3章 聖徳太子の時代
 
■『日本書紀』の記事
 聖徳太子(574年〜622年)のことは、『日本書紀』第22巻の推古天皇(在位592年〜628年)の巻(まき)の推古元年から同29年までの箇所に出ている〔岩波文庫『日本書紀』(4)84〜136頁〕。推古元年に「厩戸豊総耳皇子(うまやどのとよとみみのみこ)を立てて皇太子(ひつぎのみこ)とす」とあり、太子が推古天皇の摂政に任ぜられたこと(在位593年〜622年)がでている。次いで、その生まれに関わる話(はなし)、その「聖(ひじり)の智(さとり)」のこと、「高麗(こま)の僧(ほうし)慧慈(えじ)」から仏教を学んだとある。四天王寺を建てたとあり、推古2年(594年)に「三宝(さんぽう)を興し隆(さかえ)しむ」という詔(みことのり)を出して、仏(釈迦)と法(釈迦の教え)と僧(修行僧の集団)を広めるよう指示している。また、法興寺(飛鳥寺)を建て、「宮室(みや)を斑鳩(いかるが)に興(た)て」とある。
 推古11年には、秦河勝(はたのかわかつ)が半跏思惟(はんかしい)の弥勒菩薩(みろくぼさつ)像を太子から授かって、今の京都(の右京区)に、広隆寺の建立を始めている。推古12年(604年)に有名な「十七条の憲法」が発布され、『日本書紀』に、その全文がでている。同15年(607年)に「小野臣妹子(おののおみいもこ)を大唐(隋のこと)に遣わす」とある。しかし、この時の勅書の内容は出ていない(後述するように隋の『随書』にその内容が出ている)。
 推古16年(608年)の9月に、隋から渡来した僧の裴世清(はいせいせい)が帰還するときに、再び小野妹子を隋に派遣している。この時の国書が、「東天敬白西皇帝」「東(もろこし)の天皇(すめらみこと)、敬(つつし)みて西(もろこし)の皇帝(きみ)に白(まう)す」で始まり、国書の内容がでている。
 推古21年の12月には「飢者(うゑたるひと)道の垂(ほとり)に臥(こや)せり」とあり、太子が、道端の「真人(ひじり)」(道教で言う道の奥義を悟る仙人のこと)に飲食を与え、自分の衣装を脱いで着せたとある。推古28年(620年)に、「天皇記(すめらみことのふみ)及び国記(くにつふみ)」を記すように、大和朝廷の廷臣たちに命じたとある。「天皇記」は、中国の歴代の天子の系譜や故事を記した『帝記』にならって、大和のそれまでの天皇の世代の系譜や事績を記録したものであり、「国記」は、後の風土記に相当するという説もあるが〔週刊朝日百科『日本の歴史』49号130頁〕、いわゆる「神代(かみよ)」から推古朝までの歴史のことだという説もある。これらは完成に至らず、蘇我氏の邸宅に保管されていたものが、後に蘇我氏の邸宅と共に焼かれたと考えられている〔岩波文庫『日本書紀』(4)133頁(注)14〜16参照〕。
 推古29年の春2月(622年)に、太子は、夜中に「斑鳩宮(いかるがのみや)に薨(かむさり)ましぬ」とある。これを知った人々は、太子の死を悼んで、上下を問わず、人々の「哭(な)き泣(いさ)つる声、行路(こうろ)に満てり」とあり、人々は「日月輝(ひつきひかり)を失いて、天地既(あめつちすで)に崩(くづ)れぬ。今より以後(のち)、誰をか恃(たの)まむ」と言ったとある。これ以後、「太子は苦しむ人を救う観音の化身」だと考えられるようになった。法隆寺の執事長の言葉を借りれば、太子は、現在もなお「南無観音化身上宮太子」(なむかんのんけしんじょうぐうたいし)であり、執事長は、観音の化身として聖徳太子に帰依する心を抱いている〔『朝日新聞』2020年2月27日号「仏に映る先人の思い」法隆寺執事長古谷正覚(ふるやしょうがく)〕。現在、京都の太秦(うずまさ)の広隆寺に安置されている半跏像の弥勒(みろく)菩薩(太子が秦河勝に賜わった仏像か?)も、まさに太子の化身なのであろう。
