5章 壬申の乱
 
■乱の経過
 『日本書紀』は、天武天皇の治世を上下巻の二つに分けていて、上巻全体を壬申の乱にあてている。天智天皇が天智4年(671年)に没すると、天皇の後継者として、天皇の弟である大海人皇子(おほしあまのみこ)と、天皇の息子である大友皇子(おほとものみこ)の二人があげられていた。天智天皇は、まず大海人皇子を呼び、皇位を弟に譲ると告げるが、大海人皇子は、それが天皇の本意ではないことを察知して、固く辞退し、「臣(やつがれ)、今日家出して〔仏道に入ること〕陛下(きみ)の為(ため)に功徳(のりのこと)を脩(おこな)はむ」と言い残し、その二日後に「吉野宮(よしののみや)に入りたまふ」とある。大海人皇子は、天皇の居る近江京(現在の大津)から遠く離れた奈良県の吉野へ退いたのである。ある人はこれを評して「虎に翼を着けて放てり」と言ったとある〔岩波文庫『日本書紀』(5)阪本太郎・他校注68頁〕。壬申の乱の後では、大海人皇子が天武天皇として即位することになるから、『日本書紀』は、天智天皇が没した翌年(672年)を「(天武)元年(はじめのとし)」として、大海人皇子のことを、その即位前から「天皇(すめらみこと)」と呼んでいる。ちなみに、この頃の百済王国でも、母違いの二人の皇太子が、王位後継を争い、片方が身を引いて出家するが、相手の皇太子が排除されると再び還俗して王位に就いている。
 天智天皇が没した翌年の壬申(じんしん)の年(672年)には、大友皇子は、近江京で太政(だじょう)大臣の地位にあった。大友皇子は、大化4年(648年)の生まれで、博学で文武の才があったと伝えられている〔週刊朝日百科『日本の歴史』(45)26頁〕。ところが、『日本書紀』によれば、大友皇子が、美濃と尾張の国司に命じて、天智天皇の陵(みささぎ)を造るという名目で人夫を徴発し武器を持たせているという知らせが、吉野に居る大海人皇子のところへ届いた。さらに、「近江京(あふみのみやこ)〔大津京〕より、倭宮(やまとのみやこ)〔飛鳥京〕に至るまでに、処処(ところどころ)に斥(うかみ)〔監視人〕を置(お)けり。亦(また)菟(うじ)道の守橋者(はしもり)〔現在の宇治橋の守衛〕に命(おほ)せて、皇大弟(まうけのきみ)〔大海皇子〕の宮の舎人(とねり)〔従者〕の、私粮(わたくしのくらいもの)〔食糧のこと〕運ぶ事を遮(た)〔さえぎる〕へしむ」という報告があったとある。
 これを聞いた大海人皇子は、「国司等(くにのみこともちたち)〔地方の国司〕に経(ふ)れて、諸軍(もろもろのいくさ)を差(さ)し発(おこ)して、急(すみやか)に不破道(ふはのみち)〔近江と美濃の境あたり〕を塞(ふせ)け。朕(われ)、今発路(いでた)たむ」と命令している。大海皇子に付き従ったのは、従者「二十有余人(はたたりあまり)、女孺(めのわらは)十有余人(とたりあまり)なり」とある。一行は、少数ながら、現在の吉野町を出発し、現在の宇陀郡を通り、現在の名張市と上野市を経由して、鈴鹿市を通り、その道中で味方する国司を加えながら、四日市へ出て、出発からわずか4〜5日で、「不破道(ふはのみち)」すなわち今の関ヶ原まで強行した〔週刊朝日百科『日本の歴史』(45)29頁地図参照〕。「東海(うみつじ)の軍(いくさ)を発(おこ)す」とあるから、東海地方の軍隊も集めたと思われる〔前掲書『日本書紀』80頁〕。
 出遅れた大友皇子は、東国へ向かう道を閉ざされ、西方に向かっている。「若(も)し服(まつろわ)ぬ色(おもへり)有らば、即ち殺せ」と厳しい命令を下すが、九州地方の国司等は、「海(うみ)に臨(のぞ)みて守(まぼ)らするは、豈(あに)内賊(うちのあだ)の為ならむや」と告げて、外敵からの守備がおろそかになるという理由で、挙兵に応じなかったようである。大海皇子は、「数万(よろずあまり)の衆(いくさ)を率(い)て、不破(ふは)より出(い)でて、直(ただ)に近江に入らしむ」とあり、その際に近江軍と区別するために「赤色(あかいろ)を以て衣(ころも)の上に着(つ」)く」とある。衣に赤い布をつけたのは、漢の高祖を真似(まね)たのであろう。
