【注釈】
21【どうか答えてほしい】原文は「わたしに言ってほしい」で、これから何か大事なことを語ろうとする言い方です。旧約では、預言者たちや賢者たちが、しばしば「聞け」「耳を傾けよ」と言いますが(詩編50篇7節/箴言4章1節/アモス5章1節)、パウロもここで、この預言者たちにならって使徒として語っています。しかし、ここでパウロは、預言者たちとは異なった意味で「聞け/答えよ」と言っているようです。なぜなら預言者たちは、神の御言葉を受けて、これに「聴き従う」ように民に語るのに対して、パウロのほうは、「律法のもとにいようとする人たち」に向かって、「律法に聞け/耳を貸せ」と語っているからです。パウロに言わせると「律法」は、人を束縛するものです。しかもユダヤ人キリスト教徒の勧めに応じて「律法に聴き従おう」としているのはガラテヤの信徒たちのほうなのですから、パウロはここで、「律法を否定するために律法に聞け」と言っていることになります。律法に反対してこれを阻止するために、パウロは「律法に耳を貸さないのか」と言っているのですから、これは、ガラテヤの信徒たちへの「皮肉」にも聞こえます。「律法を守ろうとする者たちよ、律法がどんなにあなたたちを束縛するのか分からないのか!」というのが彼に真意なのです。いったいパウロはここで、「律法」について何を言おうとしているのでしょうか? このことが、これから出てくる比喩で説明されることになります。
【律法の下にいようとする人】今回のところは、聖書解釈そのものを学ぶ上で、とても大事なところです。聖書は比喩的に語ると言われますが、この段落も比喩で語られています。しかも、その比喩は、霊的に大事な信仰/神学を伝えるためのものです。パウロは、まず「律法のもとにいたい人よ」と呼びかけることで、これから語られる比喩が、信仰的、神学的な問題であることを知らせようとしています。聖書を「霊的に」解釈するとは、これを字義どおりの意味ではなく、「比喩的に」解釈することを意味します。聖書は、その語学的、歴史的な意味を確定するために学問的な考察と探求が必要ですが、聖書の御言葉が、現在のわたしたちに何を「指し示して」いるのか? すなわちそれが未来への指針となるためには、祈りによる霊的な解釈を必要とするのです。パウロもここで、聖書に比喩的な意味を読み取ろうとしています。この場合、「比喩的」とは「霊的」と同じと考えていいでしょう。
「律法のもとにいる」は、ユダヤ教の律法(トーラー)を遵守することを指す専門的な用語です。ユダヤ教ではトーラーの遵守は救いに不可欠な条件とされていました。しかしパウロがここでいう意味はこれとは違います。律法は人間を「監視し閉じこめる」働きをするからです(3章22節)。だからパウロは、律法が、むしろキリストにある救いの「妨げになる」とさえ考えているのです。ただし、「律法のもとに<いよう/入ろうと>している」とあるところから判断すると、ガラテヤの信徒たちは、まだ律法主義を全面的に受け容れてはいないようです。
けれども、ガラテヤの信徒たちの立場から見るなら、パウロの言葉はどのように聞こえるでしょうか? 律法主義的なユダヤ人キリスト教徒たちは言います。「モーセ律法とキリストとの両方を受け容れなければ救いは完成しない」と。パウロは言います。「キリストの御霊にある自由には、モーセ律法(と割礼)は必要でない」と。ガラテヤの信徒たちは、この両方の言い分を聞きながら、いったいどちらがほんとうなのかを判断しなければならない立場に置かれているのです。だから彼らは、必ずしもパウロの言うように「律法が人間を束縛する」とは考えないかもしれません。宗教的な議論に潜む複雑さがここにあります。
【律法に耳を貸す】原文は「律法(単数)に聞きなさい」です。「耳を貸す」と訳したのは「理解する」という意味を含むからです。「律法に束縛されたいと願う人たちよ、律法を理解しなさい」と言うのです。「律法を理解しなさい」というのは律法によく聞きなさいと言うことです。パウロは律法を否定しているのでしょうか? それとも尊重しているのでしょうか? 否定しているようでもあり、この後で説明するように肯定しているようにも聞こえます。この曖昧さは、パウロの「律法」という言葉の多様性にあります。パウロの「律法観」が理解と同時に誤解を招くのはこのようなところにもあります。しかもここは、パウロに言わせると、福音の信仰にとってきわめて大事なところなのです。
今までガラテヤ人への手紙を読んできた人は、パウロは律法に反対している、あるいは律法を否定している。このように理解/誤解するかもしれません。しかし必ずしもそうではありません。実はここでパウロの言う「律法」は、彼が言う否定的な「律法」とは、少し意味が違っています。22節以下で説明するように、引用されるのはモーセ律法ではありません。割礼に関係する部分でもありません。そうではなく創世記(16章/21章)の物語を比喩的に解釈したものです。ですからパウロはこれを「律法」とは呼ばず、すぐ後で「聖書」と言い換えています。「聖書」はガラテヤ人への手紙に四度でてきますが(3章8節/3章22節/4章22節/4章30節)、いずれの場合も、自分が語ることが真実であることの証しとして、聖書を肯定的に引用しています。パウロは否定的な見方をする時には「律法」と言い、肯定的な見方の場合には「聖書」と言うところがあります。律法は狭い意味では、十戒を中心にしたモーセ律法のことですが、ここのように預言者や文学や歴史をも含む旧約聖書全体をも「律法」と呼ぶことがあるのです。だから、ここ21節でも、前半での「律法」の否定的な意味とは違って、後半の「律法­=聖書」は、肯定的な意味合いを帯びていると見ることができましょう。
ここでは、パウロの言う「律法」の「意味それ自体が変化している」のです。パウロの律法観が分かりにくいのは、このように、「律法」の「意味の多様性と変容」があるからです。だから、律法が肯定的か否定的か? と問うこと自体が、あまり意味がないことになります。パウロの律法観は、キリストの御霊にあって、ほかのユダヤ人キリスト教徒たち、特に律法主義者たちとは、律法の「意味それ自体」が、本質的なところで異なっているのです。また律法解釈の方法自体もパウロ独自のところがあります。
