第12講 知恵の子イエス
ガリラヤ
「異邦人のガリラヤ」(イザヤ8・23)と呼ばれたこの地方は、イエスの時代、東地中海圏のパレスチナにおける交易路の要所であって、多数のユダヤ人が居住していた。ガリラヤは文字通り「諸民族」(「異邦人」の原語)の交流の場となり、ローマ帝国によるヘレニズム化も積極的に押し進められた。この地方はエルサレムとは対照的な文化的風土を具えていて、ここがイエスの出身地であった。当時のユダヤでは賢者が手に職をつけるのは当然のこととされていたから、イエスが「無学な」大工であったと考えるのは誤りである。大工はむしろ賢者にふさわしい職業と見なされた。以下は、この「知恵の子イエス」への序説である。
イエスの洗礼
イエスが洗礼者ヨハネから受洗したことは、その活動を預言者の伝統へと決定づける大事な出来事であった。イエス自身もその弟子たちも、一度は洗礼者ヨハネの指導を受けていた形跡がある。イエスは洗礼者の教えから出発したが、やがてはっきりと独自の道を歩み始める。彼は、洗礼者が教えた人たちよりも、さらに低い階層の「貧しい人たち」へ向かった。その結果イエスに注がれた神の霊は、洗礼者の終末的で黙示的な審判よりも、病の癒しとたとえ話、共に食事し祈ることを通じて、今この時に神の国を現臨させる働きとなった。洗礼者が終末に見たメシアの支配をイエスは現在において、人々の目の前で「開始した」のである。 福音書は、イエスの洗礼にあたり、聖霊の鳩が風のように(と私は解釈する)降る様子を描いている。古来「知恵」は鳥で表象されることが多い。
マルコがイエスの洗礼を描く際に用いた「天が裂けて」(1・10)という表現は、神の御霊が直接に地上を支配するために降ったことを意味する。ここはおそらく第三イザヤ(63・19)を踏まえているのであろう。第三イザヤは、捕囚から帰還した後のイスラエルに、もはや地上の王がいないのを知って、神が直接イスラエルの民を支配するように祈り求めた。イエスが聞いた天来の言葉(マルコ1・11)、「あなたはわたしの愛する子」は、本来イスラエルの王への呼びかけである(詩編2・7)。しかし、ここでは同時に、「知恵の子」への父からの呼びかけともなっている(知恵の書2・16)。天よりの声の後半に「わたしの心に適う者」とあるのは、第二イザヤ(42・1〜7)を踏まえている。この句は、第二イザヤでは、42章2節の「叫ばず、呼ばわらない」につながっていて、これが、逆境の中にいる知恵の人の特徴であることに注意してほしい。第二イザヤは捕囚期の預言者であるが、知恵思想の影響を受けていたと考えられる(VanSeters The Life of Moses.)。イザヤが預言したのは、主の御霊が「主の僕」に宿り、イスラエルを解放することであった(マタイ12・18〜20)。イザヤのこの預言は、メシアの受難を預言する「受難の僕」(イザヤ53章)へとつながっているから、イエスは、自分の洗礼がエルサレムでの十字架へと直結しているのを自覚したに違いない。
イエスの時代、天の声を聞く体験はそれほど奇異なことではなかった。しかしイエスの聖霊体験の特徴は、当時のユダヤ教徒の一般的な主なる神との関わりとは異なり、純粋で直截な父との「交わり」にあった。イエスは、父と自分との交わりをイスラエル一般の人と神との関係から区別していたようである。このためイエスは、神を「わたしの父」と呼んだ(マタイ11・25〜27)。それはきわめて個人的な「神御自身の宿り」と言うべきものであって、この信仰の背後には、神からの「知恵の霊」が宿るというイスラエルの知恵の伝統があると見なければならない(シラ書24・8)。このような純粋体験において初めて、イエスは自分を「神の子」として自覚したのであろう(マタイ27・43/知恵の書2・18)。彼が実際にこの称号を用いたかどうか確かではないが、イエスが自分のことをまさにこの意味で「神の子」と呼んだとしても私はおかしくはないと思う。またイエスは、自分を間接的に指す場合に「人の子」(本来これは称号ではない)を用いたと思われるが、このように自分を指す用語と「神の子」としての自覚を抱くこととは、なんら矛盾しないであろう。洗礼に続く荒れ野の誘惑は、イエスと父とのこの「交わり」を断とうとするサタンの悪巧みにほかならない。イエスが、罪を犯さなかった「アダム」であるというのは(第一コリント15・45)、まさにこの意味である。「神の子」と「人の子」、このふたつの称号は、終末に顕現する「メシア」と相伴って用いられ、後にイエスの復活を経験した原初キリスト教会において、「神の子」は救い主を意味する称号へ、「人の子」は黙示的な審判者へと高められることになった。
