第3講 モーセの神
国土を持たない神
 「ヘブライ」という言葉がいつ頃から用いられるようになったのかは明らかでない。創世記(14・13)ではアブラムが「ヘブライ人」と呼ばれており、ヨセフもまたそう呼ばれている(創世記39・14)。これで見ると「ヘブライ人」は人種あるいは民族を指していると思われるが、事はそう簡単でない。1886年にエジプトのアマルナで発見された粘土板文書群(アマルナ文書)に、エルサレム王アブドゥ・ヘパ(前1375年頃)からアメンヘテプ王に宛てた手紙があり、そこに「ハビル」という語が刻まれているのが認識された。手紙は当時の外交の公用語アッカド語で書かれている。当初この「ハビル」は、当時カナンに侵入しつつあったイスラエルの部族を指すと考えられた。ところがその後、この「ハビル」は、部族や民族名ではなく、ある社会的な階層を意味しているという説が浮上してきた。
 この語はおそらくアッカド語の「ハビル/アピル」から出ている。しかし、このアッカド語もさらにシュメール語の「逃亡者」「亡命者」から来ていると想定される。犯罪やその他の理由で土地を失ったり国を追われるかして脱出する人たちを広く指す用語であったらしい。エジプト語やウガリット語では「アピル」と言われ、この語は「不法者」「ならず者」の意味にも用いられた。ウガリット語では、用法がさらに広がり、都市の住民たちに一定期間契約によって奉仕する人たちをも指していた。いずれも「外国人」であるには違いない。エジプトでこの語は「外国人で建築などに雇われた肉体労働者」を意味していたようである。したがってこの「ハビル」には、様々な部族や人種が含まれていた。こうしてこの用語は、前2000年~1500年頃、青銅器中期から後期にかけてパレスチナを含む極西アジアで用いられるようになった。
 この時期、国々が群雄割拠し、各地に権力機構が成立するにつれて、負債を抱えた貧困層の農民たちが土地を奪われて奴隷になったり逃亡したりして、その結果、大量の「難民」が発生したと思われる。小国家群の境界が一定しないこともこのような「ハビル」を生んだ一因であったろう。こうして法令では支配できない階層が生まれてきた。「ハビル/アピル」の背景には、このように大きな社会問題が存在していたと推定される。したがってこの語は、本来社会的なもので、人種を指すものではない。彼らは居住者となった場合でも都市の居住者であって、農村の居住者ではない。いわば土地所有制度から排除された人たちであった。
 旧約では「ヘブライ人」は、社会的な階層よりもむしろ民族的人種的な意味に用いられている。しかし、この用語の背景に照らしてみると聖書の「ヘブライ人」の意味も単純ではなくなる。アブラハムは「移住の民で土地所有の権利を持たなかった人」として描かれる。ヨセフ物語で「ヘブライ人」はエジプトへ流れてきた民として差別されている(創世記43・32)。モーセの出生についても「ヘブライ人」が用いられる(出エジプト1・15)。これはエジプト人から区別された人種用語であるが、それでも「土地を持たない人たち」として、「建設に携わる外国からの労働者」の意味が加わっている(出エジプト2・11)。特に申命記では、7年目毎の負債の免除や奴隷の解放(15章)、王権に対する警告(17章)、逃れの町規定(19章)、逃亡奴隷の保護(23章)など社会的な弱者に対する細かい配慮がなされているのに注目しなければならない。興味深いのはサムエル記上(14・21)の「ヘブライ人」の用法である。この語は、ペリシテ人が周辺の不定住者への蔑称として用いていたのだろうか? ここでの「ヘブライ人」の全部がイスラエルの部族であったとは思えないから、この「ヘブライ」は古代の「ハビル」と似た用法ではないだろうか。ただし同書(29・3)でも「ヘブライ人」が人種的な意味で用いられている場合がある。