22【こう書かれている】「こう書かれている」は、聖書から引用する時の言い方です。パウロはここで、創世記(七十人訳)の6章15節/21章1〜3節/同章9〜10節を基にしていますが、聖書の文言をそのまま引用するのではなく、かなり自由に独自の仕方でまとめています。パウロが通常「書かれている」と言う時には、比較的正確に文言を引用しますから、ここでの自由な引用の仕方が注目されます。その上ここには、大事なサラとイサクの名前が出てこないで、ハガルの名前だけが出てくるのも不自然です。これは、ガラテヤを訪れているユダヤ人キリスト教徒たちが、すでに創世記のこの箇所から引用することで、パウロを批判していたので、ガラテヤの信徒たちは、創世記の話の内容をよく知っていたからではないかとも考えられます。だからパウロは、そのことを前提にしてここで語っているのでしょう。ただし、聖書のこのような自由な引用の仕方は、ユダヤ教でもしばしば行なわれましたから、パウロだけが特殊な引用の仕方をしているわけではありません。
【二人の息子】アブラハムの息子であるイサクとイシュマエルのことです。同時にここでは、彼らの母であるサラとハガルの関係をも含めています。問題となる点は次の通りです。
(1)サライはアブラハムの正妻であり、エジプト人ハガルはサライの召使い(「女奴隷」の意味もあります)でした。サライには子供が生まれなかったので、自分の召使いをアブラハムに与えました。(創世記16章1〜3節)。ところがハガルが、アブラハムの息子イシュマエルを身ごもると、サライとハガルの間に争いが生じたのです(創世記16章4〜15節)。
(2)後にサライは、神(の使い)のお告げによって身ごもり、イサクが生まれました(創世記17章15〜19節)。イサクが「神からの約束の子」であると言うのはこの意味です。このためアブラハムは、正妻サラ(ここでサライはサラと呼ばれます)の息子イサクと側女ハガルの子イシュマエルを持つことになったのです。ただしアブラハムには、ハガルのほかにも側女ケトラとその子供たちもいました(創世記25章1〜4節)。
(3)サラとハガルとは、子供たちのことで対立したために、アブラハムはハガルとその子イシュマエルを立ち去らせました(創世記21章9〜18節)。
(4)イサクの息子たちがエサウとヤコブです。ところがここで、兄のエサウが長男の権利を失って、弟ヤコブが父の手から主の祝福を受けて、相続するという逆転が生じます(創世記25章19〜34節)。アブラハムの孫であるこのヤコブが、神から「イスラエル」という名前を与えられ、イスラエル12部族の父祖となりました。パウロは、「肉による相続」と「霊による相続」との違いを説明するために、ここガラテヤ人への手紙では、ハガルの比喩を通じて、イシュマエルとイサクとを対照させます。同様にローマ人への手紙では、エサウとヤコブとを対照させています(ローマ9章6〜13節)。
(5)一方で、イシュマエルの子孫たちは(創世記25章12〜18節)、イシュマエル人となりました。創世記でイシュマエルに関する箇所は、16章と21章9〜21節と25章12〜18節です(16章と21章には、祭司資料も混じっていますが、全体として前9世紀〜前8世紀、あるいはそれ以前からのもので、ヤハウィスト〔J〕とエロヒム資料〔E〕からです。25章は前500年代の捕囚期の祭司資料〔P〕からです)。イシュマエル人は、紀元前1000年よりも前に、パレスチナの南方(パラン)に住んでいた「イシュマエル部族」のことであり、アラビア半島に住んでいたアラム人の先祖と言われています。紀元前1000年〜前500年頃には、遊牧のベドウイン族を含む「アラビア人」が広い範囲に住んでいました。彼らとイシュマエルの子孫とは、直接のつながりがないという説もあります。しかし、前700年〜前600年頃のアッシリア帝国が、アラビア半島の「スミール人」たちとしばしば闘ったことが、アッシリアの記録に残っています。アッシリアの記録には、アッシリア王に仕えたケダルの名があり、そのほかアドベルやミシュマ、ドマ、マサ、テマ、ナフィシュ、ケデマの部族たちの名も出て来ます(創世記25章13〜15節参照。この部分は祭司資料ですから、アッシリアとほぼ同じ時代のものです)。「スミール」は、セム語の「イシュミール」から出たと考えられますから、パレスチナ南方のイシュマエル族とアラビア半島の北部からシナイ半島にわたる一帯に住んでいた古代アラビア人とは関係があると考えられます。だとすれば、イシュマエル人は、パレスチナの東部地方からアラビア半島の北西部、さらにシナイ半島にわたる広い範囲の遊牧民であり、またらくだの隊商を組んで広く交易をしていたことになります。彼らは外敵と戦うために12部族連合を結成していました。
なお、ノアの3人の息子たちが(創世記6章10節)、セム族(チグリス、ユーフラテス河一帯で、アラビア半島の北東部から北西部にいたる地域)とハム族(アラビア半島の南西部から南東部を含み、エジプトを中心とするアフリカの地域)とヤフェト族(現在のギリシアとトルコとアルメニアのアナトリア高原を中心に地中海沿いにスペインへいたる地域)のそれぞれの先祖とされています。これによると「アラブ人」は、ハムの子孫と言うことになります。しかし、イシュマエルとエジプトとの関係から判断すると(創世記16章1節/同21章21節)、イシュマエル族もアラブ人とつながりがあったことになります。ただし、ここで言う古代の「アラブ人」は、時代的に見て、現在のイスラム教徒の「アラブ人」とは区別して考えるほうがいいと思います。
23【女奴隷と自由な女】「女奴隷」の原語は「女の召使い」とも訳すことができます。サラのことを「自由な女」と呼んだのは、サラが奴隷ではなく自由人の身分であったという意味ですが、むしろパウロは、律法による束縛(奴隷状態)と御霊にある自由とを対照させるためにこのように言うのです。サラとハガル、イサクとイシュマエルについては、ユダヤ教において、パウロ以前から伝承が伝えられていて、しばしば比較対照されていました。それらの直接の出所は創世記からです。
(1)ユダヤ教の伝承
