中国の宗教事情と空海
(2024年10月)
■はじめに
筆写(私市)の手元に、村上厚(あつし)氏から、「禅とキリスト教の聖霊」(仮題)(2024年9月)について、A4用紙8枚にも及ぶ文書がメールで送られてきました。この文書は、その内容が重要で、そこには、中国の禅仏教と、それが目指す「覚(さと)り」への「人間としての自己理解」が含まれています。さらに、トマス派の思想と景教とがこれに関係していて、その上で、日本の仏教思想において重要な役割を担う空海に言及しています。この文書が提示する問題点は、禅仏教が啓(ひら)く覚りと、トマス派(グノーシス主義)の知性と、キリスト教会が唱える御霊にある霊知、「覚り」と「人知」と「霊知」のこれら三つが、どのように関わり合うのか? という課題に絞られると思います。これは「重要な難問」です。これら三つが伝える人間の自己理解の相互関係を探るのは容易でありません。
そこで、村上氏への返答をも兼ねて、せっかく送っていただいた文書なので、これをなるべく活かすかたちで、しかも、分かりやすい文書にして、当方からの応答を郵便で送ることにしました。以下は、私市からの応答文書です。
なお、村上氏の父村上徳太郎は、かつて(昭和6年頃)、中国で、東光書院を創設し、藤沢親雄を始め、中曽根康弘、園田直らとともに清朝座禅を励行しました。東光書院は、戦後、東亜同文書院となり、村上氏の兄である村上武は、これの創設に関わる根津山州、荒尾東方齊、近衛篤麿らを先覚とする靖亜(やずあ)神社の祭司を勤めました。現在、この神社は、豊橋市にある私立愛知大学に付属しています。
1章 中国への禅仏教の伝来と成長
■祖師達磨(だるま)の西来
達磨(だるま)大師(?〜530年)は、南インドの王子で、北魏を訪れた三蔵法師の一人であり、中国の禅宗の初祖です。達磨(だるま)大師は、「正法眼蔵」(悟りの真実)を伝えるために、北魏へ入り、少林寺で面壁へ向かい座禅を実行しました。『景徳伝灯録』(1004年)によると、大師は、南インドから海路で中国に赴き、西暦527年に、梁の広州に上陸、同年10月1日、梁の武帝と対面しました。武帝が「仏法を奉じる功徳」を問うと、達磨(だるま)は「無功徳」と答え、「仏法の真諦(聖諦第一義)は何か?」と問われると、あっさり「そんなものはない」(廓然無聖)と言い捨てて、揚子江を渡り魏に赴きました。
伝承によると、その後、達磨は嵩山の少林寺(河南省鄭州市登封)に籠もり、面壁九年、慧可、道育、総持(比丘尼)、道副等に法を伝えました。達磨は、北魏の政変(河陰の集団処刑)に巻き込まれたという説や、毒殺されたという説もあります。今日では、達磨は、どうやら海路ではなく陸路で中国に赴いたのではないかという説が有力視されています。
主要な中国文献の一つ、『洛陽伽藍記』は、達磨を西域出身のペルシア人としていますが、一般に中央アジアを指す西域のインド亜大陸を指す可能性も否定できません。一方、インドの伝承によれば、タミールナド州カンチプラム出身のパッラヴァ王朝第三王子の達磨は、浅黒い肌のドラビダ人であったと言います。曇林(506年〜574年)も、『二入四行論』の序文において、達磨を偉大なインド王の第三王子と紹介しています。インド・ブバネーシュワルのユトカル大学物理学部および物理研究所のサマール・アッバス博士によると、西暦275〜897年に南インドの一部を支配したパッラヴァ王朝は、イランを起源とし、ペルシアのパルティアあるいはパフラヴァの系列に属していたようです。禅宗文献の中で、達磨は、しばしば碧眼の「胡」僧と称されていますが、達磨がインド人であったなら、碧眼の「天竺」僧と呼ばれたでしょう。〔以上は村上厚「禅とキリスト教の聖霊(仮題)」による〕
■南頓北漸の起源
恐らく、魏晋南北朝時代(400年頃〜580年頃)に、複数の先達により陸路と海路を通じて中国に伝えられた禅宗は、北朝が支配する中原では、『二入四行論』が説く「行」を重んじる教禅一味の宗風でした。南朝が支配する南中国では、「頓悟」を重んじる「不立文字」「教外別伝」の宗風を開花させます。後世になって、中国禅宗史の第一頁を飾るスペクタクルとして、南朝きっての仏教庇護者である梁の武帝と達磨との対決が、アレンジされたものと見られます。
異民族の王朝が興亡した中原では、その時々の政権により、しばしば廃仏毀釈(はいぶつきしゃく)の政策が打ち出されたこともあって、始祖達磨、二祖慧可、三祖僧?、四祖道信(580年〜651年)の時代までは、禅宗には、さしたる発展は見られませんでしたが、唐王朝により中国全土が統一され、とりわけ高宗の皇后武則天が実権を掌握した頃には、五祖弘忍(こうにん)禅師(601年〜675年)の下で、中原においても禅宗が急成長を遂げました。〔村上厚「禅とキリスト教の聖霊(仮題)」(2024年9月)より〕
■武則天の仏教振興策
則天武后は、唐の高宗の皇后で、高宗に継いで女帝となり(女帝在位690年〜705年)、「唐」から「周」へ王朝名を変えました。則天武后は「武則天」とも称され、宮廷における劣勢を挽回する狙いから、身分に関わりなく、と言うより、むしろ身分の低い優秀な人材を登用すると同時に、老子の末裔を自負する李氏宮廷における「道先仏後」の優先順位を「仏先道後」に改め、仏教の振興に努めました。
広州市の一介の柴売り青年(後の慧能)が、南頓北漸二派を統合する中国禅宗の第六祖に就任した背後にも、あるいは則天武后の意向が働いていたのかも知れません。中国禅宗の第六祖であるの慧能(えのう)禅師(638年〜713年)の兄弟子で、やはり五祖弘忍(こうにん)の法を嗣ぎ、北宗禅の開祖として則天武后の帰依を受けた玉泉神秀(ぎょくぜんじんしゅう)(606年?〜706年)は、「弘忍(こうにん)の正嫡は慧能(えのう)である」とし、慧能の講義を聴くよう中宗(高宗と武則天の子)に上奏したが、慧能は神秀(じんしゅう)の再三の説得にも関わらず病を理由に上京しなかったとされます。ちなみに、ちょうどこの頃、西域の康国(ソグディアナ)人の法蔵(643年〜712年)は、勅命により出家した後、華厳宗の第三祖に就任、武后の宮廷で華厳哲学を講義しています。
もう一つ補足すれば、中国禅宗の祖は、六祖までで、七祖や八祖は、存在しません。六祖以後、中国禅宗は、南頓北漸二派のみならず、五家七宗が並び立ち、爆発的成長を遂げました。このため最早、絶大な権勢を誇る唐皇帝の力をもってしても第七祖を襲名させることは不可能になったものと見られます。〔以上は村上厚「禅とキリスト教の聖霊(仮題)」(2024年9月)による〕
■弘忍禅師誕生の逸話
五祖弘忍(こうにん)禅師(601年〜675年)には、次のような逸話があります。
五祖弘忍の俗姓は周氏とされるが、これは母の姓で、父親は不詳。伝説によれば、母の体内に宿った破頭山の仙人の生まれ変わりだと言う。四祖道信が湖北省黄梅県の破頭山に住み着くと、同山の主(ぬし)の仙人も弟子入りを願い出た。これに対して道信は「齢(よわい)百歳を超えた仙人を弟子にする訳には行かないが、生まれ変わって弟子入りしたいと言うなら入門を許そう」と答えた。がっかりした仙人が山を下って里に出ると一人の娘が小川で洗濯をしていた。そこで仙人は、「生まれ変わって出直せば、弟子入りを許す」と言う道信の言葉を思い出し、早速その娘に「宿を借りたい」と尋ねると、娘が「ぼろ家で宜しければどうぞ」と答えた。すると、仙人は、チャッカリ娘の腹に潜り込んでしまった。娘の腹が大きくなると、家族は不埒なことをしでかした娘を家から追い出した。娘は月満ちて男の子を産んだが、人々は母親と一緒に乞食をして回るこの子を無姓児(むしょうに)と呼んだ。黄梅県の街角で七歳になったこの無姓児と出会った道信が、名を尋ねると「俺の名は仏性だ」と答えた。道信はこの子に惚れ込み、破頭山の仙人の生まれ変わりとはつゆ知らず母親からもらい受け、黄梅山東山寺で出家させた。この無姓児こそ後の五祖弘忍と言う。
この逸話から見れば、弘忍も道信の実子だったのでしょうか。なお、この逸話は、イエスの処女降誕を彷彿とさせます。これは、キリスト教の聖典の物語が、随から唐にかけての中国に、すでに伝わっていたことを思わせます〔以上は村上厚「禅とキリスト教の聖霊(仮題)」(2024年9月)による〕。なお、この逸話は、ユダヤ教の始祖アブラハムが、齢(よわい)百に近くして、独り息子イサクを生んだ物語をも連想させます。ただし、処女降誕伝承は、洋の東西を問わず、古来、広く語られていました。
■無業(むごう)禅師
唐代に「莫妄想」(ばくもうそう)を一枚看板に、一世を風靡した禅僧がいました。彼は弟子たちから質問を受けるたびに、「妄想する莫(なか)れ」(莫妄想)と答えました。晩年、皇帝穆宗(ぼくそう)?の勅命を受け、山西省汾州の開元寺に住したことから、汾州無業禅師(ぶんしゅうむごうぜんじ)(760年〜821年)と称されました。禅師は、9歳のとき、開元寺の志本禅師から大乗経を授かり、五行(ごぎょう)(菩薩が修める五種の修業法を説いた二つの経典)を余すところなく諳(そら)んじ、12歳で剃髪、20歳の時、襄州(じょうしゅう)の幽律師(ゆうりっし)の下で受戒、『四分律疏』(しぶんりっしょ)(律蔵の解説書)を習い、僧侶らに涅槃経を講じたと言うから、仏教学に通じた秀才だったと見られます。
