「日本の霊の人」の霊性
          (2019年10月28日)
■現代の妄想
 一切の前提なしに「ただ信じる」こと、これが聖書の神の求めることです。それ以外の神を拝むことを<偶像礼拝>と言います。人類は、共通の言語によって、人類による神への挑戦としてバベルの塔を築きあげようとしました。神はそれを良しとせず、共通の言語をバラバラにしたために、塔は崩壊しました。
 仮想通貨は、このバベルの塔に似ています。貨幣とは、ほんらい、人間の共同体なり、国家なりが、その信用に基づいて発行することで流通するものです。ところが、最近の仮想通貨は、国境を越えるインターネットによって成立するものですから、人類共通の「通貨言語」に基づいています。しかし、その貨幣を支える信用はどこからくるのでしょう?国家からの信用(クレジット)がもはや存在しないとなれば、仮想通貨の信用は、その通貨それ自体の共通性に基づくことになります。つまり、貨幣の信用はその貨幣の<流通性それ自体>が基(もと)になるわけです。だから、その貨幣を<ただ信じる>よりほかに信用性(クレジット)はどこからも生じません。これは、人間の妄想が生み出す「貨幣礼拝」という名の偶像礼拝にほかなりません。
 同じことが、現代の人工知能(AI)でも生じています。科学技術は、これを生み出す人間の理性的な有効性がその信用の基礎になっていました。しかし、現在では、AI技術によって、人工知能それ自体が、科学技術を自動的に支配するところまで近づいています。だから、人工知能への信頼は、人工知能であること以外にどこにも存在しないわけです。ここでもAI崇拝という名の偶像礼拝が行なわれることになります。仮想通貨と人工知能、この二つこそ、現代を支配する妄想が生み出す偶像礼拝です。言うまでもなく、通貨も科学技術も、人類にとってかけがえのない大事なものです。しかし、これらが、「ただ信じる」信仰の対象となる時に、それらは、人間を束縛して殺す恐ろしい偶像礼拝に変じるのです。
■宗教的妄想
  次に、宗教的妄想の恐ろしさについて述べます。BS1の放送による「人民寺院」(2019年9月5日放送)によれば、インディアナ州のジム・ジョーンズは、母の影響で、自分には神からの特別の使命が与えられていると信じ、黒人たちを中心にPeople's Temple(人民寺院)を開設しました。大きな成功を収めたましが、白人からの攻撃を受けて、被害妄想に陥り、カリフォルニアへ。サンフランシスコから、南米のガイアナへ移住して、そこで、アメリカの調査団の視察を機に銃撃事件を起こし、これを契機に、909人が集団自殺しました。理想社会の実現を信じさせることで、これの実現を阻む外敵からの恐怖で信者の心を縛り、集団自殺へ追い込んだのです。このような狂信は、オウム真理教団とも、さらには日本人2000万人を犠牲にしてでも、国内でアメリカと闘おうとしたに日本軍国主義の陸軍将校たちの狂信とも通底するものです。
 日本の知識人たちが、キリスト教に対して警戒や恐れを抱くのは、イエスを十字架した律法的な人たちや、ユダヤを滅亡へ追い込んだユダヤ戦争の首謀者たちや、中南米の原住民に隷従をもたらしたコロンブスなどの例に見るように、ユダヤ=キリスト教においても、「宗教」がもたらしてきた数々の恐ろしさを思い浮かべるからです。だから、日本の知識人たちは、科学的な合理主義を信奉して、宗教そのものを否定したり、宗教への懐疑を露わにするのです。ところが、そういう科学的合理主義それ自体のほうも、AIが人類の将来にもたらすと予想される恐ろしい格差と人間性の喪失に見るように、今や、人類を脅かす危機的な状態を予測させています。だから、宗教的な妄想から離脱せよと警告する科学的合理主義者も、人類の恐怖を消すことができません。何かを信じ込もうとするのは、「宗教する人」としての人類にほんらい具わる属性です。だから、単に宗教を妄想だと批判するだけでは、人間にほんらい具わる妄想する性質を変えることは容易にできません。科学的合理主義の立場から、宗教的妄想を批判するだけでは、一向に問題の解決にはならないのです。