(1)サラは正妻であり、ハガルはエジプト人の召使い/奴隷です。しかし、イスラエルの12人兄弟の一人ヨセフが、兄弟によってイシュマエル人に売り渡され、エジプトへ奴隷として売られた話しがもとになって(創世記37章27節)、イシュマエルの母であるハガルをも奴隷状態と結びつけるようになりました。ここから、サラは自由な女でありハガルは奴隷の召使いとう見方がなされるようになったのです。
(2)アブラハムの相続をめぐって、イサクとイシュマエルが争ったという伝承がありました。イシュマエルが、自分は最初の息子だから父アブラハムのものを相続する権利があると主張すれば、イサクは、自分は正妻サラの子であり、お前はわたしの母の召使いの子だから、正当な相続の権利は自分にあると主張したというのです。
(3)ハガルの追放/離縁については、彼女がエジプトの女であったために、偶像礼拝をアブラハムの家族に持ち込み、このために追放されたとう伝承が生まれました。この伝承では、ハガルはエジプトの王家の娘であったとされています。この伝承は、イシュマエルをも偶像礼拝と結びつけることになり、敬虔なイサクと不敬虔で偶像を礼拝するイシュマエルという対立の図式がこのようにして生じました。
(4)アブラハムは、孫のヤコブが行なったような子供たちへの祝福を授与しませんでした。そのわけは、もしもイサクを祝福すれば、邪悪なイシュマエルにも祝福を与えなければならなくなるからだと考えられました。こうして、ハガルとイシュマエル親子の偶像礼拝とイシュマエルの邪悪な性質、それにイサクへのいじめ(迫害)が加わって、アブラハムは、ハガルとイシュマエルとを「離縁」したと言われたのです。ラビ伝承では、アブラハムの息子イシュマエルもイサクの息子エサウも、どちらも邪悪で不法な者と見なされていました。
(5)サラとハガルについては、フィロンの比喩的な解釈があります。フィロンは二人の女性の関係をアレゴリー(寓意)として比喩的に解釈しました。この解釈の方法が、ここでのパウロの寓意的な解釈に反映していると考えられます。フィロンによれば、サラは「美徳」を現わし、その息子(イサク)は「真の知恵」を現わします。人の心は、美徳によって、真の知恵(英知)を生むからです。これに対してハガルは、サラ以前に身ごもったことから、「より低い段階での知識」を現わします〔古代では「知識/知恵」は人の心に「身ごもる」と考えられました。英語の“conceive<conception”は、思いを「抱く/身ごもる」<「概念/妊娠」のこと〕。人は初期の学習段階において初めて知恵を求めますが、より高い美徳と真の知恵に到達するためには、初期の段階を離れて、さらに先へ進まなければならないのです。人の心は、美徳によって子供を生まなければなりませんが、このためには、その前に「召使い」の低い教えに導かれて、低い知識を生まなければなりません。しかし、より高い知恵と知識を生むためには、正妻のサラを通して子を生まなければならず、このためアブラハムは、ハガルを離れて、サラを通じて、真の美徳と知恵に到達したことになります。
フィロンのこの解釈で重要なのは、ハガル­=イシュマエルとサラ=イサクの二つの系列が、相互に排除し合う性質のものではなく、二つの関係が、より低い段階からより高い段階へと、一方が他方へとつながる過程として位置づけられていることです。ちなみに、フィロンと同時代のクムラン宗団では、「イシュマエルと(アブラハムの別の側女)ケトラの子孫」は、「闇の子ら」とされて、イスラエルが闘わなければならない敵と見なされています〔『戦いの書』2の13〕。
(2)パウロの解釈
ユダヤ教からフィロンにいたるこのような伝承や解釈は、パウロのここでの聖書解釈にも影響を与えていると考えられます。パウロは、二人の息子を「自由」と「奴隷」の比喩(寓意)として対照させます。ハガル=イシュマエルは、福音へいたる準備段階としての律法を現わしますが、サラ=イサクのためには、ハガルとイシュマエルは追放される必要があるとパウロは言うのです。しかし、パウロは先に(ガラテヤ3章23〜25節)、律法とキリストの信仰との関係を、神の摂理による、一方から他方への移行と見ていました。だから、ここでの彼の見方は、ハガル=イシュマエルとサラ=イサクの両者を単なる対立関係ではなく、一方から他方への移行あるいは転位という連続と非連続の両面を含むことにも注意しなければなりません。だからパウロは、ハガル=イシュマエルをラビの伝承に見られるような単なる邪悪の者たちとは見ていないことになります。ただし、フィロンもパウロも、このような解釈を同じ創世記の記事から引き出すことができますから、パウロが直接にフィロンからこのような解釈を引き出したと考える必要はありません。
ガラテヤを訪れていた律法主義的なユダヤ人キリスト教徒たちは、ガラテヤの信徒たちに、例えばこのように教えたのかもしれません。アブラハムの正妻サラの子はイサクであってイシュマエルではないから、「神の約束」は嫡子イサクに与えられている。だから約束は、イサクの子孫であるイスラエル民族が受け継ぐのであって、異邦人であるエジプトの女ハガルとその子イシュマエルは、正当な世継ぎとは言えない。だから、異邦人キリスト教徒が、アブラハムの祝福を受け継ぐためには、モーセ律法に従って初めて、イスラエルの正統なアブラハム相続の「分け前」に与ることができる。なぜなら、正妻サラの嫡子イサクこそ正統な相続者であり、そばめハガルの庶子イシュマエルは、そのままでは正統な相続者とは認められないからです。
ところがパウロはここで、奴隷状態を現わすハガルをユダヤ教の律法を象徴するシナイ山と結びつけるのです! したがって、律法主義者たちこそハガル=イシュマエルの系列に属することになり、キリストの御霊を受けて自由にされた異邦人のガラテヤの信徒たちのほうが、サラ=イサクの系列に属することになるのです。これは驚くべき大転換です。パウロがここでこのような思い切った転換を通じて、律法主義者たちをハガルと同一視しているのは、彼に敵対する相手も同じ聖書からの引用によって、パウロを批判していたからかもしれません。このために、一見すると、サラとハガルとは、相容れない敵同士であるような印象を受けるのです。しかし、上に述べたフィロンの寓意的な解釈から見るならば、ここでパウロの語るサラとハガルとの関係も、一見するほど単純ではなく、そこには、「つながりつつも排除される」という複雑な相互関係を読み取ることができます。この辺りが、パウロの律法と福音、肉と霊との関係を考える際の難しいところであり、同時に大事なところなのです。