知恵の正しさ
マタイ福音書(11・2〜19)とルカ福音書(7・18〜35)には、洗礼者ヨハネからイエスへの問いかけが語られている。洗礼者から遣わされた人が、イエスに「来たるべき者はあなたかどうか?」と尋ねるとイエスは「見聞きしたことを彼に伝えよ」と答える。この部分は「イエスの語録集」(Q資料)に基づいていて、後のキリスト宗団(Q宗団)と洗礼者宗団との間の論議から出たという説もあるが、私は実際の出来事をかなり正確に伝えていると思う。だがここには、イエスと洗礼者とのメシアの到来に対する根本的な見解の違いが示されている。洗礼者は「終末での」メシアの到来を待ち望んでいる。ところがイエスは、神の霊が現臨する「今ここでの出来事」を語るのである。しかもこの食い違いが、洗礼者の殉教以前に生じていたことが分かる。ユダヤ教の伝統的な預言解釈では、メシアの支配とこれに続く世界の裁きは終末に訪れる。ところがイエスは、御霊の現臨による「神の国」をメシア預言の成就として、終末のメシア顕現と現在との間に、聖霊による「御国の時」を介在させたのである。これは従来のユダヤ教には存在しなかった全く新しい独特の「神の介入の時期」であった。
イエスは自分を「人の子」と呼んだ。しかし洗礼者から見れば、この称号は、黙示的な終末の審判者にほかならない(ダニエル7・13〜14)。来たるべき者は誰か? 洗礼者はこの問いに全存在をかけていた。マタイは、8章から9章までの出来事を「来たるべき方」であるイエスへの預言が成就したしるしと見ている。だが洗礼者(と彼の宗団)から見れば、終末のメシアは、必ずしも奇跡と結びつく必要がない(洗礼者は奇跡をおこなっていない)。だから彼には、イエスの奇跡を旧約の預言の成就と解釈するのが困難なのである。
この問答に続いて「天の国が襲われる」(マタイ11・12)ことが語られる。ここでの「襲う」と「奪う」について正反対の解釈がなされていて、イエスのこの言葉は聖書中でも難解な箇所である。マタイによれば(11・12)、ヘロデ・アンティパスとユダヤ教の指導者が洗礼者ヨハネ宗団とイエス宗団への迫害を始めたのは、洗礼者の時からであり、その結果洗礼者が投獄されたことが示唆されている(おそらくこの解釈のほうが史実に近い)。ところがルカは、「奪う」を肯定的に神の国に入ることだと解釈している(ルカ16・16)。しかもルカでは、洗礼者は排除されて、神の国には入らない。矛盾はそれだけでない。マタイでは(11・16〜17)「人の子の祝宴」と洗礼者の「弔いの歌」が、対比されながらも一緒になって「今の時代」に語りかけている。ところがルカでは、子供たちが互いに呼び合うが、分裂して祝宴と断食のどちらにするかを決めかねていると解釈できる。ルカはさらに、洗礼者宗団とファリサイ派とを一緒にしてイエスの弟子たちと対立させている(5・33)。一方では洗礼者の宗団をイエスの仲間に入れて敵対者(おそらくファリサイ派)と対立させ、他方では洗礼者宗団とファリサイ派とを結びイエスの仲間と対立させる。明らかにここでは、相互に矛盾する発言や伝承が結びつけられているのが分かる。キリスト教宗団と洗礼者ヨハネ宗団とファリサイ派との間には、錯綜した関係があって、それがこのような矛盾となって反映しているのであろう。
聖書は、このように相互に矛盾する伝承や資料を編集しかつこれらを解釈することで成り立っている。互いに矛盾する伝承を総合的に把握するこの困難な作業を可能にしている見方や考え方、これの根底に流れるものはいったいなんだろうか? 実はこれが「知恵の御霊」の働きであり、これに導かれる人たちが「知恵の子たち」なのである(ルカ7・35)。聖書の言葉は、いわば容器であり、これにどのような解釈の中身を入れるのかはそれぞれの時代に委ねられている。現実に生じる出来事は常に矛盾しているからである。これらをありのままに受け入れながら、それらを統合しつつ状況に応じて解釈すること、これがイスラエルの「知恵の正しさ」の特徴である(マタイ11・19)。イエスがここで「わたしに躓かない者は幸いだ」と告げているのはこの意味でとても示唆深い。
わたしを何者と呼ぶか?
