第8講 シラ書
シラ書の由来
 わたしたちは、ここで、旧約の続編であるシラ書の知恵に移ることになる。シラ書の1章には、この書の由来が述べられていて、これによると、「わたしの祖父イエスス」がヘブライ語で書き残したものを、その孫がエジプト(のアレクサンドリア)で(ギリシア語に)訳したとある。祖父の名前は、50章27節に「この書物を書き記したのは、シラ・エレアザルの子、エルサレムに住むイエススである」となっている。「シラ・エレアザル」というのは「エレアザルの子であるシラ」の意味であろうから、これによると著者と訳者の系図は、エレアザル→シラ→イエスス→その孫(訳者)ということになる。
 1896年に、シラ書のヘブライ語写本が発見され、また1948年には、クムランの洞窟からこの書のヘブライ語の断片が見つかり、さらに1964年には、マサダでヘブライ語の写本が発見された。ところがヘブライ語の断片には、著者が「シラの子であるエレアザルの子であるエシュアの子であるシモン」となっている。これだと著者の系図は、シラ→エレアザル→エシュア(イエスス)→シモンという系図になり、シラとエレアザルが入れ替わるだけでなく、エレアザルの孫である「訳者」がシモンという名の「著者」ということになる。おそらくは、ギリシア語訳の方が正しいのであろう。シラ書はシリア語訳では「ベン・シラの知恵」と呼ばれているので、この書をそう呼ぶこともある。「ベン・シラ=シラの子/子孫」という著者の名前は、ヘブライ語から由来するのだろうか。
 旧約続編のこの書には「集会の書」という副題がついている。この書がソロモン王の知恵の系譜に属するとみなされていたためか、コヘレトの言葉と同じように、集会で教えるための書という意味でこう呼ばれていた。あるいは紀元後に、ラテン系の教会で、聖職者の教育に用いられたのでそう呼ばれるようになったという説もある。訳者はエジプト王エウエルゲテスの38年に(すなわち前132年頃)エジプトに入ったと述べていて、それからしばらくたって翻訳を始めたとある。またシラ書の50章1節で、著者は、「オニアの子、大祭司シモン」(前220~198?)をたたえているから、著者はほぼこの時代の人であると考えられる。さらにアンティオコス4世エピファネスによるユダヤ教迫害には触れていないなどの理由を加えて、この書の著作年代は前190年頃と推定される。
知恵の主

 これらの引用からも分かるように、作者は、箴言の伝統にしたがって、人間的な賢明さを主に対する畏れと結びつけてとらえている。しかし、ここでは、知恵は、人間の側から主に向かうというよりも、むしろ知恵は、「聖なる方」である主とほとんど同じ高さから人間に向かい、人間を試み、場合によっては「苦しめる」のである。だから、ここでの知恵は、人間だれにでも本来具わる「賢さ」を指しているのではない。むしろ、作者が知恵に向かうとき、それはほとんど主に向かうことと同じ言葉で表現される。ところが、シラ書では、「主への畏れ」が、主の掟・律法を守ることとも結びついてくる。
 
 このように、「知恵を愛すること」と「律法を守ること」とが、「主への畏れ」によって両者がつながる。これがシラ書の特徴であると言えよう。ここでは、知恵は「主の律法」とほとんど一つになっているとさえ言える。だから、知恵は、ごく自然に律法への賛美へと発展していく。