パウロは、ローマ人への手紙(9章)でも、異邦人キリスト教徒たちが弟ヤコブに属すると見なし、律法を遵守するユダヤ教徒たちは兄のエサウに結び付くと見ていて、その上で、神は「ヤコブを愛しエサウを憎んだ」(ローマ9章13節)という逆転を行なっています。しかしこの場合でも、よく注意して読むならば、ユダヤ人と異邦人とは、相容れない対立関係におかれるのではなく、イスラエルの民から異邦人キリスト教徒たちへの連続があり、これに伴う排除があるという過程を読み取ることができます。
【肉によって】パウロが「肉」と言うのは、造り主である神との対照で、造られた自然な人間の弱く罪深い性質のことです。ここでも「肉によって」は、「神の約束」と対照されています。ただしここでは、人間の罪深さよりも、むしろ人間の自然な性の営みによってイシュマエルが生まれたことを指すのでしょう。創世記には、イシュマエルが「肉によって」生まれたと述べている箇所はありません。だからこれは、続く「約束によって」と対照させるためにパウロが加えた解釈です。「霊と肉」の対照/対立は、パウロだけでなく、ヘレニズム世界のユダヤ教にもユダヤ人キリスト教徒たちにも共通する認識ですが、この「霊と肉」をイサクとイシュマエルの誕生と結びつけたのは、パウロ独自の見方だと言えます。
【約束の結果として】パウロは、「肉に<によって>」と「約束の<結果として/を通じて>」のように、「肉」と「約束」とで、言い方を変えています。「約束」という言葉自体も創世記に出てきません。しかし、創世記15章(4〜5節)や同17章(15〜16節)や同18章(10〜15節)は、明らかに神の御言葉による「約束」として理解することができます。だからパウロは、創世記18章10節のお告げを神からの「約束の言葉」と呼んでいます(ローマ9章9節)。〔創世記18章10節は三人の神の使いのひとりが語ったことになっていますが、この一人は、神ご自身の顕われと見ることができます。18章2節の「ひれ伏した」は礼拝すること。なお創世記17章15節を参照。〕「約束の結果」とあるのは、アブラハムが、神の約束の御言葉を信じた結果という意味ですが、ここでは特に、人間の力や意欲からではなく、人の力の及ばない御霊の働きの結果、イサクの誕生が与えられたことを言おうとしているのです。
パウロはここで、イシュマエルの生まれ方とイサクの生まれ方を対照させて、両者の違いを区別しているのは確かです。しかし、このことが直ちにふたりの出生の仕方それ自体が相互に全く異質だという意味ではありませんから注意してください。なぜなら、イサクの生まれ方にもアブラハムの人間としての自然の性行為が伴っているからです(これは処女降誕ではありません)。二人の子供の生まれ方を「肉による」と「約束/霊による」のように峻別して、互に相容れない対立関係におく見方がありますが、そうではありません。どちらもアブラハムの自然の営みを含みながら、その上に立って、神の約束に基づく場合とそうでない場合とが区別されているのです。ここでは、この共通性と異質性との両面を理解することが大事です。このことは、ローマ人への手紙4章21節で語られるイサクの生まれ方にも言えることですが、今はこれに立ち入ることを控えます。
24【寓意】原文は「これらには、寓意的な解釈が存在している」です。「これら」とは、22節〜23節で述べられていることです。寓意(アレゴリー)については、
(1)「寓意」(アレゴリー)とは、目に見える具体的な事柄によって、目に見えないものを表現するための手法です。ですからこれは「比喩」の一種です。寓意の場合、「具体的な事柄」というのは、通常人物あるいは動物で現わされることが多いようです。また「目に見えないもの」というのは、ここでは道徳(善、悪、怒り、愛)や哲学的な抽象概念(真理、偽り、永遠、無常)のことですが、場合によっては、歴史的で具体的な出来事や人物を表象化して、道徳や思想を表現する手段として用いることもあります。英文学で言えば、道徳的・信仰的なアレゴリーの作品としては、ジョン・バニヤンの『天路歴程』(The Pirgrim’s Progress)が有名ですが、歴史的な人物や出来事を表象化する寓意では、エドマンド・スペンサーの『妖精の女王』(The Faerie Queene)があります。
聖書で寓意(アレゴリー)の解釈としてよく知られているのは、「善いサマリア人」のたとえです。善いサマリア人とはキリストのこと。傷を負った旅人は罪のある人間。強盗とは悪魔のこと。宿屋とは教会を意味し、その主人は教会の牧師を現わす。こういう解釈の方法です。もっとも、イエス様がこのたとえをお話になったのは、このようなアレゴリー的な意味ではなく、イエス様の当時のサマリア人とユダヤ人との現実の歴史的な状況の中で語られたのです。それが後になって、こういうアレゴリー的な解釈を生むことになりました。
ここでのパウロの場合にも、寓意とは、アブラハムとその家族の具体的な出来事を通して、これらを霊的なこと現わす表象と見て解釈することです。ところが、この「霊的な」ということにも、二つの意味が含まれています。(A)ひとつは、道徳的宗教的な真理のことです。ここでは「霊による」ことと「肉による」こと、あるいは「信仰による」ことと「律法による」こと、「自由」と「奴隷状態」の比較を読み取ることです。
ここで注意してほしいことがあります。寓意は、具体的な人物を通して道徳や思想を現わすと言いましたが、この手法は、とかく誤解されやすいところがあるからです。なぜなら、寓意は、一見分かりやすく、誰の目にも明らかに区別できるように見えながら、実はきわめて複雑で分かりにくいことを表現することができるからです。