マタイの16章(13〜20)はマルコ(8・27〜30)を踏まえていて、ここでイエスは「人の子を人々は何者だと言っているか?」と弟子たちに問いかけている。この「人の子」がイエス自身のことを指すのを弟子たちは理解しているが、外部の人々や群衆(ルカ9・18)にはまだそのことが知られていないようである。だからここは、人の子とはいったい「誰」(岩波訳)のことだと言われているか? と解するほうがいいかもしれない。この問いに対する答えとして、洗礼者ヨハネ、エリヤ、預言者などがあげられた後で、ペトロが「あなたはキリスト(油注がれた者)、生ける神の子です」と答える。ここはマタイの編集で、イエス復活以後の教会の告白と重なるから、原語の「キリスト」は、「メシア」(新共同訳・フランシスコ会訳)ではなくやはり「キリスト」(新改訳・岩波訳)と訳されるべきであろう。これに対する「この岩(ペトロ)の上に私の教会を建てる」というイエスの有名な答えは、現在では(おそらくカトリックをも含めて)イエス自身から出た言葉ではないと考えられている。
ところで、「わたしは何者か?」というここでのイエスの問いかけは現代でも続いていて、これに対して幾つかの答えが用意されている。代表的な例として、ギリシア哲学のキュニコス派の賢人、社会革命に挑むキュニコス的哲学者のような闘士、神秘体験を持つユダヤの賢人で社会革命的な預言者、霊的に現在する神の国を伝える終末的預言者、絶対平等を唱える神の知恵の子で預言者、などがあげられる(「史的イエス特集」『インタープリテーション』42号)。イエスが「知恵の人」であったという点ではほぼ一致しているようであるが、問題とされるのは、イエスがどこまで「黙示的」であったのか? 預言者と賢者とは両立するのか? などの点である。ここでイエスの「知恵」についてふたつの点を強調しておきたい。
第一にイエスの知恵は、ギリシア哲学の系統ではなく、イスラエルの知恵の伝統に根ざしていることである(ギリシア哲学のユダヤ思想への影響を排除するものではないが)。第二にこの知恵は、人間的な哲学から出たものではなく、神からの知恵であり、神の秘義を悟る霊的な知恵である。このふたつの理解無しには、イエスの知恵を正しく知ることができない。例えば、イエスの預言者的特徴とイスラエルの賢者とは、神の御霊の知恵にあっては矛盾しない。
イエスには、エリヤのような預言者、ダニエル書の人の子、ダビデのようなイスラエルの王、クムランのメシア的な祭司などの称号が可能である。だが、イエスに注がれた聖霊の本質は、右にあげた称号のどれひとつとも全く同じではない。神御自身が人に宿ったという事態は、神の御霊による「知恵の宿り」の最高の姿としてしか思い描くことができないからである。だがイエスについて「イスラエルの賢者」という呼び名は聖書にでてこない。なぜ「知恵」がイエスの称号の中に表われないのだろうか? それは、「神の子」の称号をも含めて、それらの称号の背後に潜むものこそ神の知恵の働きそれ自体にほかならないからである。
一般にパウロは「信仰のキリスト」を宣べ伝え、共観福音書は「史的イエス」像を伝えると言われてきた。しかしパウロが復活のキリストを伝えるときに、彼は常に生前のイエスをこれに結びつけていた。パウロを理解しようと思うなら、イエスを知らなければならない。イエスを知ることは、いわゆる「史的イエス」の探求からは生まれてこない。なぜならイエスは旧約の預言の言葉を神の御霊の知恵によって全く新しく解釈し直したからである。だからイエスを知るためには、彼を旧約預言の御霊にある成就者として解釈しなければならない。このような視点から初めて、イエスとパウロとの一貫性が見えてくる。だがこういう解釈を現代の聖書学や神学の用語に載せることは難しい。なぜなら、現代の聖書神学は、聖書の言葉の一貫性を支える御霊への信仰を放棄しているからである。
受難物語
