第5講 ソロモン王と知恵の時代
ダビデ王
 ダビデ王(在位前1010?~前970?)とソロモン王(在位前970/960?~前930/920?)の治世にあたる約80年間は、ダビデ王朝の最盛期であるだけでなく、イスラエルは、その宗教、文化、政治、経済のすべての分野にわたって絶頂期にあったと言える。ダビデが、イスラエルの歴史において王として重要な位置を占めることができたのは、ひとえに彼がヤハウェの御霊に忠実であったこと、すなわちその「ヤハウェ主義」にある。ダビデ特有の自在な霊性が、ヤハウェ主義という軸に貫かれていたからこそ、それ以後の歴史において、イスラエルの名君としての栄誉を確かなものにすることができた。ダビデが目指した王国、それはエルサレムを首都として、そこに置かれたヤハウェの神殿を中心とする強力な統一王国であった。この父の遺志を継いでこれを成就したのがソロモン王である。ダビデがその土台を作り、ソロモンがその上にヤハウェ王国という神殿を築いた。
ソロモンの即位
 ダビデ王の死期が迫ると、ダビデの四男のアドニヤが、ダビデの腹心の将軍であったヨアブと祭司アビアタルの支持を受けて王位につこうとする。これに対して、ソロモンの母バト・シェバは、預言者ナタンと祭司ツァドクと互いに図って、ソロモンを世継ぎとする旨をダビデに誓約させることに成功する(列王記上1・30)。その後ソロモンは、アドニヤとヨアブを粛清することでその王位を確立した。
 王位をめぐるこの騒動で、両者の対立をよく見ると、アドニヤ=アビアタル=ヨアブのグループは、ダビデがヘブロンで王位にあった頃からの仲間であり、これに対して、バト・シェバ=ナタン=ツァドクの組み合わせは、ダビデがエルサレムを首都とした後に登場する人たちであるから(列王記上2・11参照)、この対立は、ヘブロン時代のヤハウェ主義者たちとエルサレム時代以降の人たちとの対立としてとらえることもできる。エルサレムは、ダビデによって占領されるまでは、カナンの先住民エブス人の町であったから(サムエル記下5・6)、両者の争いをヘブロン時代のヤハウェ主義者たちとエブス=カナン文化を背景にするエルサレム時代の人たちとの対立と見ることもできよう。
 しかし、こういうヤハウェ主義対エブス=カナン主義という解釈は、前回述べた「受容と拒否」の見方に照らしてみるなら、事態を単純化し過ぎていると言えよう。異なる宗教的霊性の出合いがあるところには、必ず両者のなんらかの融合が生まれる。その結果、伝統的なヤハウェ主義に新たな可能性と転機が訪れ、同時に、それまでのカナン文化の残滓は排除される。こうしてヤハウェ主義は変容を遂げ、エブス=カナンの霊性はその役目を終える。王権交代という危機的な状況にあって、イスラエルは大きな転機を迎えることになった。ヘブロン時代からのヤハウェ主義を固守するのか? それとも王権交代を契機に、新しいヤハウェ主義へと創造的に発展するのか? ダビデ王朝の宗教的霊性の有り様が、この時その岐路に立たされた。
 父の遺志を継ぐソロモンが王位を継承することで、イスラエルは、エルサレムを中心としてカナン文化圏一帯を「ヤハウェ化する」方向を目指すことになった。列王記全体を通じて、「知恵」という言葉がソロモンの記事に集中して表われる。主から知恵の霊を注がれたソロモン(列王記上3・12)は、この事業を成し遂げ、一大ヤハウェ王国を築くことに成功したと言えよう。列王記上(3・6~9)のソロモンの祈りは、それまでのイスラエルのだれもが予想しなかった事業にソロモン王が直面していることを示している。
ソロモンの行政