例えば、Mr. Goodman(善)とMr.Badman(悪)とが登場して、互いに対立したり争ったり、ある時には一方が勝ち、別の時には他方が勝ち、時には仲良くなり、時には喧嘩をし、Mr.GoodmanがMr.Badmanの真似をして見せたり、その逆をやる、というふうに演じるならば、誰が見てもよく分かります。見ている人は、おそらく、自分の姿をMr.Goodmanのほうに重ねる場合が多いでしょう。ですから、この手法は、善と悪とをはっきり分けて、誰の目にも区別できるように「目に見える姿で」見せてくれます。
ところが実際は、Mr.GoodmanもMr.Badmanも、同じひとりの人間の心に内に潜んでいる善と悪とをそれぞれ別々に表現しているのです。だから二人の駆け引きや、そこで演じられるやりとりは、一見分かりやすく、善悪の区別がつきやすいように見えながら、実は二人の間はそれほど明らかではなく、一人の人の内で生じる心の分裂や葛藤は、きわめて複雑であり、分かりにくいのです。別の例をあげると、「愛さん」「憎しみさん」「嫉妬さん」「怒りさん」「恥ずかしがりやさん」「大胆さん」などの人物が登場する場合です。これは人の心の恋愛心理の描写です。そこで演じられるドラマは、現代小説の複雑な手法を用いても、描き出すことができないほどの複雑な心理を表現することができるのです。こういう心の内面の分かりにくいことを目に見える姿で描き出してくれるのがアレゴリー(寓意)なのです。
パウロの寓意を解釈する場合も同様です。これを「霊」を現わすイサクと「肉」を現わすイシュマエルのように区別して、この二人が現わす霊的な意味が、ある人たちはイサクであり、ある人たちはイシュマエルである、というように、明確に判別できると思うのは、大きな誤解です。現実は、この二人の兄弟は、どちらもわたしたち一人一人の心の中に住んでいて、その関係は複雑に絡み合っています。見ようによっては、イシュマエルなしにイサクは存在せず、イサクなしにイシュマエルはその存在の意義を失う。こういう見方さえできるのです。目に見えるわかりやすさと目に見えない複雑さが、同時に表現できるのが寓意の手法の特徴なのです。
パウロの寓意に潜むもうひとつの霊的な意味について説明します。(B)それは創世記でのアブラハムの家族の問題のことが、時代が遠く離れたイエス・キリストの御霊の出来事やその働きを指し示していることです。このように、時間的に、あるいは時代的に、遠く隔たったキリストの御霊という全く新しい出来事を過去のアブラハムの出来事と対応させているのです。イサクの誕生が、パウロとガラテヤの信徒たちを含むキリスト者の御霊にある誕生とつながっている。過去の出来事が、遠く隔たった現在において起こる出来事を「予め示している」。こういう不思議な関係がここに存在しているのです。ですから、これは寓意(アレゴリー)ではありません。イサクの誕生は、キリストの御霊にあるキリスト者の誕生を「予め預言」していて、現在のパウロたちの御霊体験が、この「預言の成就」と見なされるからです。この場合、イサクの誕生を「予型」(タイプ)と呼び、キリスト者の聖霊体験による成就を「対型」(アンチタイプ)と呼びます。このように、時間的に遠く隔たった二つの出来事を神の摂理によって結びつけたり、対応させたりする解釈の方法を予型論(タイポロジー)と言います。タイポロジーは、特に聖書を解釈する独特の手法であると言えましょう。
旧約聖書の出来事は、新約聖書を預言している。こういうことがよく言われますが、これがタイポロジーに基づく解釈なのです。過去の出来事が現在の出来事の成就であるという歴史の見方がここにはあります。ですから、この解釈は、歴史を解釈する手法であるとも言えるでしょう。聖書は、タイポロジーを通して解釈される時に、そこに神の救済史が顕われるのです。ですからパウロのここでの霊的な聖書解釈には、アレゴリー(寓意)的な解釈とタイポロジー(予型論)的な解釈との二重の霊的な意味が重ね合わされているのが分かります。
なぜパウロはこのように複雑な比喩解釈を持ち込んだのでしょうか? 彼には、こうせざるをえなかった事情があったからです。それは、彼の論敵との論争です。相手のユダヤ人キリスト教徒たちに反論して、自分に託された御霊にある福音を証しするためには、聖書をアレゴリー的に解釈することで、霊と肉、自由と奴隷状態を比較対照させるだけでは十分に説得できないとパウロは考えたのです。だから彼は、アレゴリーに加えてタイポロジーを用いて、相手に反論し、ガラテヤの信徒たちを納得させようとしているのです。ここでのパウロの比喩解釈には、アレゴリーよりもむしろタイポロジーのほうに重点が置かれているように思います。ですからパウロ言うアレゴリーは、当時のフィロンのような道徳的で哲学的なアレゴリーに比べるとタイポロジー的であり救済史的な視点に立つと言えます。
【二つの契約】ハガルは「古い契約」(第二コリント3章14節)を現わし、サラは「新しい契約」(第二コリント3章6節)を現わします。「契約」の原語は「遺言」(ガラテヤ3章15節)と同じです。しかしここで言う「契約」は、先にでてきた「遺言」の意味よりもさらに拡大されて、イスラエル民族と世界の諸民族を含む全世界に対する神のご計画(摂理/経綸“dispensation”)を現わしています。だからこれは、過去のイスラエル民族だけの「古い契約」(旧約)と異邦人キリスト教徒を含む「新しい契約」(新約)との対比へとつながります。ここでパウロは初めて、相手のユダヤ人キリスト教徒たちの「キリスト」と自分の伝えるキリストとの違いを「旧約」と「新約」という神の救済史の中で位置づけているのです。このタイポロジー関係は、決して単純ではありませんから注意してください。旧約は拒否する。新約だけが正しい。こういう単純な見方をするなら、旧約聖書は要らないことになります。後にマルキオンという人が、このように考えて旧約を否定しましたが、これは異端とされています。旧約を含みつつも新しい契約が授与されるところに真の福音があるからです。