 一方、飛鳥の周辺では、「将軍吹負(いくさのきみふけひ)、乃楽山(ならやま)の上に屯(いは)む」とあり、大海皇子の側の将軍である吹負(ふけひ)が、現在の奈良市の北の山に陣を敷いている。彼は「古京(ふるきみやこ〔飛鳥のこと〕は是(こ)れ本(もと)の営(いほり)の処(ところ)なり」と言い、飛鳥寺の周辺に至るまでを占領した。ところが、吹負は、「近江の将(いくさ)〔大友軍の将軍〕、大野君果安(おおののきみはたやす)と、乃楽山(ならやま)に戦(たたか)ふ。果安(はたやす)が為に敗(やぶ)られて・・・・・将軍吹負、僅(わづか)に身(み)を脱(まぬか)るること得(え)つ」という有様になった。吹負の敗北を知った大海側の軍は、「置始連菟(おきそめのむらじうさぎ)を遣して、千余騎(ちあまりのうまいくさ)を率(ゐ)て、急(すみやか)に倭京(やまとのみやこ)〔飛鳥京〕に馳(は)せしむ」とあり、置始連菟(おきそめのむらじうさぎ)は果安(はたやす)を撃退した。
 関ヶ原の大海(おほあま)軍のほうは、先に数万の軍を率いて馳せ参じた村国連男依(むらくにのむらじをより)が、敵を撃破しながら「瀬田(せだ)」〔現在の滋賀県瀬田町〕へ来る。これに対抗して、「時に大友皇子(おおとものみこ)及び群臣等(まえつきみたち)、共に橋の西に営(いほ)りて、大きに陣(つら)を成(な)せり。其の後(しりへ)見えず。旗?(はた)野を幣(かく)し、埃塵(ちり)天(あめ)に連(つら)なる」とある。『日本書紀』は、「鉦鼓(かねつづみ)の声(おと)、数十里(あまたさと)に聞(きこ)こゆ。列弩(つらなれるゆみ)乱れ発(はな)ちて、矢の下ること雨の如し」(『後漢書』の表現に習う)と戦いのすさまじさを描いている。この戦で大友軍を破った大海軍は、大津京を陥落させ、大友皇子は「乃(すなわち)ち還(かへ)りて山前(やまさき)〔現在の乙訓(おとくに)の大山崎のことか?〕に隠れて、自ら縊(くび)れぬ」とある。
 天武元年(672年)に、大友軍が敗れると、大友側の左右大臣を始め軍の将軍たちは、大海側によって捕らえられ、現在の大津に集められた。大海側の諸将達は、大友皇子の首を斬り、関ヶ原に居る大海人皇子の陣営で、「因(よ)りて大友皇子(おほとものみこ)の頭(かしら)を捧(ささ)げて、営(いほり)の前(まえ)に献(たてまつ)りぬ」とある。同年の十二月(しはす)の「壬申(みづのえさるのひ)」〔15日〕には、「諸(もろもろ)の有功勲(いさを)しき者(ひと)を選びて、冠位(かうぶり)を増(ま)し加(くは)えたまふ」とあり、この記事から「壬申の乱」を呼ばれることになった。
 壬申の乱のこの時期に、隣国の百済と新羅でも、王室とこれを支える朝廷の諸豪族との間で、さらには、それらの豪族同士の部族間の争いもあり、倭も百済も新羅も、国内の政治が混迷状態にあった。一つには、大陸では隋から唐への推移があり、このために大陸からの脅威がそれほど強くなかったために、半島と倭国への外圧が薄れたことが、国内での勢力争いを可能にしたと思われる。
■乱の影響
 倭国でも、それまで大和朝廷を支えてきたのは、主として畿内の豪族たちであった。大化の改新以来、朝廷の勢力が強まり、律令制の施行を通じて、中央集権化が推し進められる過程で、畿内の有力豪族と地方の諸豪族との間に利害関係で齟齬が生じるようになっていたと思われる。近江の大友皇子は、従来の畿内の豪族に支えられていたのに対して、大海人皇子は、美濃以東の地方の豪族たちの支持を得ることができたことが、大海人皇子を優勢にした主な原因だと思われる。
 天智天皇の治世に進められた大和朝廷の中央集権化は、壬申の乱を経過することで新たな段階に達し、日本全体をその勢力下に置くために皇室中心の祭祀国家と、これを補強する新たな律令制とが求められることになった。国内の諸豪族全体に、新たな身分秩序と、朝廷を支える官僚制が整備されることになる。この過程を通じて、皇室の祖霊を中心とする祭祀国家が誕生することになった。「大君は神にしませば」とあるように、皇室の権威に基づく律令制によって、日本国への本格的な歩みが始まったのである〔週刊朝日百科『日本の歴史』(45)31〜32頁〕。ただし、大和朝廷の中央集権化への歩みは、国内の統一だけでなく、外敵、とりわけ大陸からの脅威に備えることと表裏一体であったことを忘れてはならない。