 ソロモンは王国を12の行政区に整理することから始めた。その際彼は、必ずしも伝統的な12部族の境界にこだわらず、またカナンの住民を組み込むことをも恐れなかった。ただし、エルサレムがあるユダだけは行政区に含めなかった。その上で12名の知事を各区域に配置した。行政区を設置した目的のひとつが課税であったから(列王記上4・7)、ユダ部族には税の面でも特権が与えられたようである。エルサレムには、ソロモン王と9名の側近たちがいて全国を統治していた(4・1~6。ただし4節のツァドクとアビアタルは後の加筆)。ダビデの側近には軍人が多く、知事は軍事の際の守備隊長をも兼ねていた。これに対しソロモンの行政官には祭司が含まれていて、課税と宗教政策が行政の重要な目的であったことが分かる。これは後に述べる神殿と宮殿の建築のためでもあった。
 ソロモンは各地区に砦を築いて軍隊を配備することも忘れなかった(列王記上5・6)。彼は軍よりも文の王であり、優柔不断であったと言われるが、この見方は誤りである。ただし、軍隊の配備は周辺諸国に確固とした力を示すためであり、彼の基本政策は、軍事力による征服ではなく、交易を目的とする平和外交にあった。だから彼は、あえてペリシテを征服せず緩やかな支配に止めた。こういう彼の「知恵」による平和外交を「弱腰」と誤解してはならない。こうして、税制と軍隊の配備と同時に、中央の大祭司たちを頂点として、各行政区に対する宗教的な教化政策が推し進められた。ダビデ時代の軍事優先から、国際的な経済活動と宗教的な教化へと政策を転換させること、これがソロモンの行政のスタートであった。
ソロモンの外交
 ソロモンは、軍事力によって自国の版図を拡大しようとはせず、むしろ周辺諸国との提携を図った。とりわけ彼は、ツロの王ヒラムと対等な条約を結んで(列王記上5・26)その同盟関係を強化した。ソロモンの外交は、条約だけでなく、広範囲な結婚によって周辺諸国と結ばれるという政策となって表れた。彼はエジプトとの関係を安定させるために、ファラオの娘を自国の宮廷に迎え(列王記上9・24)、その後次々と諸国の貴女を迎え入れて周辺諸国との関係の安定を図った。 
 この際、彼が目指したのは、諸国との直接貿易だけでなく、各地の通商の要所を押さえることによって国際貿易網を広げ、イスラエルを貿易立国として発展させることであった。彼は、航海と貿易の国ツロの王と組んで紅海(アカバ湾)への出口を獲得し、そこからアラビア半島沿岸全域との貿易路を確保し(列王記上9・26以下)、これによってオフィルの黄金に代表される莫大な利益をあげることに成功した。こうしてイスラエルは、エジプトとメソポタミアの間に位置する強大な経済大国になったのである。シェバの女王が財宝を積んだ駱駝をともなってソロモンを訪れた話は(列王記上10章)、ソロモンの「知恵と愛」の物語に彩られているが、そこには、イスラエルとの提携とこれに伴う貿易の拡大を目指す女王の意図があったのは間違いない。このように、国内でのヤハウェ化の徹底とその国力をバックにした広い国際的な提携がソロモンの統治政策の要(かなめ)となる。
ソロモンの神殿
 神殿建築は、ソロモンの時代を象徴する国家的事業であった。しかし彼の神殿建築は、父ダビデの遺志を抜きには考えることがでない。神殿建築の記事は列王記上6章と7章(13~51)に語られていて、完成まで約7年かかっている(6・38)。しかしここに不思議なことがある。神殿建築の記事に挟まれて、ソロモンの宮殿建築の記事が短く述べられているが(7・1~12)、6章2節と7章2節とを比べてみると、神殿より宮殿のほうがはるかに大きく、これの完成に13年もかかっている。規模の大きさから見ると、神殿がまるで王宮の「礼拝堂」のように見える。この規模の違いと、規模に反比例する記事の扱い方はどういうわけだろう?
