【注釈】
13自由になるため自由」はパウロ書簡全体を流れる中心的な思想です。御霊にある自由こそ、キリスト者が目指す目標だからです。アダムは、神から授与された自由を堕罪のために失いました(創世記3章)。その結果、人は「この世のもろもろの霊力」に「隷従させられる」ことになったのです。アダムの問題は、ガラテヤ人への手紙には表われませんが、ローマ人への手紙に出てきます。パウロの言う「自由」は、神学的な理論ではなく、キリストの御霊にあって、個人個人が現実に体験できる賜(たまもの)なのです。
5章は、「自由へ向けて、キリストはわたしたちを自由にしてくださった」(1節)で始まります。「自由へ向けて自由にされる」のですから、これから判断すると、わたしたちには、自由へ「向かわない」自由もあることになります。アダムの犯した過ちはまさにこの「自由を失う自由」だったのです。この問題こそ、5章全体のテーマです。5章1節では、「自由」は、まだひとりひとりへの「可能性として」備えられている段階にあると言えましょうか。そうすると、この13節にいたって、「自由」が、ほんとうにその人に実現し体験されることになりましょう。こういう段階的な見方には問題もありますが、キリストの贖いによって与えられる自由は、可能性としては、すべての人に備えられているのを知ることが大事です。一人一人は、キリストにある自由を自分自身に現実させるように「召されている」のです。
   イエス様が与える自由は、社会の様々な「抑圧」から、宗教や律法などの「束縛」から、わたしたちを解放する力を秘めています。それどころか、「死」からさえも自由にする力を与えてくださると聖書は言うのです。これに続く御霊の実のカタログに「自由」自体は含まれません。なぜなら自由はこれらの実を成らせる樹だからです(第二コリント3章17節)。この自由は、キリストの復活から降るキリストの御霊にあって成就されますが、パウロはこれを「新しい創造」と呼んでいます(ガラテヤ6章15節)。こういう自由へいたる過程をパウロは「御霊に導かれる」と言うのです。だから、パウロの伝える自由は、ヨハネ福音書の「自由」や「命」と同じように、イエス様の贖いによって、「すでに存在している」ものです。その気になれが、誰にでも開かれている自由です。したがって、人間がこれ以上なにかをつけ加える必要がないのです。
【肉への機会「肉」とは、肉体を具えた人間存在のことです。神の「霊」の働きに比べると弱くて朽ちやすく、欲や情念に動かされやすい存在です。したがって、キリスト者は、「この世の霊力」に動かされる自分の「肉」の働きと御霊にある「霊」の働きが互いに葛藤する場に身を置くことになります。「霊」と「肉」とのこの摩擦は、ガラテヤ人への手紙では比較的簡単に扱われていますが、この問題は、ローマ人への手紙で、律法の問題とも絡んで、より深く語られます。「キリストにある者」も、この世では、いぜんとして肉にまつわる誘惑を免れることができません(ガラテヤ2章20節/4章14節/6章7~10節)。だから、自分の肉的な有り様にどのように処していくのか。この知恵が大事になります。
   「機会」とあるギリシア語は、ほんらい軍隊が作戦を開始する拠点のことです。それが一般化して「機会」「きっかけ」の意味になりました。その人が自由な状態に「ある」ことと自由に「なる」こととの間には、自由に向けて「御霊に導かれる」という大事なステップがあります。逆に、このステップを妨げようとするのが「肉の機会」です。パウロが「誘惑」と呼ぶのはこの「悪い機会」のことです(ガラテヤ6章1節/第一コリント7章5節/同10章9節/第一テサロニケ3章5節)。人は、自分に授与された自由を「行使しない」ことによって、邪魔が入り、場合によってはこれを失う危険があります。だからパウロは自由を「保持する」ために「しっかり立つ」(5章1節)ように勧めています。ただしここガラテヤ人への手紙では、この問題はこれ以上語られません。ローマ人への手紙7章にいたって、「肉の働く機会」とは、どういうことかが明らかにされます。
14律法の全体は一言で成就される自由とは、律法とこの世のもろもろの霊力の束縛から解放されることです。パウロは、この自由こそ、アブラハムとその子孫に約束された御霊の賜であると言うのです。このような御霊にある自由は、これを常に行使し、働かせることによって維持されます。ガラテヤの信徒たちは、先祖伝来の自分たちの伝統も宗教も頼りにできません。この世のもろもろの霊力にも束縛されません。その上、ユダヤ人キリスト教徒たちが伝える旧約聖書の「律法」さえも指針にならないのです。とすれば、いったい何を基準にして御霊の賜を働かせるのが正しいのでしょうか? このことで、ガラテヤの信徒たちの間に混乱が生じたのです。このため信徒たちの中には、自由奔放になりすぎて、放縦な生活に流れる人が出て来たと思われます。ある事柄「から自由になる」だけでは、その後で積極的になにをすればよいのか? この「するための自由」が見えてこないのです。だから自由には、なにかを積極的に「実行する自由」が伴わなければなりません。おそらく律法主義的な人たちは、パウロの教えのこの点を突いて、パウロを批判したと思います。
これに応えるために、パウロは律法に替わって、しかも律法の最も大事な教えとして、「愛によって互いに仕えなさい」と言うのです。なぜなら、イエス様が説いたように、この愛の教えこそ、旧約聖書の教えである律法全体を「一言で」成就する道だからです。だから13節に続いて14節で、その「一言」を「あなたの隣人を自分のように愛せよ」(レビ記19章18節)という旧約聖書の律法から引用するのです(この引用は七十人訳から)。原初教会でも、レビ記のこの節はしばしば引用されました(マタイ5章43節/同19章19節/マルコ12章31節/ルカ10章27節)。律法全体をこのように要約する解釈の方法は、ユダヤ教のヒレル派から出ているのかもしれません〔H.D.Betz Galatians. 276〕。ただし、パウロは、ほんらいファリサイ派に属していましたが、ヒレル派であったかどうか確かなことは分かりません。
   パウロは、律法から自由になるように勧めておいてから、ここ14節で旧約聖書の律法を引用します。5章12節で律法について否定してから14節で律法を引用するのは、一見矛盾するように見えます。さらに「キリストの律法」という言い方が表われます(6章2節)。いったい「律法」とはなんでしょうか? 否定される「律法」と引用される「律法」、さらに「キリストの律法」、これらの関係はどうなっているのでしょうか? 繰り返しますが、ガラテヤ人への手紙では、この問題について深く掘り下げて語られません。しかし彼は、この問題を論じる代わりに、「肉」と「霊」との具体的な働きのカタログをあげて、信徒たちに「自由への指針」を示すのです。
15「人間は人間にとって狼である」というラテン語の諺にあるように、ここでは人間を狼のような動物にたとえて、信者の間でいがみ合わないように注意を促しています。共食いによって「滅び尽くされる」ことがないようにせよというのです。「互いに愛し合う」ように勧めた後で、パウロがこの比喩を語っているのは、ガラテヤの信者同士でなにか争いがあったのかもしれません。
16【御霊にあって歩みなさい】ここから新しい段落に入ります。新しい段落を始めるに当たって、パウロは、ここでの善と悪とのカタログを理解する鍵として、「御霊にあって歩む」ことを確認させようとするのです。これが、「肉」ではなく「霊」によって、日常生活を送る大事な点だからです。「御霊にあって」は、イエス様の御霊に、「生活の全領域において」全託することです。自己の力を放棄することです。「歩みなさい」とあるのは、意識するしないにかかわらず、御霊は「働いて」くださる。導いてくださるからです。