ところで、馬祖道一(ばそどういつ)禅師(709年〜788年)は、日本に伝わる禅の実質の創始者です。江西省洪州の開元寺を拠点に「即心是仏」(そくしんぜぶつ)、「平常心是道」(びょうじょうしんぜどう)、「作用即性」(さゆうそくしょう)等を説き、経典や観心よりも日常生活そのものを重視する禅風を発揚したため、無業青年も、遠路はるばる、馬祖道一禅師を訪ねることにしました。
無業青年の巍々(ぎぎ)たる相貌を見て、その梵鐘のような声音(こわね)を耳にした馬祖は、「仏殿は立派だが、中に仏が居らんな」と言うと、無業青年は跪(ひざまず)いて、「声聞・縁覚・菩薩三乘の文献を学び、禅宗の『即心是佛』の教えを耳にしたものの、まだ理解できません」と、正直に質問した。すると、馬祖は「君が『まだ理解できない』と言ったところがそれだよ。他に何もありゃせん」と答えた。そこで、青年は「達磨(だるま)大師が西来(さいらい)し、蜜伝した心印とはどんなものですか」と重ねて尋ねた。馬祖は、「大徳君、あんた、ちょっとウルサイ(煩い)ね。今日のところは、このくらいで出直しなさい」と言ったとあります。青年がやおら立ち去ろうとすると、馬祖は、つっけんどんに大音声で「オイ、大徳」と呼び捨て、青年が振り返ると、「何じゃい」とどなった。青年がハッと気づき、礼拝すると、馬祖は「何だ今頃、鈍根め」と詰(なじ)ったとあります。
ところで、曹洞宗の開祖である洞山良价(とうざんりょうかい)禅師(807年〜869年)の一番弟子と言われる雲居道膺(うんごどうよう)禅師(830〜902年)は、この商量に参じる学人に、錫杖をしごきながら、「汾州無業のどこが煩(うるさ)いか、さあ、言ってみろ」と気合を入れたと言います。〔村上厚「禅とキリスト教の聖霊(仮題)」(2024年9月)より〕
■作用即性(さゆうそくしょう)
古来、無業禅師開悟の因縁は、「作用即性」(さゆうそくしょう)の公案として用いられているようです。「作用」とは「動作」の意味で、「人間の営み」/「人間が生きていることそのもの」が仏性(ぶっしょう)であることです。馬祖禅の特徴は、大機大用の禅風をば、理念として理解させるのではなく、問答を通じて、各人に、我が身の上の活きた事実として実感させるところにありました。彼はこの道理を「作用即性」と称しました。駒澤大學の小川隆教授によると、唐代の問答は、修行生活のなかで自然に起る、偶発的な一回性のものでした。それが宋代になると、先人の問答の記録が禅門共有の古典として選択・編集され、それが修行の課題として修行僧に与えられるようになったのです。そのように使われる先人の問答の記録を「公案」と言います。宋代には、教材として、また教授法として、公案の規格化が進みました。〔村上厚「禅とキリスト教の聖霊(仮題)」(2024年9月)より〕
■公案
「公案」参究の方法は、大まかに「文字禅」(もんじぜん)と「看話禅」(かんなぜん)の二つに分けて考えることができます。文字禅は、古典詩文の素養を駆使しながら、公案に寸評をつけたり、公案の趣旨を詩に詠んだり、散文で論評を加えたりすることによって、禅を明らかにしようとするものです。いっぽうの看話禅は、「話頭」(わとう)、すなわち公案を「看る」禅のことですが、具体的には、一つの公案に全身全霊を集中して意識を限界まで追い詰め、その極点で爆発的な心の撃破を起こして絶対的な大悟の実体験を得るものです。(駒澤大學禪?究所年報第32號`に掲載された小川隆教授の論文『唐代禅から宋代禅へ─馬祖と大慧』より抜粋。2020年12月)。〔村上厚「禅とキリスト教の聖霊(仮題)」(2024年9月)より〕
2章 中国の禅仏教の特徴
■六祖の襲名と慧能
唐の高宗の上元三年(西暦676年)の正月十五日に、中国広東省広州の法性寺において、一人の青年の剃髪式が行われました。翌月の二月八日には、西安の智光律師、蘇州の慧静律師、?州の通応律師、中天竺の耆多羅律師、西域の密多三蔵法師を、それぞれ授戒師、羯磨(karma)師(夏安居終わりの反省会≪羯磨≫の司会を務める上座を羯磨師と言う)たちを、教授師、説戒師、証戒師として招請し、盛大な授戒式が執り行われました。こうして、達磨が中国に禅宗を伝えて以来、六代目に、六祖慧能禅師が誕生しました。慧能(えのう)(638〜713年)は、中国禅の第六祖で、神秀(じんしゅう)を祖とする北宋禅に対して、南宋禅の祖となります。〔村上厚「禅とキリスト教の聖霊(仮題)」(2024年9月)より〕
六祖慧能(えのう)が五祖弘忍(こうにん)の跡継ぎとして認められた時の事として、次のような伝承があります。弘忍は悟りの心境をうまく詩に表した者を後継者と認めようと言い、弘忍門下の筆頭だった神秀(じんしゅう)が、壁に己の心境を詩にして表す偈(げ)を書きます。しかし、その詩を弘忍は認めませんでした。慧能(えのう)は、神秀(じんしゅう)が悟りを得ていないことに気付き、神秀の詩を真っ向から否定する詩を書き、それを弘忍が認めたので六祖となったと言われます。〔ウィキペディア「慧能禅師」より〕。
神秀の詩
身是菩提樹 身は是れ菩提樹
心如明鏡臺 心は明鏡台の如し
時時勤拂拭 時時に勤めて拂拭し
莫使有塵埃 塵埃を有らしむること莫れ
慧能の詩(多版本)
菩提本無樹 菩提に本から樹など無い
明鏡亦無臺 明鏡にもまた台など無い
佛性常清淨 仏性は常に清浄
何處有塵埃 何処に塵埃が有るのか
心是菩提樹 心が菩提樹であり
身為明鏡臺 身を明鏡台という
明鏡本清淨 明鏡は本から清浄
何處染塵埃 何処が塵埃に染まるのか
〔インターネット「ウィキペディア」の「慧能」より〕
弘忍(こうにん)は慧能(えのう)を六祖と認めたものの、他の弟子たちがそれを受け入れないだろうと思い、慧能の身の安全の為に彼を逃がします。弘忍の命令で達磨から受け継がれた袈裟を持って大?嶺まで逃げる慧能を500人の僧が追ってくる。遂に追いつかれますが、慧能は、敢然と法論して論破しました。誰が正しい法脈なのかに気付き、弟子になった者もいると言います。〔村上厚「禅とキリスト教の聖霊(仮題)」(2024年9月)より〕
■二人の三蔵法師の予言成就
これをさかのぼること256年前に、北魏と南の宋との南北朝時代の始め頃、宋(南朝)の武帝の時(西暦420年)に、天竺の求那祓陀羅三蔵法師(394年〜468年)が、この地に戒壇を築いた際、「将来、肉身の菩薩がこの戒壇で具足戒を受けるであろう」と予言しました。また、梁の武帝の天監元年(西暦502年)には、天竺の智薬三蔵法師がこの地に菩提樹の苗木を植えた際、智薬は、「170年後、肉身の菩薩が現れ、この菩提樹の下で説法し、無量の衆生を済度するであろう。この方こそ仏心印法を伝える救世主である」と述べました。
この両三蔵法師の予言が成就して、弘忍(こうにん)に六祖と認められた慧能(えのう)は、その後、剃髪し受戒を受けました。その寺の境内に建てられた七重の塔には、一千有余年を経た今日も、慧能の髪が収められていると言います。慧能は、並み居る高僧を押しのけ、突如、中国禅宗六代目の祖師の座に就いたのです。このため、この剃髪受戒式は、ナザレの大工の子イエスが、ヨルダン川で洗礼者ヨハネの洗礼を受け(マルコ1章9節/マタイ3章13節)、洗礼者ヨハネの証言を通じてイスラエルの宗教界にデビューしたのと同様に、中国仏教史に一時代を画する象徴的事件とされています。当時イエスも30代半ばだったようです。(ルカ3章23節)。〔村上厚「禅とキリスト教の聖霊(仮題)」(2024年9月)を参照〕
3章 キリスト教トマス派と仏教
■トマス派と仏教
ところで、村上氏の文書には、「イエスの双子の兄弟」と称されるトマスが、インドに伝えた「(キリストの)聖霊の働き」が、大乗仏教や道教と融合することで、浄土信仰や禅文化に影響を与えたという指摘があります。
このトマスとは、イエスの十二弟子の一人トマスのことです。イエスとその仲間たちは、彼を「トーマー」と呼んでいたと思われます。「トーマー」は、ヘブライ語の「テォーム」(双子)に音が近いので、「双子と<称される>トマス」(ヨハネ11章16節)とあるので、これは、使徒トマスが、実際に双子であったことではありませんから注意してください。さらに、この使徒トマスが著(あらわ)したと言われるトマス福音書(2世紀の前半?)があります。これはシリア語で書かれたもので、「ディドモ(双子)・ユダ・トマスが書き留めた秘密の言葉」として、イエスが語ったイエス様語録(Q)が含まれています。このトマス福音書は、その内容が、2世紀以降に盛んになるグノーシス主義と関連しています。トマスとトマス福音書の伝承から、新約外典の一つである『トマス行伝』(3世紀の始め頃?)が著(あらわ)されました。
『トマス行伝』では、ディドモ(双子)・ユダ・トマスは、十二使徒による世界宣教のためのくじ引きの結果、行く先がインドにあたったけれども、彼は「行きたくない」とこれに従わなかったとあります(第一行伝)。『トマス行伝』によれば、このユダ・トマスは、キリストの双子の兄弟で、大工ヨセフの子イエスの奴隷でした。彼は、イエスによって、北インドの王グンダファル王の商人へ売られたことになっています(第一行伝)。その結果、トマスは、第一部では北インドへ、第二部ではが南インドへ渡ります。このユダ・トマスは「イエスの姿にも見えた」とも言われています(第一行伝)。これで分かるとおり、『トマス行伝』は、2世紀以降に語られた「トマス伝説」に基づくもので、実際の史実を伝えるものではありません。