知恵と律法
 知恵は、律法と同一視されることによって、シラ書ではもはや「個人の体験」ではなくなっている。知恵は律法とつながり、律法が知恵を人間にもたらすのである。いったい、このソフィアは、人間に向かい合っている神の秩序なのか、それとも人間によって実践される知恵なのか? ラートの指摘するとおり、私たちはこの両方の間の不均衡に戸惑うことになる。しかし、作者は、知恵と律法とを決して混同しているわけではない。「知恵を熱望するならば、主の掟を守り通すがよい。主は知恵を豊かに与えてくださる」(1章26節)とあり、これに続いて「主を畏れることは、知恵である」と来るから、作者にとって、知恵は、律法を守る者に与えられる主からの賜なのである。
  箴言でも、「主を畏れることは知恵の初め」であった。しかし、箴言では、知恵は、律法のように、イスラエルの共同体に全体として臨むものではない。むしろ、個人の体験の内に注がれるものであり、それは、どちらかと言えば、具体的な日常生活を処していくために神から与えられる賜であった。個人が、「主を畏れる」ことによって、初めて自分の日常の領域の内で、神と結びつくことができるのが知恵の働きであった。だから、箴言では、人々に「主を畏れる心」を持つようにと勧めるだけで十分なのである。ところが、シラ書では、この「主を畏れる」とはどういうことかが、まるで神の律法を説くように、読者に説明されている(2・7~18)。知恵と律法とが、これほどまでに近づいたことはこれまでになかった。
 しかも、わたしたちにとって興味深く、かつ幾分戸惑いを覚えるのであるが、ここでも知恵は、まぎれもなく女性なのである。
 聖餐の隠喩、しかもヨハネ福音書の4章の「命の水」や6章の「命のパン」を思い出させるような句である。ここに限らず、シラ書には、字義どおりにヨハネ福音書と呼応する言葉が少なからず見られる。この福音書を生み出したヨハネ共同体の中で、シラ書が読まれていたのはほぼ間違いない。シラ書では、主の律法は女性なのか。そう思わせるほど、ソフィアは律法の近くにいる。しかし、注意深く読めば、この引用は、作者が決して両方を混同しているのではないことを示唆しているのが分かる。ここでは、ソフィアが律法にとって代わることはない。ただ、彼女は、配偶者のように律法に寄り添うのである。だからこれをもって、作者が律法を「女性化」していると見るのは誤りであろう。事実は、その反対で、知恵がこのように主の律法と表裏をなすことによって、ソフィアの女性的な性格が逆に脅かされ、弱められているのである。
知恵と女性
 事実、作者が女性に対してどのように厳しい目を向けているかは、25章13~26節に余すところなく描き出されている。「女から罪は始まり、女のせいで我々はみな死ぬことになった」(25・24)と糾弾される悪妻は、これに続く作者の理想の女性像、「従順でつつましい妻」(26章)と見事な対照をなしている。このように際だって相対立する女性像は、作者が律法と知恵とを表裏に見ていることと恐らく無関係ではない。シラ書の中心とも言うべき24章にでてくる「知恵の賛歌」では、「これらすべてはいと高き神の契約の書、モーセが守るように命じた律法であり、ヤコブの諸会堂が受け継いだものである」とあるから、作者の描くソフィアの女性的な性格には、モーセの律法の枠がきっちりとはめられていることになる。スコットが、シラ書では「イスラエルのトーラーとソフィアの役割とが同視されている」と指摘してから、「このことは、一方においては、イスラエルと神との最も神聖な関係の領域にまでソフィアの決定的な影響が及んだと見ることができるが、他方において、まさしくこの書の内では、彼女は閉じ込められ、扱いやすく制限されるという否定的な動きをも見ることができる」と述べているのはこの点を指している。ちなみに、この傾向は、「ソロモンの詩篇」(「ソロモンの知恵」のことではない)になるといっそう強くなり、さらにイエスの時代にいたると、ファリサイ派の言う「知恵の教師」は、律法の教師とほとんど同じ意味に用いられていたようである。
知恵の宿り
 しかし、シラ書に見られるこのような知恵と律法との結びつきは、イスラエルの知恵の伝統に重要な転機をもたらすことになった。

