第13講 福音書が生まれるまで
エルサレムのキリスト教集会
 ガリラヤを中心としたイエスの宣教は(29年頃)、とりわけギリシア語を話すディアスポラのユダヤ人たちの間で評判になった。イエスの知恵に宿る普遍的な霊性が、当時のヘレニズム化したユダヤ人の心を捉えたからである。それだけにイエスが十字架刑に処せられた時(30年頃)の信奉者の落胆は大きかったと思われる。ところがペトロや女性たちを始め、弟子たちにイエスの顕現が与えられたことで(マルコ16)、彼らはその復活を信じるようになった。エルサレムと前後して、ガリラヤの信奉者たちにも顕現が与えられた(マタイ28・7)。こうしてイエスを信じる集会が再び形成され始めた。この中にはすでに多くの「ギリシア語を話す」ユダヤ人たちが加わっていたと思われる。ペンテコステで方々から「ギリシア語を話す」ユダヤ人たちが集まっていたその日、イエスを信じる集会に聖霊の大傾注が起こり、全員に御霊が横溢し、異言が語られ預言がおこなわれ、異言語さえも現れた。この聖霊の働きが、方々から集まっていたユダヤ人たちに伝えられたことをルカは証ししている(使徒2)。
 この聖霊体験に促されて、彼らは伝統的なユダヤ主義を離れ、ヘレニズム的な自由へと急速に傾いていった。なお現代では、このようなキリスト教徒は「ヘレニスト・ユダヤ人キリスト教徒」と呼ばれて、「アラム語を話す」ユダヤ人キリスト教徒(ユダヤ主義のキリスト教徒)とは区別して考えられている。このために宗団の中で、ヘレニストとユダヤ主義的なメンバーとの間に軋轢が生じた(使徒6・1)。「律法からの自由」を求める聖霊運動は、ユダヤ教の指導者だけでなく、シナゴーグのギリシア語を話すユダヤ人たちからも反感を買う結果となり、エルサレムにおいて、ヘレニストのユダヤ人キリスト教徒への大迫害が生じることになった(31/33年)。彼らは、イエスの御霊体験から生まれる「自由と愛」をモーセ律法よりも重視したため、シナゴーグの集会規律違反に問われたのであろう。イエスをピラトに渡したサンヒドリンもこれに加わった(使徒4)。

 散らされたヘレニストのユダヤ人キリスト教徒たちは、パレスチナのいたる所でイエスの復活を伝え、福音がパレスチナ全土からダマスカスへ、さらにエジプトへも伝わった。こうしてイエスの御霊の福音は、ユダヤ周辺のカイザリア、フェニキア、ダマスカスへと急速に広まっていった。フィリポは、まずサマリアへ向かい、そこでの伝道の後にエジプトへ向かった。彼らヘレニストたちは、ユダヤ人だけでなくユダヤ教に理解を示す「神を畏れる異邦人」たちにも福音を伝えた。律法からの自由が、伝統的なユダヤ教の枠を克服したからである。こういう状況のもとで、ヘレニストのステファノが殉教した。しかし、バルナバは、ヘレニストとアラム語を話すユダヤ人キリスト教徒との仲介役としてエルサレムに残った。またペトロを始め「アラム語を話す」ユダヤ人キリスト教徒たちも引き続きエルサレムに留まっていた。
 ヘレニストの追放と入れ替わるように、「主の兄弟ヤコブ」が、エルサレムのキリスト教集会で重視され始め、イエスの家族を中心にした集まりもできたと思われる。主の兄弟ヤコブは、イエスのメシア的霊性こそ「真のユダヤ主義」であると固く信じて、伝統的な律法を遵守したから、エルサレムのユダヤ教諸派から尊敬されたのである。
パウロの回心

 ダマスカスは、ヘレニストのユダヤ人キリスト教徒が伝道の拠点としていた都市であった。パウロもまたギリシア語を話すユダヤ人であった。彼が「律法に違反する」ヘレニストのユダヤ人キリスト教徒を取りしまるのに適任と見なされたのは、彼がヘレニストたちの対極にいたからではなく、逆に彼らと比較的近かったからである。パウロが彼らを迫害したのは、彼らが「律法からの自由」(割礼と祭儀遵守を拒否する)を実行したからである。ところがそのパウロが、ダマスカスへの途上で復活のイエスに出会い回心することになる(使徒9。33年前後)。回心したパウロは、ダマスカスからはるか南の「アラビア」へ、すなわちユダヤの東方から南に広がるナバテア地方へ遣わされた(ガラテヤ1・17)。ナバテアでも大多数はギリシア語であったが、アラム語も話されたから、パウロには好都合であった。アラビアでは、各部族が、それぞれの神々を拝みながらも、全体としては一神教的な傾向が強かった。そこでは「主」という称号も、崇拝、尊敬を意味する用語として広義に用いられていた。また「神」は無名の存在として、「その名を賛美すべき方」「唯一の恵み深き方」などと呼ばれることもあって、ひとりの「神」に多様な内容が帰せられていたのである。だからナバテアの人たちは、パウロが語る「神のみ子」も「父・子・聖霊」も理解することができた。そこでパウロがおこなった伝道の方法は、以後の彼の伝道の基本となる。彼の教えは直接主イエスから受けたもので、「十字架と復活のメシア」であり、彼はこれを聖書と結びつけて説いた。彼は、ナバテアのアラブ人がユダヤ人に近いがゆえに救いの対象になると考えたのであろう(イザヤ60・7)。パウロのナバテア滞在は1年半から2年に及んだであろう。しかし政情不安からか彼はダマスコへ戻った。だが彼のダマスコ滞在も長くはなかったようである。パウロの無割礼主義はすでにユダヤ主義者の躓きとなっていたのであろう。