『トマス行伝』では、身体と霊魂とは、対立はしませんが、永遠と、一時のこの世とによって、身体と霊魂の二つが時間的に対照されます。『トマス行伝』は、神が「天地の創造者」であると教えていて、グノーシス主義の「真珠の歌」からの引用があります(第一行伝)(第二行伝)。また、グノーシス主義を通じて、トマス福音書とも共通するところがあります。『トマス行伝』には、悪魔から襲われないために封印を求める記事もでています(第五行伝)。また、古い人をその情欲と共に脱ぎ捨てて、新しい人を身にまとうよう厳しく戒めています(第六行伝)。〔『トマス行伝』は、日本聖書学会研究所編『聖書外典偽典』(7)新約外典(II):教文館(1986年)217〜375頁を参照〕。
トマス福音書と関連するグノーシス主義は、北シリアのユダヤ人キリスト教とも関係します。トマス伝承は、北シリアから東方のパルティア王国(現在のイラン)へのキリスト教の宣教と関係があります。1世紀のパルティアは、インドのほぼ全域を支配したマウリア朝(前3世紀〜前2世紀)のアショカ王の仏教重視を継承するクシャーナ朝(1世から2世紀にかけて)のカニシカ王のインドと境を接していました。ちなみに、クシャーナ朝の頃の仏教は、仏(ほとけ)の教えを乗り物にたとえて、できるだけ多くの人を乗せることができるという意味で、「大乗(だいじょう)仏教」と呼ばれています。
パルティアとインドの両国の境界に近いガンダーラ(現在のアフガニスタン北部の地域)で、おそらく仏教で初めて、仏像が制作されます。ガンダーラの仏像は、すでに1世紀には、インドと中国の龍門に伝わり、4世紀頃に朝鮮半島へ、6世紀に日本に伝わります。ガンダーラの仏像はギリシア文化の影響を受けていることで知られていますが、仏像ではなく仏教のほうは、パルティアと宗教的に深く関わっており、トマス派のキリスト教が、パルティアを経由して南インドに至ったと伝承されています。したがって、トマス派のキリスト教が、1世紀以降の中国の仏教に影響を及ぼしたと見る村上氏の見解は、歴史的に見てありえる事です。
実は、この頃の北シリアのユダヤ教が、パルティアから中央アジアを経由して中国へ伝わったという伝承が(かつての北イスラエル王国の十部族の捕囚とも関連して!)語られることがあります。このユダヤ教の伝来は、今回のトマス派のキリスト教の伝来と混同されるおそれがあります。
■トマス派とキリスト教
以上で扱ったのは、トマス派とそのキリスト教が、主として、「仏教」とどのように関わるのか?でしたが、トマス派が「禅」仏教と、どのように関わるのか?これを確認するのは、容易でありません。確かなことが分からないまでも、トマス派の思想内容を確認することを通じて、禅とトマス派と、両者の異同を幾分か考察したいと思います。村上氏は、トマス福音書を次のように見ています。
「トマス福音書によれば、『光の子ら』あるいは『父の子ら』としての本来の自己の認識が御国の現成であり、『聖霊のバプテスマ』の真髄である。トマス福音書(3)では、『御国は人の内外にある。自己を知らない人は貧困である』とある。トマス福音書(50)では『御国は光である。光とは本来の自己である。』」〔村上厚「禅とキリスト教の聖霊(仮題)」(2024年9月)〕。
ここで、トマス派のキリスト教が帯びる「グノーシス主義」について知る必要があります。グノーシス主義は、次のような特徴を具えています。
(1)人間の「知力」に宿る究極的な存在と、人間本来の「自己」は本質において一つであるという救済認識。
(2)人が救済される前提として、反宇宙的な二元論があります。すなわち、この宇宙は不完全であり、したがって、これを創造した神自体も、究極の存在としての「知・グノーシス」から見れば、不完全な「半分の」神(これを「デミウールゴス」と言います)である。
そこで、トマス福音書とこれを受け継ぐグノーシス主義との関連で見るなら、トマス派の思想では、秘義的なグノーシス性を強めた結果、そこで語られる「知恵」は、宇宙の創造主としての神をば「デミウールゴス」(半神)として軽蔑し、この神に対抗して、人間の内に宿るある種の絶対的な「知」を究極の存在と考えています。
では、聖書に準拠するキリスト教の「知恵」(ソフィア)とは、ほんらい、このような二元論的なグノーシス性を有するのでしょうか? そうではありません。なぜなら、聖書とキリスト教ほんらいの「知恵」は、「グノーシス」(知力)へ向かうのとほとんど同じ確率で、「アポカリュプス」(黙示/啓示)へも向かう傾向があるからです。
グノーシス主義の方向をたどったのが、トマス福音書であり、これが発展して、2世紀のグノーシス文書につながります。一方で、黙示的な方向をたどったのがイエスの語録集(Q)であり、このQ資料を受け継いだのが共観福音書です。「グノーシス」と「黙示」とでは、人間の「知性」の有り様が全く異なります。一方は、人知が、宇宙の究極的な存在へつながることで、人間救済の役割を果たします。他方では、人の知性は、これを超える超越的な「天からの啓示」によって、「恩寵の光を浴びる知性」へと変容します。
ここで、グノーシス主義を代表する「ヨハネのアポクリフォン」を紹介します。「ヨハネのアポクリフォン」は、遅くとも紀元185年以前には出ていたと考えられます。ギリシア語の原本からのコプト語訳の写本が現存していて、「ベルリン写本」以外の三つは、ナグ・ハマディ文書のものです。この文書は、グノーシス的な宇宙観の基礎となる神話体系を物語るもので、いわゆる「バルベーロー派」グノーシスと呼ばれます。
「ヨハネのアポクリフォン」では、最初に、ヨハネ黙示録に倣(なら)って、「ヨハネ」という人物に、様々な姿を合わせ持つ「僕(しもべ)のような姿」が顕れます。その姿は、ヨハネに向かって、「私は父であり母でありみ子である」と語りかけます(B21)。その三重の姿は、「純粋な光のうちに存在する単一なるもの」で、あらゆるものの上にある不可視・不滅な存在についてヨハネに告げます。それは「見えざる処女の霊」とも呼ばれ、人間の至高の姿を含む存在です。しかし、この「単一なる至高の神」にも、分化が生じます。分化した結果、その霊を包む光の中から、「思考/知性」が、人間的な位格を持つ実体と化します。こうして、「処女」(プロノイア=先見/配慮/分別)が、父の霊の前に姿を現わします。彼女(プロノイア)は、万物に先立つ「思考」であり、不可視なるものの影像であり、「バルベーロー」とも呼ばれます(B27)。彼女は、すべてに先立つがゆえに、あらゆるものの胎であり、母=父であり、聖霊でもあります(U5)。バルベーローが、「見えざる霊」に求めると、そこに第一の認識、真理、不滅性、永遠の命の四つが(いずれも女性的な存在)姿を現します(B29)。したがって、トマス派の霊性が、インドの仏教と、時期的にはそれよりもかなり後期になる中国の禅仏教とに影響を及ぼしているとすれば、それは、トマス派が帯びるこのようなグノーシス的傾向によると思われます。
以上で分かるとおり、トマス派とほんらいのキリスト教とでは、人間の「知性/知力」の有り様に向かう姿勢に、根本的な違いがあります。一方は、人間の知力こそ、本来の自己であり、その知性は宇宙の究極的な真理に達することで、人間を救済する力を発揮します。これが、グノーシス主義が唱える「真理の霊」です。ところが、キリスト教会が唱える「キリストの御霊」は、人にほんらい具わる知力よりも、これを超越する天からのキリストの啓示の働きを受けて、その「恩寵の光」に照らされることで、無力な知性が救われることで初めて、人間を導く知性となり理性となることができます。神からのキリストにある恩寵こそが、人の知力の光なのです。「主(キリスト)こそ我が(知性への)光」“Dominus Illuminatio Mea"、これがオックスフォード大学の紋章に刻まれている言葉です。
ちなみに、人の知性をその人の「自己」と同一視して、その知力、すなわち、人の「理性」こそ、あらゆる真理に到達する正しい方法であるという考え方は、ヨーロッパで、17世紀以降に、自然科学の発達に伴って唱えられるようになります。人の理性の有り様には、「正しい」場合と、「誤る」場合とがある。だから人は「正しい理性」“the right reason"のほうを選ばなければならない。こういう考えは、古代から伝えられてきました。ところが、自然科学万能の機運に乗じて、「正しい理性」から「理性は正しい」"The reason is right."へと変化が生じたのです。人の理性=自己自身=真理の霊、これと、人の理性→神とキリストからの恩寵に与る知恵→真理を宿す自己を形成する御霊(みたま)の賜(たまもの)、これらの二つの間の選択肢が、現在の人類に備えられているのです。
■ヨハネ福音書の「真理の霊」
村上氏は、ここで、「景教」を採り出して言います。なぜ、禅門の先人達の問答の記録が、公案(裁判案件)と呼ばれるようになったのか。これには、景教が説く「終わりの日=最後の審判」の教理が深く関わっているとみられます。しかし、氏は、その前に、ヨハネ福音書からの引用をあげています。そこでのイエスの言葉は、「わたしが父のみもとからあなたがたにつかわそうとしている助け主、すなわち、父のみもとから来る真理の御霊が下る時、それはわたしについてあかしをするであろう」(ヨハネ15章26節)です。この引用について、氏は次のように述べています。