 ソロモンの神殿は、王宮から独立しながらもこれに隣接して建てられている。神殿と王宮とのこの様式は、カナンの神殿建築にも見られる。これは、王宮と神殿とが密接な関係にあることを示しているが、どちらがどちらに「付属している」のかを見分けるのは難しい。だがソロモンの場合には、王の宮殿が神殿に所属するのであって決してその逆ではない。列王記上3章のソロモンの祈りはまさにこの理念を語っていて、このことを示すために、神殿建築の記事が宮殿に比べてはるかに詳細なのであろう。ソロモンは、イスラエルの王のだれよりも祭司に近い地位にあるように見える。こうしてかつての部族連合を支えた「幕屋の神」は、今や大君主国の主神となった。
 神殿建築の時期を語る月の名前はカナンの暦によっている。ただしその開始が、「出エジプトから数えて480年目」(6・1)とあるのが注目される。神殿は至聖所と聖所と前室とに分かれていて、至聖所が段高くなっているが、これもカナン=フェニキア様式に見られる。入り口に立つ2本の柱、ヤキンとボアズ(7・21)を初め、神殿の備品はすべてツロから招かれた青銅工芸の職人ヒラムと彼のもとにいる職人たちの手で製作されていて(7・13~14)、それらは当時のカナン文化の粋を集めたものである。柱頭を飾る百合の花は、古代メソポタミアでは月の女神または女王を象徴していた(中世のヨーロッパでは百合は聖母を象徴し、16世紀のイングランドではエリザベス女王の表象)。イスラエルでは、百合は清浄な乙女の表象であり(雅歌2・2)、白い百合と対照的な赤い石榴(ざくろ)は、豊穣の表象で、永遠の生命の象徴としてアッシリアの宮殿にも植えられていた。出エジプト記(28・33)の石榴もこの意味を帯びていて、エルサレム神殿の柱頭を飾る石榴もおそらくこれと同じ表象であろう。
 青銅の「海」(列王記上7・25)も百合の形をしていて、12頭の牛に支えられている。この「海」はおそらく、清めの水という実用のためだけでなく、古代メソポタミア神話に現われる生命の起源としての「原始の海」とつながるのであろう。10台の台車はケルビムと獅子となつめやしで飾られている。ケルビムとなつめやしは、台車ばかりでなく、神殿の内装と扉にも用いられている(6・29~32)。なつめやしは、古代メソポタミア時代から聖なる樹として「命の樹」を意味するが、ここではヤハウェの栄光を現す表象である。
 このように、ソロモンの神殿は、その様式から内装、備品に至るまで、古代からのカナン文化に彩られている。にもかかわらず、この神殿は、紛れもなく「ヤハウェの栄光を示す神殿」(9・3)である。神殿はその国と文化の粋を集めていて、その民の宗教性を表現する。そうであるなら、ここに見られるのは、まさにカナン文化のヤハウェ化にほかならない。この神殿は、ソロモンの王権と不可分であり、ここに、エルサレムの神殿を中心とするヤハウェの祭政致国家が成立したのである。
ソロモンの知恵
 ソロモンには「神の知恵」が宿っていたとあるが(3・28)、この知恵(ホクマー)とはどのようなものなのだろう? 知恵は、長らく旧約聖書の神学において、律法(トーラー)や契約に比して周辺的な地位しか与えられなかった。全宇宙を秩序立て、あらゆる事象を生じさせる神を洞察するのが知恵の働きである。この知恵を中心に据える時に見えてくるのが「創造の神」である。知恵は、民族、人種、性別を超える普遍性を有し、同時に宗教を現実体験と結びつける。現実は多様性に富むゆえに、知恵もまた多様な姿となる。宗教とは、互いに矛盾対立する霊的体験の諸現象から成り立つものであって、理念や教義の集大成ではない。知恵がソロモン王国において大きな役割をはたしたのは、知恵の教え諭す教育性とその非民族性にある。知恵の御霊の働きは、宗教の律法化や祭儀化を克服するのである。