 モーセの召命の場では、「アブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神であるヤハウェ」(出エジプト3・15)とあって、この神が族長たちからのものであることが明言されている。ところがモーセは、エジプト王の前では「ヤハウェ、ヘブライ人の神が」(出エジプト3・18)と告げるのである。この「ヘブライ人」は民族名で、これに対して「イスラエル」は、宗教・政治的な共同体を表わすという解釈もある(Theological Dic. of OT. X)。だが、モーセがエジプト王にわざわざ「ヘブライ人の神」と告げているのは、この言葉に含まれる社会的な背景を抜きにしてその意義を正しく理解することができない。ここで言う「ヘブライ人の神」に、私たちは「土地(国土)を所有しない人たち」あるいは「国を脱出した人たち」を救うために顕現する神の姿を読みとることができる。こうしてアブラハムとモーセの両者に共通するのは、彼らに顕われた神が、「脱出者の神」という特徴を具えていることである。さらに一歩を進めて「ヘブライ人の神」御自身が、本来特定の「国土」に属さない神であり、その意味では「国土を所有しない」神であると言うことができる。この特徴がいかに重要な意味を持つかは、特定の国土と自然に根ざした「神々」の中にあって、なぜヤハウェが「神々の神」となり「王たちの王」と呼ばれるようになったかを考えてみれば理解できよう。
国土を与える神
 アブラハムの生涯は、ランド(国土・土地)を持たない神に従って国を出て、最後に土地を取得するところで終わる(創世記23・4以下)。モーセもまたこの神に導かれて「国土」から脱出し、その上で、土地取得の契約が授与される。私たちは「ヤハウェ、ヘブライ人の神」の本質がここに啓示されているのを見いだす。土地を持たないこの神は、己に従う民に土地を授与する。授与された民は土地を「耕す」ことによって、カルチャー(耕作・文化)を形成する。この神はこのようにして文化を「造り出す」。だが同時にこの神は、造り出された文化をその国土もろとも否定することもあえて辞さない。「ヘブライ人の神」は国土に根ざす文化の源ともなり、バベル物語に見るようにその敵ともなりえる。イスラエルの民の捕囚体験、1世紀のエルサレム滅亡、これらの受難を歴史家は「歴史の恐怖」と呼ぶ。私たちは一般的に、ある特定の国土に安住するカミが、そこに住みそのカミを拝む民を滅ぼそうと意図することを想像することができない。この意味で聖書の神は、いかなる国土にも属さないまさにそのことによって、人間の文化を祝福すると同時に「歴史の恐怖」ともなりえる。
 「歴史の恐怖」という言葉が示すとおり、聖書の神は、創造することも滅ぼすこともその自由な意志によっておこなうことができる。すなわちこの神は、人類の歴史を支配しているのである。なぜこのようなことができるのか? ヘブライの神は「国土」を所有しなかったが、その代わりに「時間」そのものを握ったからである。このことは、聖書の神が、やがて神々の神として人類の歴史を導くようになることと無関係ではない。この神は、メシアであるキリストの誕生を境に人類の歴史を2分して、そこに生起する様々な文明を活かすことも殺すこともする。古代バビロニアの宇宙観、古代ペルシャの宗教、ギリシアの哲学、ローマの法制度、アラビアの自然科学、中国の礼節思想、インドの神秘思想、日本人の無常観、イギリスの産業革命、アメリカ資本主義の産業・情報技術など、歴史に大きな足跡を残し遺産となる様々な文明が存在してきたし、今も存在する。ヘブライ・キリスト教はこれらに対抗できる文化や文明を自力で造り出すことはなかった。だが、人類が到達したこれらの成果を取捨選択し、諸文明、諸文化の特質を統合して、人類の未来を切り開くその主体となる「エール」(力・神)はいったいどこからくるのか? 言い替えると何があるいは誰が本当に人類の歴史を導くのか? ヘブライの預言者たちが洞察したのはこのことである。なぜ今ヤハウェなのか? なぜ今聖書の神なのか? その答えがこれである。
「ハーヤー」する神