定冠詞つきの「助け主」のギリシア語「ホ・パラクレートス」(‘ο Παρακλητο?)の訳語として、英語の欽定訳聖書(KJV)は”Comforter”(慰め主)とあります。新国際版聖書(NIV)は”Counselor”(相談する者/助言を与える者)であり、ニュー・リビング訳聖書(NLT)は”Advocate”(弁護者)を用いています。訳者の苦労のほどが窺えます。先にあげた引用で、ヨハネ福音書の著者が言おうとしているのは、トマス福音書と同じで、「御使いたちと預言者たちが、あなたがたのもとに来る。そしてかれらは、あなたがたに、あなたがたに属するものを与えるであろう。そしてあなたがたもまた彼らに、あなたがたの手中にあるものを与える。そして、あなたがたは、自らに、どの日に、彼らが来て、彼らのものを受けるかを言う」(トマス福音書88節)」という意味である。つまり真理の御霊があなた方に施すバプテスマは、本来あなた方のものをあなた方に与えるのであり、バプテスマをいつ受けるかもあなた方自身にかかっていると言うのである。聖霊のバプテスマとは、太初において神と一体であった自己に目覚めることに他ならないのだから。〔村上厚「禅とキリスト教の聖霊(仮題)より」(2024年9月)〕
トマス福音書と共観福音書との違いは先に説明しましたが、ここでは、トマス福音書とヨハネ福音書とが共通すると言われています。村上氏のこのような判断には、ある背景があります。それは、20世紀の前半期において、ヨハネ福音書には、「グノーシス的な傾向がある」と主張された時期があったからです。トマス福音書とヨハネ福音書とが共通するという見方は、このような「ヨハネ福音書のグノーシス主義」という解釈がその前提になります。しかしながら、この「グノーシス的なヨハネ福音書」という見方は、その後、訂正されて、21世紀以降の現在では、一般的に認められていません。では、ヨハネ15章26節は、どういう意味でしょうか?
ヨハネ福音書では、14章15〜17節と同25〜26節で、パラクレートスが「真理の御霊」であり、御霊が弟子たちに「すべてを想起させる」とあります。ここ15章26〜27節では、3度目にパラクレートスが表われますが、先のパラクレートスとは異なる特徴を帯びてきます。ヨハネ15章26節からは、終末的な迫害と、これに立ち向かうパラクレートスの働きが語られるからです。共観福音書の「聖霊」とヨハネ福音書のパラクレートスは、全く同一であるとは言えませんが、終末的な状況におけるこの世からの迫害に向かう点では、両者の働きは一致しています。
ヨハネ15章26節で大事なのは、聖霊(パラクレートス)が、法廷での尋問と世からの迫害において、弟子たちを通して「語ってくれる」ことです。先の訳語「助け主」「弁護者」はこの意味を含んでいます。ただし、迫害に立ち向かってイエスを告白するこのパラクレートスは、続く16章7〜15節では、共観福音書よりもさらに一歩を進めて、「今の世の罪を裁き断罪する」働きをします。これが「真理の霊」です。
「真理の霊」が父から「出ている」とあるのは、御霊が継続的に父から「発出する」ことです。だから、この「出てくる」は、父なる神から御霊が、今も絶え間なく働き続けていることを指します。「永遠にあなたがたと一緒にいる」とはこの意味です。4世紀のキリスト教会は、ここの「出ている」が、神とキリストから発出する「三位一体の第三の位格」である聖霊を表すと判断しました。このパラクレートスは、イエスを信じる者たちに「宿る」こと、イエスの言葉と業を彼らに「想起」させて「教え伝える」こと、そして「イエスを証しする」ことです。だから、パラクレートスの宿りこそが、イエスの臨在となるのです。この意味でのパラクレートスを「イエスの御霊」と呼ぶのです。
16章1〜4節(前半)では、「これらのことをあなたがたに話したのは、つまずかないためである。彼らはあなたがたを会堂から追放するだろう」とあります。しかし、聖霊の働きは、歴史的状況における世の憎悪や迫害それ自体のことではありません。そうではなく、ここでは、迫害に伴う「つまずき」が問われています。「世」から憎まれることだけでなく、イエスにおける神への信仰が、信じる者に「つまずき」をもたらすこと、その上で、弟子たちをその「つまずきから守る」ことが語られるのです。これこそ、パラクレートスが「この世に裁きを行なう」という霊的な出来事の真の意味です。だから、ヨハネ15章26節が伝える霊性は、グノーシス的な性質ではなく、共観福音書よ同様に、終末性を帯びた黙示思想につながります。
4章 景教と仏教
■大秦景教流行中国碑
南北朝時代(439年〜589年)に、インドの菩提達磨により中国に伝えられた禅宗は、ちょうど同じころ中国に浸透したネストリウス派キリスト教と融合し、唐代(618年〜907年)に入って爆発的に興隆したものと見られます。イエズス会が17世紀に西安で発見した『大秦景教流行中国碑』には、西暦635年にオロペン(Alopen阿羅本:アブラハムの意)が、21人の景教徒を率いて中国に赴き、唐の太宗皇帝に拝謁、漢訳聖書を献上、中国における布教を正式に許可されたことが記されています。しかし、これは公式の記録で、それ以前から景教徒は中国で布教していたものと見られます。
日本真言密教の開祖空海は、804年に遣唐使に加わり中国に渡り、805年に長安の西明寺に入ります。その後、青竜寺で、真言宗第七祖恵果(けいか)(745年〜805年)に真言密教を学び、恵果(けいか)は、真言宗第八祖の地位を認められました。空海は、景教碑文の作者景浄の友人でカシミール出身の般若三蔵からサンスクリットを学びましたから、空海は、景浄や当時長安で活躍していた伊斯(イサク)等の景教徒とも親交をもったものと見られます。このため、和歌山県の高野山には、景教研究家エリザベス・アンナ・ゴードン女史(1851年〜1925年)が贈呈した景教碑のレプリカが存在します。また、京都西本願寺所蔵『世尊布施論』第三巻の内容は、景教徒が著(あらわ)した漢訳『マタイ福音書』の山上の垂訓とほぼ一致しており、アダムの誕生物語の一部も掲載されています。したがって、トマス派がインドや中国に伝えた「聖霊のバプテスマ」は、当時両地に勃興していた大乗仏教や道教と融合し、浄土信仰や禅文化を開花させ、さらにはイスラム教の誕生にも寄与したと言えます。ちなみに多数の禅問答を載せた『景徳伝灯録巻第二十八』の冒頭には、序説がついていて、そこにはこうあります。
「陝西省商州市上洛の李氏家の少女は、ある晩、空中で「そこにいてもいいか」と尋ねる声を聞き、自分が妊娠したことを知った。十月十日(とつきとうか)を経ると、産屋(うぶや)は神聖な光で満たされ、少女は一人の男児(おとこのこ)を産み落とした。俗姓を杜氏(とし)と言うこの男児は、這い這いできるようになると(俯及丱歳ふきゅうかんさい)、はやくも結跏趺坐して観想(直?坐即跏趺)した」とあります。この序説は、新約聖書の『受胎告知』を想起させます。〔村上厚「禅とキリスト教の聖霊(仮題)より」(2024年9月)〕
村上氏は、ここで、トマス派のキリスト教が、中国で「景教」と称され、『大秦景教流行中国碑』から見て、景教が中国の宗教に影響を与えたことを示唆しています。さらに、日本の仏教にとって極めて重要な役割を果たす空海が、折良く長安で、恵果や景教徒たちと親しく接したと指摘していますが、これは、日本の仏教にとって、とても大事な出来事です。
■景教の霊性
中国の「景教」とは、どのような内容だったのか? これを見る手がかりとして、以下に、『大秦景教流行中国碑』から引用します。
「ほんらいササン朝ベルシアから伝えられたことから「波斯(ぺるしゃ)教」と称されたが、マニ教(キリスト教とゾロアスター教と仏教などの混交宗教)やゾロアスター教との混同を避けるために「彌施詞・迷師詞(めしあ)教」となり、これがさらに「景教」へと名称を変更した。「景」は「光/光明/太陽」を意味するが、ササン朝ペルシア語で「教え」のこを「ケーシュ」と言うから、これの音訳だという説もある〔川口『景教』22頁〕。」
常然眞寂
先先而无元
窅然靈虗
後後而妙有
惣玄樞而造化
妙衆聖以元尊者
其唯我三一妙身
无元眞主
阿羅詞歟
【訳】万物の何ひとつなき先に存在し、はじめなく、終わりなき方、とこしえまでも存在する元尊(神)、この方は、真理をもって造化(創造)し、多くの預言者たちを遣わされた。この方こそ、私たちが信じ告白する三位一体神の妙身(御父)、始めなき、まことの主、阿羅訶(アロハ。シリア語で神)である。
【注】
【奥若】
ああ。感嘆詞。
【常然】
どんな時にも変化しない。
【眞寂】
寂として肉眼では見えない真理。
【先先而无元】
「先の先にして元に赴く」。「先先」は原始のさらに原始のことで、原因のさらに原因のこと。ヨハネ黙示録1章8節を参照。
【窅然】「
ようぜん」とは、はるか遠くを洞察する深遠なる有り様。
【靈虗】
「れいきょ」とは、無形無体(永遠性のこと)で捕捉しがたいこと。
【後後而妙有】
「後の後にして妙有す」。「後後」は、最終のさらに最終にして、万有の帰着点のこと。「妙有」は梵語の
"Sat."