アンティオキア集会
 アンティオキアのユダヤ人社会は激動の時期にあった(34~41年)。ユダヤ人によるカリグラ帝崇拝拒否が原因となって生じた反ユダヤ感情は、アレクサンドリアやパレスチナだけでなくアンティオキアにも及び、異邦人によるユダヤ人虐殺が起こった。これに対抗して、ユダヤの大祭司ピネハスは、軍を送りアンティオキアの住民を殺した。すると皇帝が介入して、ピネハスは扇動の罪で首をはねられた。だがユダヤ人への従来の宗教的特権は維持されたようである。当時アレクサンドリアの人口は30万で、アンティオキアもこれとほぼ同じくらいであった(エルサレムは2万たらず?)。オリエント第二の都市アンティオキアでは、ユダヤ人は少数派であったが、それでもパレスチナの外では最大の共同体であった。ユダヤ人の慣習に従う権利はユダヤ社会に認められていたが、すでにユダヤ人はヘレニズム化していて、ギリシア語が彼らの母語となりギリシア人と対等の法的権利を求めていた。パウロのようにローマの市民権を持つユダヤ人は非常に少なかったのである。
 この争乱の中で、ヘレニストのユダヤ人キリスト教徒は、まずユダヤ教親派の異邦人に向かった。アレクサンドリアやローマと同じくアンティオキアでも、ユダヤ人は都市全体に広がっていたから、伝道は、会堂周辺で、ユダヤ人キリスト教徒たちを交えて異邦人の家々で行われた。集会では、メシア的聖霊に満たされた礼拝が比較的自由に行われ(使徒2・42)、終末的な異言・預言が生じ、カリスマ的な解釈が重視された。親ユダヤ教的なギリシア人からは、割礼や律法に対する関心が失われていった。その一方では、ユダヤ人キリスト教徒たちが、背教の誹りを免れるために、子供に割礼を施すなどで厳格なユダヤ教徒と交わりを保っていた。このようなミニ集会は個人的な自由なしには成立し得ない(第一コリント8)。だがこの段階では、御霊にある福音の自由は、後にパウロが主張するような「律法なしに」とまではいっていない。せいぜい「律法に批判的」の程度であったと思われる。また、エルサレムでもローマでも、イエスが「世界の主」として崇められるまでにはいたっていない。
 エルサレムから追放されたヘレニストのユダヤ人キリスト教徒たちは、もはやアンティオキアのユダヤ人会堂には所属せずに独自の伝道をおこなうようになった。ユダヤ教親派の異邦人には、それまでもユダヤ人と同等の権利が与えられなかったから、彼らはこの新しいメシア集会に惹かれたのである。こうして諸集会は、聖霊にあって終末のメシアの来臨を待望する礼拝を続けていた。ユダヤの会堂側から見れば、十字架のメシアを崇めてもはや律法を重んじることをせず、ユダヤ教親派を惹きつける熱狂的な終末集会と映ったであろう。こうしてこの都市で、異邦人クリスチャンが多数を占める集会が成長し始めた(使徒11・20)。だからパウロの自由なメッセージは、彼独自のものではなかったのである。エルサレム時代からすでに、「エクレシア」と「シナゴーグ(会堂)」とは違う用語で呼ばれていたし、イエス・キリストのみ名によるバプテスマは、割礼とは異なる終末集会への入会の儀礼となった。イエスに由来する聖餐もユダヤ教の儀礼とは異なるものであった。アンティオキアで「クリスティアノス(クリスチャン)」という呼び方が生まれたのは偶然ではなかったのである(使徒11・26)。


ペトロとパウロとの出会い

 ペトロはこの間、アラム語のユダヤ人キリスト教徒とヘレニストのユダヤ人キリスト教徒との間の仲介に努めていた(33~44年)。彼は自分のイエス伝承をギリシア語を話すユダヤ人キリスト教徒に伝えていたと考えられる(例えばペトロ福音書の受難物語)。これが後のマルコ福音書へと受け継がれることになる。彼の活動範囲は、アポロとは異なり、エルサレムを中心にしたパレスチナのユダヤ地域、例えばリダやヤッファであった。ところがヤッファでは、彼が「神を敬う異邦人」コルネリオに対して寛容であったことから、異邦人への聖霊降臨が起こったのである(使徒10)。この出来事が、エルサレムのキリスト教集会へも報告されて、注目されることとなった。ペトロは、この頃まだエルサレムのキリスト教集会で重要な地位にあったからであろう。ペトロたちの努力によって、ヘレニストのユダヤ人キリスト教徒とエルサレムのキリスト教集会とは手を切ることがなかったのである。
 しかし、エルサレムでは、「義人ヤコブ」とも呼ばれる「主の兄弟」を中心にして、律法遵守のユダヤ人キリスト教徒がその力を強めていた。エルサレムのユダヤ人キリスト教集会に対するサドカイ派の反感はいぜん強いものがあったが、ファリサイ派の態度はそれとは対照的で、集会はそのような理解のもとに存続することができたのである。
 バルナバとパウロの第一回エルサレム訪問は(34/36年)、パウロのみでなく原初キリスト教会にとっても重要な出来事となった。パウロは、ペトロとの15日間の交わりを通じて(ガラテヤ1・18)、キリストの十字架と復活にある贖罪信仰と自分の律法観についてペトロと語り合ったと思われる。いわゆる「ケリュグマ」の中核(第一コリント15・2~8)がこの時にできたのかもしれない。パウロの異邦人伝道への基盤となる信仰が、ペトロによってこの時に確認されたと思われる。この二人の律法、異邦人、割礼に関する意見交換と合意があったからこそ、アンティオキアでパウロはケファ(ペトロ)を非難したのである(ガラテヤ2・11~14)。このことから、パウロの側もペトロに大きな影響を与えたことが分かる。だがペトロの家でのパウロの密かな滞在は、人に知られることとなり、身の危険を感じてパウロはエルサレム滞在を突然うち切らざるをえなくなった。