【肉の欲に負けてしまうことがない】「肉の欲」とあるのは、いわゆる性的な欲望のことだけではなく、人間の様々な欲望を意味します。「負けてしまう」と訳した原語は、悪い意味では、「耽ける/思いを遂げる/溺れる」ことです。以下にあげられる欲望や衝動に抵抗できずに「実際に行なう」ことです。3章3節を参照してください。「肉に負ける」のは「罪を犯す」ことにつながります。罪を犯すのは、律法を破る「律法違反」の罪だけではありません。自分の力により頼んで自力で律法を実行しようとする「律法主義」の場合にも罪が生じます。パウロはここで、律法違反の誘惑に陥ることを意味しているのでしょうか? それとも律法主義に走ることを心配しているのでしょうか? おそらく両方でしょう。なぜなら、パウロは「(主様の)御力は、わたしの肉が弱い時にこそ、完全に発揮される」と言うからです(第二コリント12章9節)。これは律法主義による自己努力を放棄する時に御霊が働いてくださることでもありますが、同時に、人間が、肉的な欲望に負けそうな弱い自分を自覚する時にこそ、御霊がその弱さを支えてくださるという意味にもなります。
17ここでは、パウロ独特の「肉」と「霊」の二元論的な人間観が語られていると言われます。しかし、このような霊と肉の二元論は、必ずしもパウロだけでなく、ヘレニズム時代のユダヤ教にも見ることができます。アレクサンドリアの著名なユダヤ人の哲学者フィロにもこのような二元論が表われています。パウロは、ヘレニズム時代の人間観に基づきながら、キリストの御霊にある「霊」と「肉」との関係を深く洞察することで、独特のキリスト教的な人間観を形成したと言えましょう。彼の人間観は、一般に言われている霊肉の二元論ではありません。霊と肉を人格的に統合したところに「御霊の導きにある」彼独自の人間観があるからです。パウロのこの人間観は、以後のキリスト教の人間観の土台となりました(ヨハネ福音書にも霊肉の人間観が語られています。ヨハネ3章6節/同6章63節)。
   パウロの霊と肉の関係は、ここガラテヤ人への手紙5章16~25節(3章3節/4章29節も)とローマ人への手紙7章14~8章14節とに語られています。ただし、ガラテヤ人への手紙とローマ人への手紙とでは全く同じではありません。ローマ人への手紙のほうでは、「欲望」を起こさせるのは「律法を通して」働く「罪」の力です。しかしガラテヤ人への手紙では、「欲望」は「肉を通して」働くのです。パウロは、ローマ人への手紙において、霊と肉の問題を「律法」との関係においてさらに深く追求しています。これには、ふたつの書簡が、それぞれ違う状況の人たちに宛てられていることが反映しているのでしょう。
肉の欲は霊に反し、霊は肉に反する「霊」とは、神からキリストのみ名によって降る聖霊/御霊のことであり、「これに支配されている」人間存在のことです。「肉」は、これに対照されていますから、肉体を含む人間の生地の存在を指します。したがって「肉」には、人間の心も感情も意志も含まれます。
これらは互いに対立し「対立する」は「敵対する」です。人間存在は、言わば、肉の力と霊の力とが闘い合う戦場であるという見方です。キリスト者が「霊的な戦い」と呼ぶのがこれです。ガラテヤ人への手紙では、「肉の欲」が「霊に反する」とあります。ところが、ローマ人への手紙7章8節では、戦場は、どちらかと言えば「肉の場」に移されます。そこでは「罪」が、律法を通じて、欲望を引き起こすとあります。「霊と肉」という大きな戦争の中で、肉に潜む罪が、律法を悪用して、肉を襲うという小さな戦闘が、あちこちで行なわれることになります。
あなたがたの意志すること直訳すれば「あなたがたの意志すること、<これらを>行なうことができない」です。「意志する」のは「あなたがた」です。これは、「霊」と「肉」のそれぞれが意志しても、どちらの側も妨げられるという意味でしょうか? あるいは「霊」が「肉」によって妨げられるのでしょうか? 意志する主体である「わたし」は、ここでは「霊」とも「肉」とも同じではありません。とすれば、「霊のわたし」と「肉のわたし」と、そのどちらでもない「わたし」の3人の「わたし」がここに姿を現わします。この「どちらでもない」3人目の「わたし」は、「霊のわたし」とも「肉のわたし」とも関わり合う「わたし」です。だから「わたし」という存在は、「霊のわたし」と「肉のわたし」とこれらと関わり合う「わたし」の3人の「関わり合い」の中に存在していることになります。この関わり合いの中で、「意志する」ことが行なわれているのです。7節ではこれ以上に深い分析が行なわれていませんが、次の18節では、この「意志する」が「御霊に導かれる」ことへつながります。
  なお、この節を解釈するに際して、こういう言わば「どっちつかずの」視点ではなく、人間が主体的に「霊」と「肉」との両方の可能性を「自分で選び取る」ことができるという解釈もあります。この場合、人間の意志は、主体的に「選び取る自由」を持つことになります。人間は、自らの主体と決断による「選ぶ自由」を持つのです。宗教改革の頃に、「自由意志」に基づく人間観として、オランダのアルミニウスがこのような見方を唱えました。それでこの解釈は、「アルミニウス主義」と呼ばれています。一方で、ルターは、人間の意志は、御霊の導きに従うことさえできないほどに原罪に深く染まっていると考えました。したがってルターによれば、人間は、その意志さえも罪の奴隷にされているのです。これがルターの言う「奴隷意志」です。アルミニウス主義の「自由意志」とルターの「奴隷意志」とが、このように対照されています。
18【導かれる】受動形に注意してください。「導かれる」には、いろいろな段階があります。ですから御霊に導かれていくうちに、異言を語ったり預言が与えられたり、ヴィジョンを見たり、さらにはエクスタシー(恍惚状態)へ導き入れられることにもなります。パウロの御霊の働きを知る上で重要な意味を持つ用語だと言えましょう。
【律法の下に】3章23節では、イスラエルの民は、律法の下で「監視され」「縛られて」いました。しかしこれを律法によって「保護されて」いたと解釈することもできます。パウロによれば、キリストが到来するまでは、イスラエルは言わば「未成年」でしたから、少年院で「保護監察」される身分であったことになります。未成年は、保護されると同時に監視され束縛されるのです。18節で言う「律法」は、おそらくパウロに反対するユダヤ人キリスト教徒たちの言う「律法」のことでしょう。御霊に「導かれる」なら、律法から自由なのです。ただし、ここで語られている「御霊の導き」と「律法」との関係は、単純ではありません。律法は神の約束(御霊の賜)に反するものでは決してないからです(3章21節)。
19ここから「悪徳と徳目(美徳)のカタログ」に入ります。ここで語られている悪徳も徳目も大筋においては、パウロの時代のヘレニズム世界に通じるものです。したがって、このカタログも、またそこにあげられている項目も、必ずしもキリスト教独自のものではありません。パウロが、徳目について、「これらに反対する律法はありません。」(5章23節)と言っているのも、これが広い範囲に適用できるからです。ただし、パウロは、ヘレニズム世界一般のものを下敷きにしているのではなく、原初教会で教えられていた悪徳と美徳に基づいています。ここには、ヘレニズム化したユダヤ教、特に聖書の知恵文学の影響があります。留意しなければならないのは、ここでの悪徳と徳目が、とりわけ律法のもとではなく、「キリストの御霊に導かれて」歩む人たちに向けられていることです。この点に注意して、これらの項目を読む必要があります。パウロは、キリスト教会で一般に行なわれていた悪徳と美徳の分類に準じていると言いましたが、逆に言えば、個々の悪徳や美徳の内容が、「この分類によって」理解されているとも言えます。だから例えば、「不潔」という言葉は、性的な意味以外にも広い内容を指していますが、ここでは、性的な意味に限定されて理解されています。一般に、悪徳の最初の三つは性的なことに関するもの、次のふたつは偶像礼拝と迷信に関するもの、次の七つは党派的な不和と争いに関するもの、最後のふたつは酒に関するものとして分類されます。要約すれば、「不倫と偶像礼拝と敵意と酒」です。なおパウロの悪徳のカタログは、ローマ人への手紙1章29~31節と第一コリント人への手紙6章9~10節にも出ています。
肉の働きは明らか「明らか」とあるのは、「隠れていたものが明るみに出る」という意味です(第一コリント3章13節)。パウロはすぐ前で、「律法のもとにはいない」と言って、「律法」と「悪徳」とを切り離しています。「律法のもとにいる」場合には、これらの悪徳は、「律法違反」として直ちに処罰されます。ところが「律法の下にいない」場合には、罪は律法違反としては出てこないのです。だから宗教的な律法によって悪徳が処罰されることはありません。おそらくパウロに批判的なユダヤ人キリスト教徒たちは、この点でもパウロの律法観を批判したのだと思います。