 モーセが、燃えている柴の前でヤハウェに出会ったとき(出エジプト3・11)、彼は思わず「私はいったい誰でしょうか?」と尋ねる。自分が誰かを問うのは、一見意味をなさないように思えるから、新共同訳は「私は何者でしょう」と訳している。しかし、モーセはここで、自分という存在が先ず有って、その自分がどのような存在なのかを尋ねているのではない。彼は文字通り自分が「誰だか分からなくなった」のである。自分が誰か分からなくなるのは尋常でない。臨死体験の場合でも、自分の肉体から離れていく自分を自覚できると言う。自分の肉体とそこから離れる自分がいる。大事なのは、そういう自分を「見ている」もうひとりの自分が別にいることである。このように臨死体験でさえも、自分が自分であり続ける、という状況が可能である。
 ところがモーセは、ヤハウェに出会って、自分を見ている自分さえ分からなくなった。これは臨死体験よりもさらに奥の深い「自己喪失」である。神の啓示に出会う決定的な出来事とはこういうものであろう。イザヤも神からの火に触れて、「自分が消滅する」と思った(イザヤ6・5)。いわゆるエクスタシー(自分自身から遊離すること)以上のことがここで生じている。ここでは、自分が誰であり何者であるかが、神の内に隠されている。
 そもそも柴が「燃えているのに燃え尽きない」という現象は、どういうことを意味するのだろう? 人間は自分を主体として「そこから」周囲の事象を見る。事象は自己から切り離された客体として主体に映る。そこでは事象は対象化され、自己と区別されて客観化される。これが近代科学の認識の出発点であり、それ以降の「知」の基本的な有り様であった。しかしモーセが燃える柴の前でヤハウェに出会った状況には、そのような主体と客体との区別はない。そもそも主体となるべき自己自身が神の中に隠されているのだから。そこではいっさいが「神の顕現」に包まれていて、主観と客観の区別は消滅する。人間の内面を支配する神の言葉と現象する事との境界が無くなる時、「言(こと)」が「事」となる。自分が何者かという問いと燃えている柴とが、こうして神の「こと」の中で一体となる。そこに主体と客体がひとつになる主客一如の場が顕現する。これこそ、神が「ハーヤーする」こと、神の言葉が働き、神の御霊が臨在する「とき」に生起する「こと」である。例をあげるなら、自分の肉体と精神とが主体と客体との区別関係で認識されている限り、祈りによる神癒は起こりえない。それが可能になるのは、主客一如の場においてのみであろう。
  西洋の神は「有」の神として「実在する」神であり、その神観は理論的に武装されている。これに対して日本人の神概念は「空」であり、また仏教には「無」の思想があると言われる。しかし西洋の神観は、ギリシア的な存在論と結びついたところから出て来たのであって、それはヘブライ固有の神概念には当てはまらない。モーセが出会った神の名は、「わたしはある。わたしはあるという者だ」(出エジプト3・14〔新共同訳〕)と訳してあるが、原文に「わたし」が明言されているわけではない。「ヤハウェ」は本来動詞形から出た名前であり、これのもととなる「ハーヤー」は、「存在する」ことではなくて「成る」こと、どこまでも生成し続けていくことである。ヘブライ語の動詞には、ヨーロッパの言語のように明確な時制がない。ある動作がすでに完了しているか、未だ継続中かだけに焦点が当てられる。事象が「動くこと」自体に関心が集中していて、極端に言えば、「止まる」という動作は「まだ動いていない」あるいは「動くことが完了した」あるいは「これから動く」ことを内包する。だから生成し動くことそれ自体が「ある」のであって、それ以外に実在する何かが「存在する」わけではない。有賀鉄太郎氏は、「ヤハウェ」をみずから創造しつつ「一切のハーヤーをハーヤーせしめる主体」として、このような神観を「ハヤトロギー」と呼んだ(『キリスト教思想における存在論の問題』6章「有とハーヤー」)。彼は欧米の存在論的な神観とこの「ハーヤー」の神とを区別したのである。この神は、創造する働きそれ自体の内に「ある」のであって、それ以外に何らかの存在があるわけではない。