■外交の世紀
 聖徳太子の時代は、外交の世紀である。その在位(593年〜622年)の間に、朝鮮半島では、新羅と任那との戦いがあり、大和朝廷は、援軍を任那に派遣しようとするが叶わず、任那は滅んだ。百済は、新羅へも攻め込み、高句麗も新羅を侵(おか)し、中国では、隋が滅んで唐が興り(618年)、新羅が唐と組んで百済を侵すという混沌の時代である。
 その間にも、諸国から使者が頻繁に大和朝廷を訪れ、僧や博士たちが渡来し、大和朝廷からも僧や使者たちが派遣され、また戦いに敗れた半島の国々から多数の渡来人が倭国へ来た。太子の在任中に、ざっと数えただけでも、百済と8回、新羅と12回、高句麗と6回、任那と5回、隋・唐と7回もの交流がある。
■十七条憲法
 聖徳太子の十七条憲法は、古くは狩谷斎(かりやえきさい)(1775〜1835年)や津田左右吉(1873〜1961年)によって、現行そのままが、太子によるものではなく、『日本書紀』の編者たちによって書き換えられたとか、太子の名を借りた偽作であると言われたりした。しかし、現在では、推古朝に作られた文書であることが認められている〔詳しくは岩波文庫『日本書紀』(4)388〜392頁(注)4を参照〕。
 十七条の第一には、「一(ひとつ)に曰く」とあり、「和(やわら)ぐを以て貴(たふと)しとし、忤(さか)ふること無きを宗(むね)とせよ」とある。これは『礼記(らいき)』〔五経(ごきょう)の一つで、周末から漢代にかけての儒学者の「礼義」に関する教えを編集したもの〕にある「礼之以和為尊」から来ているのか、あるいは、『論語』の「礼之用、和為貴」からであろう。どちらにせよ「和」とは、儒教の教えから出た言葉だと解釈することができよう。しかし、ここは、いわゆる「礼儀」に関することではなく、仏教のいう「和合」にあたるという説もある〔岩波文庫『日本書紀』(4)97頁(注)7〕。そもそも、中国の仏教それ自体が、文字と用語を同じくする儒教と結びついているから、こういう詮索はあまり意味がない。
 続く第二条に「篤く三宝を敬え」とある。「三宝」とは、仏像と釈迦の教えと僧たちのことを指すから、「ホトケの慈悲によって互いに赦し合う」ことを「やわらぐ」と言ったのであろう。「仏儒一如」の世界である。
 第三条の「君(きみ)をば天(あめ)とす。臣(やっこら)をば地(つち)とす」以下も、『管子』を出典とするものの、「天」は、儒教で言う「天道」のことよりも、むしろ、仏像を拝することで与えられる「ホトケの道」が念頭にあるのであろう。以下、『礼記』『論語』『老子』『荀(じゅん)子』『中庸』さらに第八条には『墨子』からの出典もある。儒教の経典に依(よ)りながら、第十条には「忿(こころのいかり)を絶ち瞋(おもへりのいかり)を棄てて、人の違(たが)うこと怒(いか)らざれ」とあって、これは、仏教の唯識論に基づく用語である〔前掲書101頁(注)12・13〕。「我必ず聖(ひじり)に非(あら)ず。彼必ず愚かに非ず。共に是(これ)凡夫(ただひと)ならくのみ」とある「凡夫」も、仏教で、真理を悟った聖人に対して、そこまで至らない者を指す用語である〔岩波文庫『日本書紀』(4)103(注)1〕。
