第11講 イエスの先駆者たち
エッセネとテラペウタイ
  アレクサンドリアのフィロンは、パレスチナのエッセネと呼ばれる人たちを紹介して次のように述べている。「エッセネ」は「聖・敬虔」を意味し、彼らは俗化した生活を避けて地方の村々に住み、個人として金銭も土地も所有せず共有の財産で生活している。剣や盾などの武器はいっさいつくらず、神の存在と宇宙の創造だけを原理として倫理的にきわめて高い生活を送り、「神の霊感なしでは人間の魂に宿らなかったであろう律法」によって訓練されている(Quod Omnis.12)。フィロンはさらに、エッセネの人たちとは別に、エジプトに住んでいるテラペウタイと呼ばれる人たちについても紹介している(De Vita Contem.21)。彼らはアレクサンドリア近くの心地よい場所で分散した家々に彼らだけで生活している。それぞれの家には聖なる小部屋があり、そこで聖なる秘義へ導き入れられる栄光に満ちた真理を語り、夜明けと日没に2度祈る。
 フィロンは、エッセネ派がパレスチナの多くの町や村に住んでいること、またテラペウタイも、エジプトだけでなくギリシアやその他の地方にもいたと伝えている。テラペウタイが、パレスチナのエッセネと共通する点が多いことから、さまざまな形態のユダヤ人共同体が、パレスチナから小アジア地方、さらにマケドニアとギリシアとエジプトの広い範囲にいたことが分かる。このような「ヘレニズム・ユダヤ教」共同体が、ユダヤ教としてのゆるやかな統一を保ちつつ散在していて、その周辺には、これもまた多様なヘレニズム諸宗教が存在していた様子を私たちは思い描くことができる。これまでの歴史観は、ユダヤを含むパレスチナ地方をいわゆる「オリエント」(中近東)と見なして、これをギリシア・ローマ文化圏と対照させてきた。しかし最近では、エジプトとパレスチナから小アジアとギリシアを含む東地中海一帯が、一つの文化圏を形成していたと考えられるようになった。
   さらにパレスチナ内部のユダヤ教に目を転じると、サドカイ派、ファリサイ派、ヘロデ王の保護を受けているヘロデ派(マルコ3・6)、エッセネ派、エッセネ派に近いナゾレ人たち(現在のマンダ教徒の源流と言われる)、さらに武力でローマからの独立を勝ち取ろうとするゼロータイ(熱心党)などがあった。
クムラン宗団
 エッセネは昔からその存在が知られていたが、あまり資料がなく詳しい実体は謎のままであった。1947年に死海北西の沿岸近くでベドウィンの羊飼いが偶然文書を見つけた。これを契機に1951年から58年にかけて、ヒルベルト・クムランとその南に、建築群と周辺に洞穴が5つほど発見され、洞窟の中から多くの写本が発見された。これらは「死海文書」と呼ばれ、この文書群を通じて当時のユダヤとエッセネの思想をかなり正確に知ることができるようになった。
 マカバイ戦争(前2世紀半ば)によって再び独立を得た後、ユダヤを支配したハスモン家は、大祭司の職を掌握した。ダビデ以来の大祭司ツァドクの家系を支持する人たちは、これに反対して「義の教師」と呼ばれる人を指導者に創設したのがクムラン宗団の始まりとされている。クムランの遺跡が使用されていた時期は大きく三期に分けられるが、その最後の時期は、ヘロデ・アルケラオスの治世(前4年〜前1年)からユダヤ戦争でローマ軍によって占拠される(後68年)までである。それ以後この宗団は姿を消している。この時期は、ちょうどイエスの誕生(前4年?)から、洗礼者ヨハネの宣教、イエスの受難、原初キリスト教の成立、福音書の伝承資料の成立期と重なる(マルコ福音書の編集が後70年前後)。