 ヘブライの観念では、ギリシア的な「時間」(クロノス)よりも、むしろ事が生起するその「とき」に関心が向けられる。この「とき」は物理的な「時間」ではない。万象は神の言葉が語られるそれぞれの「とき」の中で生成し消滅していく(コヘレトの言葉3章)。神が語る「とき」、時間と場所が一体となって「こと」が生起する。これが神の創造する「とき」であり、この「とき」は常に未来に向かって開かれている。それは過去を新たに啓示しつつ未来へのあらゆる可能性を内包する「とき」である。「いったい私は誰ですか?」という問いをモーセはこのような神の「とき」中で発しているのである。
「謎」の神
 モーセの神についてもう一つとりあげよう。民数記12章には、モーセが「クシュの女」を妻としたためにミリアムとアロンが彼を批判したことが語られている。ここで言う「クシュ」は、エチオピアではなくミディアンのクシャン族のことだとする説がある(Martin Noth Numbers.)。しかしクシュとミディアンとは同じでないから、この妻をツィポラのことだと特定することはできない。その上クシャンもやはりエチオピアのクシュと関連しているから、ここでの「クシュ」は、肌の色に関連づけた「黒い妻」を意味していて、ミリアムとこの妻との対比もこの点から理解されなければならない(CrossCanaanite Myth and Hebrew Epic.)。なぜミリアムは「クシュの妻」をめぐってモーセと激しく対立しなければならなかったのだろう? なぜヤハウェはこのためにミリアムを罰したのだろう? これがここでの「謎」である。ちなみに同じクシュ系で肌の黒いシェバの女王がソロモンに「謎」をかけに訪れたのも偶然ではないであろう(列王記上10・1)。
 ここで争われているのは、「主がモーセを通してのみ語られるのか」という問いにかかわる。このことが、「クシュの妻」とミリアムとの対立と結びつけられている点にこそ問題の鍵があろう(Noth Numbers.)。ノートも指摘するとおり彼女が異国の妻だからという理由だけで非難されているのではない。ではなぜなのか? 彼女が、モーセ以外の誰にも理解できない「黒い妻」だからである。それがイスラエルでは承認できない異教の民の女を意味したのかもしれないが、聖書はそのことには触れていない。ただ女預言者の地位にあるミリアムから見れば、この女は容認することのできない「黒い」存在だったに違いない。ミリアムは、アロンと組んで、自分たちにも預言の霊が注がれているとしてモーセの「独断」を非難した。ところが主はミリアムに対して激しく怒られたのである。ミリアムは「母の胎から出た死者」のようになり、穢れた者として隔離される。本来は追放されるべき「黒い女」への罰が、ここでは逆に「白い」はずのミリアムに課せられ、イスラエルの女預言者が排除され、異国の女が受容される。白い女性と黒い女性との価値関係がここでは逆転される。これが神のおこなわれる「ヒーダー」(謎・難問・たとえ)である。
 「ヒーダー」はイスラエルでは「知恵」と深く関係している。この間モーセは、知恵の人ノアと同じように、沈黙して一言も発しない。モーセは「地上のだれにもまさって謙遜であった」とある(民数記12・3)。彼はミリアムのために執り成しの祈りを捧げる。誰にも理解できない「謎」の答えがひとりモーセだけに顕わされ、主のなさることが示されるのは「信頼できるモーセ一人」だけである。主はモーセと「口から口へ、あらわに謎によらず語り合う」(民数記12・8)。彼は「主の姿を仰ぎ見る」ほどの親しい交わりにある。ここでのモーセは、旧約の誰よりも最もイエスに近いと言えよう。ヤハウェは、先にもモーセに後ろ姿を見せて、「私は恵もうとする者を恵み、憐れもうとする者を憐れむ」と言われた(出エジプト33・19)。後にパウロは、イスラエルが退けられ異邦人が受け入れられた時に、この「謎・神秘」の前で、ただ沈黙するほかはなかったのである(ローマ9・15)。
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