第2講 ノアの洪水
知恵の堕罪
 楽園においてアダムとエヴァが、神の知恵を奪取して、自分たちが神のようになろうとしたことから人間の堕罪が始まった。奪取された知恵は、人間の欲望と結びついて奇怪な知恵へと変質した。言うまでもなく、知恵の堕罪とは、神の知恵それ自体の堕落ではなく、人間がその知恵を己の支配下におこうとしたとき、知恵に具わる神性が失われたことを意味する。しかし聖書のこの物語にはひとつの謎がある。蛇がエヴァを唆して罪を犯させたことである。この蛇の正体はなんだろうか? これを探ると、創世記6章1節から4節で語られているもう一つの興味深い話へとつながる。
 6章のこの箇所で「神の子ら」(新共同訳)とあるのは天使たちを意味する。彼らは人間の女性と結ばれて「ネフィリム」を生んだ。「ネフィリム」の動詞形は「倒れる・堕ちる」の意味で、その上、七十人訳ではこれが「巨人たち」と訳されたから、後には、ギリシア神話の影響を受けて、彼らはゼウスに叛逆するタイタン(巨人)たちと結びつけられた。これが「叛逆した天使たち」の堕罪物語の始めとなる。彼らが人間の女と結ばれて悪霊が人間に宿るのを恐れた主は、人の年齢を120歳に制限した。5章で語られる人間の寿命と比較するとずいぶん大幅な削減になっている。ただしこの部分は旧約聖書でも最古の伝承に属しかつ編集の手が加わっている。おそらくこの年齢制限には、『アトラ・ハシース』で見たように、本来は人口増加を防ぐ意味がこめられていた。『アトラ・ハシース』では「人間の数が増えすぎた」ことが神々による洪水の原因とされていた。同じように、創世記の「神の子ら」と女たちの結婚は、これに続く洪水物語への導入部となっている。このため特に捕囚期以後から、この四つの節が大いに注目されて、第二の楽園喪失物語へと発展することになった。
 これら堕落天使たちの長がサタンである(ヨベル書10章)。しかし彼は、神に仕える天使であったというのが通説になっている。ヨブ記には、このサタンが「ほうぼうを歩き回っていた」(1・7)とある。いったい彼はなんの目的で巡り歩いていたのだろう? どうやら彼にはもともと、人間が悪を犯さないように常に監視し、かつ罪を罰する役目を神から与えられていたらしい(ニール・フォーサイト『古代悪魔学』)。このような「見張りの天使たち」が神々の会議の中から神によって派遣されていたとダニエル書(4・14)は伝えている。
 ところが、この天使たちのある者は、人間の罪を罰するという神から賦与された本来の権限を自分独自の判断で勝手に行使する誘惑に陥ったらしい。こうして神に属する権限を奪取しようとするおそるべき叛逆が生じることになった。人間を悪から守り、罪を罰するはずの天使たちが、監視し告発し訴えることで、彼らの恐怖政治の支配下に人間を閉じこめようと意図するにいたったのである。彼らは、神に人間を告発し訴え続ける「神と人間の敵」へと転じた。「ほうぼう巡り歩いてきた」というサタンの言葉の裏には、このようなかつての「神の見張り役」の意味が潜んでいるらしい。堕落天使の長サタンは、蛇に入り込んで自分たちと同じ叛逆の罪へとエヴァを唆したことになる(『アダムとエヴァの生涯』7段以下)。サタンとその手下たちは、このようにして、巨人たちをして地上に暴力が満ちるように仕向け、彼らによる暴虐が洪水をもたらす直接の原因になった(エチオピア語『エノク書』7章以下)。
ノアの知恵
 堕落天使たちのこのような悪の知恵と対照されるのがノアの知恵である。主が堕落した人間から取り去ろうとしたのは「わたしの霊」(6・3)すなわちヤハウェの霊である。堕落天使のゆえに取り去られるこの霊こそ、ノアに注がれていた「知恵の御霊」にほかならない。このヤハウェの御霊は、以後のイスラエルの預言者たちに注がれるヤハウェの御霊(サムエル下23・2)の源流となる。しかも、洪水物語では、ノアに注がれたこの霊は、すべての息のある被造物ともつながっていることに注意しなければならないだろう。