 クムランでは、多い時には300人ほどの人が修道生活をしていたと見られる。この宗団の人たちは、エルサレムでおこなわれている祭儀とその律法解釈、とりわけ大祭司一族を中心とする祭司貴族たちの贅沢な暮らしぶりに強い反感を抱いていた。とりわけ神殿で捧げられる動物の犠牲は、それが血による罪の贖いというユダヤ教の中心的な祭儀に関わるだけに、霊的な祭儀を重視するクムラン宗団にとってはとうてい容認できるものではなかった。クムラン宗団は、動物の犠牲よりも祈りと礼拝による霊的な犠牲こそ重視すべきだと信じていたからである。彼らの目には、エルサレムの宗教は、地上の権力(ローマ帝国)と妥協した偶像礼拝と変わるところがなかった。いかに祭儀を重視していたかは、クムランの暦が、エルサレムとは別個の暦であったことからも想像できる。それは、太陽暦と太陰暦とを組み合わせて、祝祭日が必ず一定の日に来るように工夫されていた。クムランの人たちから見れば、エルサレムを待ち受けているのは滅び以外になく、それは神からすでに捨てられた「古い」エルサレムであり、その契約も「古い」契約であった。彼らの暦はそれゆえに、滅びが近づく終末に向けて「新しい」契約に入るための暦であった。この「永遠なる共同体の契約」(『宗規要覧』3)に入ろうとする者は、そのために水の洗礼を受けなければならなかった。
清めの水と聖宴
  洗礼の水は、悔い改めによって罪を贖われた者が、聖化する霊によってきよめられたことを現わすものであり(『宗規要覧』3)、「きよめ」はいくつもの段階を経て繰り返しおこなわれた。そこには一定の段階に到達した者による位階制度があったようで、上に立つ「知恵の人」は、「光の子ら」にあらゆる種類の「霊」について、また「天の子らの知恵による完全な道」について教えなければならないとされた(『宗規要覧』4)。洗礼を受けて新しい契約に入る者には律法を徹底して厳守することが求められ、このため異教徒はユダヤ教徒に改宗することが求められた。クムラン宗団では、日常の食事も聖なる行事として重要であり、パンと葡萄酒は、一人の大祭司の手によって、選ばれた正式の会員にのみ許された。それは、終末にメシアによって開かれる聖なる宴会の予型として、メシアの来臨を希望するものであった。
クムランのメシア
  クムランの「メシア」は本来の「ヤハウェに油注がれた者」を意味する。これは必ずしも一人とは限らない。メシアは、預言者・祭司・王(戦士や世俗の権力者も含む)というイスラエルの伝統的な支配構造に対応していて、モーセのような預言者とアロン的メシアと「イスラエルのメシア」(ダビデ的メシア)の3人が想定されていた。終末には、キッティーム(ローマ軍団のこと)との戦いがおこなわれ、ヤハウェに油注がれた者こそこの聖戦に勝利することができた。その時「イスラエルは永遠の王国となる」(『戦いの書』19)のである。クムランのメシアは、祭司性と預言者的霊性を受け継いでいるが、この祭司性が、人間と神とを結ぶ仲保・執り成しの役割と密接に関連しているのが注目される。特にクムランのメシアで注目すべきは、ヤーウェが、油注ぎによってメシアを「生む」という点であろう(『会衆規定』2)。「メシアを生む」は「神が、彼らとともにメシアを導かれる」とも訳されているが、「導かれる」は「生む」と読むほうが正しいであろう(英訳は "God begets")。これは神が、クムラン宗団の会議に臨在させるために「メシアを生まれさせる」ことを意味する。先の『会衆規定』の引用では、メシアを産むのが母ではなく、父(なる神)がその主語となっている点に注意しなければならない。「神が生む」というのは、本来旧約の神にはなじまない考え方である。ところがこの表現は、神の「ホクマ・知恵」(ギリシア語でソフィア)についてはしばしば用いられている(箴言8・22〜25)。この意味で、イエスについても「お前はわたしの子、今日、わたしはお前を生んだ」(詩編2・7)と証しされている(使徒13・33)ことが注目される。
キリスト教のメシアへ