   ところが、キリストの御霊のもとにある者には、たとえ律法違反の罪で処罰されなくても、それらの罪が「明るみに出る」のです。御霊は「心の闇」を照らすからです(エフェソ5章11~14節)。その結果、自分の内に隠された罪が露わになります。こうして、御霊に導かれる場合には、罪が罪として「心に自覚される」のです。このために御霊の喜びが失われ、平安がなくなり、イエス様のみ顔を見失うことになります。「御霊を悲しませる」と言うのは、こういう事態です(エフェソ4章30~31節)。
  この場合の御霊の働きを吟味すると、まず、なにが「肉の働き」なのか? これを見わける必要があります。その上で、それらの肉の働きを「悪徳」として、これを忌避する心が湧いてくる必要があります。言い換えると、罪を罪として認める。悪徳を悪徳として自覚する。これが御霊の最初の働きなのです。だから、パウロの言う「御霊の働き」は、たとえ律法の下にいなくても、「殺すな」「盗むな」「姦淫するな」のようなモーセ律法と同様の価値基準をその働きの中に含んでいなければなりません。たとえ律法違反による処罰を伴わなくても、旧約聖書の律法に匹敵する価値観があって、初めて善悪を見わけることができるからです。この19節以下の御霊の働きとそこから生じる悪徳意識と美徳意識は、このようにして「律法の働きを通じて罪を自覚する」ローマ人への手紙7章7~12節と密接に関連しています。
   「肉の働き」とあるのは、言い換えると、あるがままの「人間的な行為」のことです。クムラン宗団のように明確な二元論の世界では、神の霊と悪の霊とが闘いますから、これらの悪徳が、「悪霊の仕業」だと見なされる傾向がありました。しかしパウロは、悪徳を直ちに悪霊の仕業とは見ずに、「肉の働き」として、すなわちあるがままの人間の性質に巣くうものと見なしています。「主の御霊に導かれる者たち」は、人間の罪や欠陥をしばしば「悪霊的」だと見なす傾向がありますから、「肉の働き」を直ちに「悪霊の仕業」だと誤解しないように、この点はよくよく注意しなければなりません。わたし自身は、「悪霊」を狭い意味に限定して、人の人格全体をあやつる深く恐ろしい悪魔的な存在と見ています。あるいは国や民全体を覆う恐ろしい闇の支配力として理解しています。
【不倫】「不倫、不潔、ふしだら」の三つの悪徳は、パウロの第二コリント人への手紙12章20節でも同じ組み合わせで出ています。「不倫」の原語は「ポルネイア」で、現在の「ポルノ」の語源です。モーセの十戒で禁じられている「姦淫」の罪が、この悪徳の背後にあるのは間違いありません。旧約では、「姦淫」は、夫、妻ともに死罪に当たります。これは特に家系を重んじたからでしょう。パウロの場合、律法違反の罪として死罪になることはありませんが、不倫(姦淫)が重い罪として扱われているのは変わりません。しかしもここでは、既婚者同士の「姦淫」だけでなく、独身者の「淫行」も同じ「ポルネイア」に含められているのかもしれません(第一コリント7章1~4節)。また父の妻と関係すること(第一コリント5章1節)、兄弟でひとりの女性と関係することなども含まれています(レビ記18章を参照)。ちなみにイギリスでは、ここでのパウロの戒めの影響でしょうか、17世紀頃まで、兄が亡くなった場合に、弟が兄嫁と結婚する場合も近親相姦と見なされました。
【不潔】「不潔」は、「浄い」の反対です。旧約では、儀礼的な意味で言う「不浄」は、レビ記11章~15章に出ています。そこでの「不浄」には、豚などの動物、重い皮膚病などの病気や身体的に障害のある人たち、生理の後の女性、性交に関わるもの、人の死に関わるもの、動物では、傷のあるものなどが、神の前に「不浄なもの」と見なされました。「不浄」が比喩的に理解されると倫理的な意味を帯びてきます。イスラエル周辺の民の異教の神々に関わること、また性的に「忌まわしい」こと、近親相姦、同性愛などです(レビ記18章6~23節)。逆に「聖なる行為」については、レビ記19章にあげられています。時代が降って、クムラン宗団では、無割礼の者、神の言葉に従わない者、神の御名を「汚す」行為、エルサレム神殿の聖所を「汚す」こと、その他「汚し事」を口にすることが「不浄」とされています。新約聖書では、使徒教令で「血と絞め殺した動物の肉」を禁じていますが(使徒言行録15章29節)、それ以外には、儀礼的あるいは祭儀的な意味で言う「不浄」はほとんどありません(マルコ7章18~22節/使徒言行録10章15節)。ですから「不潔」は、主に倫理的な意味に限られていて、特に「不倫」と対になって出て来ます。性的な意味では、例えば娼婦と関係すること(第一コリント6章16節)などです。キリスト者の「からだ」は、キリストの御霊の住む神殿ですから、これを「聖なるもの」として「きよく」保つことが大切なのです(第一コリント6章19節)。このことから、神の定めた秩序に反することとして同性愛も「不潔」と見なされました(ローマ1章24節)。「不潔」がそのほか具体的にどのような行為を指すのかはっきりしませんが、パウロでは、神に受け容れられないこと(第一コリント7章14節)、行為の動機が不純なこと(第一テサロニケ2章3節)など、かなり内面的な有り様に関わってきます。このように「不潔」は、同性愛などヘレニズム時代の性的なモラルとも関連していますが、旧約聖書の倫理的な「汚れ」が、新約の「不潔」の背後にあるのは確かです。特にパウロ系の文書で、「不潔」が警告されています(第二コリント12章12節/エフェソ5章3節/コロサイ3章5節)。ただし、「不潔」は「汚れた」霊としても出て来ますが、この場合は、性的な意味ではなく、さらに広い意味を帯びています(マタイ10章1節/マルコ1章23節)。
【ふしだら】「ふしだら」は、「好色」「放縦」「みだら」などと訳されています。要するに神から離れ情欲に走ることで、「不倫」よりは広い範囲を指しています(エフェソ4章19節)。ここと同じ性的な意味での「ふしだら」は、ローマ人への手紙13章13節や第二コリント人への手紙12章21節にもあります。しかし「お金にふしだら」という言い方があるように、ほんらいこの言葉は、性的な意味以外にも用いられます。なお第二ペトロの手紙2章2節やユダの手紙4節では、この言葉は、性的な儀式を伴う異端的なカルト宗団を指しているのでしょう。
20偶像礼拝旧約聖書(ギリシア語七十人訳)には「偶像」は出て来ますが、「偶像礼拝」は出て来ません。「偶像」とはほんらい「存在しない偽りの神」という意味です。ギリシアを始め、ヘレニズム世界にも、またユダヤ教にも「偶像礼拝(者)」という言葉は出て来ません。しかしこの言葉は、ユダヤ教から生じたと考えられています。ユダヤ教では、聖書に基づくユダヤ教だけが、「真の礼拝」(ローマ9章4節)を行なっているという考えから、それ以外の異教の礼拝を「偶像礼拝」と呼び、これを行なう者を「偶像礼拝者」と呼んでいましたから、ユダヤ教の律法では、偶像に捧げたものを食べることも買うことも禁じられました。「偶像礼拝(者)」は、新約聖書では、特にパウロ系文書(第一コリント5章11節/同6章9節/同10章7節と14節/ガラテヤ5章20節/コロサイ3章5節/エフェソ5章5節)、これらと第一ペトロの手紙4章3節とヨハネ黙示録(21章8節/22章15節)に出て来ます。なおヨハネ福音書4章21~24節も参照してください。パウロは偶像に捧げた肉類は、愛と良心に照らしてこれを食する自由を認めていますが、偶像礼拝に参与することは禁じています(第一コリント10章14節以下)。また、コロサイ人への手紙では、偶像礼拝が、「貪欲は偶像礼拝にほかならない」とあって、偶像礼拝が金銭(マモン)礼拝と結びつけられています(3章5節)。パウロは、旧約聖書の「偶像」を「存在しない神」として、モーセ律法の偶像禁止の本質的な意味を受け継ぎつつ、これをヘレニズム世界へと拡大させているのです。