の訳語で、不思議な存在のこと。現存するもの「無妙」"Asat."
の反対語。「私は、初めであり、終わりである」(ヨハネ黙示録1章17節)。
【惣玄樞而造化】
「玄樞を惣じて造化し」。「玄樞」(げんすう)とは、すべての基となる「神秘な基軸」のこと。神は、この基軸によって天地万物を統治し、宇宙の万有を創造したことを言う。
【妙衆聖以元尊者】
「衆聖を妙(たえ)にし、以(も)って元尊なる者」。「衆聖」とは、もろもろの人並み優れた聖人たちのことであるが、これは特に(旧約時代の)預言者たちを指すのか?あるいは、キリスト教以外の他宗教の聖人たちをも含むのか。「元尊なる者」とは、万物の中にあって、それらの元祖となる貴い方(神)のこと。仏教の「尊師」とも通じる。
【其唯我三一妙身】
「其れただ我が三一の妙身」。「三一の妙身」とは、三位一体の奇しきお方のことで、彼こそが「我らの神」である。
【无元眞主】
「无元」(ぶげん)とは、被造物ではなく、そもそもの初めから存在すること。「眞主」は、絶対的な存在である主なる神を指す。
【阿羅詞歟】
「あらほ」はシリア語
"Eloh"(アラヘー/アラカー/アロハー)
から。ヘブライ語の神の名前である「ヤハウェ」から出た語。「あらか/ほ」は、仏教の「阿羅漢」(あらかん)(大乗では修行を積んだ最高の尊師)とも通じるから、「景仏混合」の跡と見るべきか〔佐伯『景教碑文研究』136頁〕。「歟」(よ/ゆ)は、冒頭の「奥若」と対応して、ここでは語気を強めるための助詞。
【本文】
判十字以定四方
皷元風而生二気
暗空易而天地開
日月運而晝夜作
【訳】
この方は、十字を分けて四方を定め、元風(聖霊)の働きを通し、光と闇、陰と陽をお造りになった。無から天地を創造し、日と月を造って昼夜を分けられた。
【注】
【十字】
「判十字以定四方」(十字を判定し以て四方を定め)。ここの「十字」は、東西南北を判定して四方を決めるためであるから、直接に十字架と関連しない。
【元風】
「元風皷(こ)し、而して二気を生ず」。「元風」は、全宇宙の根源となる「霊気」のこと、すなわち三位一体の「聖霊」を指す。敦煌石室遺書には、「聖霊」のことを指して「浄風」とある。「皷(こ)する」とは鼓(つづみ)を打って鼓舞する、すなわち働きかけること。
【二気】
「二気」とは、陰陽二つの「気」のことで、「陽気」は、物事に働きかけて生起させる霊気のこと。ここは、古代中国の「陰陽五行」説との関連を読み取ることができよう。
【暗空易而天地開】
「暗空変わり而して天地開け」。天地開闢(かいびゃく)のことは、創世記1章1〜10節を参照。「暗空」の「空」は、創世記にある単なる大空のことではなく、仏教的な意味で言う「空」(くう)をも示唆しているのか。英訳に
"the zombre void" とある。
【日月運而晝夜作】
「日月運行し而して昼夜を作る」。太陽と月によって昼と夜が分かれたことは創世記1章14〜18節に出ている。
判十字以定四方
皷元風而生二気
暗空易而天地開
日月運而晝夜作
【訳】この方は、十字を分けて四方を定め、元風(聖霊)の働きを通し、光と闇、陰と陽をお造りになった。無から天地を創造し、日と月を造って昼夜を分けられた。
【注】【皷元風而生二気】「元風皷(こ)し、而して二気を生ず」。「元風」は、全宇宙の根源となる「霊気」のこと、すなわち三位一体の「聖霊」を指す。敦煌石室遺書には、「聖霊」のことを指して「浄風」とある。「皷(こ)する」とは鼓(つづみ)を打って鼓舞する、すなわち働きかけること。
【二気】「二気」とは、陰陽二つの「気」のことで、「陽気」は、物事に働きかけて生起させる霊気のこと。ここは、古代中国の「陰陽五行」説との関連を読み取ることができよう。」
渾元之性
虚而不盈
素蕩之心
本無希嗜
泪乎沙殫施妄
鈿飾純精
【訳】人はもともと、その本性は悪に傾かず、その純真な心は他のものを乞い願わなかったのだが、娑殫(サタン)が来て、虚偽をもって彼らを惑わした。」「純精」とは「純正な精神原理」のこと。「鈿(てん/でん)」は螺鈿(らでん)や簪(かんざし)のことで、「鈿飾(てんしょく)」は(表面を)飾り立てること〔佐伯『景教碑文研究』137頁〕。"until Satan introduced the seeds of falsehood, to deteriorate his(man's) purity of principle;" 〔英訳〕」
【注】
【渾元之性】
「渾(こん)」は「混」のことで区別がないこと。「渾元の性」は、まだ分かれることのない原始の人間性を指す。
【虗而不盈】
「虚にて而(しこう)して盈(えい/よう?)無く」。「不盈(ふえい)」は下心、余念がないこと。したがって、この句全体は自我・我欲が無いこと。
【素蕩之心】
「素蕩(そとう)之心」の「素(そ)」とは「白い」ことで、無色透明なこと。「蕩(とう)」は「払う/洗う」ことで、汚れや毒を除くこと。
【本無希嗜】
「本(もと)より希嗜(きし)無し」。「希嗜(きし)」は、過度に欲する貪欲のこと。
【泪乎沙殫施妄】
「沙殫(サタン)妄を施するに泪乎(およ)んで」。「泪乎(ぺきこ)=及んで」(泪=及)。「妄」は「魔妄」のことで、仏典で言う「悪魔」のこと。
【鈿飾純精】
「純精を鈿飾(てんしょく)す」。「純精」とは「純正な精神原理」のこと。「鈿(てん/でん)」は螺鈿(らでん)や簪(かんざし)のことで、「鈿飾(てんしょく)」は(表面を)飾り立てること〔佐伯『景教碑文研究』137頁〕。"until
Satan introduced the seeds of falsehood, to deteriorate his(man's)
purity of principle;"
〔英訳〕。ただし、「サタンは身を飾って惑わし」という解釈もある〔川口『景教』49頁〕。
間平大於此是之中
隙冥同於彼非之内
是以三百六十五種
肩隋結轍
競織法羅
或指物以託宋
或空有以淪二
【訳】また神と人とを隔てさせ、人の心を邪悪なものとなした。こうして365種(人類)はサタンに従い、好きかってに生きるようになった。人は競って世に掟を作り、あるいは物質を追い求めて現世利益の宗教に走る。」
「隙(へだ)つ」の「隙(げき)」は、硬い岩などに割れ目/裂け目ができること。したがって、文意は、完全な人の本性にも割れ目ができて、「非」すなわち「悪」が入り込むこと。【是以三百六十五種】「是(これ)を以って三百六十五種あり」。人の心に悪が入り込んだために、365日(日々)罪悪を犯すことになった〔佐伯『景教碑文研究』137頁〕。あるいは、「365種類もの様々な分派分裂が生じた」〔英訳〕の意味か。」
【注】
【間平大於此是之中】
「平大を此の是(ぜ)之中に於(お)いて間(へだ)て」。「平大」とは、「完全ですき間なく(大)誠実真正な(平)心」のこと。「是」は「是非」の「是」で「正しい」こと。「間(へだ)てる」とは、完全無欠な状態の中に「裂け目/切れ目」が出ること。
【隙冥同於彼非之内】
「冥同を彼の非之内に於いて隙(へだつ)」。「冥(めい/みょう)」とは「冥加(みょうが)」の例に見るように「奥深い神仏の働き」のこと。「同」とは相和する状態のことで、「冥同」とは「悪に遠く善に一致する」こと〔佐伯『景教碑文研究』137頁〕。ただし、英訳では、「冥」を「薄暗くなる」の意味に理解している。「隙(へだ)つ」の「隙(げき)」は、硬い岩などに割れ目/裂け目ができること。したがって、文意は、完全な人の本性にも割れ目ができて、「非」すなわち「悪」が入り込むのこと。
【是以三百六十五種】
「是を以って三百六十五種あり」。人の心に悪が入り込んだために、365日(日々)罪悪を犯すことになった〔佐伯『景教碑文研究』137頁〕。あるいは、「365種類もの様々な分派分裂が生じた」〔英訳〕の意味か。"abraxas"にあたるギリシア文字をそれぞれの文字が表わす「数」に置き換えて合計すると「365」になるから、この世全体を「悪」と見なす2世紀のグノーシス思想では、「365」は、365種の人間が悪の世を形成していると考えた〔川口『景教』24頁〕。
【肩隋結轍】