 司馬達等(しばたっと)の仏像礼拝(522年)に先だって、百済から儒教の五経博士の段楊爾(だんように)が派遣されている(513年)。十七条の憲法は、為政者に宛てられているから、為政者に「君子(くんし)の心得」を説く儒教の経典に依るのは当然であろう。しかし、それらの教えが、「ホトケに帰依する」ことで初めて可能になることをこの憲法は説いている。
 ところで、このように、儒教の用語を用いながら、その背後に仏教の思想を読み取ることができる言い表わし方は、「儒仏融合」とか「儒仏一如」ではなく、「儒仏習合」と呼ばれている。「習合」とは、重なり合いながら、しかも、それらが区別されている状態を指す。ちなみに、16〜17世紀のイングランドでも、ジュピターは、ローマ神話の最高神を指すだけでなく、その「最高」のゆえに、ギリシア・ローマの神々の上にあるキリスト教の神を示唆している。ギリシア・ローマの神々とキリスト教の神とのこの「習合」手法は、キリスト教がローマ帝国の国教となった4世紀末のローマ帝国の宮廷までさかのぼる。例えば、皇帝とその后が、教会でキリスト教の儀式で結婚するときの二人の愛が、アモール(ウェヌスの息子で恋愛を司るクピードー"Cupido")とプシーケー(人の魂を意味する"Psyche")の愛になぞらえて言い表わされる。この手法は、ギリシア・ローマの神話とキリスト教との習合によるもので、宗教的な「習合」は、このように、宮廷から始まる場合が多いようである。
■宗教的習合の諸例
 『日本書紀』には、推古10年の「冬十(ふゆかむなづき)月に、百済(くだら)の僧観勒(ほふしかんろく)来(き)けり。仍(よ)りて暦(こよみ)の本(ためし)及び天文地理(てんもんちり)の書(ふみ)あわせて遁甲方術(どんかふほうじゅち)の書(ふみ)貢(たてまつ)る」とある。壬申の乱の折りに、大海皇子が吉野入りを行なったのも、実は遁甲の術に由(よ)るものではないかと推察されている〔週刊朝日百科『日本の歴史』(52)239〜40頁〕。法隆寺の夢殿は、天皇への夢のお告げ(夢託)と仏教の修行の両方を兼ねる場であると言われる〔週刊朝日百科『日本の歴史』(52)247頁〕。
 女帝の推古天皇から孝謙天皇(女帝)にいたる飛鳥・奈良時代の大和朝廷は、当時の大陸と半島の諸国と交流して、「四書五経」など孔子や老子を学び、その上で、『一切経』を通じて仏教を深く研究し、鑑真など当時の最高の僧侶を招いて受戒している。しかも、従来の天皇家の祭儀をそのまま執り行ない、その上、大陸の史書にならって『日本書紀』を編纂し、日本古来の神話伝承を稗田阿礼に朗唱させて、これを『古事記』として編纂させたのである。
 現在の日本の皇室が、ホメーロスやウェルギリウスを読み、聖書を深く学び、ダンテの『神曲』に親しみ、その上で皇室伝来の祭儀をそのまま執り行なう中で、皇居内に礼拝堂を建てて、ローマ法王を招聘し、皇室全員がキリスト教の洗礼を受ける。飛鳥・奈良時代の大和朝廷は、これに匹敵することを実行したのである。これをやり遂げた天皇たちもさることながら、こういうことを提唱し、皇室に勧めた日本人の僧侶や博士たち、さらにこういうことを可能にする仏教を伝えた大陸の仏教僧たちも偉い。彼らの働きがなければ、当時の世界に通用する言葉で堂々とものを言うことのできる「日本」は生まれなかったであろう。こういうことを皇室に提唱するだけでなく、実現させるだけの知識と技量を具えた日本人のキリスト教学者や牧師が今の日本にいるだろうか? 世界に向かって堂々と物言うことのできる皇室を育てることのできる学者や宗教人が、今の日本に居るだろうか?
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