【魔術】ここで言う「魔術」は、ほんらいは医療(主として薬草・薬剤)や医術に関するものでした。旧約では、「呪(まじな)い/魔術」が禁じられていますが、実際は、民間でかなり一般的に行なわれていたようです(サムエル記上28章)。「魔術師」は、出エジプト記(7章)で、モーセに対抗する魔術師として出て来ます。また知恵の書の12章4節と18章13節では、「神に頼らない者」が頼りにする「呪(まじな)い/魔術」として表われます。新約では、この節とヨハネ黙示録(9章21節/18章28節/21章8節/22章15節)に出て来るだけです。パウロは、第一伝道旅行の時に、キプロス島のサラミスで、魔術師で偽預言者のバルイエスというユダヤ人と魔術師エリマと出会い、聖霊の働きによって、エリマの目を見えなくしました(使徒言行録13章6節以下)。また、第二回伝道旅行では、エフェソで福音を語った結果、大勢の人が信仰に入り、魔術を行なっていた者たちが、その書物を焼いたとあります(使徒言行録19章19節)。
敵意「敵意」は、敵対する者への憎しみとして、洋の東西を問わず好ましいことではありません。けれども「敵意」が悪徳の中に加えられるのはまれです。新約では、イエス様が、「敵を愛しなさい」(マタイ5章44節)と言っていますが、ここで言う「敵意」は、「イエス様の愛」と反対の意味がこめられています(ローマ12章20節)。いわゆる友達同士の「仲良し」の反対とは意味がやや異なっています。だから「敵意」は、後の美徳のカタログの最初に出てくる「愛」の反対です。「敵意」も「愛」も、ほかの項目と並ぶものではなく、敵意はこれに続く悪徳のもととなり、愛も同様にこれに続く美徳の基礎となります。パウロはここで、ガラテヤの人たちに、特にガラテヤの信徒たちの間で生じている「敵意」や「争い」、さらにはパウロ自身に対する「敵意」のことをも指しているのでしょう(4章16節)。
   ただし、「敵意」と関連する「敵対者」という言葉は、個々の人間同士の敵意よりもさらに広い意味になります。旧約聖書では、「敵/敵対者」とは、ダビデとサウルのように個人的(?)な場合もありますが、主としてイスラエル民族の敵を意味します。しかし、イスラエルの民は「神の民」ですから、イスラエルの敵は「神の敵」ともなります。ところが、イスラエルの民が、偶像を拝むことによって神に背いた時には、逆に神がイスラエルの「敵」にまわることになります。この場合に「敵」とは、背教のイスラエルに対する神からの罰であり、それが具体的な「敵」となって表われる場合もあります(エレミヤ21章7節/同34章20節以下)。また「圧制者」「憎むべき者」も「敵」と同じ意味になります。さらに興味深いのは、詩編に出てくる「敵」です。これについては諸説があって、解釈が別れます。詩編の敵は、「わたし」に「敵対する者」です。ここで言う「わたし」は、単なる私的な存在ではなく、半ば公的な立場に立つ「わたし」のことです。こういう「わたし」への「圧制者/敵対者」(3篇2節/6篇8節他)、「中傷する者」(5篇9節/27篇11節他)、「迫害する者」(7篇2節/31篇16節他)、「邪悪な者」(17篇9節/55篇4節他)、「血を流す者」(55篇24節/59篇3節他)、「欺く者」(43篇1節/59篇6節他)などが敵対者です。
   興味深いのは、民が神に背く時には、神がイスラエルの敵に回ることです。「イスラエルに敵対する」このような神は、パウロが、異邦人の側に立ってイスラエルと「敵対する」お方として描いている神の姿に通じるところがあります(ローマ9章19節~10章4節)。また、詩編に描かれている「敵」は、パウロが、自分の伝えている「福音の真理」に敵対する者たちを語る言葉そのままではないでしょうか。
新約では、「敵対者」は、キリスト者と教会の「敵」を指します(第一コリント15章25節)。さらに神に敵対する「悪魔」の意味にもなります(使徒言行録13章10節)。キリストは、これらいっさいの「敵意」と「敵対者」を最終的に滅ぼすために来られたのです(ルカ10章19節/ローマ5章10節/第一コリント15章26節/エフェソ2章14節)。このように見てくると、パウロがここで言う「敵意」は、旧約聖書に出てくる「敵」の伝統に基づいていると言えましょう。
   イエス様は敵をも愛するように教えました。パウロも罪の赦しの愛によって人に接するように教えています。ところがそのイエス様でも、時には学者やファリサイ派に対して厳しい批判を向けています。パウロも同様なのは、今見てきたとおりです。人を赦し愛することは、大事な御霊の働きです。ところがその御霊が、時には、厳しい批判を向ける場合があるのです。これが御霊の働きの深く難しいところです。
【競い争い】「競い争い」と「嫉妬の情念」は、パウロでは対になって出て来ます(ローマ13章13節/第一コリント3章3節/第二コリント12章20節)。「競い争い」のギリシア語「エリス」は、単数と複数のふたとおりの写本がありますが、それほど違いはありません。七十人訳では娼婦が男の「欲情をそそる」という悪い意味にも用いられました(エゼキエル23章5節、12節)。しかしこのような意味合いは、新約では失われて、パウロは「競い争い」の意味で用いています。この語は、神と「競い争う」人間の反抗的な罪を意味するだけでなく(ローマ2章8節)、同時に人間同士が「競い争う」ことによって、党派的になることをも指します(第二コリント12章20節)。ガラテヤ人への手紙でも、パウロの説く福音の真理に従わず、反抗的になり分裂させようとする人たちを指しているのかもしれません。フィリピ1章17節では、「自分の利益を求めて」(これは「党派心から」〔岩波訳〕という意味)キリストを伝えようとする人がいて、獄中のパウロを苦しめています。だからパウロは、「競い争い」ではなく「へりくだって、人を立てる」ように勧めています(フィリピ2章3節)。
【嫉妬の情念】これの原語「ゼーロス」は、ほんらい「熱意」の意味です(ヨハネ2章17節/第二コリント9章2節/フィリピ3章6節)。旧約(七十人訳)でも「熱意」を意味し、ヤハウェは「熱情の神」(出エジプト20章節)として語られます。しかしこの「熱情」は、ほかの神々と「競い争う」ので、イスラエルの民が偶像を拝む場合には、ほかの神に対するヤハウェの「嫉妬する熱情」ともなります(申命記29章19節/エゼキエル16章38節/ヤコブ4章5節)。嫉妬の情念は、しばしば人を誤らせます(民数5章11節以下)。特に知恵文学では、人と競い争って嫉妬する「情念」を警戒するように教えています(箴言17章4節/コヘレトの言葉4章4節)。
パウロの場合も「熱情」は必ずしも悪い意味ではありません。彼も旧約の「嫉妬する神の熱意」を受け継いで、「わたしは、嫉妬するほどの神の熱情を抱いて」信徒たちを想っていると言っています(第二コリント11章2節)。またコリントの信徒たちの彼に対する「熱情」を喜んでもいます(第二コリント7章7節)。しかし、先のフィリピ人への手紙(3章6節)の場合のように、激しい「情念」は、しばしば自己追求のあまり人を毒することがあります。特に、競い争う対象が、事柄や物の場合には、「ねたみ」が生じやすく、また競い争う対象が、たとえば男や女の場合のように、人間になりますと、激しい情念は「嫉妬」になります。このためにガラテヤ人への手紙では、「(嫉妬の)情念」が「競い争い」と結びついて肉の働きとされているのです。
【憤怒】「憤怒(ふんぬ)/激怒/憤り」は激しい怒りを表わし、この言葉は、「情熱/情念」とともに出て来ます。「憤怒」は旧約では神の「激しい怒り」を意味します。新約では「憤怒」(スモイ)は「怒り」(オルゲー)と同じような意味で、パウロも神の「怒りと憤怒」という言い方をしています(ローマ2章8節)。しかし、「怒り」が神からの場合は、「神の怒り」という言い方をすることが多いようです(コロサイ3章6節/ヨハネ黙示録14章10節他)。これに対して、「憤怒」と「怒り」が人間について用いられる場合は、肉の働きとして警戒すべきものとされています(第二コリント12章20節/エフェソ4章31節/コロサイ3章8節)。