 ここでは、箴言の知恵を受け継ぎながら、しかも知恵が、全世界をその支配下に置いて、世界中をめぐり歩いたことが語られている。わたしたちは知恵が、長い人類の歴史とともにあるのを見てきた。知恵は、「イスラエルに根を下ろすまでに」すでに世界のいたる所で知られていた。イスラエルの知恵は、いわばその最後に行き着いた所であって、決してその最初ではなかった。しかし、今ようやく、世界を巡り歩いて安住の場所を求めていた知恵が、その宿る所にイスラエルを選んだのである。それは昔主なる神が、この民を選び、主の律法を授けたのと対応する。このような古代からの過程を念頭に置いて読むなら、この引用部分には、古代エジプトのマート(世界秩序)の化身としてのイシス女神への賛歌が影響していると指摘されてもごく自然に納得できよう。
 ただし、そのイシス女神が、著者と同時代にあたるプトレマイオス朝時代からの直接の影響と見るのは、必ずしも正しくないであろう。むしろ知恵の老教師は、イスラエルという「幕屋」に「宿る・臨在する」この知恵が、古代からイスラエルの伝統を経て今に伝わる長い道のりを歩んできたことを念頭に置いているのであろう。彼は、後に現れるフィロンのような思想家、アレクサンドリアに住み、同時代のエジプトの神話・思想を取り込んで、同時代の先端に立って、世界に共通する思想を産みだそうとする哲学者ではない。
知恵の歴史化
 コヘレトの言葉で見たように、仏教の思想でさえ、この時代のエルサレムに伝えられていなかったとは言えない。イシス女神だけではない、太古から知恵は、世界のあらゆる民と国において、心ある人たちに知られていた。しかし、その知恵が、今こそ「栄光に輝く民」の中に幕屋をはり、「エルサレムで威光を放つ」のである。ヤハウェの律法、と言うよりはヤハウェの臨在それ自体と見まがうほどの知恵の輝きを作者はここに見ている。知恵は主の律法と結び、そうすることで、エルサレムに居を定めた。ここで知恵は、個人の体験から離れてイスラエル共同体のものとなり、そうなることで、イスラエルの歴史、すなわち救済史と結びつくことになったのである。なるほど作者は、まだ知恵の働きの救済史的な意味を明確に意識しているわけではない。しかし彼は、「覇権は、民族から民族へと移り行く」(10・8)のを知っており、「その原因は、不正と傲慢と富」にすぎないのを見抜いている。「主は、支配者たちをその王座から降ろし、代わりに、謙遜な人をその座に付けられた」(10・14)のである。
 先に指摘したように、知恵は古代エジプトの世界秩序としての女神の性格を失ってはいない。かつて彼女は、全宇宙をその支配下に治めた。しかし、それは今や、神の救済の歴史の内に組み込まれることによって、決定的な段階に入った。シラ書の43章では、大自然と宇宙への賛美が歌われ、これに続く44章からは、数々の神の人を通じて、イスラエルの歴史への賛美へと移ることでこの書が結ばれる。これは恐らくこの書全体を貫く知恵の独特の地位と無関係ではないであろう。「われわれはここに、原秩序からはじまって幕屋とエルサレムの神殿におけるヤハウェの啓示に至るまでずっと続くラインが引かれているのを見いだす。それは、ひとつの壮大かつ野心的な救済史の見取り図である」〔フォン・ラート『イスラエルの知恵』勝村弘也訳 〕。
 ところで、知恵が、「世の始まる前に造られて」存在していたこと、知恵が「わたしのもの」として選んだ民の中に「幕屋を張った=宿った」こと、しかも、知恵がそうするまでに、「どこに住もうかと探し求めた」、すなわち、彼女(ソフィア)は、必ずしも受け入れられるとは限らなかったこと、これらの表現が、ことごとくヨハネ福音書の序文に生かされているのに読者は気がつくだろうか。ヨハネ福音書だけではない。例えば、知恵が「憩いの場所」を探し求めたとある。知恵が憩う場所とは、同時にそこへ来る人間がそこで憩うことのできる場所でもあろう。すなわち、知恵は自ら憩うだけでなく、その下へ来る人たちを休ませることができる、ということであろう。そうであれば、わたしたちは、「疲れた者、重荷を負う者は、だれでもわたしのもとに来なさい。休ませてあげよう」(マタイ福音書11・28)というイエスのお言葉に、シラ書の知恵の教師の呼びかけを読み取ることができるように思う。
 終わりに一言(こと)、このシラ書の著者は、祭司でも律法学者でもなく、さりとて預言者でもない。それでいて、主の御霊に与り、イスラエルに伝わる知恵と律法とを融合させて、そこに独自の霊的な世界を創り出した。宗教的権威や権力から離れたところに身を置いて、無冠のまま己の生き方を通じて世の人々に語りかける言わば「市井の賢人」である。神からの「知恵の御霊」にある世界をより深く知るために聖書を「探求し」、ミドラシュ(探求)の心を失わず生涯を全うした。ごく「普通の人」でも、知性と霊性を兼ねそなえるなら、世の片隅に1灯をともす賢者となり、人々を教え導くことができること、この著者は、わたしたちにそういう生き方を教えてくれるように思う。

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