「肩隋」は「肩を並べて/続々と/次から次へと」の意味。「結轍」の「轍」は車の車輪の跡のことで、「結」は「閉じる」ことだとあるが、むしろ、ここでは「結集」の例に見るように「一つに固まる」こと。「次々ともろもろ々の分派分裂が生じ、それぞれが結束して(教義的な)争いが起こった」〔英訳〕。「三六五種(人類)がサタンに従い、好き勝手に生きるようになりました」〔川口『景教』49〜50頁〕。
【競織法羅】
「競いて法羅を織る」。「法羅」とは法の「網目」のことで、罪なき者を法の罠にかけることで罪を「織り出す」ことを「羅織(らしょく)」と言う。
【或指物以託宋】
「或いは物を指し、以て宋に託す」。「指物」とは「物質(的なこと)を目標にする」こと。「託宋」の「宋」は「崇拝すること」であり「託す」とは、もっぱらこれを信奉することであるから、文意は、物質的な利益に溺れて、真の神を忘れること〔佐伯『景教碑文研究』138頁〕。
【或空有以淪二】
「或いは有を空しくして以て二を淪す」。「有(ゆう)」とは「物体のことで、現在そこに存在する物」のこと。「空しくする」は「虚(きょ)」に化すること。「空有」は、おそらく仏教用語で、煩悩より生じる業果を指す。「二」は「善悪」のことで、「淪」は「沈める」「滅びる」こと。したがって、善悪を混同没却すること。仏教的な背景だけでなく、ペルシアの善悪二元論をも反映する〔佐伯『景教碑文研究』138頁〕。
茫然無得
煎迫轉焼
積昧亡途
久迷休復是於
【訳】あるいは哲学を弄し、あるいは儀式を通して幸福を追い求める。あるいは善行をして、自分を善人と傲る。知恵は利を追求するが、心は闇の中にあり、前途は暗い。迷うばかりで、立ち返る道は久しくわからなかった。
【注】【或禱祀以邀福】「或いは、?祀(とうき)し、以て福を邀(もと)め」「邀(よう)福」は自己に福を迎え入れようとすること。【或伐善以驕人】「或いは、善を伐(ほこ)り以って人驕(おご)る」「伐(ばつ)善」は自己の善行を鼻にかけること。「驕(きょう)人」は自らを尊大にすることで人を軽んじること。【知慮営々】「営(えい/よう)々」とは、その知慮が惑い乱れる有様のこと。【思情役役】「役々(えきえき)」とは「(思いと情念に駆られ)労苦するが成功を見いだせない姿」を指す。【茫然無得】「茫然として得無く」【煎迫轉焼】「煎迫」の「煎」は「焦」と同じ、苛立(いらだ)ちで心穏やかでないこと。「轉焼」は「烟(えん)焼」と同じで、焼失すること。【積昧亡途】「積昧(せきまい)途(みち)を亡(うしな)い」。「積昧」は、知に暗く蒙昧(もうまい)を積み重ねること。【久迷休復】「久しく休復に迷う」。「休復」は正道に立ち返ることであるが、これがなかなかできないこと〔佐伯『景教碑文研究』138頁〕。」
我三一分身景尊弥施詞
神天宣慶
室女誕聖於大秦
景宿告祥
波斯覩燿以来貢
【訳】しかし、私たちが信じ告白する三位一体神の分身、景尊・弥施訶(景教の尊主メシア)は、真の姿を隠し、人として現われてくださった。そのとき天使は喜んだ。大奏(ローマ帝国シリア領)において、聖なるメシアは室女(処女マリア)を通して降誕された。星も喜びを告げ、ペルシアからは星の輝きを見て宝物を捧げに来る者もいたほどであった。
【注】【是於】「是(これ)に於)おいて」。石碑の原文では「是於」までで切れている。しかし、「是於」を次の「我三一分身」へつなぐ読み方をする〔佐伯『景教碑文研究』138頁〕。
【我三一分身景尊弥施詞】「我が三一の分身こそ、景尊弥施詞(めしあ)」。「三一分身」は、先の「三一妙身」と同じで、「父と子と聖霊」の三位一体から出ていること。「景尊」は景教の世遵のことで、「分身」は「独り子」を指す。「景尊弥施詞(けいそんめしあ)」は景教徒が「御子イエス」を指すときの用語である。ちなみに、景教の碑文や経典には、ギリシア語の「クリストス(キリスト)」が出てこない〔川口『景教』25頁〕。
【骮隠真威同人出代】「真威を?(しゅう)に隠し人と同くして代に出で」。「?隠(しゅういん)」は納め隠すこと。「人と同くして代に出で」とは、神の子が人性を採って通常の人と等しくなり、この世(代)に現われたこと〔佐伯『景教碑文研究』139頁〕。
【神天宣慶】「神天慶を宣べ」。「神天」は天使のこと。ルカ2章8〜14節参照。
【室女誕聖於大秦】「室女大秦に於いて聖を誕(う)む」。「室女」は処女のことで、母マリアを指す。「大秦」はシリアのことである〔佐伯『景教碑文研究』139頁〕。ただし、正確には、シリアではなく、パレスチナのユダヤのガリラヤにある寒村ナザレのこと。「大秦」には、当時のパレスチナとシリアとローマ帝国領との区別がないのかもしれない。諸説をあげると、(1)ローマ帝国、(2)東ローマ帝国、(3)ササン朝ペルシア、(4)「大秦(タチン)」はシリアを指す、(5)『景教宣元本経』には「大秦国那薩羅(なざれ)」とあるからイスラエル領のこと、(6)「イシュ(人)マシァ(メシア)」というアラム語から「太秦(うず・まさ)」(現在の京都市右京区太秦とも関係)、すなわちイスラエル説などがある〔川口『景教』26頁〕。「聖」とは知徳完備の人格を具えた全知全能者のこと。【景宿告祥】「景宿を告げ」。「景宿」は「めでたい星」のこと。「告祥(こくしょう)」とは幸いな兆しを告げ示すこと。【波斯覩燿以来貢】「波斯(ぺるしゃ)燿(よう)を覩(と)し以て来貢す」。ペルシア(の博士たち)は、覩燿(とよう)、すなわち輝きを観て来貢した。マタイ2章1〜11節を参照。」
帳元化以発霊關
法浴水風
滌浮華而潔虚白
【訳】三位一体神の創造の力は、霊の関を開かれる。その御教え、洗礼、聖霊は、虚飾にみちた人の心を洗い清める。
【注】【魔妄於是乎悉摧】「魔妄、是(ここ)に於(お)いて乎(か)悉(ことごと)く摧(くだ)く」。「魔妄」は前出のサタンのこと。「摧(さい)」は砕けること。
【棹慈航以登明宮】「慈航(じこう)に棹(さおさ)し以(も)って明宮に登る」。「慈航」は慈悲の航路。「明宮」は「神霊の宮」のことで「天」を指す。『梁簡文帝』の「慈波、浄宮に流る」にちなんだものか〔佐伯『景教碑文研究』141頁〕。魏の初代皇帝文帝(在位220〜226年)は、暴君と言われながらも、文才にめぐまれて五言詩にすぐれていた。その著書『典論』の文章は「経国の大典」として名高い〔平凡社『世界百科大事典』安田 二郎〕。
【含霊於是乎既濟】「含霊是(これ)に於(お)いて乎(か)既(すで)に濟(すくわ)る」。「含霊」霊を具えた者、すなわち人類のこと。「既濟(きさい)」は、救いが完了していること。周代にさかのぼる五経の一つで、陰陽五行の占いについて述べた『易経』に「火水既濟」とある。
【能事斯畢】「能事斯(こ)れ畢(おわ)り」。「畢(ひつ)」は「万事がことごとく終わる」こと。「能事」は、生涯をかけた大業の意味で、ここでは、イエス・キリストの十字架の死による贖いの業を指す〔佐伯『景教碑文研究』141頁〕。【亭午昇真】「亭午は真(てん)に昇る」。「亭午」とは正午のこと。「昇真」は、「原真」すなわち(イエス・キリストが)神の下へ昇ること。
【徑留廿七部】「徑廿七部を留め」。「徑廿七部」は(新約聖書)27巻の経典のこと。
【帳元化以発霊關】「元化を帳(は)り以って霊關(れいべん)を発す」。「元化」とは天地の「大徳」を以て「化する」、すなわち徳へと改め導くこと。易経では「元者善之長也」とある。「張る」は延長する/拡張すること。ここでは、神の救済を拡大すること。「霊關(れいべん)」とは、人の霊魂を開いたり閉じたりする門の弁のことであり、「発する」は「開く」こと。人類の霊魂を救済へ導く門戸を開いたこと。」
以上の「碑文」の本文は、佐伯好郎『景教碑文研究』The Nestorian Monument in China. 東京:待漏書院(明治44年)/復刻版:東京:大空社1996年(125〜130頁)と、川口一彦編著『景教』イーグレーブ(2002年)に準拠しました。注は、佐伯『景教碑文研究』135〜173頁に準拠しましたが、川口一彦編著『景教』の注も参照しました。なお、日本語訳は、インターネット版の久保有政氏の訳文をそのまま掲載させていただきました(一部、意訳してあるが、主要な用語はなるべく碑文のものを残した)。
5章 道教と仏教
■道教と仏教