利己的な党派心「利己的な党派心」から「ねたみ」までは、教会内での分派や対立と関係しています。パウロは、第三回伝道旅行でエフェソに滞在中にガラテヤ人への手紙を書いています。この頃、ガラテヤだけではなく、コリントの教会においても、派閥的な分派の危険が生じていました(第一コリント1章11節以下)。「利己的な党派心」と訳した「エリセイア」は、先に出て来た「競い争い」と同じ言葉から出ています。ほんらいのギリシア語は、利己的で人を蹴落としてでも自分の仕事を勝ち取るという意味で、軽蔑的な言葉でした。パウロはここで、狭い自分の視野だけにとらわれる利己的な党派心を意味しています。
【派閥争い】この言葉は、こことローマ人への手紙16章17節にだけ出てくる言葉です。これの動詞は「八つ裂きにする」という意味ですから、ここでも「分裂」「分派」と訳すほうがいいかもしれません。キリストの「からだ」である教会を分裂させるのは、主の「からだ」を「八つ裂きにする」ことになるのでしょう。ただし、ここでパウロが用いている意味は、「分裂」とまでは行かないまでも、集会の内部で生じている「仲間割れ」に近い状態を含むと思われます。
【仲間割れ】「仲間割れ」(ギリシア語「ハイレシス」の複数形)は、ファリサイ「派」などの「派閥」のことです(使徒言行録5章17節)。これから「異端」(英語の“heresy”)の派を指す言葉になりました(第二ペトロ2章1節)。旧約聖書では、このギリシア語に当たるヘブライ語は「ネダバー」です。この言葉は「自由な気持ちで/自発的に」行なうことを意味します。旧約では、この言葉は特に「自発的で自由な献げ物」の意味に用いられました(民数記15章3節/レビ記22章18節)。このような献げ物は、社会的に身分の高い人たちが個人的に神への感謝を表わすものです。同時にこの「自由な献げ物」は、ベテルやギルガルや後のエルサレムなど、定められた聖所以外の場所で献げる「随意の」献げ物の意味にもなりました。したがって、旧約については、この言葉に悪い意味はないようです。
   ヘレニズム世界では「ハイレシス」は、ほんらいは「選ぶ/選択する」の意味です。特に自由な学派とその集まりを意味しました。このことから意味が転じて、権威主義的で勝手な教師、自称自薦のもぐりの教師、個人的/私的な学派の意味にもなります。ユダヤ教ではファリサイ派やサドカイ派を表わし、ヨセフスはこのギリシア語をエッセネ派にあてはめています。この言葉が、ユダヤ教の正統派に反対するグループ、例えばグノーシス的な派を指す場合には、悪い意味になります。
   新約聖書の「ハイレシス」は、ヘレニズム世界とユダヤ教の用法とほぼ同じですが、原初キリスト教の内部では、まだ「分派」や「異端」を特定することはできません。福音の「正統派」が固まるに従って、ほかのセクトを「分派」と呼んだようです。したがって「異端」の概念は、「教会」(エクレーシア)の概念の発達と呼応しています。パウロの場合、彼に反対するユダヤ人たちから、パウロは「異端の分派」を作っていると訴えられています(使徒言行録24章14節)。これは言うまでもなく、正統ユダヤ教の立場から、彼を異端者と見たからです。しかし、キリスト教の内部では、このような「異端」はまだはっきりしていません。ただしコリントの教会の場合は複雑です。第一コリント人への手紙1章10節でパウロは、「あなたがたの間に<分派>がないように」と言っていますが、ここでは「分派」(ギリシア語「スキスマタ」)という言葉が用いられています。「ケファ派」「パウロ派」「アポロ派」のような分裂があってはならないと言うのです。さらに第一コリント人への手紙11章18節には「あなたがたの間に<分派>が生じている(その危険性がある)」とあります。これは聖餐の解釈をめぐって、かなり深刻な対立があったことをうかがわせます。ただしパウロは、これに続けて、聖餐について正しい意見が形成されるためには、ある程度の「仲間割れ」はやむを得ないとして、ここで「ハイレシス」を用いています。これは、まだ「異端」という段階ではなく、せいぜい「仲間割れ」という程度の意味で使われているようです(第一コリント11章19節)。だからコリントの集会は、単なる「仲間割れ」と「分裂/分派」との間で揺れていたことになります。コリントの教会では、聖餐に対して異なった見方があり、意見が分かれて聖餐を共にすることができない状態にあったから、パウロは「分裂/分派」状態になるのを心配して、ひとつにまとまるように勧めているのです。ガラテヤでも、「割礼」をめぐって、同じ危険があったのでしょうか。
21ねたみ】「ねたみ/嫉妬」は、祭司長たちがイエス様をローマに引き渡した動機のひとつです(マルコ15章10節)。パウロはここと5章26節/ローマ1章29節/フィリピ1章15節でこの語を用いています。この言葉は、ギリシア・ラテンだけでなく欧米では魔女の呪いを表わす場合にも用いられ、日本語の「ねたみ」よりも意味が強く、「悪意とねたみ」として出て来ます(テトス3章3節)。なお「ねたみ」の次に「殺意」を入れる写本がありますが、これはおそらくローマ人への手紙1章29節に基づく後からの挿入と思われます。
【泥酔、酒宴「泥酔」は、酒で「酩酊する」ことです。しかしヘレニズム時代には、この言葉は、霊的な意味で恍惚状態になることをも意味していて、必ずしも悪い意味ではありません。しかし新約では、「酒に酔う」ことが、「御霊に酔う」ことと比較対照されて警告されています(第一テモテ3章3節/テトス1章7節/同2章3節)。パウロは、ここのように、「泥酔」と「酒宴」を組み合わせて出しています(ローマ13章13節/第一ペトロ4章3節)。ここで言う「酒宴」はたんなる宴会のことではなく、「浮かれ騒ぎ」「らんちき騒ぎ」を意味していて、しばしばみだらな行為を伴いました。酒宴(コーモイ)は、ヨーロッパでは、ローマの酒神(バッカス)とも関係しています。バッカスは、ギリシアでは酒と熱狂の神ディオニューソスと呼ばれて、熱狂的な祭りの神として有名です。ディオニューソスに取り憑かれた女性たちが、狂乱状態で、髪を振り乱して踊り狂ったりしました。おそらくパウロは、こういうヘレニズムの文化的宗教的な背景をも考えているのでしょう。
先に告げたように、ここで予告する】これは「以前述べたことを今もまた繰り返して予告する」という不思議な言い方です。終末的なことがらや生き方について、予告したり警告したりする言い方ですが、パウロは、ここと同じような言い方をほかでも用いています(ガラテヤ1章9節/第二コリント13章2節/第一テサロニケ4章6節)。ここでの「予告」の内容は悪徳への警告ですが、これらは「御霊に導かれる」状態においてすでに与えられていたことであると同時に、これからもまた与えられ続けていくことだからでしょう。神の国を受け継ぐ・・・「神の国」も「仕業に及ぶ」も、これらはパウロ独自の用語ではありません。「受け継ぐ」は先に出て来た「相続する」と同じ言葉です。しかしここでは、最終的に神の国へ「入る」という終末的な意味をも帯びています。先に見たように、「相続」はアブラハムへの祝福を「受け継ぐ」ことであり、これはキリストの御霊を指しています。
   以上をまとめると、パウロの悪徳のカタログは、モーセ律法を中心とする旧約聖書の信仰とその教えを基準としながらも、これにユダヤ教とヘレニズム世界の価値観を採り入れることによって、「キリストの御霊にある」戒めとしているのが分かります。例えば、「偶像礼拝」のように、ヘレニズム世界では問題とならなかったものがあります。また「不倫」や「魔術」のように、旧約聖書から受け継がれた悪徳もあります。しかし、「敵意」や「ねたみ」のように、旧約聖書にもヘレニズム世界にもないものも、悪徳に加えられているのが分かります。これらの多くは内面化された「心の中の罪」であって、それらは、旧約時代では、律法違反の罪に問われることがなかったものです。このように旧約では問題とされなかったことが、キリストの御霊にあって内面化され、「悪徳」として浮上しています。したがって、パウロの言う「律法の下にいない」状態とは、律法が存在しない無法な状態を言うのではなく、むしろ逆に、内面化されていっそう「厳しく」その悪徳が心に意識されて「明らかにされる」ことになります。この意味で、旧約の律法に代わるキリストの霊法の働きが、ここで語られていると言えます。