パウロのタルソ宣教とバルナバ

 パウロは、故郷タルソを訪れて宣教活動をしている(37年?)。タルソはキリキア州の中心で、アンティオキアに次ぐ小アジアの経済と政治の重要な都市であり、タルソを中心とするこの地方には、ユダヤ人が多かった。タルソの宗教的環境は、ダマスコのそれよりも遙かに複雑であった。「安息日の神」という名の十字架を帯びたユダヤ教的キリスト教の遺物も発掘されている(Hengel and Shwemer Paul Between Damascus and Antioch)。「安息日の神」は、小アジア、エジプト、ローマ、シリアに広く分布していて、ユダヤ教の神への当時の一般の関心がうかがわれる。この神は「普遍の神」「至高神」「唯一の真の神」とも呼ばれていて、ユダヤ化した異教の集会で拝されていたようである。一方でタルソには、母国と結びついたユダヤ社会があって、パウロはそのような両親によってエルサレムへ律法を学ぶため派遣されたのであった。ストア哲学はタルソでも盛んで、ユダヤの会堂の教育ある人たちがこれに惹かれていた。
 パウロたちは分離主義をとらなかったから、アンティオキアとタルソの異邦人教会との結びつきが絶えることはなかった。バルナバはタルソにパウロを訪ねているが(使徒11・25)、それは彼をアンティオキアへ「連れてくる」というよりは、アンティオキアに来るよう依頼したのであろう。また、初期において行き違いはあったにせよ、アンティオキアの異邦人クリスチャンとエルサレムとのつながりが断たれることはなかった。アンティオキアとエルサレムを結んだのはバルナバである(39~49年)。パウロとバルナバとの共同活動も続けられ(39/40年~48/49年)、ふたりはアンティオキア教会から派遣されて第一回宣教旅行にでかけ(47~48年)、ピシディア州のアンティオキアやイコニオンへも出向いている(使徒13~14)。バルナバがパウロに影響を与えた反面、学者の訓練を受けたパウロのほうもバルナバに影響を及ぼした。バルナバは、その後もアンティオキアとエルサレムとの仲介役を続け、義人ヤコブの殉教の頃(62年)までこの状態が続いた。

イエス様語録とQ諸集会

 ここで私たちは、聖霊運動に携わっていた人たちとは異なる人たちへも目を向けなければならない。この人たちは、イエスの御霊体験よりも、賢者としてのイエスのライフ・スタイルを見習おうとする傾向が強かった。したがって彼らは、パウロの説くような十字架の罪の赦しよりも、イエスの教えそのものに関心を向け、「イエス様語録」を編集した。この言葉集は、ドイツ語の Quelle(資料)から「Q資料」と呼ばれている。Q資料は、主にマタイとルカの福音書に多く含まれている。Q資料はしたがって、はじめから文書として確認されていたわけではない。いわば仮説の文書として想定されていたにすぎず、これが口頭による伝承なのか文書なのかさえ確認できなかった。ところが、エジプトのナグ・ハマディで写本が発掘され、その中にトマス福音書と呼ばれる文書があった(1952年)。この福音書は本来ギリシア語で書かれていたが、それらのほとんどが、共観福音書に含まれるイエス様語録と類似する内容であった。この発見によって、Q資料が単なる言葉伝承ではなく文書であったことがはっきりしたのである。現在ではQ資料はほぼ次のように考えられている。イエスと弟子たちはアラム語で語った。イエスの言葉がギリシア語に訳された段階で、言葉伝承から一つの文書へと編集された。そこに受難物語は含まれていない。Q資料は、おそらく段階(Q1~Q3)を経て成立した。Q1からQ2への推移の過程で、この文書を保持していたQの人たちに大きな変革が起こったと考えられる(Mack The Lost Gospel.)。その後(主としてエルサレム滅亡以後)誘惑の物語などを含む追加(Q3)がおこなわれてこの文書が成立した。
 Q資料は主にガリラヤ以北で編集されたとされるが、Qの人たちは地域にかかわりなく存在していて、比較的知識階層の人たちが多かったと思われるから、他のユダヤ人キリスト教徒との違いは、むしろ社会階層から生じていると私は考えている。この人たちは、ある程度まとまった共同体として存在していたが、既成の会堂制度などにとらわれない個人的な傾向の強い人たちであった。そこでは、例会と共同の食事が持たれ、生活や社会問題などが話し合われたであろう。「イエス様語録」を生み出した人々は、イエスの十字架と復活の御霊に与る人たちとは異なって、いわば生前のイエスの教えと生活を規範にしようとするグループであった。集会は月に一度くらいで、家庭集会のネットワークがやがて集会の形成を促し、その過程の中でイエス様語録が編集されていったのであろう。集会を指導していた人々は、預言的な霊能を有する巡回伝道者たちで、彼らは村や町を巡りながら、家々で病人への祈りをおこない、イエスの言葉を説いて回った。この最初期のグループを後の「Qの人たち」と区別して、私は「Q諸集会」と呼ぶことにしている。現在の聖書学の段階では、Q諸集会が具体的にどのような状態であったかを立証することは難しい。ではここでQ1からの例をあげてみよう(引照はルカから)。
  貧しい者は幸いだ。神の国は彼らのものである。(6・20)
  あなたがたの父が憐れみ深いように憐れみ深くなれ。(6・36)
  裁くな。そうすれば裁かれない。(6・37)
  狐には穴があり、鳥には巣がある。
  しかし、人間〔人の子〕には居場所がない。(9・58)
  どこかの町に入り、迎え入れられたら、出されるものを食べ、
    その町の病人をみてやり、また、「神の国はあなたがたに近づい た」と言いなさい。(10・8~9)
    だれでも求める者は受ける。(11・9)
  自分の命を護ろうとする者はこれを失う。(9・24)
 これらの言葉は、イエスが生前語った言葉の原型に近く、ほとんどが諺あるいは格言のスタイルで語られている。こういう語り口は、律法の解釈を軸にしたユダヤ教の指導者の語り方とは異なっていて、むしろ知恵文学のスタイルに属する。律法的な教条主義にとらわれることがなく、現実を鋭く洞察する視点がここにはある。しかもこれらは、必ずしも宗教的とさえ言えない。現実の生活に根ざしていて、宗教や人種を超えた普遍性を帯びる「知恵の人」の言葉なのである。
 しかしながら、以上のようなQとQの人たちへの見方は、その後大きく変化することになる。最近では、Qは、イエスの復活信仰成立の<後になって>成立したのではなく、すでにイエスの生前に、イエスの口から直接聞いた弟子たちが語り広めた言葉がQの基になっているという見解が出されている〔James D.G.Dunn, A New Perspective on Jesus. B Baker Academic (2005).26-28.〕。わたしもこの見方に賛同する。この説によれば、Q、すなわちイエス様語録は、イエスの十字架以後の信仰共同体が作り出したものではなく、すでにイエスの生前にイエスを信じる人たちによる共同体が存在していて、イエス様語録は、そこでこれの原型が形成されていたことになる。だとすれば、語録集は、ほんらいアラム語で伝えられていたもので、それがどの段階かで、おそらくヘレニストのユダヤ人キリスト教徒によって、ギリシア語に訳されたことになる。したがって、これまでの説は、このような新たな見直しによって大きく訂正されなければならない。