受難物語で四福音書がほぼ一致してあげているのは、以下の出来事である。イエスは祭司長たちが遣わす者たちによって逮捕された(ヨハネのみローマの兵士が加わる)。ペトロの否認(ヨハネのみ2度)。大祭司と最高法院で審問され死刑の判決を受けた(ルカとヨハネでは判決は不明)。その際に神殿否定が理由とされた。「ユダヤ人の王と称した」としてピラトに引き渡された。ピラトはイエスに「お前はユダヤ人の王か」と訊ねた。イエスは「それはあなたの言っていることだ」と答えた。兵士たちは「ユダヤ人の王万歳」と叫んでイエスを嘲った(ルカのみ省筆)。ピラトは「いったいどんな悪事を働いたのか」と告発者たちに訊いた。ユダヤの指導者たちは「十字架につけよ」と叫んだ。イエスは十字架刑に処せられた。その罪状書きには「ユダヤ人の王」(ヨハネは「ナザレのイエス」を加える)とあった。私はこれらが歴史的な事実であると考える。しかし、出来事それ自体とこれの「解釈」とをはっきり区別しなければならない。福音書はこれらの事実を二つの観点から解釈している。ひとつは旧約聖書の預言から、もうひとつはイエス復活以後の教会の視点からである。
イエスがユダヤの指導者に逮捕された直接のきっかけは、イエスが神殿否定の行動に出たことにある。ではイエスの神殿否定は、彼の活動のどの時点から始まったのか? ヨハネ福音書は、神殿否定を洗礼者とこれに続く弟子たちとの出会いの直後においている。これはヨハネ福音書のこの出来事への「解釈」である。イエスの神殿否定は、洗礼者との出会いの直後からすでに始まっていたとヨハネ福音書は見ている。私はヨハネ福音書のこの洞察は正しいと思う。文献的に出来事を確定することは大切であるが、出来事はその「意味それ自体」を語ってはくれない。これを洞察するのが霊的な解釈である。
ヨハネ福音書(18・28〜19・16)は、イエスの裁判をドラマ化している。だがこの福音書は決して「親ローマ的」ではない。イエスは本当に政治犯だったのか? この問いに答えるのが、ピラトとイエスとの対話である(18・33〜38)。イエスは「霊的な意味での」王なのだが、ピラトにはそれが理解できない。ヨハネは、ローマの権力がイエスにある種の恐れさえ抱いたこと、このために逆に己の権力を誇示しようとしたことを見逃さない(19・8〜9)。ところがユダヤの指導者たちは、ピラトの権力意識を逆手にとって、イエスを許すなら皇帝への反逆罪に値すると彼を脅すのである。ここでのピラトの発言、「見よ、この男だ」をイエスへの哀れみからだと解釈するのは誤りである。ピラトの言葉は「見よ、お前たちの王だ」と並行していて、これはローマ皇帝の即位に際してローマ市民が叫ぶ歓呼の声を踏まえたパロディなのである。だからこの場面は、イエスとユダヤ人を侮辱するピラトの最高の演技である(フルッサー『ユダヤ人イエス』)。ピラトの耳には「十字架に付けよ」という群衆の叫びも皇帝の即位に際して「皇帝万歳!」と叫ぶ群衆の声の「ユダヤ版」と響いたのかもしれない。地上の宗教的権威とこの世の権力とがここでは一体となって、愚かと見える「神の知恵」を嘲笑している。ヨハネ福音書は、イエスの十字架に潜むこの真相を鋭く洞察して描いている。ここには「虚偽と真理」が、互いに対比され、対立して描かれている。これが「知恵の受難」(知恵の書2・15-20)の真の姿である。
ルカは(23・13〜15)、ピラトがわざわざ「民衆」を呼び集めて、その前でイエスが本当に民衆を惑わしたかどうかを調べ、その結果無罪を宣言したと伝えている。十字架上のイエスを見守る民衆の姿もルカにしか表われない。実はルカはここで、ユダヤの「指導者」と「民衆」とを区別するという大事な「史実」を指摘しているのである。指導者たちはイエスを嘲ったが、民衆は、嘲る彼らの指導者たちを沈黙して見ていたと(23・35)。
編集は後からおこなわれるから、史実に基づかない歪曲や変容だと単純に考える傾向がある。だが、霊的な洞察とは、何年も何十年にもわたって、出来事の本質を追求する中から到達した結論だということを忘れてはならないだろう。何が起こったのかを確定することは大事であるが、その出来事に潜む本質的な意義の追求は、その出来事の「後から」始まるのだから。