   例えば、「嫉妬」が悪であることは、洋の東西を問わず広く認められていますが、それが悪のカタログに入ることは、旧約聖書の律法のもとではなかったことであり、ヘレニズム世界でも刑罰の対象にはならなかったでしょう。ではパウロは、ここで一般の常識的な意味で「嫉妬」を悪としているのかと言えば、決してそうではありません。彼は、「キリストの御霊にある者」には、「これらのこと」が「明るみに出る」と言っています。したがって、御霊の働きのもとでは、「嫉妬」が、旧約聖書よりもヘレニズム世界よりもさらに先鋭化されて、心に意識されるのです。性的な逸脱と言い、他宗教とのけじめのなさと言い、分派や分裂と言い、酒食に耽ける傾向と言い、ここには、御霊の体験に身を委ねた人が陥りやすい誤りが的確に提示されています。
22悪徳に続いて九つの美徳があげられますが、これらは一般に三つずつ組み合わされていると見られています。最初の三つは、人の心に神から注がれるもの、次は対人関係において現われるもの、終わりは御霊が正しく働くために必要なもの、一応このように分類することができましょうか。ただし、これらの美徳は、必ずしもそのままで、ヘレニズム世界一般に通用するものではありません。また旧約聖書でも、これらすべてが、美徳であると認められていたわけではありません。徳目のカタログは、ここ以外に、第二コリント人への手紙6章6節とフィリピ人への手紙4章8節とにあります。また、パウロ系の文書では、コロサイ人への手紙3章12節/第一テモテへの手紙6章11節/テトス2章2節にもあります。
【御霊の実】「実を結ぶ」ことについては、イエス様が「善い実と悪い実」(マタイ7章17節)や神の言葉が結ぶ実(マタイ13章23節)について語っています。パウロでは特にガラテヤ人への手紙6章8~9節を参照してください。
【愛】「愛」のギリシア語は「アガペー」です。しかしこの語の名詞形はまれで、ギリシア語の「アガペー」は、ほんらい目上の人からの意図的な好意として、選びによる愛を意味しました。ギリシア語ではこの語のほかに、異性を含む美しいもの、気高いものを愛する言葉で「エロース」があり、親しみや友情などを表わす「フィロス」があります。旧約聖書では、「愛」は、男女や夫婦の間に働く性愛として表わされ、これの最も強い表現が雅歌(例えば8章6節)にあります。また友情ではダビデとヨナタンとの愛が有名です(サムエル記上18章1節)。宗教的な意味では、イスラエル共同体の間に命じられている「隣人愛」があります(レビ記19章18節)。さらに父としての神の愛(箴言3章12節)があり、神がイスラエルへ向ける深い愛と憐れみがあり(ホセア書2章21節)、そこでは、神とイスラエルの間の愛が、夫と妻の愛として語られています。宗教的な意味で最も大切なのは、神を愛する心です。これは申命記10章12~13節で語られます。契約関係に基づく神とイスラエルの間の愛は、律法への愛ともなります。特に「律法」は、上辺だけでなく、民の「心に記(しる)す」神の律法として啓示されることが預言されています(エレミヤ書31章33節)。さらに、神から授けられる「知恵」を愛する心も大事な「愛」です(シラ書4章12節)。
   敵を憎むのは悪徳であるという考え方は、旧約にもヘレニズム世界にもありませんが、逆に敵を愛する教えも、古代世界には見あたらないようです。ただし、仏教には「捨身飼虎(しゃしんしこ)」という言葉があって、餓死しかけた7匹の虎の子供と母親の虎を助けるために薩埵王子(さったおうじ)が、我が身を虎に投げ与えたという話しがあって、これを描いた絵が古くからあります。しかし、これでさえもイエス様の言う「愛敵」ではありません。新約時代に近い頃のユダヤ教では、ヘレニズム世界の影響を受けて、異邦人をも含む広い人間愛や「自分にしてほしいと思うとおりに人にもしなさい」という黄金律に基づく隣人への愛が説かれました。しかし、イエス様は、このような愛のあり方に新しい時代をもたらしたと言えます。イエス様も旧約の隣人愛と神への愛を受け継いでいます(マタイ22章37~39節)。しかし同時に、「敵に対する愛」や「罪人への愛」を教えたのです。これは、人間から出た愛ではなく、神によって「創造される愛」であり、「赦しの愛」です(マタイ5章43~48節)。
パウロの愛もこのようなイエス様の愛に基づいています。彼にとって愛とは、なによりもまず、十字架のキリストから注がれる愛でした(ローマ8章31~39節)。この愛は、彼の内で信仰と結びついて、「愛となって現実に働く信仰」(ガラテヤ5章6節)となります。パウロにとって、この「キリストにある愛」こそが、永遠に残るものであり、なによりも大事なキリスト者の命なのです(第一コリント13章13節)。しかしこのレベルは、非常に高いです。はっきり言って人間には無理です。パウロの言う「肉」のレベルでは絶対にできません。これはどうしても「霊」の世界で生じることでなければ起こりえません。
   「肉」と「霊」との関係は、単に領域の違いとして理解しているだけでは、十分ではありません。なぜなら「肉」と「霊」の領域の違いは、時間的な「とき」とも関係しているからです。「肉」の領域は古い世界であり、「霊」の領域は新しい世界だからです。しかも領域と時、このふたつが重なり合いながら人間の歴史を構成しています。「敵意」が消滅するとすれば、それは「時間」と関係します。「時は医者である」というギリシアの諺がありますが、「憎しみ」が「愛」に変容するためには、「とき」がどうしても必要です。と言うよりも、憎しみが発生した「とき」とは、全く異なる「とき」が生まれてくる必要があります。聖書的に言うと「古い時に死んで新しい時に生きる」ことです。聖書ではこれを「終末的に生きる」と言います。
   イエス様が「敵を愛する」ことを教えられた背景には、「神の御国が到来した」という差し迫った終末の意識があったからだと思われます。だからこそ、聴く人たちもイエス様の教えに耳を傾けたのでしょう。古い時に「死ぬ」というのは、仏教で言う「諦め」ではありません。「諦め」から来る諦観ではなく、「古い時」(聖書ではこれを「この世」と言います)とは全く異なる次元から、この古い時へと関わっていく。新しい時(世)が、古い時へ「働きかけて」いくのです。これが「創造の働き」であり、神のみ業(わざ)なのです。だから「愛敵」は神のみ業です。人が自分でやろうとしてもできることではありません。創造する神の御霊だけができることだからです。
喜び旧約聖書にもヘレニズム世界にも共通の「喜び」があります。それらは、結婚の喜びであり(エレミヤ25章10節)、収穫の喜びであり(イザヤ9篇2節)、祭りの喜びです(申命記16章13節)。しかし旧約聖書には、このほかに特に神による「救いの喜び」があります(詩編5編12節/同16篇8~9節)。注意しなければならないのは、この喜びが、「終末の救い」の喜びを待ち望むことです(詩編14篇7節)。それは特に、メシアの到来を期待する喜びとなります(ゼカリア9章9節)。イエス様がエルサレムへ入城した時の人々の喜びがこれです(マタイ21章5節)。また「知恵」を与えられた喜び(知恵の書8章2節)や「律法の喜び」もあります(詩編119篇16節)。新約時代前後のユダヤ教では、哲学者のフィロンが、神に向かう「恍惚の喜び」について語っています。
   イエス様の喜びの最大の特徴は、「聖霊にある喜び」です(ルカ10章21節)。使徒たちもこの喜びに与っていて(使徒言行録13章52節)、パウロも聖霊にある「神の国」の喜びを語っています(ローマ14章17節)。そのほかに「伝道の喜び」があり(第一テサロニケ1章6節)、信徒との「交わりの喜び」があり(フィリピ1章25節)、パウロは、牢獄で死を覚悟する時にも「苦難にある喜び」を語っています(フィリピ2章17節)。
平安】古代から「平安/平和」(ギリシア語で「エイレーネー」)は、「戦争状態」や「騒乱状態」と反対の意味で用いられました。旧約聖書でも「平和/平安」(ヘブライ語で「シャローム」)は、基本的にこの意味で用いられています(ゼカリア書6章13節)。「平和」は特に神との「平和の契約」と結びついています(エゼキエル書34章25節)。だから神は「平和の主」なのです(士師記6章24節)。このように、この言葉は、「心の安心」を意味するよりも、人と人、民と民、国と国、人と自然との間の平和な関係を表わす場合が多いようです。しかし、預言者たちの時代には、平和が失われるのは、民の心に宿る罪の結果と見なされるようになりました。このために、「平和」を社会的・政治的な意味でしか理解しない預言者たちは、「偽預言者」として厳しく批判されました。また捕囚の前後からは、「平和」は終末的な意味を帯びるようになります(イザヤ2章1~5節)。さらに、新約の時代に近い七十人訳の頃には(紀元前3世紀頃から)、「シャローム/エイレーネー」は、個人の健康や日常の安否をも意味するようになりました(箴言3章17節)。