使徒会議

 41年まで続いていたカリギュラ帝のユダヤ人迫害は、パレスチナ全土を襲ったために、ユダヤ社会に深刻な危機感をもたらした。クラディウス帝の世になるとすぐに、ユダヤ出身のヘロデ・アグリッパ1世(41~44年在位)がパレスチナ全土の王として即位したのは、混乱したユダヤ社会を鎮めるためであったろう。しかしこのことが、エルサレムのキリスト教集会には、逆に大きな災いをもたらす結果になった。アグリッパは、「ユダヤ人の機嫌をとるために」集会の柱であったゼベダイの子ヤコブを処刑したのである(43/44年)。さらにペトロも逮捕されたがかろうじて処刑を免れた(使徒12)。しかしこの時以来、ペトロはエルサレムを離れることになった。イエスの最初からの弟子ふたりがいなくなったことは、エルサレムのキリスト教宗団に大きな影響を及ぼすことになり、主の兄弟ヤコブの地位をいっそう強固なものにした。この段階で、ペトロ、ヤコブ、ヨハネという教会の「柱」は、もはや存在しなくなって、「義人ヤコブ」がエルサレムでの指導者となった。
 エルサレムからアンティオキアへアガポなどの預言者が派遣された。彼らは飢饉を預言したが、それは47~49年に起こっている。この時期に、キリストの教会全体としての今後の方針を決定する重要な会議が開かれた。いわゆるエルサレム使徒会議である(48年頃)。バルナバとパウロは、アンティオキアからエルサレムへの援助資金を携えてこれに出席した。そこでは議論が噴出し、ペトロが意見を述べてから最後にヤコブが締めくくる形で、異邦人に向けた「使徒教令」が決定された(使徒15)。ところが使徒会議の後で、アンティオキアで、ペトロとパウロとが衝突する出来事が起こったのである(49年春)。ここでは、ペトロの仲介的な立場がその矛盾を表わすことになった。ペトロは「異邦人のように」生活していたのに、エルサレムのヤコブのもとから人が来ると、その生活を否定したからである。同じように仲介的な立場にあったバルナバも、パウロの批判を浴びることになった(ガラテヤ2・13)。この衝突が原因で、パウロはアンティオキアを去り、シラスとテモテを伴って第二回宣教旅行へと旅立つことになる。

諸伝承の成立

 紀元40年から50年にかけては、イエスの「復活物語」、「イエス様語録」、「奇跡物語」、「受難物語」など、後に福音書の資料となる重要な伝承が口伝として形成された時期である。受難物語の成立は比較的遅いと言われるが、すでに最初期から洗礼と共に聖餐の祭儀がおこなわれていて、「律法からの自由」を表明するキリスト教徒が、十字架の罪の赦しをもたらす受難への祭儀的理解(ロマ3・24~25)を早くから持たなかったとは思われない。だから50年頃には、イエス・キリストの十字架と復活、さらに第二イザヤのメシア預言に基づくイエスの血による贖罪信仰など、キリスト教の核となる福音が定式化していたと思われる。イエスの奇跡物語は、比較的下層の人たちによって形成されたが、イエスがメシアであることの「しるし」としてユダヤ人キリスト教徒には重要な意味を持っていた。
 50年代には、「しるし集」は文書化され「奇跡物語」となった。Q資料の文書化も同じ頃におこなわれた(55年?)。65年~70年になると、受難物語が復活物語と結合して、ひとつのまとまりをなすようになり、またQ2文書が成立している。「しるし集」も受難・復活物語も次に述べるQ文書と共に福音書を形成する重要な資料となる。