■唐と朝鮮半島
 事情は、朝鮮半島でも変わらない。『日本書紀』によれば、壬申の乱が始まった天武元年(672年)から、乱が治まり、最初の新嘗祭が行なわれる天武6年(677年)までの時期に、百済からの使者は3回ほど、高句麗からも3回ほどであるのに比して、新羅からは、その使者と渡来人を含めて、11〜12回ほども来ている。これに先立って、大陸では、隋から唐へ王朝が変わり(618年)、唐の勢力範囲が大陸に拡がり(662年)、倭と百済の連合の軍船が白村江で唐と新羅の連合軍に大敗して百済が滅びた(663年)。さらに、度重なる唐からの攻撃に耐えてきた高句麗も唐によって滅ぼされた(668年)。その結果、最後に生き残った新羅が半島を統一することになる(684年)。大陸と半島でのこのような推移に伴って、倭国の外交政策が唐と新羅へ移行していることが分かる。
 しかし、部族的な抗争の根が深かった半島では、新羅統一後も、高句麗や百済や加羅族と、新羅の王室との争いが絶えることがなかった。また、新羅の国内にも、唐への抵抗勢力が根強く残っていた。新羅は、唐と対抗するために、かつての高句麗の部族を支援したり、百済への新羅支配を強めようとした。これを受けた百済は、今度は、唐へ要請を送り、これによって、新羅王を交替したり(674年)、滅ぼされた高句麗の再興を図って高句麗王を立てようと画策したりする(674年)。半島のこの複雑な状況を見て、唐は、ついに半島の実質的な支配を諦めて、総督府を半島から唐の安東へ移転している(676年)。これによって、半島は、実質的に新羅が支配することになった〔大津前掲書49〜53頁〕。
■乱と皇室の祭儀
 壬申の乱の最中とその直後の大海人皇子の行なった祭儀を『日本書紀』から見ると、次の通りである。
(1)天武元年(672年)の「六月(みなづき)(?)」の「丙戌(ひのえいぬのひ)」に、乱の最中に行なわれた祭儀として、大海人皇子は「旦(あした)に、朝明郡(あさけのこほり)の迹太川(とほかわ)〔現在の三重県三重郡朝明川〕の辺(へ)にして、天照太神(あまてらすおほみかみ)を望拝(たよせにおが)み〔呼び寄せること〕たまふ」とある。
(2)天武元年(672年)の「秋七月(あきふみづき)?」に、「高市県主許梅(たけちのあがたぬしこめ)」という者が、「?忽(にはか)に口閉(くちつく)びて、言(ものい)ふこと能(あた)はず。三日(みか)の後に、方(みざかり)に神(かみ)に着(かか)りて言(い)はく、『吾は、高市(たけち)の社(やしろ)に居る、名は事代主神(ことしろぬしのかみ)なりといふ〔現在の橿原市高殿町にある高市御県坐鴨事代主神社〕。又、身狭社(むさのやしろ)〔現在の橿原市見瀬町の牟佐坐神社〕に居る、名は生霊神(いくみたまのかみ)なり、』といふ。乃(すなは)ち、顕(あらこと)して曰(い)はく、『吾は皇御孫命(すめみまのみこと)〔祭祀の時に用いる天皇の呼称〕の前後(みさきしり)に立(た)ちて、不破(ふは)に送(おく)り奉(まつり)りて還(かへ)る。今(いま)も旦(また)官軍(みいくさ)の中に立ちて守護(まも)りまつる』といふ。そこで、(おきそめのむらじうさぎ)「幣(みてぐら)を捧(ささ)げて、高市(たけち)・身狭(むさ)、二社(ふたやしろ)の神を礼(ゐやま)ひ祭る」とある〔文中の注は前掲書『日本書紀』(5)103頁による〕。