 しかも、ここで語られる知恵は処世訓のことではない。箴言の知恵の編集はソロモンの宮廷時代に端を発し、そこで語られる「知恵」は、その起源において、天地創造にさかのぼる(箴言8・22~31)。したがって、ソロモンの知恵は、明らかに宗教的な領域に属していて、知恵は預言と並ぶ霊の賜物と見なされた。後にイザヤが、ユダ王国の為政者たちを厳しく責めているのは、彼らが、イスラエルがかつて有していたこのような知恵(イザヤ書11・2)を見失ったからである(イザヤ書5・20~21)。ちなみにイエスが「知恵」(ルカ7・35)と言うときには、まさにこの意味である。
 知恵は預言と異なり、実際の行政に携わる人や職人の工芸技術にも及んでいるから、この知恵の霊は、ひとりひとりの才能あるいは個性と切り離すことができない。だがそれは、御霊の世俗化を意味しない。逆にあらゆる技術や能力の「ヤハウェ化」を意図していたのである。この意味で、ソロモン時代の知恵は、ほとんどヨーロッパ中世の神学に等しい。「主を畏れることは知恵の初め」という箴言(1・7)の言葉は、世俗の処世術から人々を主に向かわせると同時に、ヤハウェ宗教を多様な現実へと結びつける重の働きを意味していたのである。ソロモン王国の知恵は百科辞典的な広さに及んでいる(列王記上5・9~14)。だからそれが目指していたのは、当時のカナン文化圏全体をヤハウェの御霊によって管理すること、すなわち「カナン文化のヤハウェ化」そのものにあった。
ソロモン王国の陰
 列王記上11章に入るとそれまでの王国の輝きが一変して暗くなる。ソロモンの周辺民族への寛容と国際結婚(当時のオリエントでは賞賛すべきこと)が、偶像礼拝と結びつけられ、さらに王国分裂の原因とされる。だがそこには、北王国滅亡後からユダ王国の捕囚期にわたる間のある時期にいた申命記史家(たち)によって、王権への批判をこめた編集がなされている(1節の「外国の」女も3節後半の「この妻たちが彼の心をまよわせた」も七十人訳では欠けている)。だから11章の13節までと32節~39節には王国を批判する後の視点が加えられている。とは言え、王はその人生の後半で、栄華と女性によって富の奢りと己の知恵への驕りに陥ったようである。ただしハダドの反乱(11・14以下)もレゾンの敵対(11・23以下)もソロモンから出たことではなく、父ダビデのヤハウェ主義貫徹の結果から生じたのを見落としてはならない(11・15の「征服した」は七十人訳では「絶滅した」とある)。ちなみにここでの「敵対する者」(サーターン)は後にサタンを意味する用語となった。しかもこれらの反乱は、ソロモンの堕落の結果ではなく、彼の治世の初めから常に潜在していた。ソロモンの寛容は妥協を生じて堕落を産んだが、ダビデの貫徹は聖絶を引き起こし敵意を産んだことになる。これがダビデ王朝の栄光の陰である。
 ソロモンの犯した誤りの第二に、その過酷な賦役と重税があった。王国はもともと北部のイスラエル10部族と南のユダ族との連合であって、ダビデが北部イスラエルの部族たちと結んだ対等な契約に基づくものであった(サムエル記下5・1~3)。ところがこの対等な契約関係をソロモンは無視したのである。このために、北イスラエルの部族にも重い税と労役が課せられ、このことが南北分裂の原因になった。北の預言者アヒヤが自分の外套を12切れに裂いたとあるが(列王記上11・30)、「衣」は霊を表象するからこれは霊的な分裂を象徴していた。
 ソロモンの知恵の黄金時代以降、王国はふたつに分裂し、預言者たちによる弾劾が厳しさを増す。やがて捕囚体験を経て帰還したユダヤ民族が、再びかつての王権を確立することはなかった。しかし、ソロモン時代の知恵は、それ以降も受け継がれ、箴言、ヨブ記、コヘレトの言葉、知恵の書、シラ書、ダニエル書、ソロモンの詩編などの知恵文学を産み、これがイエスの時代へと受け継がれることになる。
戻る