 キリスト教では、クムランの3人のメシア像は、イエス・キリストという一人のペルソナ(位格)となって、祭司・王・預言者の属性を兼ね具えている。イエスは「永遠の大祭司」であり、「ダビデの子」であり、モーセによって預言された預言者でもある。このメシア像は、クムランの複数のメシア像が統合されることで可能になったと思われ、さらに「人の子」という称号と結びつくことで原初教会に受け継がれていった。しかし、このような統合が成立するまでには、イエスの弟子たちの間で少なからぬ混乱と緊張があったようである。問題のひとつは、メシアが、神の正義を実現する王なのか、それとも罪の赦しと贖いによって人類を救う祭司なのかにあったと思われる。ヨハネ黙示録(5・8)に現われる小羊は、そのすぐ前では「ユダ族から出たライオン」(5節)である。ところがこれが次の瞬間「ほふられたような小羊」(6節)に変わる。この転換には、ヨハネ黙示録の終末のメシア像を解く鍵が潜んでいるのではないか。ヨハネ黙示録で小羊の婚宴に招かれる民がまとう「白い麻の衣」は、クムランでは聖戦において戦士のまとう「戦いの衣」(『戦いの書』7)である。クムラン宗団では、終末の聖戦に備えるために童貞が重んじられ、これが「きよめ」と関わっていた。ヨハネ黙示録(14・4)の「童貞の者たち」と「女に触れて身を汚す」という言い方は、このような聖戦の戦士とつながりがあるのかもしれない。
クムランの律法解釈
 クムランの律法解釈は、ファリサイ派のそれに対して「祭司的律法主義」とでも言うべきもので、モーセ律法の一つをも犯すことが許されない「完全な道」がクムランの律法解釈のキーワードである。「あなた方の義が、律法学者やファリサイ派の人々の義にまさっていなければ、決して天国に入ることができない」(マタイ5・20)というイエスの言葉は、字義どおりにこの宗団の基本精神に合致する。それは、彼らが常人を超える霊的な高さを歩むためであり、このような高さを根拠づけるのは「聖化する霊による徹底したきよめ」であった。だから彼らの律法解釈は、聖なる霊による「きよめ」の教義と不可分である。それは外部の者からは完全に隠されている神の秘義を求めるためであり、これに到達するための律法研究は、その「時に応じて」啓示される。「今あることも今後あることもすべて神の知恵から出ていて、神は万事をそのご計画通りに実行される」(『宗規要覧』)からである。こうしてあらゆる出来事が、聖なる霊による直接の啓示によって律法の言葉と対応させられる。したがって彼らの律法解釈は字義的な釈義ではない。彼らは、終末に至るまでの各々の「時」を律法と神の霊による直接の啓示によって知ることを求めたのである。
洗礼者ヨハネ
 洗礼者ヨハネは、下級祭司の出であったと推定される(ルカ1章)。当時の祭司は、エルサレム神殿を中心とする貴族的祭司階級と地方の農村に住む下層の祭司階級とに分かれていて、その構図は、当時のパレスチナの支配と被支配層との関係を反映していた。クムラン宗団と洗礼者ヨハネとのつながりを直接に証明する資料が存在するわけではない。にもかかわらず、彼がクムラン宗団と関係があると推定されているのは、エルサレム神殿の祭司やファリサイ派に対立する彼の姿勢がクムランのそれと重なるだけでなく、彼の宣べ伝える洗礼が、クムランのそれにつながるからである。
水と火と聖霊
 洗礼者は自分の洗礼を「水の」洗礼と呼び、来たるべき方が「聖霊で」バプテスマすると告げた(マルコ1・8)。ところがマタイとルカでは、ここが「聖霊と火で」(マタイ3・11)となっている。マタイとルカはマルコにはないQ資料を用いているから、「聖霊と火で」はQ資料から来ている。しかし「聖霊」という言い方は当時のユダヤ教には見られない。「主の霊」あるいは「霊」が普通であり、ごく希に「聖化する霊」の意味で「聖なる霊」という言い方が見られる。「聖霊」はキリスト教会によって初めて用いられるようになったのかもしれない。「火」は裁きの預言者としての洗礼者本来の言葉であり、「聖霊」はイエスを指すとも考えられる。ただし洗礼者の実際の言葉が「霊と火で」であった可能性がある(荒井献『イエスとその時代』)。本来が「霊と火で」であったとすれば、「霊」から「聖霊」への移行は容易であろう。洗礼者がエリヤであるという伝承は(ルカ1・17)、洗礼者宗団にまで遡ると見られる。エリヤは祭壇を先ず水で浸し、その後で祭壇に「主の火」が降るのを祈り求めた。この「火」は「裁き」というより「主の臨在」を意味するから(士師記6・21)、洗礼者の「火と霊」もこれに近いものではなかったかと考えられる。