【シナイ山に由来して】「ひとつは」とあるのはハガルのことです。彼女がイシュマエルの母です。だからパウロは、ハガルを古い契約と見なし、その子イシュマエルの子孫たちを「奴隷状態」にたとえています。けれどもこのような新旧二つの契約関係とこれに由来する「自由」と「奴隷」の比喩は、ユダヤ人キリスト教徒たちには理解できたと思われますが、異邦人であるガラテヤの信徒たちには難しかったかもしれません。
25【シナイ山のこと】「シナイ山」は、ここではモーセ律法が授与された「シナイ契約」(出エジプト19章5節)のことを指していて、パウロはここで、「ハガル」と「シナイ山/契約」とを結びつけています。言うまでもなくこれは寓意的な解釈です。モーセの十戒が授与されたシナイ山のことは、ガラテヤの信徒たちもよく知っていたでしょう。モーセによって、シナイ山でイスラエルの民に「シナイ契約」が授与されました。しかし「ハガル」と「シナイ山/契約」との結びつきはパウロ独特の霊的な解釈です。ここでパウロが言おうとしているのは、ハガルとシナイ山とを結びつけることですが、その根拠は、必ずしもはっきりしません
(1)有力な写本の中には、「ハガル」が全く出てこないものがあり、ここを「シナイとはアラビアにある山のことである(シナイ山はアラビアにある)」〔NRSV欄外〕という読み方もあります。この読み方だと、シナイ山/シナイ契約は、異邦人の土地(アラビア)にあるのだから、必ずしもイスラエル民族だけのものではないという意味にもなります。しかしこの読み方は、分かりやすくするために後で編集されたと思われます。なお、最近の研究の結果発見された記録では、モーセたちの出エジプトの通路は、一般に言われている南回りではなく、ナイルの河口付近のゴシェンから南東に降り、現在のスエズ運河の南端に近いところあった「葦の海」を海水が割れる奇跡によって通り抜けたのではないかと言われています。これは「海」というよりも「湖」で、エルバラ湖と呼ばれていましたが(古い記録にここの海が割れたとある)、現在は運河の建設によって失われています。だからモーセたちは、現在のアカバ湾のちょうど北端の辺りをシナイ半島へ向けて通り抜けたことになります。モーセの一行は、そのままシナイ半島をまっすぐ東へ向けて横断して、現在の紅海のちょうど北端の辺りに到着したと思われます。そこは、かつてモーセが過ごしたミディアンに近く、ティムナと呼ばれる所で、そこに現在「ハシェム・エリ・タリフ」と呼ばれる山があります。この山は古代から「聖なる山」と呼ばれていた火山でした。この山が、出エジプト記に出てくる「シナイ山」ではなかったかと言うのです。もしもそうだとすれば、ここはパウロの時代の「アラビア」の南に当たりますから、「シナイ山はアラビアにあった」という解釈は、正しかったことになります。
(2)「ハガル」は、アラビアでは(聖書にでてモーセたちは、くる)「シナイ山」のことを指している、という解釈です。ただし、ここで言う「アラビアでは」は、「アラビア地方(パウロの時代のナバテア地方)では」、の意味なのか、それとも「アラビア語では」の意味なのかがはっきりしません。パウロは、キリストに出会った後で、「アラビアへ行った」(ガラテヤ1章17節)とあります。アラビア語では「岩」のことを「ハガヤル」と言いますから、「ハガヤル=ハガル」は、ナバテア地方では、シナイ半島にある岩の多いシナイ山の周辺を指していたとも考えられます。
(3)パウロは(当時のユダヤ人も)、アラビアの人たちが「イシュマエルの子孫」であると考えていました。またアラビア(語)では、「ハガヤル/アガヤル(=ハガル)」が「岩/岩山」を指していて、モーセ律法が授与されたシナイ山は、実はアラビアにあったという伝承がナバテア地方に伝えられていたとも考えられます。パウロは、先のナバテア訪問でこのことを知っていたために、これらのことを合わせて、「ハガルとは、アラビアではシナイ山のことである」と言っているのかもしれません。
【今のエルサレムに当てはまる】ここで「当てはまる」というのは、寓意的に「対応する/意味する」ことです。伝統的なユダヤ教では、アブラハム→イサク→ヤコブ(イスラエル)→イスラエル民族→モーセ律法→ユダヤにあるエルサレムとその神殿、という結びつきの上に、神による救済史が考えられていました。だから異邦人(諸国民)に対する伝道も、このような救済史の延長で考えられていたのです。ところがパウロは、アブラハム→イサク→ヤコブ→キリストを信じる諸民族→キリストの御霊→天のエルサレムという図式に転換するのです。ここでパウロが、この救済史を根底から否定する図式を提示するのは、ひとつには、彼に対するユダヤ教や律法主義的なユダヤ人キリスト教徒に対抗するためです。しかし、彼の真の意図は、このような対照によって、「キリストの信仰」が「律法の諸行」から生じるものではないことをはっきりさせるためです。同時に、彼は、キリストの福音に照らして見て、ユダヤ人(ユダヤ教)が、異邦人(異教の諸宗教)よりも優越しているという考え方を拒否するのです。これは、パウロによる「偉大な転換」だと言えましょう。なお、節の後半に「これの子たち」とあるのは、「エルサレム」という都市の名が女性名詞だからで、これを「ハガル」という母と重ねたからです。ユダヤ教でもエルサレムは、伝統的に母として理解されてきました。この見方は、「母なる教会」としてキリスト教に受け継がれることになります。
26【天のエルサレム】パウロが、当時のエルサレムをアブラハムの嫡子であるイサクではなく、ハガルと結びつけたのは、ユダヤ教徒や保守的なユダヤ人キリスト教徒たちからは許し難いと映ったに違いありません。なぜならここでパウロは、現在存在している「地上の」エルサレムを神の救済史が完成される終末の時に顕現する「天上の」エルサレムと対立関係に置いているからです。
このような神からの新しいエルサレム観は、パウロ以前に、すでにユダヤ教でも語られ、待ち望まれていました(詩編87篇3節/イザヤ54章11〜14節)。エルサレムはしばしば「シオンの山」に象徴されます。モーセ律法が授与されたシナイ山が、イスラエルの民への救済史を指し示すものであれば、シオンの山は、その救済史が成就する完成された神の都を指し示すものでした(詩編87篇)。しかしこれら二つの山は、現在の地上のエルサレムが、神の都として成就することを指向していましたから、シナイ山が象徴する救済史とシオンの山が象徴する終末的な贖いは、密接につながることで達成されると考えられたのです。ガラテヤを訪れていたユダヤ人キリスト教徒たちのエルサレム観もこれに近いものであったと思われます。だからこそ彼らは、モーセ律法に定められた割礼を異邦人キリスト教徒にも課そうとしたのです。