「老子は道家の開祖とされる人物であるが、生没年は分からない。その著述と伝えられる書物も『老子』と呼ばれる。老子に関する最古の伝記資料である『史記』の「老子列伝」によれば、姓は李、名は耳(じ)字(あざな)は舛(たん)といい、楚の苦県(こけん)(河南省鹿邑県)の人である。かつて周の王室図書館(守蔵室)の役人であった。老子は、周室の衰運を見定めるや西方へと旅立ち、途中で、関(かん)を通った際に、関守の尹喜(いんき)の求めに応じて「道徳」に関する書、上下2編を書き残し、いずくへともなく立ち去ったと言われる。しかし、『史記』の記述をそのまま歴史的な事実と見ることはできない。現在では、老子は、孔子(前551年〜前479年)にややおくれて、前400年前後の人物とする説や、架空の人格とする説などがあるが、前5世紀に道家思想の先駆的な実践者として老舛(ろうたん)なる人物の存在を推定することができる〔蜂屋邦夫訳注『老子』ワイド版岩波文庫363頁〕。老子の伝記のこのようなあいまいさは、後漢から六朝時代にかけて、仏教の流行と道教の成立につれて、老子は関を出たあと天竺(てんじく)に行って仏教を興したという説話や、各朝代ごとに転生して歴代帝王の師となったという老子の転生説話が生じたことにもその原因がある。後漢時代には、老子の神格化が始まり、宮廷での祭祀が行われたが、やがて道教の始祖として「太上老君」として神格化された。一方『老子』書については、「道可道、非常道。名可名、非常名。無名、天地之始。有名、萬物之母」で始まり、全体が81章の断片的な章で成り立っている〔岩波前掲書〕。各章は、格言的性格をもつごく短い有韻の短編の集積であって、全編を通じて固有名詞や作者の個性を感じさせる表現が見られない。もともと口伝による道家の成句が敷衍(ふえん)されて、ある時期に一書にまとめられたと考えられる。その原型は前4世紀末には成立していたと推定されるが、現行本の成立は漢代である。『老子』は、内容が難解な上、多様な解釈が可能であるから、古来おびただしい注釈書が著された。代表的なものに、魏の王弼(おうひつ)の注と、ややおくれる河上公の注がある。なお、近年、湖南省長沙の馬王堆漢墓から発掘された帛書(はくしょ)本『老子』は、現存最古のテキストとして重要である〔ネット版平凡社『世界百科大事典』参照〕。
老子の教え:老子の思想の根本は、一切万物を生成消滅させながら、それ自身は生滅を超えた宇宙天地の理法としての「道」(どう/タオ)である。この道の在り方は、一般に「無為自然」という言葉で表されているようであるが、これを体得した人物を「聖人」という。「上徳は為すこと無くして、而(しか)も以って為すこと無し」(高い徳を身につけた人は世の中に働きかけるようなことはせず、しかも何の打算もない)〔岩波訳『老子』38章〕とある。司馬遷の『史記』には、孔子が老子のもとを訪れて教えを請うたが、「傲慢な姿勢とすべての欲を捨てよ」と言われて、孔子は茫然として引き下がったとある。だが、これは創作である。しかし、この記事は、二人の偉大な宗教的人物が、相容れないものをもっていたことを洞察している。老子は、孔子のような儀礼の重視、社会的な価値の尊重と合理主義には批判的である。儒家にとって「仁」と「義」こそ最大の徳であるが、老子は、これらを人為的として、むしろ「無為自然」を説いている。「無為自然」が失われる時には、「道を失いて而(しか)る後に徳あり、徳を失いて而る後に仁あり、仁を失いて而る後に義あり、義を失いて、而る後に礼あり。夫(そ)れ礼なる者は、忠信の薄きにして、乱の首(はじ)めなり」(道を捨てると仁に頼り、仁を捨てると義に頼り、義を捨てると礼に頼る。礼は忠と信のうわべにすぎず、混乱の始まりとなる」と言う〔岩波『老子』38章〕。老子の思想では、万象の始まりに「一」があり、これが分裂するところに、萬物が現象し始める。「天は一を得て以て清く、地は一を得て以て寧(やす)く、神(しん)は一を得て以て霊(くす)しく、・・・・・萬物は一を得て以て生じ」(『老子』39章)とある。このあたり、新プラトン主義の祖といわれるギリシアの哲人プロティノス(紀元205年?〜270年)が唱えた「モナド(monad)(単一なるもの)」の分裂による万物の形成を想わせる。老子によれば、人は隠れて無名の生活をしなければならない。公的な生活を避けて名誉を軽視することは、孔子の理想とする君子のありようとは正反対である。ところが、老子は隠棲の「道」を説く一方で、現実世界で真の成功者となるための聖人の処世、政治の具体策をもくり返し説いている。他と争わない、外界にあるがままに順応する、因循(いんとん)の処世術、人為的な制度によらず人民に支配を意識させない「無為無事」の政治こそが、政治を行なう君主の道だと強調される。「無為の道こそ万策に適合する」、こういう現実主義こそ老子ほんらいの思想の核心であった〔エリアーデ『世界宗教史』(2)22〜23頁〕。魏・晋の時代(紀元220年〜316年)以後は、老荘の学は、その流行にともなって深化される。老子の「道」は、窮極において神秘であり不可解であり、あらゆる創造の根源を意味する。「言葉で表現できる道は永遠ではない」のである。老子の説く「空(くう)」は、暗い谷を思わせる「世界の母」としての豊饒と母性をも含んでいる。人間の男性的要素と女性的要素を併せ持つ両性具有の「幼児の姿」を通して、生命の周期的な更新が可能になる。陰陽の宇宙的で社会的な統一は、生死をも超越し、「空」において、みずからを宇宙の循環の外に置くことができる。聖人の道は不死の道であり、道の修行者は肉体的な不死を獲得するにいたる。こういうエクスタシーへの道は、万物の起源への旅であり、時空から解放された霊魂は、生死をも超越して永遠の現在を再発見すると言う〔エリアーデ前掲書26〜27頁〕。」
■道教と仏教の習合
「中国の思想史において「道教」という言葉を最初に用いたのは儒家の学者たちであるが、次いで墨家の学者たちが、儒学者の「道教」を批判し是正する意味で「道教」を用いた。墨家のいわゆる真正の「先王の道教」とは、夏王朝の禹王以来の上帝鬼神への宗教的な信仰のことであり、その祭祀の宗教儀礼の誠実な実践を根幹とするものである。墨子の学者は、儒者が、こういう宗教的な根幹を軽視もしくは無視していると見たのである。だからこそ、儒家のいわゆる「道教」が似て非なるものだときびしく批判した。ここでは儒家もしくは儒教が自称する「道教」が、墨子の上帝鬼神、すなわち天神の信仰の立場から否定的に批判されている。ところが、紀元前後に、今度はインドから中国に伝来した仏教もまた、自分たちの宗教的な立場を呼ぶのに「道教」という言葉を採り入れているのである。インド伝来の仏教が、中国において自己の教を「道教」と呼ぶのは、仏教哲学の根本であるサンスクリット語の「菩提」が、老荘の道家哲学の根本である「道」を用いて漢訳されたことにもよる。三国の魏の時代(紀元220年〜265年)に漢訳された『仏説無量寿経』では、訳文中に四ヵ所も「道教」の語が無量寿仏の教えである仏教を意味して使用されている。こうして「菩提の教え」が「道の教え」、すなわち「道教」と呼ばれるようになる。漢民族の宗教としてのいわゆる「道教」が、みずからの教えを道教として意識し、対外的にも道教と呼ぶようになるのは、中国仏教のそれよりも後のことである。「道教」が教理として文献に出てくるのは、北魏の歴史を記録した『魏書』(554年)においてである。『魏書』の「太上老君」(老子)の神勅の中に見える「道教」の語は、中国古来の伝統宗教を呼ぶ言葉である。この道教は、さらにインドからの外来宗教である仏教と対立されることになる。外来すなわち「夷」の宗教に対する中国固有の「夏」(か)に由来する「中華」として、道教の独自性が強調されているのは、南朝(南斉)の道士顧歓(420〜83年?)の書いた『夷夏論』である。そこでは、それまで、インド伝来の仏教を指す言葉でもあった「道教」が、もっぱら中国固有の伝統的な宗教を指す言葉として確定されていて、この「道教」を仏教とまっこうから対立させて、「夏」の宗教である道教が「夷」の宗教である仏教に優越することが強調されている。インド伝来の仏教に対して中国固有の宗教を意味する道教の語が、中国の思想史においてその用法を定着させるのは、上述のように5世紀の半ばころ、南朝においては劉宋の時代、北朝においては北魏の時代であるが、その後の中国社会において、仏教と競合する二大宗教としての道教が、その教理と儀礼と宗教哲学を完成させた。道教は、いわゆる唐代道教の黄金時代を迎え、皇帝貴戚以下、官僚政治家、学者知識人、一般民衆に及ぶ広範な層の信奉者を獲得するにいたる。
