1章 道教・儒教と仏教の渡来
 
 倭(わ)国へ仏像が伝来したのは6世紀初頭のことである。その後を受けて、聖徳太子が仏教を国政に採り入れた(593年)。倭国が、大宝律令を完成させ、唐王朝に「日本」という称号を正式に認めさせたのは第7回目の遣唐使の時(701年)である。以下で扱うのは、主として、この期間のことであるが、それ以後に、最澄と空海が加わった遣唐使をも視野に入れている。これによって、「日本国の成立」の時期と重なる「神仏習合の時代」を概観したいと思う。
■縄文期から道教まで
 縄文時代の日本人は、自然に宿るカミガミを感得する素朴ながら霊感溢れるアニミズムの信心に活かされていた。縄文の人々は、日食、月食、洪水、日照り、火山、地震、雷などの天変地異のもたらす災害と、穀物の豊穣が失われる飢饉と、これに伴う戦(いくさ)や疫病などから免れるために、部族や氏族の祖霊を崇め、様々な呪術(占い)を行なっていた。大自然に宿る種々のカミガミを社(やしろ)に祀(まつ)る祭儀宗教が行なわれるようになったのは、弥生時代以降のことであろう。このような呪術的なアニミズムに宗教的な形態を与えたのが大陸から伝わった道教である〔朝日百科『日本の歴史』46号41頁〕。道教は、前3世紀頃から中国で始まった不老不死と現世の御利益とを得るための神仙思想に由来する。これが日本に伝わる際に、道教は、中国ほんらいの道教の姿である社(道観)を中心とする組織的な思想大系ではなく、半島から渡来した庶民によって、民間に流布する御利益の「お守り/お札(ふだ)」などの護符や占いによる呪術的な信心に変じていた。日本に今も遺る神社のお札信心や端午の節句、桃の節句などがこれにあたる。道教を日本古来の信心へ反映させることで、それまでの大和の宗教を「神道」(しんとう)と呼ぶようになった〔前掲書54頁〕。だから、神道は、古来のアニミズムと渡来した民間の道教との融合から生じたものである。
■大和(やまと)の天皇(すめらみこと)
 大和朝廷による統一以前には、地方の豪族・部族ごとに、それぞれに祭礼する氏神(うじがみ)があり、その地域の自然の脅威を鎮(しず)めるための社(やしろ)があった。大和朝廷は、それらの部族ごとのカミガミを認めながらも、大和(やまと)の諸部族の長である天皇(すめらみこと)が、飛鳥(あすか)を中心に日本列島の東西を統合する祭儀を執り行ない、これによって、宗教的な権威を拡大し、大和朝廷の祖霊を信仰させる政策であった。
 天皇(すめらみこと)は、度重なる自然災害を避け、五穀豊穣を祈願するために、祭儀の権威をできる限り大和朝廷に集中させることに意を用いた。しかし、このことは、同時に、天然の災害も人災も、すべてその責任を大和の天皇(すめらみこと)が背負うことをも意味する。天皇(すめらみこと)は、自然に宿るカミガミの権威をその身に帯びながら、同時に、カミガミによって生じる善悪の出来事の責任をも背負う立場にあったことになる。このため、天皇(すめらみこと)には、カミガミの子孫でありながら、カミガミを祀り、汚れを清める職務を使命として求められることになった。
■儒教と仏教の渡来
 『古事記』と『日本書紀』(併せて「記紀」と言う)の編纂が発起して完成にいたるのは、6世紀の終わり頃から、7世紀を経て8世紀の初頭までのことである。この時代は、推古→舒明→皇極→孝明→斉明(=皇極)→天智→天武→持統の諸天皇の在位時代で、倭国が、朝鮮半島と大陸の諸王国に並び立つ律令国家を造り上げる日本の建国の時期にあたる〔週刊朝日百科『日本の歴史』45号2〜11頁を参照〕。
 すでに3世紀頃から、中国では北魏→随→唐から、朝鮮半島では、百済(くだら/ペッチョ)と任那(みまな)と新羅(しらぎ/シルワ)と高句麗(こうくり/コグリョ)の四つの国から、仏教の僧侶たち、道教や儒教の博士たちが、仏教と儒教・道教の経典を携えて数多く渡来し、大和朝廷の王子や貴族たちを教えていた。倭国からも、半島と大陸へ、僧や博士や使者が、幾多の困難を経て派遣されていた。5世紀〜8世紀は、大陸と大和(やまと)との国際交流がとても盛んな時代だったのである。
 すでに古墳時代の後期の4世紀末から、王仁(わに)が『論語』を我が国にもたらしているから、大和朝廷には、大陸から渡来した儒学者たちによって、五経(易経/詩経/書経/春秋/礼紀)がもたらされていた。孔子の教えに基づく儒教は、前漢と後漢(前2世紀〜後2世紀)を通じて、国家の政治を導く正式の学問とされていたから、これが、朝鮮半島を通じて、「中国ほんらいの」経典による教えとして大和朝廷に受け容れられ、7〜8世紀の日本で、律令の制定への大きな役割を果たした。
 仏教は、4〜5世紀に、中央アジアの大月氏国(ガンダーラ地域)を経由して、前漢→後漢→北魏への時代を通じて、高句麗、新羅、百済に伝わっていた。日本へも渡来人を通じて仏教が知られていたが、大和朝廷への仏教伝来は、522年に、司馬達(しばたっと)が、北魏から(?)百済を経由して渡来し、大和の高市郡(今の奈良県の明日香付近)に草庵を編(あ)んで、釈迦の像(仏像)を安置し、仏教の普及に努めた頃から本格化する。
 朝鮮半島の仏教は、釈迦の像(如来像)や弥勒菩薩(みろくぼさつ)を信奉する呪術的な性格を帯びたもので、「護国仏教」として国家的な祭儀を重んじるものであった。日本に伝来した仏教も仏像礼拝を旨(むね)とする護国的な性格を帯びていた。このため、護国神社と重なり合い、古来の神道との競い合いを通じて、神社信仰との習合(しゅうごう)を果たすことになる。「習合」とは、二つの異なる宗教が、互いに敵対することなく、また、融合することもなく、相互に刺激し合いながら重なり合う形態を指す。日本古来のアニミズムと、呪術的な道教とが融合することによって成立した神道が、今度は、仏教との習合を果たすことで、アニミズムと道教と儒教と仏教とが、重層的に習合することで、日本人の宗教的な性格を形成したのである〔週刊朝日百科『日本の歴史』46号37頁〕。
                    
大和朝廷の神仏習合へ