ところがパウロは、シナイ山に象徴されるイスラエルの救済史を奴隷状態のハガルと結びつけるのです。その上で、この奴隷状態を現存するエルサレムと重ねます。なぜならそこは、モーセ律法に支配され束縛されている「地上のエルサレム」だからです。こうしてパウロは、現在のエルサレムを神の救済史から切り離して、代わりに「天のエルサレム」を御霊にある自由の都として、これに救済史の終末的な成就を見ているのです。パウロもヨハネ黙示録に顕われる神の都をはるかに予見していたのでしょう(黙示録21章9節以下)。
アブラハムとサラの子孫が神の都を受け継ぐというこのような信仰は、新約聖書のヘブライ人への手紙(11章10〜11節)にも現われます。ヘブライ人への手紙でも、モーセ律法のシナイ山と天のエルサレムとを対比させていますから、これら二つの山に象徴される二つのエルサレム観は、パウロ独自のものではなく、すでに初期のキリスト教の救済史において存在していたと考えられます。そうだとすれば、ガラテヤを訪れていたユダヤ人キリスト教徒とパウロとの違いは、シナイの山(モーセ律法)とシオンの山(メシアとしてのキリスト)との連続/非連続をめぐるところ、言い換えるとこれらふたつの継承関係をどう理解するかに、両者の食い違いがあったことになります。パウロの論敵であるユダヤ人キリスト教徒たちが、エルサレムのキリスト教会から来た人たちであったとすれば、ここでパウロが、これに反論するために、地上のエルサレムに対して天のエルサレムを対比させている意図がいっそうよく分かります。
ところでパウロはここで、「現在の」エルサレムと「天の」エルサレムとを対照させているのに注意してほしいのです。この対比は、二つのエルサレムが、「現在」のエルサレムと「終末」に顕われるエルサレムとの対比、すなわち救済史的な時間のつながりだけで理解されているのではないことを示すからです。パウロに言わせると、「天のエルサレム」は、すでに存在しているのです。だからここでは、現在と終末という時間的歴史的な違いだけでなく、「地上と天上」という二つのエルサレムが同時に存在していることをも意味しています。わたしたちは先に、パウロの比喩には、寓意(アレゴリー)的な面だけでなく予型(タイポロジー)的な時間関係をも含むことを見ました。ここでも、二つのエルサレムは、現在と終末という救済史的な時間の軸だけではなく、地上と天上という同時存在的な関係にもあることが分かります。このようなエルサレム観は、シリア語バルク黙示録の4章(紀元後70〜90年頃)にも出てきます。そこでは、天のエルサレムは、アダムの時からすでに存在していたのです。パウロも天のエルサレムがすでにアダムの創造の時から存在していたと見ていたのかもしれません。
「現在」と「天」のように時間と場所というやや食い違う対比は、「肉の子」と「約束の子」という人間の状態と未来の時間との不自然な対比にも見られます(4章23節)。だから、ハガルとサラの比喩では、救済史という時間軸と天上と地上という場所的な同時性とが重なり合って比喩を構成しているのが分かります。パウロは先の3章で、律法と福音との関係を救済史的な視点から説いていました。ここでは救済史的な時間の視点だけでなく同時存在的な状態が導入されているのです。これが5章に入ると、「霊と肉」という人間存在の同時的な状態へと移行します。このように見てくると、パウロの律法と福音、現在のエルサレムと天のエルサレムとは、現在から終末に向かう救済史的な関係と同時的に存在する状態との二面性を有しながら、律法と福音、二つのエルサレムなどの関係が固定されることなく、これらの関係が流動的に変容しているのが分かります。
以上二つの関係をまとめると、次のようになるでしょうか。
〔ハガル〕:イシュマエル/奴隷の女の子孫/肉による古いシナイ契約/現在の(地上の)エルサレム/奴隷状態/肉による律法主義的なユダヤ教。
〔サラ〕:イサク/自由の女の子孫/霊による新しいキリストの契約/天のエルサレム/自由/御霊にあるキリストの福音。
27【子を産まない不妊の女】ここでパウロは、サラがエルサレムを現わすことをイザヤ書54章の引用によって確認します。ユダヤ教の聖書解釈では、同一の言葉は相互に関連づけられて解釈されます。ここでは「不妊」という言葉が、創世記11章30節(七十人訳)ではサラについて、イザヤ書54章1節では、贖われたエルサレムについて用いられています。これによって、サラはエルサレムなのです。しかし、サラとエルサレムとのこの結びつきは、すでにユダヤ教の伝承においても確立していましたから、パウロ独自のものではありません。しかしパウロは、「不妊の女」で「取り残された女」が、「夫ある女」よりも多くの子供を産むとあるのを、ユダヤ人キリスト教徒だけではなく異邦人キリスト教徒たちをも含む世界の諸民族(異邦人)のこととして理解しているのです。ヤハウェは伝統的にイスラエルの民の「夫」とされてきました(イザヤ54章5節)。しかしながら、ヤハウェの妻とされながら、律法によって奴隷状態にある地上のエルサレムよりも、サラに象徴される天のエルサレムのほうが、キリストの自由な御霊によって、今やはるかに多くの子供に恵まれるという逆転が生じたのです。サラこそ、アブラハムの正妻であり、しかも自由の御霊を授けられた異邦人キリスト教徒たちすべての母であり、天上のエルサレムなのです。だから、ここで語られている比喩の中心は、どこまでも「奴隷状態と自由」に置かれています。それはまた、「霊から生まれる」と「肉から生まれる」という対比につながります。