 ノアは前回述べたアトラ・ハシースやウト・ナピシュティムの系譜に属する賢者である。だから彼もまた神に向かって人間のために執り成す役目を与えられている。「ノア」という名が「慰め」(5・29)を意味すること、またその名が神に対する「ニホーアハ・宥め」(8・21)と関連すること(関根正雄訳『創世記』注)もこのことを示す。私たちはここでも神の怒りと憐れみの間に立たされて、執り成し調停する知恵の働きを見る。
 堕落天使の存在は、人間に働く悪の力について、ふたつの解釈を可能にする。悪は人間の力を超えたところから働くのだろうか? それとも人間が主体的に選び取るのだろうか? 前者の場合には、人間の罪もいくらか軽減されることになろうが、それでも神の似姿である人間は、罪に対する責任を免れることができないだろう。人間に働く悪のこの二重性にどのように対処するべきか? ノアの執り成しと彼の知恵の大事な役目がここにもあるが、この疑問は、新約の時代以後まで尾を引く大きな問題へと発展することになる。
 ところで神の知恵もまた、「ほうぼう巡り歩いて」宿り場所を求めた。この意味で知恵は、人類のどの時代、どの民族、どの文化にも共通して普遍的に与えられている(使徒17・26〜27)。パウロが、人間は誰でも自然界の被造物を見ることで神を知ることができるはずだと言ったのは(ローマ1・20)まさにこの意味である。しかし、この知恵はどこにも休み場所を見出すことができず、ついにイスラエルに宿ることになった(シラ書24・8)。サタンがほうぼう巡り歩いて人間を告発し続けるとすれば、この「知恵」もまた慰めと執り成しを与え続けていることになる。
洪水物語の編集
 ソロモン王国の頃か、あるいは捕囚期かに、旧約聖書のいわゆる「ヤハウェ資料」を編集したと考えられる人物がいる。彼はヤハウィストと呼ばれ、ソロモンの知恵の時代か、あるいはイスラエルの民がバビロニア文明に接した時代かに生きた人で、イスラエルの預言・歴史伝承に通じていて、第二イザヤに大きな影響を与えた。彼は同時に古代バビロニアの伝承にも通じる視野を持っていて、第二イザヤに唯一神教の場を提供し、知恵伝承によって、ユダヤ教により自由で人間的な要素を加えた(Van Seters The Life of Moses)。さらにこれとは別に祭司資料というのがあって、これは捕囚期にバビロンで編集された。ところがこれらと並行して捕囚期あるいはそれ以前から、申命記史家と呼ばれる人(単数か複数か?)が編集を進めていたというのが学界の通説になっている。ヤハウィストにも申命記史家にもまだ学問的に不確定な要素が多い。だが大事なのは、聖書では、文献的に見て明らかに異なる資料が用いられていることである。
 ノアの物語はヤハウェ資料を基にしているが、祭司資料によって完全に編集し直されている。しかし、現代の文献学によって、ヤハウェ資料と祭司資料とを選り分けて、両者を識別することができるようになった。洪水物語では、祭司資料とヤハウェ資料は、創造物語の1章と2章のようにふたつ並んで出てこないで、両方がより合わされている。ヤハウェ資料が含まれる部分は8章で終わり、9章は祭司資料に分類される。前回メソポタミアの洪水伝説をとりあげたが、ノアの洪水物語は、バビロニアの洪水物語を直接下敷きにして語られているとは思えない。聖書では物語が「ヤハウェの霊」の視点から解釈し直されて大きく変容している。しかしバビロニアの洪水物語と共通するさらに過去の口伝か文書があったのかもしれない。
暴虐と流血
 洪水の序曲は、「大地は荒廃し、地上には暴虐な流血が溢れていた」(6・11)で始まる。「ハーマース」とは直接的な暴力による流血や犯罪を意味するだけではない。それは権力者たちが、法を曲げ偽りの裁判によって民を搾取する圧制をも指す。だから、ここでの「暴虐」は、個人だけでなく社会的、国家的な領域をも含んでいる(Theological Dic. of OT.IV)。「神の子たち」は、人間の力を超えた悪霊であるだけでなく、地上の権力者たちにも力を及ぼすのである。