(3)壬申の乱が収束した翌年の「天武2年(673年)の春正月に、天皇(すめらみこと)、有司(つかさ)に命(みことおほ)せて壇場(たかみくら)を設けて、飛鳥浄御原宮(あすかのきみはらのみや)に即帝位(あまつひつぎしろしめ)す」とあり、天武天皇として正式に即位した。次いで、「正姫(むかひめ)を立てて皇后(きさき)とす」とある。「正姫」とは、天武の兄天智天皇の娘である菟野皇女のことで、この皇女が、後の女帝の持統天皇である。古代国家では、王/皇室の血統を守るために、このような近親結婚は珍しいことではなかった。ちなみに、同じ7世紀の新羅では、26代真平(チンピョン)王の皇女トンマン王女が、王の弟である葛文王(ククパンワン)と結婚している。このトンマン妃は、後の新羅の善徳女王である。
(4)同じ天武2年の「三月(やよい)」に、大海人皇子は、「一切経〔経・律・論の三蔵及びその注釈を集めた仏教の聖典の総称〕を川原寺(かはらでら)〔飛鳥川の西岸、橘寺のすぐ北にあったと伝えられる弘福(ぐぶく)寺のこと。伽藍を有する立派な寺院で、寺の創立は天智天皇の時代であったと思われる〕に写(うつ)したまふ」〔前掲書『日本書紀』(4)(補注25)31による〕とあり、一切経の写経を命じている。天武4年の「冬十月(ふゆかむなづき)」に「使いを四方(よも)に遣わして、一切経を覓(もと)めしむ」とあるのは、この写経の事業に関連しているのであろう〔前掲書『日本書紀』(5)113頁(注)22〜24/同129頁(注)1参照〕。
(5)同じ天武2年の「十二月(しはす)」に、乱の時の功労を労(ねぎら)うために、美濃王(みののおおきみ)と訶多麻呂(かたまろ)の二人の豪族の長を「高市大寺造(たけちのおほでらつく)る司(つかさ)に拝(め)す」とある。高市大寺とは「百済大寺」のことで、現在、高市郡明日香村にその遺跡がある。なお、この時に、寺院の僧と尼を統率する「知事」と、知事の下に「僧都(そうづ)」の職を置き、さらにその下に、新たに「左官(さくわん)」を二人加えている。寺院の僧と尼全体を管理する組織を作ったのである。
(6)天武3年(673年)の「夏四月(なつうづき)」には、「大来皇女(おほくのひめみこ)〔天武天皇の皇女〕を天照大御神宮(あまてらすおほみかみのみや)に遣侍(たてまだ)さむとして、泊瀬斎宮(はつせのいづきのみや)〔奈良県桜井市初瀬〕に居(はべ)らしむ」とある。皇女を宮の斎宮として捧げたのである。「冬十月(ふゆかむなづき)」に、この皇女は、斎宮として伊勢神宮に参拝している。
(7)天武4年(674年)の「夏四月(なつうづき)」には、「僧尼二千四百余(ほふしあまふたちあまりよほたちあまり)を請(ま)せて、大(おほ)きに設斉(をがみ)す」とある。
(8)天武5年(675年)、「是(こ)の夏に、大(おほ)きに旱(ひでり)す。使(つかひ)を四方(よも)に遣わして、弊帛(みてぐら)を捧げて、諸(もろもろ)の神祗(かみがみ)に祈らしむ。亦(また)諸(もろもろ)の僧尼(ほふしあま)を請(ま)せて、三宝(さむぽう)に祈(いの)らしむ。然(しか)れども雨ふらず。是(これ)に由りて、五穀登(いつつのたなつものみな)らず。百姓(おほみたから)飢(いひう)ゑす」とある。神社仏閣をことごとく併せて豊穣祈願を捧げる当時の朝廷の神仏習合の有り様を知ることができる。
(9)天武6年(676年)の「八月(はつき)」に、「大(おほ)きに飛鳥寺(あすかでら)に設斉(をがみ)して、一切経を読ましむ。便(すなは)ち天皇(すめらみこと)、寺(てら)の南門(みなみかど)に御(おはしま)して三宝(さむぽう)を礼(ゐやま)ひたまう」とあり、ようやく一切経の写経が完成して、これの読経(どきょう)が行なわれたことが分かる〔『日本書紀』「(5)141頁(注)7参照〕。
(10)天武6年(676年)の「十一月(しもつき)」に「天下(あめのした)に大赦(おほきにつみゆる)したまふ。己卯(つちのとのうのひ)〔21日〕に、新嘗(にひなへきこしめ)す」とある。前年の天武5年「九月」に、「新嘗(にひなめ)の為(ため)に国郡(くにこほり)を卜(うらな)はしむ。斉忌(ゆき)は尾張国(をはりのくに)の山田郡(やまだのこほり)〔現在の名古屋市北部、春日井市、瀬戸市のあたり〕、次(すき)は丹波国(たにはのくに)の訶沙郡(かさのこほり)〔現在の舞鶴市近くの京都府加佐郡〕」とあるから、占いによって、悠紀(ゆき)と主基(すき)の国(くに)が選ばれている。これが日本の歴史で、天皇の即位に伴う最初の大嘗祭、すなわち「新嘗」の祭儀である。 ただし、天皇の即位の年の「新嘗(にいなめ)」ではなく、年ごとの大嘗祭は天武2年の「十二月(しはす)」に「大嘗(おほにえ)」としてでている。
