1インチの攻防
『朝日新聞』2025年3月1日号「読書欄」
M・E・サロッティ著『1インチの攻防:NATO拡大とポスト冷戦秩序の構築』(上)(下)
岩間陽子、細谷雄一、板橋拓己監訳(岩波書店)
Mary Elise Sarotte. アメリカのジョンズ・ホプキンス大学教授(外交史)
題名「歴史の必然ではない世界の混迷」
(2025年現在の)3年前に始まるロシアのウクライナ侵攻の背景には、冷戦後のNATO拡大に伴う西側諸国と(プーチンと)の対立がある。かつてアメリカはNATOを東に拡大しないと約束したのに、それを反故(ほご)にしたというのがロシア側の主張だ。では、なぜアメリカはNATOを拡大したのか。本章は、その経緯を膨大な一次資料とインタビューで明らかにする。
出発点は、ドイツ統一だった。アメリカは東ドイツをNATOに含めたかったが、ソ連はドイツの中立化を要求した。妥協点を探る中で、アメリカ側から仮定の話として出たのが、NATOを拡大しないのであればソ連は東ドイツを手放すかどうかという問いかけだった。実際の条約では、アメリカはNATO拡大の道を残し、ソ連も経済支援を目当てに署名する。その一方で、アメリカもその後は協調路線を模索した。ソ連が解体する中で、ロシアと共に核軍縮などの懸案を進める必要があったからだ。
ところが、この路線が徐々に掘り崩される。ロシアと距離を取りたい中東欧諸国は強硬にNATO加盟を求め、アメリカ連邦議会ではそれに賛同する共和党が多数派を握り、クリントン政権を追い詰めた。ロシアはチェチェン侵攻で周辺国に脅威を与え、コソヴォ紛争ではNATOの空爆を批判する。その結果、プーチン政権が成立する頃には、NATO拡大以外の選択肢が消滅していた。
従って、今日の状況は決して歴史の必然ではない。NATOをより慎重に拡大し、その枠組みにロシアを包摂できていれば、長期的には、中国に対抗して欧米とロシアが連携するという、今日とは全く異なるシナリオさえあり得たと本書は言う。この指摘は、日本の読者にとっては実に興味深い。東アジアでは中国の台頭ばかりが目立つが、その一因は(ソ連崩壊後の)冷戦後のヨーロッパにおける秩序構想の挫折にあったのだ。その意味で、本章は日本の安全保障にも多くの示唆を与えてくれるだろう。
評・前田 健太郎(東京大学教授・行政学)
*ウクライナ戦争が始まって3年も経つのに、日本のメディアは、今頃やっと気がついたのか?
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