのできない絶対存在としての神がある。その神からの人間に対する顕れ、すなわち神の側から人へ語りかける言葉によって、初めて人間は、神をその働きとして知りえる。そこには、先ず、神が人間とかかわりを持とうとする神の側の好意が、人間に与えられる言葉となって働かなければならない。こうして、フィロンにあっては、知恵と知識を求める行為が信仰と結びつくことになる。人間には、神からのロゴスによって、神への道を求めることが最も重要な営みとして要求されてくる。それは、人間のなしえる最高の営為だからである。こうして、フィロンの場合は、哲学する事と信仰への道をたどることとが一つになる。
 この信知の歩みにも、その究極において、フィロン独特の神秘主義が現れる。人間は、神の側からの語りかけに応じて、真の神を知る道を歩み始める。ところがそのような人間の営為が、さらにもう一歩押し進められて、人間が、神を探求し、神を知る真の知へと到達しようとする努力それ自体へとその意味を転じるのである。人間にとって、神は究極の秘義である。そして、その秘義それ自体をどこまでも飽くことなく求めることこそが、人間に許される最高の営為となる。フィロンに言わせるとそれは「どこまで求めても際限のない」道である。それは、目的地それ自体さえも定かでない暗闇への旅立ちである。フィロンは、たとえその試みが到達にいたらなくても、そのようにして、神の秘義を求めて無限の努力をするそのこと自体の内に、人間が人間として真理と善とを求める生き方があると考える。このような考え方は、ギリシア的な思想、例えばストアのそれと似ているように見えるかもしれない。しかし、フィロンとストアとの違いは、ストアでは、そのような探求の結果として、人間は絶対の知へと到達できること、すなわち、完全な知へ到達した人になりえることである。フィロンの場合はそうではない。どこまでも行っても到達不可能な神を求めての旅それ自体に彼の宗教哲学は意味を見いだす。
 このようなフィロンの神秘思想は、言うまでもなく、彼自身の神秘体験、知の秘義に与ろうとする体験から生じている。そこにはなんらかの、エクスタシー体験が伴うはずである。しかし、この場合でも、エクスタシーは、いわゆるギリシア的なそれではない。「エクスタシー」とは、文字どおりに、「自分の外に出る」ことである。己の魂が真の知を求めて、己自身の外へと離脱することによって、神との神秘的な合一にいたるのが、ギリシア的なエクスタシーの構図であるとすれば、フィロンのそれは、これとは異なっている。なぜなら、彼には、己の魂が、神との合一に到達するという目的は、どこまでも目的それ自体に留まるのであって、それが達成されることはありえないからである。したがって、そのようなエクスタシーでは、己の魂が、己の外に離脱して神との合一を果たすことはありえない。どこまでも、己自身の内面において、絶えず努力すること、その努力を支える神のロゴスの働きを信じることによってそれは成り立つ。そこに開かれるエクスタシーは、それゆえに理性によって、己自身の内に「目覚めた」エクスタシーである。決して、忘我のそれではない。したがって、フィロンの知は、決して宇宙論的ではない。宇宙に内在するロゴスとの合体を求める境地は、少なくとも彼にとっては、第一義的な追求ではない。フィロンの知性が、後のグノーシスのそれと異なるのは、まさにこの点である。
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