6章 律令と習合
 
■近江礼(おうみりょう)
 大化の詔勅以後では、近江令(おうみりょう)と呼ばれる律令の発布が問題にされている。『日本書紀』には、天智9年(670年)の「二月(きさらぎ)に、戸籍(へふみた)を造(つく)る。盗賊(ぬすびと)と浮浪(うかれひと)とを断(や)む」とあるだけで、近江令のことは全くでてこない〔ただし、週刊朝日百科『日本の歴史』55号350頁年表に、「671年近江令を施行」とある〕。この戸籍は、日本で最初の全国的な戸籍制度であって、これによって、本籍地を離れることで課税を免れていた人たち、すなわち「盗賊(ぬすびと)と浮浪(うかれひと)」がいなくなったとある。「近江令」とは、この戸籍制度のことであって、それ以上の律令は存在しなかったというのが、現在の有力な説のようである〔大津前掲書44〜45頁〕〔『日本書紀』(5)326〜327頁(補注)14を参照〕〔平凡社『百科大事典』「近江令」の項参照〕。
浄御原令(きよみはらりょう)
 672年に壬申(じんしん)の乱が起こった。これによって、近江大津京に居た大友皇子(おおとものおうじ)が、吉野に居た大海人皇子(おおあまのおうじ)によって斃(たお)され、大海人皇子は、天武天皇として、飛鳥浄御原宮(あすかのきよみはらのみや)で即位する(673年)。『日本書紀』には、天武10年(681年)の「二月(きさらぎ)」に「天皇(すめらみこと)・皇后(きさき)、共に大極殿(おほあんどの)に居(おは)しまして、親王(みこたち)・諸王(おほきみたち)及び諸臣(まえつきみたち)を喚(め)して、詔(みことのり)して曰(のたま)はく、朕(われ)、今より更律令(またのりのふみ)を定め、法式(のり)を改めむと欲(おも)ふ」とある。ここで「浄御原(きよみはら)律令」の編纂が開始されることになり、この時、草壁皇子(くさかべのみこ)が皇太子になる。ちなみに、同じ年の三月(やよい)に、同じ大極殿で、天皇が詔して、「帝紀(すめらみことのふみ)及び上古(いにしへ)の諸事(もろもろのこと)を記(しる)し定(さだ)めたまう」とあり、ここで『日本書紀』の編纂が開始される。
 近江令が出されたのは、天智元年(668年)のことだという説がある。これによれば、天智元年に出された近江令が、壬申の乱の以後に改修され、それが浄御原令の成立へつながったという見方である。しかし、近江で律令の編修が「始まった」、あるいは「企画された」けれども、これの体系的な成立は浄御原令だという見方もある〔岩波文庫『日本書紀』(5)328〜329頁(補注)18を参照〕。天智朝の時代は、国外からの侵攻に備えて国土を防衛することが求められたから、体系的な法令の成立ができなかったと見るのである〔大津前掲書45頁〕。
■大宝律令(たいほうりつりょう)
 以下の記事と文言は、平凡社『世界百科大事典』の「大宝律令」(早川庄八)からと、大津透『律令国家と隋唐文明』(岩波新書73〜74頁)からとを併せたものである。  大宝律令(たいほうりつりょう)は、文武4年(700年)に始まり、翌大宝元年(701年)に成立し、翌大宝2年に全国に施行された。律六巻、令十一巻と伝えられるが、その内容は現存しない。『続日本紀』の大宝元年(701)元日の記事に、「文物の儀ここに備われり」とあり、大宝律令をもって本格的な律令法典の出現と意識していたことを示している。これを編纂したのは刑部(おさかべ)親王(天武皇子)と藤原不比等(ふひと)ら19名であるが、当時の文化からみて、当然、渡来人一世あるいは渡来系氏族の出身者が多かったと思われる。この律令は757年まで施行された。その間に、日本は、律令制の国家として、内外共に認められるようになった。大宝律令は、唐の永虐律令(えいきりつれい)(650年制定)を採り入れているから、最新の唐の律令制に準拠しているのが分かる。実質的には9世紀まで、形式的には近世まで、日本の国家体制の枠組みを規定したものは大宝律令であったということができる。
 大宝律令の内容は、令の注釈書『令集解(りょうのしゅうげ)』(9世紀)に引用されている。また『続日本紀』の記事などによって、その大要を知ることができる。それによれば〔以下平凡社前掲書による〕、