■「宗教する人」の罪性
 問題の本質は、宗教か?科学的合理主義か?などという二者択一にあるのではありません。なぜなら、科学的合理主義者も熱心なキリスト教徒も、どちらにも、何かを信じこれに没頭せざるをえない「宗教する人」の属性が具わっているからです。いわゆる一般にキリスト教世界と呼ばれている国でも、神道や仏教の国でも、イスラム教やヒンズー教などなど、もろもろの宗教の国々も、いわゆる科学的合理性を標榜する団体や会社も、今の世の中は、人の営みもその知能の働きをも含めて、「妄想、妄想、妄想」、どちらを向いても妄想ばかりです。妄想に取り憑かれるこの「宗教する人間」(ホモ・レリギオースゥス)を真の意味で救う「真理と自由」はどこにあるのでしょうか?これこそ、十字架へ向かうイエス様からの問いかけであったことをヨハネ福音書は教えています。
 問題は、宗教的な妄想やAI万能信奉の妄想のその先にあります。そもそも「宗教する人」が抱く「妄想」とはなんなのか?その正体を見極めて、宗教する人につきまとう「宗教的妄想」を克服する道が求められているのです。実は、新約聖書は、人が己の知恵にうぬぼれて、これに頼ることこそ、人をして自己義認へと誘う妄想をもたらすことをすでに二千年前から見抜いていました。人が、己の知恵と知識にうぬぼれて、己の義を主張するその愚かさこそが、人をしてその「道を誤らせて」(罪を犯すこと)、人を死に誘うからです。人が正しく「生きる」ためには、造られた人の力と知能を超える造り主の神からの働きかけを受けて、人知に潜む罪性の様態をば「誤認することなく悟認する」こと、このことを新約聖書は教えてくれます。それは、まさに現代の二つの妄想を生みだしている宗教する人の窮極の営み、すなわち、人が絶対無条件に「ただ信じる」その有り様に関わるものです。 
■人知の躓きと御霊の恩寵
 神は、人類に、一人の人間としてナザレのイエス様をお遣わしになりました。このイエス様を通じて啓示されている神の御霊にあって初めて、宗教する人に具わる「ただ信じる」営みが、真理を悟り真の自由と命へいたる事態が啓(ひら)かれるからです。一人の人間イエスに、天地の造り主である神御自身が啓示されていることは、人間の知能にとってこの上ない「躓き」にほかなりません。そうだとすれば、ナザレのイエス様が神を啓示する神の御子で有ると「ただ信じる」ことを求める聖書は、人となった神がもたらす「躓き」にほかなりません。人間は、意識するにせよ、意識しないにせよ、「宗教する存在」であり、それでいて、「ただ信じる」ことが<できない>知能をも具えているという矛盾する存在なのです。人は、そういう者として深い罪性を宿していると聖書は指摘しています。ユバル・ハラリが宗教を「純粋のフィクション」と呼ぶとき、彼は、「ただ信じる」ことを許さない人間の知能がもたらす自分自身の「神への躓き」をはっきりと表明しています。その躓きを通じて初めて、人は己の知の限界を悟らしめられて、ナザレのイエス様に顕される真理を「ただ信じる」ように導かれるのです。それは、人にはできない「神業」であって、イエス様が啓示する罪の赦しの恩寵にあって初めて可能になります。
 イエス様という一人の人格的な霊性に出逢って、その方を「ただ信じる」、こういう営みは、イエス様を通じて啓示される人への愛だけがもたらしくれるものです。「まことの道であり、命であり、真理である」イエス様の人格だけが、こういう絶対の「信」を人にもたらす資格に値するからです。聖書がアブラハムについて、「彼は主を信じた。主はそのことで、彼を義と認めてくださった」(創世記15章6節)とあるのは、まさにこの「ただ信じる」ことこそ、アブラハムのまことの道であることを証ししています。
■無心の大和心(やまとごころ)