28【約束の子】パウロがここで「あなたがたこそ」と強めて呼びかけているのは、地上のエルサレムに属さないと見られているガラテヤの信徒たちを含む異邦人キリスト教徒たちです。「約束の子」は、だから、23節から来ていて、「肉によって生まれた女奴隷の子」と対比されます。約束とは神の言葉を信じる信仰から生起したことを現わし、しかもそれが「肉によらない」こと、すなわち民族的な血統や人間的な力によるものではないことを表わします。だから「約束の子」には、ほんらい自然な状態では、神の民とは見なされないはずの人たちが、キリストにある恵みによって、養子のように受け容れられることを意味します。なぜなら民族的にアブラハムの子孫だからと言って、それだけで全員がアブラハムの子だということにはならないからです(ローマ9章7〜8節)。
ここにガラテヤを訪れているユダヤ人キリスト教徒とパウロとの間に、アブラハムの正統な継承関係をめぐる深い亀裂があります。人間的な肉から切り離されたキリストの恵みの御霊にある自由こそが、正統なアブラハムの世継ぎのものであり、彼らこそアブラハムの信仰の継承者だからです。しかし、ここでの「あなたがたこそ」をユダヤ人やユダヤ人キリスト教徒から区別された異邦人キリスト教徒であるとか、もろもろの宗教団体から区別されたキリスト教徒やその教会とか、そのほかいかなる「地上の」特定の人たちに限定した意味で解釈してはなりません。パウロはそのような「地上の」人間的で「肉的な」状態を「天にある」自由の御霊の民とはっきり区別するからです。ヤハウェの神殿が存在している地上のエルサレムでさえも、これを支配する律法と宗教制度もろともに、天のエルサレムから区別されるのであるのならば、地上のいかなる宗団や宗教組織も自分たちこそが、アブラハムの正統な世継ぎであると誇ることは許されないのです。わたしたちは、現在のエルサレムが奴隷状態でガラテヤの信徒たちが自由であるというように、特定の人間や宗団を固定して、「自由と奴隷」「霊と肉」をこれらに振り当てることをしてはならないのです。ここにパウロの「自由な御霊」にある継承思想の大事な点が置かれているのを読み取ってください。
2929〜30節はひとまとまりになっていて、これの背後には、パウロに反対するユダヤ人キリスト教徒の言動があったと見ることができます。おそらく彼らは、パウロが、エルサレム教会の指向する方針に従わないものとして、パウロの伝える福音を「正統的」でないとしてこれを「排除する」ことを目論んだのでしょう。パウロのここでの、激しい論法はこのことを念頭におく時に初めて理解できます。かつてアンティオキアでパウロがペトロと論争した折りに、異邦人もユダヤ人も対等で平等であるという彼の主張する「御霊にある自由」が認められず、結果として彼が、交わりから「排除される/追い出される」体験をしました。おそらくパウロの念頭には、このことがあったのでしょう。ここで中心的な問題は、どちらが優越するのかという「肉による」人間的な思惑や優劣観ではなく、キリストの御霊にある「自由か隷従か」であり、これに対応する「霊によるのか肉によるのか」なのです。
【迫害したように】旧約には、イシュマエルがイサクを「迫害した」という記事はありません。ここは、創世記21章9〜10節を基にしていますが、新共同訳ではイシュマエルがイサクを「からかった」とあり、英訳では共に「遊んだ」とあります。しかし、ユダヤ教では、ここのヘブライ語を「血を流した」と読む伝承があったようで、パウロはこれに従ったと思われます。実際にユダヤ人キリスト教徒たちがガラテヤの信徒たちに割礼を課そうとしてどのように「迫害した」のか、はっきりとは分かりません。しかし、次の30節から分かるように、ここで言う「迫害」とは流血のことではなく、割礼を受けない者は、キリストの福音の正統な受領者として認めないこと、さらには交わりから「追放する/排除する」ことを含んでいたと思われます。当然この措置はパウロ自身にも向けられていたのでしょう。
30この節でパウロは創世記21章10節(七十人訳)を引用していますが、パウロはサラの言葉としてではなく聖書の御言葉として引用しています。その上で、サラの言う「わたしの息子」(イサクのこと)を「自由な女の子」と彼なりに言い換えています。律法による束縛と聖書による自由とを共にすることができないからです。パウロがこのように厳しくユダヤ人キリスト教徒たちの律法主義を批判するのは、この問題が、そもそもパウロやガラテヤの信徒たちから発生したことではなく、ユダヤ人キリスト教徒たちの側から一方的に割礼を強いてきたからです。御霊にある自由は、できるだけ多くの者たちの自由を容認します。しかし、神から授与された自由そのものを侵害したり侵したりする「自由」だけは、絶対に認めることができないのです。なぜならそれは「自由」ではなく「隷従」にほかならないからです。パウロは、ユダヤ人キリスト教徒たちが割礼を受けることに反対しているのではありません。そうではなく、異邦人キリスト教徒たちに律法による割礼を強いることに断固として反対しているのです。ですから、ここでパウロの言いたいことは、ユダヤ人やましてユダヤ人キリスト教徒たちが、神の正統な相続から排除されなければならないなどということではありません。同様に、異邦人キリスト教徒だけが神の祝福を受け継ぐ正統な世継ぎであるという意味でもありません。ユダヤ人であろうと異邦人であろうと、キリストの御霊の働きを受け容れる者には、平等に対等に、御霊にある自由が授与される。ただこの一事を完徹したいのです。アブラハムに啓示された神の救済史の真意とは、このようなキリストの御霊にある自由であり、この自由を守ろうとする者こそが、神の祝福を受け継ぐ「正統な」継承者である。これがパウロの信念なのです。
31この節は、4章21節以下をまとめた結論です。問われているのは、アブラハムの正統な世継ぎとは誰なのか? とうことです。答えは、律法に束縛された隷従の子ではなく、キリストの御霊にある自由な子こそが、まことのアブラハムの正統な世継ぎである。これです。人種的、民族的、人間的な優越を誇る宗教に支配された制度(地上のエルサレム)という「肉による」世継ぎではなく、キリストの御霊にある「霊による」世継ぎこそ、ユダヤ人キリスト教徒であるパウロであり、異邦人キリスト教徒であるガラテヤの信徒たちなのです。これが「わたしたち兄弟姉妹」であり、アブラハムの正統な世継ぎなのです。