Qの人たちと神の国

 Qの人たちは、この間に自分たち独自の交わりを形成していった。この人たちの教えの要となるのは「神の国」という独特の概念であった。しかし、イエスは「知恵の教師」として尊敬されたが、彼らにとってはまだ「神の子」ではなく、「十字架による贖い」も「終末の裁き」も彼らの教えに含まれてはいなかった。彼らの「神の国」は、政治的・社会的な現実性を帯びた運動ではなく、また新約聖書に現われる終末的な裁きを伴う未来のメシア王国でもなかった。己の内面を正しく律することができる者こそ「人の心を征する王」であるという考え方に基づいていたからである。このような個人の倫理性を主眼とする心の領域の「王国」の隠喩は、ストア哲学に限らず広く存在しており、この隠喩の伝統は、中世を経てルネサンスから近代にいたるまで、個人の道徳観を支える隠喩として機能してきた。したがって、ある特定の学派、あるいは特定の哲学とQの人たちの信仰や思想を結びつける必要はないように思われる。様々な思想・宗教が混在している当時の状況は、ガリラヤだけでなく、東地中海全域において、多かれ少なかれ共通していたからである。
パウロの第二・第三宣教旅行
 パウロたちの第二回旅行(49~52年)は、マケドニア伝道(49年)、アテネを経てコリントでの滞在(50年秋~52年春)、エフェソを経てアンティオキアへの帰還(52年頃)となるが、これついては使徒言行録(15・36~18・22)に細述されているからここで繰り返さない。この間にパウロは、ガラテア北部(現在のアンカラ)まで伝道に出かけている。その伝道は「十字架につけられたキリストが目の前に描き出される」(ガラテヤ3・1)とあるように、聖霊の臨在を強く伴うものであったろう。
 彼らはその翌年?(53年)、第三回目の旅に出ている(使徒18・23~21・15)。この時パウロはエフェソに2年間滞在した(使徒19・10)。この旅行はパウロにとって多難な旅となった。ガラテアへユダヤ主義のキリスト教徒たちが来たために、彼はガラテヤ人への手紙を書いて、信仰による救いが「律法からの自由」であることを明確にしなければならなかった(ガラテヤ5・1)。パウロたちは、エフェソで騒動に巻き込まれて逮捕されたが、その獄中で、フィリピ人への手紙とフィレモンへの手紙を書いている。その間彼は、コリントと連絡を保ち続けたが、そこでもパウロの意に反する出来事が教会に生じた。
 パウロがペトロとの「棲み分け」の協定にもかかわらず、ユダヤ人への伝道を止めなかったと同じように、ペトロもその仲介的な姿勢を放棄することなく、ユダヤ人キリスト教徒だけでなく異邦人への伝道を止めることをしなかった。ペトロは、主の直接の弟子として、また主の伝承の担い手として、ユダヤ人キリスト教徒と異邦人キリスト教徒との間にいぜんとして大きな権威を帯びていた。ペトロが直接コリントを訪れたかどうかは確かでないが、彼に近いユダヤ人キリスト教徒がコリントを訪れたのであろう。このためにパウロは、コリントの教会のことで少なからぬ困難に直面することになった。先のアンティオキアでの二人の衝突がまだ尾を引いていたことをうかがわせる。またこの間アポロがコリントを訪問している。ペトロの伝道は、バルナバの伝道とも連動していて、それはアンティオキアの教会ともつながる広がりを持っていた。マタイ福音書でペトロがはたしている特別な役割は、マタイの属する教会がペトロの影響を受けていたことをうかがわせる。
 コリントの教会は、パウロ、ペトロ、アポロの教えを受けていたと思われるが(第一コリント1・12)、聖霊の働きがかなり活発であったようで、このために信仰の内容だけでなく、礼拝のあり方自体にも混乱を来たしていたと思われる。コリントへの手紙でパウロが批判している相手の人たちが、具体的にどのような人たちであったかについては諸説があってはっきりしない。アポロはアレクサンドリアの出身で、その教えは旧約聖書に基づく理路整然としたものであったが(使徒18・28)、聖霊の働きには積極的でなかったようである。彼の教えは、おそらくヘブライ人への手紙に近いものではなかったかと思われるが、その背景にはフィロンの思想がある。一方でパウロは、手紙の中で自分の使徒職にこだわっており、また「あの大使徒たち」(第二コリント11・5)と呼んでいるところから判断すると、ペトロのもとから使わされた人たちがパウロを批判した可能性がある。
 こういう事情のもとで、パウロはコリントへ最初の手紙を書き(今は現存しない)、さらに第一と第二のコリント書簡(第二は複数の書簡の結合)を書いている。第二コリント書簡で、パウロの論敵とパウロとの神学的な相違が判然としないのは、パウロ自身が、今度はペトロとそのグループとの相違を公にしようとしなかったことも原因であろう。この間に彼はコリントへ短期訪問をしたらしい(第二コリント13・1~2)。エフェソでの騒動の後で、彼はコリントに3度目の訪問をして3ヶ月ほど滞在したが、その間にローマ人への手紙を書いたのであろう(55/56年)。この書簡で彼は、ユダヤ人と異邦人との区別が完全に取り払われているだけでなく、「異邦人の救いこそが、全イスラエルが救われる前提となる」(ロマ11)と述べて、以後のキリスト教の展開に向けて重要な神学的基礎付けを与えた。彼はそこから献金を携えてエルサレムを訪問している(56年頃)。
 パウロのローマ行きについては使徒言行録(27・1~28・16)に詳しく述べられている。彼はエルサレムで逮捕され(56年?)、カイサリアで2年間拘留された後ローマ皇帝に上訴し(58年頃)、ローマへ船出した(59年冬?)。
パウロと「知恵」

 以上見てきたように、パウロは、ユダヤ教徒、ユダヤ人キリスト教徒、異邦人キリスト教徒、異教の人々など、多様な人たちそれぞれに応じて、「十字架の愚かさ」に隠されている「神の知恵」を伝えなければならなかった。このような複雑で相矛盾する状況において、彼をして「いかなる状況にも対処する秘訣」(フィリピ4・12)を得させたもの、それが「知恵の御霊」である。パウロが、コリントの一部の人たちが主張する「知恵」に対抗して、「十字架の言葉」を知恵に対立させているという見方があるが、この解釈は誤解を生じさせる。なぜなら、彼はここで(第一コリント1・18~2・16)、「人間の知恵」と「神の言葉」とを対立させているのではない。そうではなく、「神の知恵」(第1コリント1・30)を「人間の知恵」に対立させているのである。
 旧約の「知恵」が長い間問い続けてきた課題があった。それは、神の「義」と「憐れみ」という相容れないこのふたつが、どのように結びつくのか? という問いであった。パウロは、この「謎・神秘」への答えを十字架された神の子イエス・キリストに見た。キリストの十字架による罪の赦しと贖いに、パウロは「神の知恵」を洞察したのである。パウロが到達した恩寵の福音を貫く論理とは、死と生、義と憐れみ、裁きと赦しを結びつける絶対矛盾の「論理」にほかならない。これらの対立を克服できるものこそ「執り成しの知恵の御霊」である。執り成しと仲保者へのこの希求は、ヨブ記において最も先鋭に表わされているが、その起源は、はるか古代メソポタミア時代にまでさかのぼる。パウロが、先輩の使徒たちから批判を受けながらも、終始妥協することなく「福音の真理」(ガラテヤ2・14)を貫いたのは、イエス・キリストにあるこの知恵の御霊に導かれていたからである。
 パウロはまた、制度化した宗教的律法や祭儀が、平和ではなく争いをもたらすことを知っていた。彼は、イエスの御霊に与ることで初めて、ヘレニズムの諸宗教や思想にも真理や美徳が宿っていることを悟ることができた。すべての真理、すべての美徳を「私から学んだとおりに」侮ってはならないと教えたのはこのためである(フィリピ4・8~9)。キリストの内にはあらゆる知恵と知識の宝が隠されているからである(コロサイ2・3)。パウロの御霊にある歩みはついに、異邦人の救いなしには、ユダヤ教徒もユダヤ人キリスト教徒も、その救いを全うすることができないというところへ到達した。霊的な体験は、時によっては、人をして伝統的な価値観にいっそう執着せしめ、長年培われてきた制度や規範を守旧させる方向へ向かわせる場合がある。しかしパウロの場合、御霊の働きはそうではなかった。彼は常にイエス自身に働いていた聖霊の原点に帰って、律法からの自由と祭儀的な束縛から人を解放する方向に御霊の導きを見いだした。このためにはあえて「異邦人のようになる」ことをも辞さなかったのである。