 これらの「暴虐」は人間の責任なのか? それとも人間を超えた力なのか? シナイ契約とこれに基づく律法は、この点で人間の責任を明確にしている。しかしノアの場合、少なくともヤハウェ資料の段階では、そのような契約思想を彼はまだ知らない。しかもこれらの暴力と流血は、人間だけでなく自然にも及び「大地は傷つけられ荒廃していた」(6・11)のである。暴虐が、人間と自然を取り囲み、自然さえも人間に向かって叛逆し、洪水をもたらす結果になった。
 ノアは箱船から3度鳩を放っている。鳩は航海の時に水夫たちが利用していた。彼が社会情勢を深く洞察していただけでなく、自然界の知識にも通じていた知恵の人であったことを、ヤハウェ資料はこの記述でさりげなく語っている。しかもノアは、物語の間中、一度も言葉を発しない。ノアの知恵は神に向かってひたすら沈黙する。しかし彼は、神の知恵が「その響きは全地に、その言葉は世界の果てに及んでいる」(詩編19・4〜5)ことを知っていた。ノアが世の権力者たちに働きかけるもろもろの不法を見抜くことができたのは、神だけがこの世の本当の支配者であり王であることを知っていたからである。その上で、人間の悪でさえも神のご計画の内に取り込まれていることを彼は洞察していた。
現代の暴虐
  「力」が「不法に」用いられるとそれは「暴力・暴虐」に転じる。現在の世界では、5種類の「暴力」が働いている。家庭内暴力のような個人の暴力がある。権力者による圧政がある。世界を一瞬のうちに巡り歩いて国と民を搾取する資本(特にヘッジファンド)の暴力がある。しばしば不当に行使される国家の武力がある。その上にもう一つ、「知力」(intellectual power)という名の暴力がある。徹底した論理は論理それ自体の力で働くから、そこには人間への思いやりはない。「知力」は「知恵」ではない。「ロゴス・理性・理論」がギリシア的な「知」に徹するあまり、知の暴力に陥るとき、「ソフィア・知恵」はロゴスから離れる。5種類の中で、最も恐ろしいのはこの知の暴力である。「人の心が図る想い」(創世記6・5)こそ悪の根源だからである。「暴虐」のヘブライ語には「不法」の意味も含まれる。「不法」は必ずしも法律に違反しているとは限らない。「不法な」税金がある。「不法な」戦争がある。「不法な」企業買収がある。「不法な」解雇がある。けれどもそれらは「合法的に」おこなわれている。「不法な」行為も法律によって「正当化」することができる。だが、法によって正当化されることが神の前に義とされるわけではない。「義」と「合法」とは同じでない。不法は「正当化」できる。しかし不法は「ツェダカー・義」ではない。不法の反対は合法ではない。不法の反対は神の義である。
ノアの執り成し
 人間が悪に支配される傾向を有するのは、人間が社会的な生き物だからである。悪は人間が創り出す文明それ自体に組み込まれているから、その中に生きる人間が悪をおこなわずに生きることはできない。「人間は幼いときから悪をおこなう」(創世記8・21)のだ。暴虐で偽りに満ちた権力者どももまた、彼らの上に立つ霊力に操られている。自然は荒廃し、人は憎み合い、国は戦争に明け暮れている。これがノアの目に映った世の姿であった。
 しかし彼は、人間を支配する権力や悪霊以上の力を知っていた。人間が偽りと流血に明け暮れ、自然が平和な姿を変えて凶暴な顔を向けるときでも、彼はもろもろの暴力の上に、これらの悲惨な現状をさえ克服できるお方がおられて、その「霊」を地上に遣わして人のために執り成し、そうすることによって世の暴力と闘っているのを知っていた。この霊は、被造物と共に「今にいたるまで呻き苦しんでいる」(ローマ8・22)神の「知恵の御霊」である。この御霊に励まされて、ノアは、この世を神の呪いの内に閉じこめようと働く力に抗して執り成しの祈りを続けることができた。これこそ人と自然の奥からノアに顕われて輝く光であった。洪水の後で主がノアに次のように言われたのは、彼の執り成しが受け入れられたことをあらわす。「人が悪をおこなうのは避けられない。にもかかわず、わたしは二度と地を呪われたものとは見なさない」(創世記8・21 Gerhard von Rad Genesis)。人間の原罪に向けられたこの驚くべき絶対恩寵、これこそノアに顕わされた福音の原点である。