第1に、律を刑罰法、令を教令法・行政法とすることや、天皇の権力を絶対的なものとして中央集権的な統治を貫徹させることなど、中国律令法の基本的理念をそのまま継承している。
第2に、個々の条文をみると、律においては、唐律条文をそのまま引き写した条文が多いが、量刑のほうは、一般に唐のものより軽減されている。
第3に、これに対して令のほうでは、日本の実情にあわない条文は採用しなかったり、実情にあわせて修正したり、日本独自の新しい条文を作成したものが多い。
第4に、大宝律令と養老律令の間には、一部の条文に内容上大幅な相違がみられるものの、全体としては、両者に根本的な違いはない。
■儒教と律令
 中国の前漢と後漢を通じて、国家の統治を基礎づけた儒教の「礼」(らい/れい)とは、家制度を基礎づける「礼」〔大津前掲書137頁〕をその核芯とする天道思想に基づくもので、それは宗教的な儀礼に根ざしている。これが、中国の皇帝をも支配する国政の宗教・道徳の要(かなめ)であった。儒教の「礼」(らい)に対して、「律令」(りつりょう)のほうは、国家と統治するための技術的な政策として、国家の統治に背くことには罰則としての「律」があり、統治を重んじる教えとして「令」があった。したがって、中国での「律令」は、中国の国家と社会を統治するための技術的な手法を指す用語だったのである。このために、大和朝廷は、従来の皇室の宗教的な儀礼を保持しつつ、中国から「原則として、律令を礼から切り離し」〔大津前掲書138頁〕、「律令」の技術を採り入れることが可能だった。言い換えると、儒教思想は、律令を通じて、大和朝廷の皇室の宗教的な儀礼と矛盾することなく「習合する」ことができた。大和朝廷に「礼」思想が本格的に取り込まれるのは、8世紀中葉以降のことで、聖武天皇は、冕冠(べんかん)という中国の皇帝の冠をかぶることで、従来の天皇像を脱却しようと試みたようである〔大津前掲書139頁〕。
 後の奈良時代の女帝の孝謙天皇(在位749〜758年)は、聖武天皇と光明皇后との間の皇女である。この女帝は仏教への信仰が篤く、東大寺の大仏開眼の供養(752年)には、中国風の冕冠(べんかん)をかぶり、日本古来の皇室の白衣をまとったことで知られている〔大津前掲書141頁〕。この女帝の衣装は、まさに、神仏儒の習合を体現している。しかし、道鏡と和気清麻呂の事件と言い、玄隈(げんぼう)と藤原広嗣の乱と言い、仏僧が朝廷内で権力を帯びると必ずこれを排除する勢力が現われることで、朝廷の仏教化が防がれるという経過を読み取ることができる。 なお、聖徳太子に始まり、聖武天皇と光明皇后にいたる仏教的な事績には、慈善や福祉など、通常の護国仏教には見られない政策が行われている。これには、早くから中国を訪れていた景教徒による、大和朝廷への影響があったのではないかと指摘されている。この件を手短にまとめて紹介しているパンフレットがある〔『日本民族総福音化運動』第43号。総裁手束正昭/編集行澤一人(2021年3月15日)「古代日本の景教徒」久保有政/9頁〕。
■平安京の時代
 ここで言う平安時代とは、桓武天皇が、長岡京から平安京へ移転した年(794年)から、後白河天皇が退位後に院政を敷き、後白河院が没して源頼朝が征夷大将軍に任ぜられた年(1192年)までの400年間のことである。平安時代が隆盛を極めたのは前半の9〜10世紀である。平安時代は、奈良時代の天武系に代わって、天智系が再び皇位を継ぐことになった桓武天皇に始まる。桓武天皇の父は光仁天皇(在位770〜81年)で、桓武天皇の母は、光仁天皇の正式の皇后ではなく、「高野新笠(たかののにいがさ)皇太夫人」(?〜790年)と称された女性で、天皇の母は渡来人の子孫である。古代日本では、多くの百済出身の氏族が渡来している。高野新笠皇太夫人の氏族もその中の一つであった。