パウロと異言

 パウロとコリントの教会との関係で重要なのは、パウロの異言に関する意見である(第一コリント14)。「異言を解く」ことを本格的に教えたのはパウロではないかと私は思う。ヘブライの預言では、伝統的に主の語る言葉をそのままなんの解釈も加えずに取り次いでいた。これに対しギリシアでは、神託によって与えられた言葉は、その言葉を人々にも分かるように「解釈する」ことがおこなわれていたのである。この場合の解釈は、霊感を受けた本人ではなく、そのような霊感を判断しこれを理解できる能力があると認められた別の人がこれをおこなっていた。新約聖書の聖霊は、本質的にはヘブライの霊性を継承している。しかし、アレクサンダー大王の征服以後、ギリシア文化の影響が西アジアに広まり、ギリシア思想はユダヤ教にも深く入り込んでいた。新約聖書の霊性は、ヘブライの伝統が、当時の東地中海を支配していたギリシア文化圏の影響を受ける中で生まれたのである。キリスト教とギリシア思想とのこの融合は、アウグスティヌスにいたって完成したと言えよう。
 したがって、異言を「解く」、あるいは異言を「解釈する」(第一コリント14・13)という考え方は、純粋にヘブライの伝統から生じたものではなく、むしろギリシア的な影響から生まれたと見ることができる。この点は、異言の祈りと関連させて「知性」(ギリシア語で「ヌース」)でも祈ることによって「実を結ぶ」というパウロの思想にも表れている。パウロは、霊的エクスタシーを「知性」によってコントロールし、教会全体を「秩序立てる」ことに努めているのである。この目的に沿って彼は、異言を教会での公の礼拝の場から個人の領域へと制限した。さらに彼は、女性が公の礼拝の場で語ることを禁じたが、これは当時教会での異言が、女性によって語られる場合が多かったこと、あるいは御霊に感じて女性が発言することがしばしばあったことを裏書きしている。パウロがコリントの教会に宛てた手紙を通じて教えたことは、霊的な自由よりも、むしろ教会での一致と秩序を優先させることにあった。こうして異言は公の場から個人の祈りの場へとせばめられる結果になった。ただしパウロ自身は、あくまで教会の一致と秩序の維持が目的で指導したのであって、それ以上のことを求めていたのではない。したがって、異言そのものを厳しく制限したり、女性の発言を禁じたりするのが彼の真意ではなかったと思う。

ユダヤ戦争

 大祭司アンナス2世のもとで主の兄弟「義人ヤコブ」が殉教したことは(62年。エウセビオス『教会史』2)、ユダヤ戦争の前触れであった。この頃からエルサレムのユダヤ人キリスト教徒集会は、他の異邦人キリスト教集会から孤立し始め、エルサレムのキリスト教集会は危機感を抱き始めた。全福音書で義人ヤコブへの言及がほとんど見られないのは、このためかもしれない。エルサレムのキリスト教集会の孤立とは対照的に、アンティオキアの教会は、異邦人伝道の拠点として中心的な地位を占めるようになった。こうして、ガリラヤ地方で始まったイエスの集会は、エルサレムで都会的集会となり、さらにアンティオキアでは、文化的な大都市のQの人たちへと発展したのである。この段階で、異邦人キリスト教徒は、ユダヤ人キリスト教徒と全く対等になり、キリスト教会は、異邦人の教会へと転換を遂げつつあった。こうしてキリスト教の伝道は、ユダヤ教のシナゴーグから完全に独立した。使徒言行録において、「主」が旧約の神の呼称から、「主イエス」となり、「同一の主がすべての人間の主」となり、これが「イエスは(すべての人間の)主である」となることで、この名はユダヤ的なメシアから完全に独立した異邦人伝道の呼称となった。
 しかしながら、ローマでは、この頃ネロ帝(54年~68年在位)によるキリスト教徒迫害が起こり、ペトロが殉教することになる(64年)。多分これに遅れて(67年?)パウロも殉教したと思われる。65年頃から、ユダヤ戦争の発端となるローマに対するユダヤ人の反乱が起こり始めた。ユダヤ人の間では、この頃から様々なセクトが出てきて、互いに反目し合う状態が続き、統制のとれないままにローマとの関係だけが悪化していった。ローマとの戦争が切迫するにつれて、ユダヤ民族主義が台頭してきて、ユダヤ人の異邦人への反感が強まり、これが異邦人の側からの反発を招くことになった。民族主義の高まりと相互分裂の中でユダヤ戦争が勃発した時(66年)、エルサレムのキリスト教集会はペレア地方に逃れた。ローマ軍は、クムランを占拠し(68年)、ここにクムラン宗団は終焉を見た。やがてエルサレムの包囲が始まり、これの陥落と共に神殿破壊がおこなわれたのである(70年)。

