4章 大化の改新
■改新の経由                              
 『日本書紀』によれば、皇極2年(643年)の「冬十月(ふゆかむなづき)」に、蘇我蝦夷(そがのえみし)は大臣の位を息子の入鹿(いるか)に譲っている。入鹿は、「(舒明天皇の息子である)古人大兄(ふるひとのおおえ)を立てて天皇(すめらみこと)とせむとす」と言ったとある。このために、入鹿は、朝廷内で勢(いきお)いのあった(聖徳太子の息子の)山背大兄王(やましろのおおえのみこ)を亡き者にしようと、兵を送って太子一族が住む斑鳩(いかるが)を襲わせた。山背大兄王とその后たちは、生駒山に逃れたが、東国へ逃れて兵を興すよう薦める臣下の助言を受け容れることなく、「吾(われ)、兵(いくさ)を起こして入鹿を伐(う)たば、其(そ)の勝たむこと定(うつむな)し(必定である)。然(しか)るに一つの身の故(ゆえ)に由(よ)りて百姓(おほみたから)を残(やぶ)り害(そこな)はむことを欲(ほ)りせじ。是(これ)を以て、吾(わ)が一つの身をば、入鹿に賜(たま)う」と述べて、斑鳩(いかるが)の寺宮で、一族もろともに入鹿に焼き殺された。『日本書紀』には、「時(とき)に、五色(いついろ)の幡蓋(はたきぬがさ=貴い人の後ろにかかげる旗や天蓋のこと)、種々(くさぐさ)の伎楽(おもしろきおと=仏教の舞楽のこと)、大空(おおぞら)に照灼(てりひか)りて、寺(てら)に臨(のぞ)み垂(た)れり」とある。
 皇極3年(644年)になると、中臣鎌足(なかとみのかまたり=後の藤原鎌足)は、廷臣でありながら国を想う心篤(こころあつ)く、蘇我入鹿(そがのいるか)が、「君臣(きみやっこ)と長幼(かみおとうと)の序(ついで)を失う」有様を見て国を憂(うれ)い、蹴鞠(けまり)の会を通じて中大兄王子(なかのおおえのおうじ=舒明天皇と皇極天皇の間の王子で後の天智天皇)に近づいた。一方で、蘇我蝦夷(そがのえみし)とその息子入鹿(いるか)のほうは、明日香(あすか)の丘に邸宅を並び建てて、宮廷をしのぐほどの権勢を誇っていた。
 皇極4年(645年)のこと、「三韓(みつから)の貢(みつ)ぎを進(たてまつ)らむ日」に(「三韓」とあるのは高句麗と新羅と百済の使者たちか、あるいはその中のどこかの国のことか?)、天皇の面前で、中大兄が入鹿を斬り殺した。翌日、蘇我蝦夷(そがのえみし)も自ら死に、蘇我氏は力を失う。皇極天皇は、皇位を弟の孝徳天皇に譲り、元号を「大化」と改めた。中大兄は、皇太子として実権を握り、これによって大和朝廷は、畿内の豪族からその権力を取り戻すことができた。これが「大化の改新」(645年)である。
■改新の内容
 『日本書紀』では、孝徳天皇の大化2年(646年)の「春正月(はるむつき)」に、「賀正礼畢(みかどをがみのことおは)りて、即(すなは)ち改新之詔(あたらしきにあらたむるみことのり)を宣(のたま)ひて曰(のたま)はく」とあるから、ここで、「大化の改新」の詔勅が降された。
 詔勅は、「其(そ)の一」から「其(そ)の四」まであり、其の一として、畿内を含む地方の豪族や散在する朝廷の廷臣たちの所有する私領地制度(そこに住む農民などの戸数に合わせた制度)をすべて廃止して、「大夫(まえつきみ)」たち、すなわり朝廷の大臣たちと、これを支える参議たちとに、その位(くらい)に応じて、改めて「食封(へひと)」(その領地の住民の戸数のこと)を賜うこと。
 其の二として、「京師(みさと)を脩(おさ)め、畿内国(うちつくに)には司(みこともち)・郡司(こほりのみやつこ)」を置くこと。これは、「京師」すなわち京(みやこ)の区画を定めること、大和朝廷が支配する周辺地域(畿内国)を確定すること、「大郡(おほきこほり)」「中郡(なかつこほり)」「小郡(すくなきこほり)」の設定によって、地方の制度を定めることである。「畿内国」とは、東は、およそ現在の名張からで、西は、明石まで、北は大津から、南は和歌山の紀ノ川までである。