 ちなみに天武6年から8年(676年〜678年)にかけて、新羅から8回ほど使者が派遣されてきている。百済が滅び(663年)、高句麗が滅んだ(668年)後、残った新羅が「倭国」と手を結んで唐と対抗しようとしている様子がうかがわれる。
神仙思想
 百済も新羅も高句麗の王朝にも、倭国と同様に、それぞれの祖霊信仰に基づく「神国」の思想があった。恐らくこれらの神国思想は、ほんらいは、素朴な自然崇拝から生じた豊穣神話から生じたものであろうが、半島と倭国の諸王室の神国思想には、大陸から伝わった道教の天道思想が反映している〔週刊朝日百科『日本の歴史』(45)32頁、同(46)41頁/47頁を参照〕。
 大陸の「天皇(てんこう)」は「天光(てんこう)」に由来すると思われる。大陸では、月と太陽と北極星を「三光」と称したから、「天光」は、その中の一つで、すべての星が、それを中心に回る北極星のことである。中国の「天皇(てんこう)」という称号は、道教の「不老不死の仙人」を信仰する「神仙思想」に基づくもので、道教は、中国の戦国時代に(紀元前3世紀頃)中国で始まった。中国では、これが仏教と習合する。仏教と習合した道教は、百済と新羅を経由して倭国に伝えられ、推古10年(602年)に、百済の僧観勒(かんろく)が道教の書物を大和朝廷に伝えている。「天皇(てんこう)」という用語は、唐の高宗の時(674年)に始まり、則天武后の時代にも使用された。日本の「天皇(てんのう)」称号は、中国の道教に由来するものである。天武天皇の和風の諡(おくりな)は「天淳中原瀛真人(あめのぬなかはらおきのまひと)」である。「瀛(おき)」は、道教の三神山の一つ瀛州(えいしゅう)山にちなんだものであり、「真人(まひと)」も道教の「真人(しんじん)」に相当する。道教は、日本では、「天神地祇(ちぎ)」すなわち「天の神、国の神」として、民間信仰で受け容れられた。日本では、「天皇」「皇后」「皇子」という称号は、天武10年(681年)頃から使用され始めて、飛鳥浄御原令(689年)において初めて正式に採用されたと考えられる。それまでは、「大王(おほきみ)」「大后(おほきさき)」が用いられた。「大王」は、諸豪族の「王」の上に立つ称号として用いられたが、律令体制による中央集権国家が誕生するのに伴って、王室を神格化する意味を込めて「天皇(あめみこと)」が用いられたのであろう〔週刊朝日百科『日本の歴史』(45)32頁/同書(46)38〜41頁/47頁を参照〕。
 ちなみに、倭国では、推古天皇が、592年に(おそらく東アジア初の?)女帝として即位した。朝鮮半島では、真平王(チンピョンワン)の後、王位を受け継ぐ皇子が居なかったために、トンマン王女が善徳女王(ソンドクジョワン)として、朝鮮半島で初の女王になった(632年)。この時、新羅の朝廷は「聖祖皇姑(ソンジョファンゴ)」(聖なる王室の女人)という称号を女王に献じている。ここで「皇」の文字が使われていることに注意してほしい。女王の即位に際しては、この称号に添えて、「膽星台(チョムソンデ)」(小型の天文台)を献上しているが、これは、「皇」と「天星」との関連を例証するものである。ちなみに、『日本書紀』には、天武4年(664年)の「春正月(はるむつき)」の「庚戌(かのえのいぬのひ)」〔5日〕に、始めて占星台(せむせいだい)を興(た)つ」とある。これは、善徳女王が築いた巨大な膽星台に学んだと考えられる〔『日本書紀』(5)349頁(補注)11を参照〕。
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