人たちとファリサイ派

 最近の研究では、Qの人たちが、実際どの程度の集会組織を形成していたのかに疑問が抱かれるようになった。Qの人たちは、Q文書を共通に使用していたと想定されているが、はたしてこの人たちが、どれだけまとまって行動していたのが? これについて、確かなことは分からない。そのような集会の存在それ自体も、疑わしいと見る説もある。したがって、わたしたちは、Qの人たちの集会よりも、Q文書のほうに関心を向けたいと思う。Q1からQ2への文書編集がなされたのは(65年頃)、シリアとガリラヤとの間の地域であったらしい。ガリラヤでは、Qの人たちをも含めて、人々はローマにもエルサレムにも与みしなかった。しかしながら、この戦争は、パレスチナの伝統的な家族・社会の基盤を根底から崩壊させるような事態をもたらした。このためQの人たちは、それまでの多様で自由で個人的な生き方から、連帯を強めていくようになったと思われる。しかしこの時期、Qの人たちは厳しい拒絶あるいは迫害にさらされている。例えばQ1の「貧しい者は幸いだ」で始まる教えに、Q2では、「人々が人の子のために理由なくあなたがたをののしる時にあなたがたが幸いだ。喜べ。天であなたがたの受ける報いは大きい」が追加されている。「分かれ争うどんな王国も滅び、分かれ争うどんな家も立ちゆかない」(ルカ11・17)」もQ2に表われる。
 これらの言葉は、迫害が、Qの人たちの外部だけでなく、Qの人たち内部にも厳しい対立を生んだことをうかがわせる。Q2の段階では、それまでの「心の王国」すなわち「神の国」は、人間の支配を超えた「神の支配」原理へと転位した。イエスは、もはや教えの単なる始祖ではなくなり、神の国の「王」としての権威を帯びるにいたった。彼は過去の人物ではなく、現在もQの人たちと共にある霊的なカリスマを帯びた人格的(ペルソナ的)な存在となったのである。このようにして、イエスの「言葉集」から始まったQの人たちは、イエス・キリストへの信仰の段階へ移行したのである。
 ユダヤ社会は、制度全体が激変し、とりわけ神殿制度に支えられていた祭司団とそれらを保護してきた貴族階級は、根底から打撃を受けた。この危機にあって、ユダヤ教の伝統を守り抜こうと最も熱心に努めたのがファリサイ派である。その律法主義は、困難な時代にあっても柔軟な律法解釈によって、ユダヤ教の伝統を保持させるだけの革新性を有していたからである。事実、エルサレム陥落以後に、他のすべてのユダヤ教の諸派が消滅したにもかかわらず、ファリサイ派は生き残って、ユダヤ教の伝統を保持することができた。
 ところが、ちょうどこれと時を同じくして、「あなたがたファリサイ派はわざわいだ!杯や皿の外側はきれいにするが、内側は強欲と放縦に満ちている」(ルカ11・39~40)がQ2に現われる。このようなファリサイ派批判は、ファリサイ派が実行していた祭儀的きよめ、ユダヤ教の会堂制度、律法解釈全般に及んでいる。すなわちQ2は、ファリサイ派の改革路線をその全体において否定しているのである。このような全面的な対立は、Qの人たちが推し進めようとしていた神の国運動のライフ・スタイルとファリサイ派の改革路線とが真っ向から衝突したことを意味する。なぜそのような厳しい対立が生じたのだろう?
 Qの人たちとファリサイ派とでは、社会変動に対処する姿勢が異なっていたからである。ファリサイ派の場合には、準拠すべき正統ユダヤ教があったから、従来の律法解釈で柔軟に対処することができた。ところがQの人たちの場合には、そもそも準拠すべき規範それ自体が確立していなかったのである。Qの人たちの宗教的な背景には、東地中海全域に広がるヘレニズム・ユダヤ教があり、さらにパレスチナ全域を包含する多様な宗教的伝統があった。したがってQの人たちは、パレスチナ全土を覆う社会的な激動だけでなく、その激動にさらされることで先鋭化した民族主義的なユダヤ教のかかえる危機をも、二つながら自分の内部に抱え込むことになったのである。この結果として、Qの人たちが深刻な内部対立に追い込まれたと推定される。Qの人たちにとっては、ユダヤ教のアイデンティティをめぐる問題は、ファリサイ派とは異なり、パレスチナの人たちが共有できる宗教的・社会的な価値観の形成と不可分な関係にあった。いわばQの人たちは、ユダヤ教の諸派をも含めて、これまでのどの宗派も出合ったことのない問題に直面したのである。
 Qの人たちと洗礼者ヨハネの集会との関係もこの時期に注目される。Qの人たちは、洗礼者ヨハネの集会よりもはるかに汎パレスチナ的でありヘレニズム的であった。なぜなら、洗礼者ヨハネの運動は、基本的にはユダヤ教の伝統の枠を超えるものではなかったからである。洗礼者ヨハネの運動は、ファリサイ派と拮抗するものではあったが、その律法遵守の基本的な精神においては、ファリサイ派と根底から異質なものだとは言えない。イエスの人たちの集会は、この点でファリサイ派とは決定的に異質であった。ユダヤ教的な正統性は、律法とこれの遵守によるきよめを規範として、その結果生じる聖なる民と俗なる民との「分離」(「ファリサイ」の語源)を基本としていた。したがって、クムラン宗団(とこれを中心とするエッセネ派)とファリサイ派とでは、律法の解釈や方法において違いはあっても、律法→きよめ→分離こそ「完全」に至る道であるとする基本線では一致していたのである。
 Q1のテキストには、「父は悪人にも善人にも太陽を昇らせ、正しい者にも正しくない者にも雨を降らせてくださる」(マタイ5・45)とあり、マタイ福音書ではこの後に、「あなたがたの天の父が完全であられるように、あなたがたも完全な者になりなさい」加えられている。マタイ福音書の背景にある諸教会は、Qの人たちに近いとされているから、ここで言う「完全な者」は、Qの人たちの伝承を引き継いでいると言えよう。ここには、ファリサイ派の主張する「完全な道」について、従来の基本理念を根底からくつがえす内容が秘められているのを見ることができる。クムランでは、「完全な道」(『宗規要覧』3)とは、罪人や悪人から完全に分離することを意味していた。一方、Qの人たちでは、「完全」とは、善い者にも悪い者にも公正に愛を注ぐことなのである。ここには、律法に基づく愛敵と憎敵の二分法は見られない。それは敵からの分離ではなく敵の包含なのである。イエスにあっては、「悔い改め」は、それによって俗なる者から分離するための一歩ではなく、徴税人や罪人をも赦して包含するための一歩であった。わたしたちはここに、律法によって分離にいたる「完全」と赦しによって包含にいたる「完全」とが、互いに鋭く対立しているのを見る。
 洗礼者ヨハネの集会からQの人たちへの流入は、Qの人たち自体にも影響を与えずにはおかなかった。わたしたちは、この影響をQ2の段階で顕著になる黙示的終末観に読みとることができる。これは、イエスの人たち(Q諸集会)の初期の段階には見られなかった傾向である。しかしながら、ここでも、わたしたちは、洗礼者ヨハネ共同体とQの人たちとの終末観の違いに注意しなければならないだろう。洗礼者ヨハネの集会の終末観は、そのメシア待望の信仰においても、ファリサイ派のそれと本質において異質なものではなかったであろう。しかし、Qの人たちの終末観は、このどちらとも本質的に異なっていた。それは、Qの人たちが、終末の到来をイエスというひとりの神的人格に結びつけていたからである。
 「彼らがなんと言おうとも、知恵の子らは彼女の正しいことを証しする」(ルカ7・35)とあるように、Q1にはなくてQ2になって現われるのが「知恵」である。ルカ福音書では、「知恵」が、ファリサイ派と律法の専門家たちによる激しい弾劾を引き起こす根拠なっている(11・53)。このようにQ2に現われる「知恵」は、ユダヤ人、特にファリサイ派と律法学者に向けられた非難と関連づけられていて、その際に「知恵」が、異邦人とユダヤ人とを対照させる根拠ともなっていることが注目される。「ユダヤ人はしるしを求め、ギリシア人は知恵を探す」(第一コリント1・22)というパウロの言葉では、「知恵」が、正統派のユダヤ教への対立として、ことさらに「異邦人」と結びつけられている。ファリサイ派の律法主義を念頭に置くとき、これに対抗する根拠として、Qの人たちが「知恵」をいわば自分たちの拠り所と考えているのが見えてくるであろう。Q2の人たちのこの「イエス主義」こそ、ファリサイ派の唱える正統ユダヤ教の律法主義と鋭く対立するエートスであり、「知恵」はこのエートスを支える重要な意味を担っていたと言えよう。このようにして私たちは、Qの人たちがイスラエルの歴史の未曾有の危機に直面した時期に、なぜ「知恵」をその拠り所としたかを理解することができる。
 私たちはQの人たちがどちらかと言えば知識階級に属することを知っている。福音は人々を二つに分ける働きを持つ。しかし、分けるのは分離のためではなく、逆にいっそうの包含へと信仰の次元を拡大し、より広くさまざまな宗教の人たちに向けて自分たちの信じる「イエスの言葉」を語り伝えるためであるのを彼らは理解していた。このことは、時として内部分裂を招き、また自分たちのアイデンティティさえも危機にさらすことになった。しかしその信仰が、逆に危機を克服する新たな創造へとつながったのである。彼らもまた、イエスの「知恵の御霊」の跡を歩んだパウロと同じように、イエスの「知恵の言葉」をより大きな次元へと広げていったのである。