悔い改めと罪の赦し
  洗礼者は「罪の赦しを得させるために悔い改めの洗礼」(マルコ1・4)を伝えたとある。新共同訳では、「悔い改めの洗礼」とあって、洗礼は直接に「罪の赦し」と結びついていない。しかし「罪の赦しを得させる」が、「悔い改め」にかかるのか「洗礼」にかかるのか原文は必ずしも明白でない。はたして洗礼者は「罪の赦しを得させる」洗礼を宣べ伝えたのだろうか? 私はその可能性があると考える。ただし洗礼者の洗礼について、ヨセフスは「人々は、犯したどんな罪をも赦してもらおうとして洗礼を受けるのではなく、正しいおこないによって魂が完全にきよめられたことに基づいて、体を聖別するために(洗礼を)受けなければならないのであった」と述べていて、この洗礼解釈はクムラン宗団のそれとぴったり重なる。クムラン宗団と洗礼者では、悔い改め→罪の赦し→内面の聖化→洗礼→体のきよめ、という一連の段階を想定することができるだろう。神は人間を義なる者と悪しき者とに分け、正しい者たちは、きよめからきよめへと聖化され、悪しき者たちは、呪いから呪いへと断罪されていく。クムランの洗礼が繰り返しおこなわれたのは、このことと無関係ではない。ただし、通常の日常生活では到達できないほどの潔癖さを求める宗団であったが、家庭を持ち普通の生活を営むエッセネの人たちも多数(3千人ほど?)いたと思われる。
クムランと洗礼者との違い
  洗礼者とクムラン宗団との間には幾つかの重要な違いがある。第一に、洗礼者の授ける洗礼は1回限りのものであって、しかも宗団の名前によるのではなく、彼ひとりがこれの授与者である。
 第二に、彼は受洗者たちに宗団的な規律あるいは規則を与えた様子がないことである。福音書には、洗礼者の弟子たちが祈り(ルカ11・1)や断食をしたことが出ているが(ルカ5・33)、それらは洗礼者宗団の中で定型化されたもので、洗礼者自身がこれを制定したとは考え難い。彼は、自分のもとに集まる人たちを他宗団や世俗の人たちから分離しようとしなかったようである。
 第三に、クムラン宗団は加入者に一定の条件を課したが、洗礼者はこのような制限を一切もうけなかった。彼のもとには、庶民や下層の人たちだけでなく、一定の知識階級の人たちもその呼びかけに応じた可能性が大きく、彼の周りには「社会を変革できる立場にいる人たち」が相当数いたと考えられる。洗礼者は、クムラン宗団のように、「アブラハムの末」が「悪の霊」によって終末の滅びに定められているとは考えなかった。彼は差し迫った終末の裁きを前にして、なお悔い改めによる「罪の赦し」があることを、クムランが拒否していたまさにその人たちに向かって宣べ伝えたのである。彼は「神の秘義」を説く代わりに、それぞれの身分や職業に応じて、「悔い改めにふさわしい実を結ぶ」ように説いた。この意味で彼のメッセージは、社会の体制を変革しようとする意図を含んでいたと言えよう。そうであればこそヘロデは、民衆が彼を指導者として暴動を起こすことを恐れたのであろう。
 第四に、クムランでは、モーセ律法に従って悔い改め主の霊によってきよめられることが、水による洗いの前提とされた。ところが洗礼者は、「きよめ」をこのようには見なかった。彼の目には、「きよい者」も「きよくない者」も一様に神の裁きに直面している姿が見えていた。彼はこの視点からクムランの二分法を乗り越えたのである。彼が見ていたのは、クムランの人たちもユダヤもサマリアもガリラヤの人たちも一般の人たちも、皆一様に終末の裁きのもとにある姿ではなかっただろうか。
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