   新約聖書も旧約の「平和」を受け継いでいます(ルカ1章14節)。イエス様は、「平和」とは「造り出す」ものであると教えました(マタイ5章9節)。しかし福音書によれば、「平和/平安」は、復活したキリストの御霊によってもたらされるのです(ヨハネ20章19~23節)。この言葉はまた、パウロ書簡のように、「恵みと平和/平安」として、手紙の冒頭に挨拶として用いられています。ただし、パウロの「平和」には、「神との和解」の意味がこめられているのを見落とすことができません(ローマ5章1節)。彼にとって「平和/平安」は、「肉の思い」と対照される「霊の思い」として、大事な意味を持つのです(ローマ8章6節)。このような「平和」は、人間の霊魂を支配する「心の平安」に近い意味としても理解することができます(コロサイ3章15節を参照)。パウロでは、「平和」は聖霊と切り離すことができません(ローマ14章17節)。ローマ人への手紙14章17節の「聖霊にある平和」は、神の国の完成を目指すものですが、同時に社会と共同体の平和を「造り出す」力ともなります。このような「平和」は、何よりもひとりひとりの内面から湧き上がるものですから、「心の平安」なしには成り立たないのです。「愛と喜び」という内面から出る霊的な働きと共に「平安/平和」が出ているのはこのためです。
【寛容】「寛容」(ギリシア語で「マクロスミア」)は「広やかな心」「我慢強い心」のことです。ヘレニズム世界では運命を「忍耐して受け容れる」こと、あるいは「諦め」を意味していました。しかし旧約聖書では、「寛容」(ヘブライ語の「アプ/エレク」)は深い内容を帯びています。主なる神は、「憐れみ深く忍耐強い」のです(出エジプト34章6節)。この言い方は、聖書の神の特質を言い表わす言葉として、旧約聖書から新約聖書へ、さらにキリスト教会に受け継がれています。「寛容」は知恵文学によく用いられて、人間の弱さやはかなさに対する神の憐れみを表わします(シラ書18章11節)。神の憐れみと忍耐を最もよく表わしているのが知恵の書11章23~26節です。しかしここのすぐ後に、「神の懲らしめ」が出てくるのを忘れてはならないでしょう(知恵の書12章2節/シラ書5章4節)。神のこの忍耐は、異邦人に対しても向けられています(ヨナ書4章2節)。このように旧約聖書では、神の「寛容」は常に神の「怒り」と裏表を成して語られています。
   新約聖書では、イエス様は、神の寛容について、罰を降すことや借金の返済を「忍耐する」たとえで語りました(マタイ18章26節)。この言葉は、なかなかとりあげてもらえない訴訟を受け容れて公平な裁判を行なう場合にも用いられます(ルカ18章7節/使徒言行録26章3節)。「寛容」の名詞形は新約聖書に全部で14回出て来ますが、そのうち10回がパウロからです。ただし「忍耐する」(動詞形)は新約聖書で10回のうちパウロは2回です。神の寛容は、決して神の甘やかしでも「見過ごし」でもありません(ローマ2章4節)。異邦人が救われるために、イスラエルに降されるべき「怒り」を神は「寛容」をもって抑えているとパウロは言います(ローマ9章22節)。パウロでは、このように旧約聖書の「怒りと寛容」の神が、異邦人とイスラエルの民のそれぞれに対する神の「憐れみと厳しさ」(ローマ11章22節)として、受け継がれているのです。このような神の特質は、キリストの御霊の働きとして、キリスト者にも受け継がれて、「すべての人に対して忍耐強く接する」心が大切となります(第一テサロニケ5章14節)。
【慈しみ】ほんらいのギリシア語は「価値あること」「尊敬すべきこと」「立派なこと」です。七十人訳では、ヘブライ語の「神の目から善いこと」の意味で用いられています(詩編53篇2節/ローマ3章12節を参照)。これはまた大地の実りのような「善いもの」の意味にもなります(詩編85篇13節)。さらに七十人訳では「神の<慈しみ>のゆえにわたしたちに憐れみを」とあって、このギリシア語が、ヘブライ語の「慈しみ」の意味になります(詩編25篇6節)。なお七十人訳のギリシア語で使われた意味で、この「慈しみ」という言葉は、1世紀のユダヤの哲学者フィロによって美徳に加えられました。新約では、パウロ系の文書にこの言葉が用いられています。「神の<慈しみ/憐れみ>があなたを悔い改めに導く」(ローマ2章4節)、「神の慈しみと厳しさ」(ローマ11章22節)のように、「慈しみ」が、ほとんどイエス・キリストにある神の<恵みと憐れみ>と同じ意味で用いられています(テトス3章4節)。このためにこの言葉は、「寛容」とともにキリスト者の美徳に出て来るのです(第二コリント6章6節/コロサイ3章12節)。ここガラテヤ人への手紙のように、この言葉が人間の美徳を表わす場合には、「思いやり」の意味に近いでのしょう。
【善意】これは七十人訳の造語でしょうか。おそらくヘレニズムのユダヤ教からキリスト教へ伝えられたものです。新約聖書では、ここのほかに3カ所で用いられていて、「善意」は神の光から生じますから(エフェソ5章9節)、クリスチャンの大事な美徳とされています(ローマ15章14節/第二テサロニケ1章11節)。
【誠実】原語は「信仰」と同じギリシア語です。しかしここではキリストに対する信仰とよりは、人間としての「誠実さ/まこと」の意味に近いでしょう。第一コリント人への手紙13章7節の「愛はすべてを信じる」がよくこの美徳を表わしていると言えます。ヘブライ語の「信仰/真実」には、もともと「信頼できる誠実さ」の意味がありますから、ここでは、神の「誠実さ」がこの言葉の背景にあると思われます。「信頼できる」人格を具えるという意味です。
23【柔和】ほんらいのギリシア語は「友好的で穏やかな」ことです。しかし旧約聖書では「柔和/謙虚」は、圧制者に苦しめられる「貧しく謙虚な」人たちを指す言葉にもなります。「神の啓示は柔和な/謙虚な人に降る」(シラ書3章13節)とあるのも、また「主は、謙虚な/柔和な人を支配者につける」(シラ書10章14節)とあるのも、このような意味からです。モーセはだれよりも「柔和な/謙虚な」人でした(民数記12章3節)。新約聖書では、イエス様が「柔和/謙虚」を教えました(マタイ5章3節/詩編37篇11節参照)。パウロは、コリントの集会の人たちに対して、「穏やかに」語ろうか? それとも「厳しく」語ろうか? と両方の姿勢を示唆しています(第一コリント4章21節)。なぜなら、キリストの御霊はほんらい「柔和/謙虚/穏やか」だからです(第二コリント10章1節)。だから彼は、ガラテヤの人たちも同じ御霊の穏やかさで導こうとしています(ガラテヤ6章1節。人に接する時には、「穏やかな柔和を身にまとう」ことが大事だからです(テトス3章2節)。
【節度】「節度/自制心」は古代ギリシアの時代から大切な徳と考えられてきました。ほんらいは「力を持って支配する」ことですが、これが人の内面の「心の王国」について言う場合には、「自分の心を支配する」「自制して節度を失わない」ことを意味します。要するに「過度にならない/行き過ぎない」ことです。こういう考え方は、プラトンやストア派の哲学で大事にされ、フィロンやエッセネ派にも受け継がれて、以後「理性によって欲望を制する」ことは、ルネサンス時代を経て、ヨーロッパ世界の倫理の大事な美徳になりました。もっともこれは西洋だけでなく東洋でも同じですが。