 『日本書紀』によれば、継体天皇の7年(513年?)の「秋八月(あきはづき)に」「百済(くだら)の太子(こにせしむ)淳陀(じゅんだ)薨(みう)せぬ」とある〔岩波文庫『日本書紀』(3)180頁〕。「コニセシム」は古代朝鮮語で「王子」(皇太子)のことである。この淳陀(じゅんだ)は、「百済武寧王之淳陀太子」と他の文献に見えている〔岩波『日本書紀』(3)181頁(注)7参照〕。また、『日本書紀』の武烈天皇の7年の記事には、「百済(くだら)の王(こきし)、斯我君(しがきし)を遣(まだ)して、調進(みつぎたてまつ)る」とあり、次いで「是(こ)れ和君(やまとのきみ)の先(おや)なり」とある。別の文献には「和朝臣、出自百済国・・・・・孫武寧王也」とも出ているから、「和朝臣(やまとのあそん)」が「和君(やまとのふびと)」と同一氏族であるのなら、百済の王族の斯我君(しがきし)は、倭国に大使として遣わされ、そのまま倭国に留まり、その子孫が和氏(やまとのうじ)として高野新笠にいたると見ることができる〔前掲書159頁(注)6参照〕。したがって、百済王の武寧王(ムリョンワン)(在位502?〜523年?)の皇太子淳陀(じゅんだ)が、渡来して和氏(やまとのふびと)の祖先となり、皇太后高野新笠は、その淳陀の子孫にあたることになる。この姫が天皇の「夫人」に選ばれたのもこの理由からであろう。
 7世紀の後半、羅唐同盟の攻撃を受けて百済が滅びたときにも、百済から倭国(日本)へ逃れてきた多くの氏族がいた。これらの氏族の居住地の一つが、河内国の交野(かたの)にあり、桓武天皇は、しばしば鷹狩りにここを訪れている。桓武天皇の生母である高野新笠は光仁天皇の后であり、百済の武寧王の子孫と称する和(やまと)氏の出だったのである。桓武天皇は、「百済王らは朕の外戚なり」として、彼らを優遇したとある〔平凡社『世界百科大事典』鈴木靖民〕。
 平安時代は、遷都で大きな役割を果たした渡来系の秦氏と共に、新たな国際性と、同時に新たな国内政治を要請された時代である。その眼目となるのか、鑑真(がんじん)の来日に始まり、最澄と空海の遣唐使にいたる「新たな仏教受容」であった。これによって、すでにカミとホトケの国家的な習合を果たしていた飛鳥から奈良時代の大和朝廷が、国の内外から、名実ともに仏教王国として認められるにいたった。平安時代は、仏教王朝の時代である。だから、平安時代における「カミとホトケの習合」は、天照大神(あまてらすおおみかみ)のなんたるかを知らず、阿弥陀仏を信心したという宮廷の女官さえいたほどである。この例に見るように、平安時代には、宮廷において、「精神史上の地殻変動」が生じていたと思われる〔週刊朝日百科『日本の歴史』(64)259頁〕。
 鑑真(がんじん)(753年渡来)に対する朝廷の信望と帰依は異常なほどで、高官・高僧らは、自身で、あるいは使者を送って彼の労をねぎらい、勅使吉備真備も「自今以後,授戒伝律はもはら大和尚にまかす」という孝謙天皇(女帝)の意向を伝えた。鑑真は、大仏殿前に臨設の戒壇を築き、聖武上皇などに菩醍戒を授け、その後、大仏殿西方に戒壇院を設立し、登壇授戒の制が整った。756年に大僧都(そうず)に任ぜられ,仏教界を統べる僧綱(そうごう)の重職にあった〔平凡社『世界百科大事典』による〕。
■十字架と皇室との習合
 天皇制は善か悪か?などと問うのは愚かであろう。天皇制にも武烈天皇のような残虐非道の個人が居た。カトリック・キリスト教にも、アルゼンティンで無実の人々を多数虐殺した大統領がいた。英国国教会にも、妻たちと7〜8名と、大法官トマス・モアを処刑したヘンリ8世が居た。イスラム教にも悪逆非道なスルタンがいた。現在も、左翼のイデオロギーを信奉すると称する北朝鮮の金正恩(キムジョンウン)が、独裁と暴虐を行なっている。宗教する人が行使する政治権力から、このような罪性を帯びた個人が出るのは避けられない。
 翻って、日本の万世一系の天皇家であれば、それだけ豊かな経験を積んでいるはずである。そうでなければ万世一系は不可能だからである。それゆえ、昭和20年の敗戦の時に、昭和天皇は、占領軍の司令官ダグラス・マッカーサーの尊敬を得て、天皇が自ら「人間宣言」を布告されたのである。人類の歴史を導く神の御子イエス様が、昭和天皇の罪をお赦しくださったことは、その後の日本が、武力を持たないにもかかわらず、世界一の経済大国へ発展したことでも証しされている。続く現在(2021年2月)の上皇も、カトリックの教育を受けた美智子上皇と共に、昭和天皇の御遺志を継がれており、その御遺志は、現在の令和天皇にも受け継がれている。イエス様の十字架は、今もなお、日本の皇室の歩みを護っているのである。だからこそ、わたしたちは、「どうか日本の皇室をお護りください」とイエス様に祈ることができる。
                大和朝廷の神仏習合