2章 仏教導入と半島情勢
 
■仏教の導入
 日本最初の女帝である推古天皇の時代に、摂政となった聖徳太子(在位593年〜621年)は、女帝と蘇我氏と組んで、皇室の祭儀に仏教を積極的に採り入れた。一つには、大陸の文明と文化を採り込んで、大和朝廷の立場を地方の豪族に向けてより強固にするためであり、同時に、政治・経済・宗教において、倭国が大陸の諸国に引けをとらないことを諸外国に示すためであった。それは同時に、大陸諸国からの侵攻を防ぐためでもあった。百済や新羅、これに高句麗も加わって、半島から大和へ、使者が頻繁(ひんぱん)に派遣されている時期だからである。これは、貿易や同盟関係を通じて、それぞれの国が、自国の立場を強化する狙いがあると同時に、大和の国情を探らせる意図でもあった。7〜8世紀の日本は、国内外において、発展と国作りの時代であるが、同時に、大化の改新(645年)、朝鮮半島の白村江での敗戦(663年)、壬申の乱(672年)など、国の内外において様々な危機を招く時代でもあった。
 聖徳太子が、仏教を大胆に取り入れたのは、大和国家が置かれていたこのような国の内外の情勢に基づくものである。大和朝廷の祭儀宗教は、自然のカミガミと先祖からの氏神だけでなく、大陸から渡来した国際的な視野に立つ仏像信仰をも併せ持つ必要があった。地方の諸部族を支配する大和朝廷の頂点に立つ天皇(すめらみこと)と、これを支える大和の自然のカミガミと、そのカミガミをも左右する超国家的な仏教が説く慈悲の倫理性とが重なり合うことによって、大和朝廷は、大陸に匹敵する国作りを成し遂げることができたことになる。7〜8世紀に大和国に起こった「カミと仏の習合」のこの形態は、現在にいたるまで続いている〔朝日百科『日本の歴史』46号34〜37頁参照〕。
■新羅と大和朝廷
  新羅では、半島の諸国でも、早くから当時の大陸の周/斉?から、仏教の仏舎利や経典が伝えられていたから、仏教を護国の目的で採り入れることで、興輪寺など大きな寺が建てられた。真興王(しんこうおう)(在位540〜76年)は篤く仏教に帰依し、彼はエリート青年による独特の花郎(かろう)制度を新羅に創設したと言われる。善徳女王(ソンドクニョワン)は、27代目で、新羅(おそらくアジア)初の女王である(在位632〜47年)。伝説によれば、女王は、幼い頃に、中国大陸のはるか西方まで旅をしたと伝えられている。彼女も、西域から伝わる仏教を篤(あつ)く信仰した。このため、新羅の伝統的な呪術を信じる宮廷付の女祭司ミシルと鋭く対立することになる。女王は、旧加羅王の子孫である金?信(キムユシン)の助力を得て「三韓統一」を目指し、宮廷でのミシルの呪術を廃止することに成功した〔韓国映画「善徳女王」による〕。新羅は、 善徳女王と眞徳女王(在位647年〜654年)との二代にわたる女王時代に、高句麗と百済からの侵略の危険にさらされていた。このために、あえて唐との冊封(さくほう)に近い同盟関係を受け容れることで、唐の律令制を採り入れ、仏教を篤く敬う方策を採ることになった。新羅は、すでにこの当時から、「三韓一統」を視野に入れていたと言われている。唐と同盟関係を結びながら唐に屈従することなく、これによって百済と高句麗を敵に回すことは、当時の四国関係から見れば、新羅の滅亡を招く危うい選択であった。しかも、武烈(ムヨル)王(在位654年〜661年)の新羅の朝廷内は、国王を中心とする親唐派と、その太子と旧加耶王の子孫である金?信の反唐派に分裂していた。両派の裏には、唐と高句麗それぞれから画策があったと推定される。百済の敗北以後も、百済の豪族たちによる頑強な抵抗の裏には、表向きの羅唐同盟とは裏腹に、新羅の反唐派による百済再興への支持もあったのではないかと推定される。武烈(ムヨル)王の治世が比較的短命だったのもこのためで、百済と高句麗が滅んだ後も、羅唐間で争いが絶えることがなかったのは、このような背景があったからである。唐と隣接し唐の脅威に直(じか)に曝されていた新羅は、海を隔てた「東海の倭国」のように、大陸と協調しながら独立を保とうとする国是を貫くことが困難だったのであろう。結果として、高句麗の滅亡以後の半島を統一したのは新羅であった。新羅の朝廷は、ほぼ2世紀の間半島を統一し、それが10世紀頃から高麗(こりょ)の朝廷に受け継がれ、15世紀には、朝鮮王朝へと受け継がれることになる。
 7世紀には、新羅から日本へ使者が頻繁に来訪しているから、新羅と同時代の日本は、唐と半島の政治情勢を熟知していた。大和朝廷は、仏教と律令を受け容れ、唐と同盟を結んでいた新羅の政策を学んだとも言えよう。新羅は高句麗と百済から侵略を受けていたので(642年)、女王は唐と同盟を結び、唐の服装と年号を採り入れ、高句麗と百済からの侵略に備えた。善徳女王が仏教を受け容れることで、祖霊による呪術信仰と対決したことは、唐との同盟を結ぶのに都合がよかったからだと考えられる。新羅も百済も660年に唐の支配下に入り、高句麗も668年に唐に滅ぼされるが、7世紀の後半から8世紀を通じて半島を実質的に支配したのは新羅であった。ちなみに、その後、朝鮮王朝(1392年〜1910年)は、高麗(コリョ)を滅ぼして王朝を創始するにあたり、仏教を信じる地方豪族を征して中央の政権を確立する目的で、国教を仏教から儒教に変更している。
 古来の祖霊信仰と仏教との対立を克服した点で、新羅と大和朝廷とは類似している。ただし、大和朝廷は、隋・唐と関係を保ち続けるが、祖霊と道教や儒教との結びつきを得て、これに仏教との習合を重ねることで、半島の諸国とは異なり、隋や唐から距離を置いた関係を保つことができた。7〜8世紀の大和朝廷は、半島の政情に精通していていて、新羅の動向を常に見守っていたのである〔谷澤伸・他編『世界史図録:ヒストリカ』山川出版社(2013年)16〜17頁参照〕〔週刊朝日百科『日本の歴史』45号2頁/4〜5頁参照〕。
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