諸伝承から福音書へ

 最後に福音書の背景について簡単に触れておきたい。マルコ福音書(70年~75年)の著者は不明であるが、ペトロ系の諸教会が背後にあるのではないだろうか。この福音書には、イエスに関する口頭伝承やガリラヤでの復活伝承、たとえ話と論争(文書化?)のほかに、奇跡物語、受難物語、それにQなどの文書が用いられている。アレクサンドリアかローマで書かれたという説もあるが最近ではガリラヤ北部説が有力である。
 マタイ福音書(85~90年)の著者は、マルコ福音書のほかに、受難・復活物語とQ3文書を用いている。イエスを「知恵の教師」として、また「天国の王」として描いているなどユダヤ人キリスト教徒の諸教会が背後に予想される。Qの人たちによって書かれたという説もあるが、アンティオキア教会で早くからこの福音書が知られていたから、この教会が背景にあると見ることができる。
 ルカ福音書(80~90年代?)と使徒言行録(85~95年?)の著者は、知識人でユダヤ教親派の異邦人キリスト教徒であると考えられ、パウロ系の諸教会が背後にあると思われる。ここでは、マルコ福音書のほかに、受難・復活物語やQ3文書、さらにルカだけの資料(アンティオキア教会から?)も用いられている。書かれた場所は小アジアか? あるいはローマか? トマス福音書(90年頃?)は、シリア東部のエデッサのユダヤ人キリスト教徒の集会から生まれたと思われる。この福音書ではQ2が用いられているが、ペトロよりもマグダラのマリアのほうがイエスの弟子として優れている。このため後のキリスト教的ユダヤ・グノーシス思想の原点と見なされている。
 ヨハネ福音書(90年~95年)は、シリア南部のガウランティス地方にいたヨハネ共同体から生まれたとされる。この共同体もユダヤ人キリスト教徒が主流であるが、独特の「知恵の集会」である。またこの共同体は、マルコ福音書を生んだペトロ系の諸教会ともトマス福音書を生んだ教会とも関わりがあったようだ。受難・復活物語は、60年~65年頃に成立したと考えられるが、これと「しるし物語」とが結合して、「しるし福音書」とでも呼ぶべき文書が形成された(Fortna The Fourth Gospel.)。これが原ヨハネ福音書となったと考えられる。著者は「長老ヨハネ」と呼ばれる人物か? 原ヨハネ福音書は、さらに集会内で編集が加えられて、現在のヨハネ福音書が成立した。伝承によれば、ヨハネ共同体はエフェソと関わりが深く、この共同体は、85~90年頃?に、エフェソへ移住したとも考えられる。
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