 ノアへの契約は、人が平和に暮らすことのできる自然の有り様を約束する(8・22)。そこには生きとし生けるものと共生する思想がある。彼は、いわゆる宗教的な基準、「きよいもの」「きよくないもの」の区別にはこだわらず(創世記7・8)、すべての生き物に目を留める。神が人間の罪を赦されたのは、必ずしも契約と律法に基づくのではない。それ以前に、ノアの執り成しの祈りによる神のみ心から出たものなのである。彼の受けた神からの啓示が「原福音」(proto-evangel)と呼ばれる理由がここにある。
虹の契約
 メソポタミアの神話では、人間の数を減らすことと洪水とが関連していた。ところが9章で祭司資料は、「産めよ、増えよ」(創世記9・1)という神の祝福で物語を終わらせている。ひとつには捕囚の前後にイスラエルの民の数が激減したことがここに反映しているのかもしれない。だがそれ以上に、この祝福は、創世記1章の神の祝福を踏まえていて、祭司資料が、洪水後の世界を「再創造」への出発点と位置づけたことを意味している。
  古代メソポタミアでは、神々はまだ太古の海から天空にいたる住まいにいて人間と関わっていたから、人間は自然とそこに住む神々と直接向き合って暮らしていた。ところがノアは、自然のかなたにあって自然そのものを創造する神を洞察したのである。人間はここで初めて、人間と自然それ自体を創り続ける神と出会うことになる。自然は人間に、恵み深い顔と恐ろしい顔の両相を向ける。だがノアの知恵は、その奥におられるお方を洞察する。そのお方と人間とが自然を間にして契約を交わすことで、神と自然と人間との間に調和と平和が確保されることをノアは知っていた。こうして「原初の深淵」(創世記7・11)から再創造がおこなわれ、新たなエデンが生まれた。この新しい楽園では肉でも食べることができる(創世記9・3)。
  しかし祭司資料の編集者は、人間に恵みを与える「平和な自然」が保たれるためには、ひとつだけ禁断の樹があることを知っていた。「命それ自体を食べない」ことである(創世記9・4と6)。血は命であり、動物を殺しても、命は神のもとへ返してから肉を食べなければならない。こうして神と人とが、自然を間にして契約を交わすことで人の責任が明確にされた。契約は、人間に授与された神の知恵を堕罪から守る大事な機能を持つ。人間は神の似姿であるから、その命である血を流すことは許されない。金力で、権力で、武力で、知力で人を殺さないこと、祭司資料が私たちに発している唯一の警告がこれである。アブラハム契約、シナイの契約、モーセによる律法授与、それらに先立ってノアへの契約があった。だからそれ以後の契約も律法も常にこれに立ち返って吟味されなければその本質を見失う。ノアは宥めの供え物を献げる。ノアの捧げた全焼の供え物は、立ちのぼる煙となり、ノアの祈りとなった。契約も律法も、そして宗教も、常にここから出発しなければならない。
 契約の「しるし」は、この場合、裂かれた獣の肉の間を通り過ぎる神の奇跡ではなく、自然の中に現われる虹であった。虹は繰り返し現われており、これからも現われる。それだから、虹は一度限りの契約のしるしとはならないのだろうか? 自然は繰り返し神と人間との間に交わされたこの契約を思い起こさせないのだろうか?
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