 イエス様への信頼を通して創造主の神との交わりに入ることで、人の知能は、初めて「無」の人となり、無念無想にあって啓(ひら)ける霊知の世界を悟るのです。これ以外に、人類に幸いをもたらす真理の姿は見えません。聖書、特に新約聖書、中でもヨハネ福音書は、これの解明に大きな役割を担っています。神と人間との間に潜む断絶とこれを克服する神と人との交わり、この謎に迫ることによってしか問題は解決しないのです。「ホモ・レリギオースゥス」と「ホモ・スピリトゥス」、すなわち「宗教する人」と「霊の人」、この両者の関わり合いの中に問題の鍵が潜んでいます。神と人間との間に横たわる「躓き」と、それをも超えさせる「交わり」の実現こそ、神が、ナザレのイエス様を通じて人に授与される「神からの霊知」の恩寵なのです。人は、イエス様との出会いにおいて、神とのコイノニア(交わり)に入ることができます。神と人とがイエス様を通じて交わる場こそが、現生人類の人知に潜む罪を赦して、その限界を超えさせる「霊知」が働く場です。だから霊知は、人知を超えるイエス様の御霊にある絶対の「無」に宿るものです。「ただ信じる」無想の心に妄想は存在しません。想念のないところに妄想は生じないからです。
■日本人のまことの霊性
 御復活のイエス・キリストを信受して拝するとは、造られた肉の人間が、天地の創造主である神からの啓示のお働きを信受することにほかなりません。被造物である人間が、己の業を拝むことを偶像礼拝と言います。被造物が創造主を拝することは、造られた人間が、人知では到達しがたい創り主である神を知ることですから、それ自体がカナの奇跡とも言うべき不思議な出来事です。モーセの十戒の第一戒に来る「唯一のまことの神のみを礼拝する」とは、このことにほかなりません。
 「愛」とは、愛する相手と同じ姿になることです。だから、神は、御自身を「ナザレのイエス様」という一人の人間として、人類に啓示してくださいました。わたしたちは、この「人間イエス様」を通じて、すなわち、イエス様を「仲保」(なかだち)として初めて、被造物である人間が、創造主に出会い、唯一のまことの神を信受し拝することができます。イエス様は、人として、特定の時と所で啓示されました。このイエス様は、今の時に、わたしたち日本人に啓示されています。神が遣わすイエス様の御霊は、わたしたち日本人に語り、そうすることで、わたしたちと共に居てくださるのです。だから、わたしたち日本人も「イマヌエル」(神わたしたちと共に居ます)の民と呼ばれるのです。私が「日本の霊の人」と呼ぶのは、このような民のことです。神と人とのこのような交わりの啓示は、人間が造りだそうとしてできるものではありません。啓示とは、必ず時と所を得て、神から授与されるものです。しかも、一時に全部が成就するのではなく、復活したナザレのイエス様の御霊(聖霊)のお働きを受けて、少しずつ、身体を具えたわたしたちの心霊が、唯一のまことの~との交わりに到達することができるのです。人知が到達できない「霊知」が啓(ひら)かれるのが、父と子と聖霊(三位一体)の神のお働きです。このような「日本の霊の人」を育成するコイノニア会の霊性と方式の成就は、ただ、ただ、主様の御臨在にかかっています。
   現在の日本人は、とりわけ若い人たちは、自分がこの世の中でどのような「立ち位置」に居るのか? これを見出すことができません。自己の立ち位置を推し量るX軸とY軸の「知的な座標」(intellectual frame of reference)が見失われているからです。こういう知的な座標の喪失は、日本だけでなく、今や世界規模で生じています。「世界の中の日本」において、自分がどこにいるのか? これを推し量るために、今まで存在しなかった全く新しい宗教的な視野による「知的座標」を聖書がわたしたちに提示しています。私は、これを「日本の霊の人/民」という新たな造語によって言い表そうとしています。では、その実態は何なのか? その霊性はどのようなものなのか? これを探る一助として、一連の「日本の霊の民」がお役にたてれば幸いです。
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