 其の三として、「斥候(うかみ)」や「防人(さきもり)」などを越後地方や西の辺境に兵隊として配備すること。さらに、各地に配置された駅馬(はいま)、すなわち駅の馬と、これを管理したり飼育したりする係り、これの通行の「しるし」などへの規定である。徴税のために、「戸籍(へのふみ)」を定め、これを記帳する「計帳(かずのふみ)」を作ること。また、それまでの「苗代(なわしろ)」の大きさを「段(きだ)」「町(ところ)」として定め、そこから納める稲の束数などを定めている。
 其の四としては、「旧(もと)の賦役(えっき)を罷(や)めること」、すなわち「力仕事」を税とすることを改めて、その代わりに、「田(た)の調(みつぎ)」とすること。「田の調」とは、所有する「田」の広さに応じて税の内容を決める制度のことである。その「田調」の内容は、様々な絹糸や絹織物や布類で、戸別ごとに課せられる。これは、後代の「家族一人あたりに課せられる人頭税」のことではない。また「官馬(つかさうま)」100戸ごとに一頭(上等の馬の場合は200戸に一頭)と定めている。武器としては、刀(かたな)、甲(よろい)、弓(ゆみ)、矢(や)、幡(はた)、鼓(つづみ)があり、530戸ごとを改めて50戸ごとに一人分とする。「采女(うねめ)」は、従来は、国造(くにのみやつこ)など地方の豪族の中から子女が宮廷に献上されていたもので、これを改めて、畿内の(?)小さな郡(こほり)の領主たちによって献上される宮廷の女官とした。采女の生活費として、別に100戸がその領主に支給される。
 以上をまとめると次のようになろう〔以下岸俊男。平凡社『世界大百科事典』より〕。(1)皇族・豪族による土地・人民の私有を廃して公地公民とし、代りに食封(じきふ)などを給する。
(2)京師・畿内国司(または畿内と国司?)・郡司などの地方の統治組織を中央に集権し、駅馬、伝馬、防人(さきもり)などの交通と軍事の制度を整える。
(3)戸籍と計帳と班田収授の法をつくる。
(4)古い賦役の制を改め、田の調、戸別の調など新しい税制を施行する。
■大化の文化
 文化については、前期の推古朝(6世紀末〜7世紀前半)を中心とする文化は「飛鳥文化」と呼ばれる。飛鳥文化は、仏教文化であるが、これは、従来の中国の南北朝(北魏と宋)の文化が、朝鮮三国を経由して伝えられたものであった。仏教は、伝来した当初(6世紀前半)は反対者も多かったが、受容に積極的であった蘇我氏が朝廷で実権を握ると、その信仰は急速に普及し、蘇我氏の飛鳥寺(法興寺)や、聖徳太子の斑鳩寺(法隆寺)をはじめ、多くの寺院が建立された。これに伴い、建築・彫刻・絵画・工芸にすぐれた仏教美術の作品が現れた。中でも、法隆寺金堂の釈迦三尊像や、広隆寺の半跏思惟(はんかしい)像、法隆寺の玉虫厨子(たまむしのずし)や中宮寺の天寿国繍帳(てんじゅこくしゅうちょう)などがよく知られている。
 仏教だけでなく、儒教・道教の思想や、天文・暦法なども盛んであった。この飛鳥文化に対して、後期の天武・持統朝(673年〜697年)を中心とする文化を「白鳳(はくほう)文化」と呼ぶ。この文化も、仏教文化が中心であるが、遣隋使・遣唐使の派遣によって、直接に中国の文化を採り入れる道が開かれたから、唐文化の初期の影響が強い。代表的作品としては、薬師寺の東塔、興福寺の東塔、薬師寺の金堂と三尊像、薬師寺の聖観音像、法隆寺の金堂の壁画、高松塚古墳の壁画などがあげられる。いっぽうでは、大津皇子の漢詩や、柿本人麻呂(かきもとのひとまろ)と額田王(ぬかだのおおきみ:7世紀後半の女性の歌人)たちの和歌なども見過ごすことができない。飛鳥時代は、政治的・社会的に見れば、世襲の氏(うじ)姓制から律令(りつりょう)による官僚制へ移動する過渡期であり、文化的に見れば、隋・唐の文化を直接に受容した時代であった。〔岸俊男。平凡社『世界大百科事典』を参照〕
               大和朝廷の神仏習合