■道教の代表的文献
11世紀の初め、熱烈な道教の信奉者であった北宋の皇帝真宗の勅による『雲蓉七籤(うんきゅうしちせん)』120巻(実際の編纂責任者は道士の張君房)が出る。『雲蓉七籤』の特徴は、道教とは何かを主としてその経典類によって明らかにしていこうとする点にある。『雲蓉七籤』では、漢訳仏典もしくは中国仏教の用語、いわゆる仏教漢語が各所に多く用いられていることもその特徴である。仏教漢語を根底において支える仏教的な思想も少なからず持ちこまれてきている。みずからを「道教」とも呼ぶ漢訳の中国仏教が、それほど抵抗もなく、中国固有の宗教であることを強調する道教に全面的に取り込まれている。かつて仏教を「夷」の宗教として非難攻撃した排外的な態度は、ここではまったく見られない。仏教は、漢訳されれば、もはや中国人の宗教とされて、中国伝統の宗教を代表する道教の中に完全に組みこまれている。『雲蓉七籤』において、道教は、漢訳の中国仏教を再び道教と理解して、中国の宗教として受け容れていると言えよう。『雲蓉七籤』の道教の教理では、漢代以後の儒教思想のうち、とくに『易』と『春秋』の儒学、天神の祭祀を中心とする『儀礼』(ぎらい)『周礼』(しゅうらい)『礼記』(らいき)のいわゆる三礼(さんらい)の学、また儒家の「天人相関説」と、これに関連する上帝鬼神の災異信仰などが重要な位置を占めて導入されている。『雲蓉七籤』では、その上に、中国の古代の儒家の道教を批判しながら道教の正統性を強調している墨子ないしは墨家が、「先王の道教」を神仙的に道術化して実践する者として記載されている。漢・魏時代の「真道」としての道教が、『雲蓉七籤』における道教の全体的な基盤となっていることが分かる。要するに『雲蓉七籤』の道教は、古来道教と呼ばれることがあった儒教や中国仏教、みずからを道教として積極的に主張した墨子の学派をそれぞれ内部に組み込んでいて、儒教や中国仏教を対立的にとらえたり、批判し排除する立場を取っていない。『雲蓉七籤』における道教とは、中国の古代から中世にいたる思想史において、「道教」と呼ばれたすべての宗教思想あるいは呪術・道術を整理総合して、幅広く集大成したものである。道教とは中国古来の巫術もしくは鬼道の教を基盤として、その上部に墨家の上帝鬼神の思想、儒家の神道と祭礼の哲学、老荘道家の「玄」と「真」の哲学、さらには中国仏教の業報輪廻と解脱ないしは衆生済度の教理や儀礼を重層的、複合的に取り入れることで、隋・唐・五代の時期に体系と儀礼を完成するにいたった。「道(タオ)」と称する宇宙と人生の根源的な真理と、実在世界の不滅とが一体になることを究極の理想とする漢民族の土着的な伝統宗教なのである〔以上はネット版平凡社『世界百科大事典』に基づく〕。
6章 空海の仏教
【空海の簡易年表】
・774年:現在の香川県善通寺市の生まれ。
・789年:伯父に伴われて京都へ。
・792年:大学へ入るも、退学し、(現在の)四国徳島の大滝獄と(現在の)土佐の室戸岬で、求聞持法(ぐもんじほう)を修業。
・794年に平安遷都。
・797年:奈良の諸大寺で仏教を学んだ後で、『三教指帰』(さんごうしいき)を著し、道教と儒教と仏教の優劣を論じる。その頃、現在の奈良の橿原市の久米寺で『大日経』(だいにちきょう)を発見して、密教に深い関心を抱く。
・804年:遣唐使に加わり唐の長安へ。
・805年:5月〜12月まで、長安の青龍寺(しょうりゅうじ)の恵果(けいか)に師事して、灌頂を(かんじょう)を受ける。胎蔵と金剛の両方の秘法を授(さず)かる。
・806年:前年12月に恵果が世を去ったので、帰国の途につき、多数の経論、曼荼羅、法具を携えて10月に帰国し九州に留まる。
・810年:京都の高雄山寺に僧として入る。この頃より、真言密教の法灯を掲げ、嵯峨天皇の保護の下で、真言宗の発展に努める。また、天台宗の最澄と交わり、高雄山寺で、最澄とその弟子たちに灌頂を(かんじょう)を授ける。
・816年:高野山の開創を始め、高野山に籠(こ)もり修行に励む。
・823年:嵯峨天皇の勅賜により京都に東寺を任せられ、これ以後、塔堂の建立に務め、多くの門弟を指導し、真言宗の教団を築いた。
・825年:愛弟子の智泉を病で失う194〜195頁。
・828年:東寺の隣に綜芸種智院を創設。
・835年:62歳で高野山で示寂(しじゃく)。
・921年:醍醐天皇より、空海に「弘法大師」の諡号(しごう)が下賜される。
〔『岩波仏教辞典』196〜197頁より〕
【その主な著作】
『三教指帰』(さんごうしいき)
『弁顕密二教論』(べんけんみつにきょうろん)
『即身成仏義』(そくしんじょうぶつぎ)
『声字実相義』(しょうじじっそうぎ)
『吽字義』(うんじぎ)
『十住心論』(じゅうじゅうしんろん)
『秘蔵宝鑰』(ひぞうほうやく)
『般若心教秘鍵』(はんにゃしんきょうひけん)
〔『岩波仏教辞典』196〜197頁〕。
【恵果(えけい)禅師と空海】
密教には二つの体系がありました。宇宙の真理をつかむための実践的修行方法を中心とした精神原理を説く金剛頂経系の密教と、物質原理を説く大日経系の密教です。金剛頂経系密教は金剛智というインド僧が伝え、大日経系密教は善無畏というインド僧が伝えました。金剛智は、金剛頂経系密教を不空に伝え、不空は恵果に伝えました。大日経系密教については、善無畏の弟子玄超が恵果に伝えたといわれています。つまり、恵果はインド本国にあってさえ別々に発達してきた二つの密教体系を一身に受けた初めての人で、中国密教界の頂点に立ち、青龍寺で1000人もの弟子をもっていました。当時の長安で、密教界の最高権威者といえば「恵果」だったのです。空海も恵果のことは当然聞き及んでいたでしょう。現実、恵果について詳しい人物が空海の住む西明寺にもいました。志明と談勝の二人です。空海の渡唐目的は密教の伝法を受けることであったとされています。空海は、恵果に会うまでの僅か数ヶ月間で梵語をマスターしたとされています。空海自身が書いた「秘密曼荼羅教付法伝」には、密教の原語である梵語(サンスクリット語)を習得するために、醴泉寺(れいせんじ)のインド僧般若三蔵と牟尼室利(ムニシリ)三蔵に学んだ、とあります。空海の天才ぶりに感銘を受けた般若三蔵は自らが牟尼室利三蔵と漢訳した経典類を多数授けたりもしました。さて、「御請来目録」によれば、空海が長安の諸寺を歴訪している時に偶然恵果に会い、その後、前述した志明と談勝を含む5、6人の西明寺の僧たちの仲介で青龍寺の恵果のもとへ出かけたと書かれています。そして、恵果は空海を見るなり、笑みを含んで歓喜して「私はあなたが来るのを以前よりずっと待っていた。今日こうして会うことができてとても嬉しい。自分は寿命が尽きようとしている。しかしながら法を伝えるべき人がいなかった。さっそくあなたに密教の全てを授けよう」と、言ったそうです。〔インターネットの「空海」より〕
【空海の主な業績】
空海は、「弘法大師」として知られ、日本の真言宗の開祖である。
彼は四国の満濃池(まんのういけ)の修築を指導した。
綜芸種智院(しゅげいしゅちいん)を創設して一般人を教育した。
〔松村有慶『空海』岩波新書(2022年)頁〕
著作には、 日本真言密教の開祖空海は804年に遣唐使に加わり中国に渡り、805年に長安の西明寺に入る。その後、青竜寺の真言宗第七祖恵果(745-805)に真言密教を学び、真言宗第八祖の地位を認められた。空海は景教碑碑文の作者景浄の友人でカシミール出身の般若三蔵からサンスクリットを学んだ。したがって空海は、景浄や当時長安で活躍していた伊斯(イサク)等の景教徒とも親交をもったものと見られる。このため和歌山県の高野山には景教研究家エリザベス・アンナ・ゴードン女史(1851?1925)が、贈呈した景教碑のレプリカが存在する。また京都西本願寺所蔵『世尊布施論』第三巻の内容は、景教徒が著した漢訳『マタイ福音書』の山上の垂訓にほぼ一致しており、アダムの誕生物語の一部も掲載されている。〔村上厚「禅とキリスト教の聖霊(仮題)」(2024年9月)より〕