ところが、この「節度」は、旧約聖書にはほとんど出て来ません(創世記43章31節参照)。したがってパウロは、「節度」をヘレニズムの美徳から学んだと言えます。しかも彼は、この美徳を最後に置いていますが、これは最も小さい徳だからではなく、逆に最初の「愛」に次いでこれが重要だと考えたからです。欲望や情念を抑える「節度」の心なしには、ほかの美徳が成立しないからです。パウロは男と女の正常な性関係でさえも「節度」をもつようにと言います(第一コリント7章9節)。しかしこれは、決して禁欲それ自体を目的とするからではありません。そうではなく、「わたしたちは、朽ちない冠を得るために節制する/自制する」(第一コリント9章25節)とあるように、それは「救いを達成する」ためなのです。ここがヘレニズム世界の人たちの「節度」と違うところです。彼は「正義と節度」を大事な徳としてヘレニズムの人たちに説きました(使徒言行録9章25節)。「節度」は、対人関係だけでなく(テトス1章8節)、御霊の働く際に、「霊的な知識」を得るためにもとても大切です(第二ペトロ1章6節)。
【これらに反対する律法はない】「律法」とはモーセ律法を中心とする旧約聖書の律法全体を中心に考えられていますが、それだけでなく、ヘレニズム世界の様々な「掟」や「法律」や宗教的な「戒律」も含んでいます。御霊の結ぶ善い実は、どんなところでも通用することを教えているのです。ただし、「反対する律法はない」と言うのは、ここで語られる美徳を「律法として」守りなさいということではありませんから注意してください。そうではなく、キリストの御霊に導かれるなら、世界のどこにあっても通用する美徳を「律法を意識せずに」自然に身につけることができると言うのです。通常ある行為が「律法に反する」と言いますが、ここでパウロは、「御霊の働きに反する」律法も戒律もないと言っています。判断の基準は、律法ではなく、イエス・キリストの御霊のほうです。どんな律法も戒めもこれに違反することはないと言うのです。
   パウロは悪徳のカタログを性的な乱れによって始めて、終わりに酒に酔ってみだらな行為をすることで終わっています。おそらくこれが、当時のヘレニズムの人たちの(そして現代の日本でも?)注意しなければならない「肉の働き」だったからでしょう。同じように、美徳のカタログも「愛」で始めて「節制」で終わっています。これもヘレニズム世界の人たちにとって、最も受け容れやすい大事な美徳とされていたからだと思います。
   以上のように、悪徳と美徳のカタログは、神の国へ入るためのガイドラインを示していると見ることができます。マタイ福音書(5章~7章)は、「天の御国」に入るのはどのような人なのかをイエス様の教えを通じて鮮明に描き出しています。そのように、パウロは、神の国に入るのはどういう人たちかを具体的な悪徳と美徳をあげることで示しているのです。ただし、マタイのほうは、より行動的で実践的な描き方をしているのに対して、パウロのほうは、具体的と言うよりやや抽象的で、心の内面に及ぶ表現になっています。それはここの項目が、「霊的な有り様として」述べられているからです。だからこれを「キリストの御霊の国」を「受け継ぐ/相続する」ためのガイドラインとして読むことができます。ただし、マタイの山上の教えでもここでのパウロの戒めでも、旧約聖書のモーセ律法の神髄をみごとに受け継ぎながら、これをヘレニズムの世界へと適用しているのに注意してください。パウロは、キリストの教会で一般に行なわれていた伝承から決して逸脱してはいないのです。おそらくこういうカタログは、原初の教会で洗礼を授けるときの教えにさかのぼるのでしょう。したがってここでの悪徳と美徳は、パウロ独自の教えではありません(それぞれの項目自体には多少の入れ替わりがあると思われますが)。しかも洗礼は御霊のバプテスマと一体になって理解されています。終末性を帯びながら悪徳と美徳を教えるこのような語り方は、コロサイ人への手紙3章1~15節にも見ることができます(この書簡はパウロのものではないかもしれませんが)。
24【キリスト・イエスの人たちは】「イエス」がない写本もあります。「キリスト・イエスの人たち」とは「キリスト・イエスに<所属する>人たち」の意味で、「キリスト・イエスにある人たち」(5章6節)、「御霊に導かれる人たち」(5章16節)と内容的に同じです。ローマ人への手紙8章9節を参照してください。この24節は、先の16節を受けています。キリスト者は、キリストに<所属する>ことから、「<わたしたちの主>イエス・キリスト」という言い方が生まれました。
【その肉を十字架につけてしまった】パウロは、「御霊にあって歩みなさい」(16節)と述べてから、御霊の働きに背く悪徳と御霊の実のカタログをあげました。ここで再び、「御霊と肉」との関係に戻って、今度は「肉」の立場から述べるのです。ここは2章19~20節で語られたことに通じています。
   2章19節では、わたしは「十字架につけられてしまった」と受け身の完了形になっていて、そこには洗礼と同時に聖霊体験があることはすでに述べました。2章では、「律法によって死ぬ/殺される」ことで、十字架されてしまって(完了形)からは、その状態がそれ以後も持続しているのです。しかしその持続は、「され続ける」という受け身の継続です。3章1節では「十字架されたままのイエス・キリスト」が目の前に顕現します。ここでもイエス様は、やはり受け身の姿のままで、現在も顕われてくださっています。パウロもガラテヤの信徒たちも、キリストの御霊にあって、受け身の「される」姿にあるのです。ところが5章16節になると、御霊に導かれて「歩みなさい」と命令形に変わります。だからここでは、今までの「られる」形ではなく、自分で「導かれる」ように意図することになります。さらにこの24節で、自分の肉を「十字架につけてしまった」と能動形に変わるのです。
しかも、この事態は、「律法のもとにいない」状態で生じるのです。だから、「導かれて歩みなさい」と言い、「肉を十字架する」と言っても、命じられるままに「律法として受けとめて」、これを守るように意図的に努力することではないのです。そもそも語られている内容をよく考えてみるなら、どちらもほんらい自分の意志や努力ですることではありません。だからこれは、「られる」事態を「意図的にする」という不思議な状態を表わしていることになります。
   御霊に導かれるように勧めてから、パウロは、悪徳と美徳のカタログを提示して、なすべきこと、なすべきでないことを具体的に示しています。24節の能動形は、これの後で出て来ますから、パウロは明らかにこのカタログを意識しています。肉の働きを意図的に避けて、御霊の働きを意図的に選び取ること。これが今求められています。いったいこのような御霊の「受け身の能動形」とは、どのような事態なのでしょう? ここではキリストの御霊は、ちょうど胎児を出産する母親のように、働き続けています。この働きに応じて、胎児のほうも生まれ出ようと努力するのです。すなわち、この御霊の事態とは、「生まれる」ことであり、言い換えるなら、御霊は新しい命を創造する働きを続けているのです。ここで働くのは、神の御霊ご自身であり、その働きに呼応するようにわたしたちのほうも「意図的に」これに合わせるよう求められているのです。「律法のもとにいない」わたしたちには、肉の「欲情や欲望」に脅かされることも、掟を気にする必要もありません。しかし御霊に「られる」世界は、決して消極的な世界ではありません。そこでは「神の創造の営みに参与する」というきわめて積極的な意志が働くからです。こうしてわたしたちの「肉」の領域は、新たな「創造の場」へと変えられて行くのです。
【その衝動と欲望】「その」と訳したのは「肉の」のことです。「衝動」は「欲情/激情/興奮」などと訳されていますが、これは「受難/苦しみ」と同じ言葉です(英語の“passionにも「受難」と「情熱/激情」の両方の意味があります)。この言葉が、ここのように肉の働きとして出てくるのは珍しく、ほかにはローマ人への手紙7章5節に「罪への衝動/欲情」として出てくるだけです。ただし「欲望」のほうは罪への働きとしてしばしば用いられます。「衝動」は「欲望」とともに、先にあげた肉のいろいろな働きを背後から起こさせる積極的な力のことです。
25ここから新しい段落が始まるとする説もあります。しかし、6章1節に「兄弟たちよ」という呼びかけがありますから、25~26節は、5章と6章とのつなぎの部分と考えるほうがいいでしょう。
【御霊に生きるのなら、御霊に準じて歩もう】「御霊に生きる」は、すでにキリスト者に起こっていることです。今現に「生かされている」ことを「しましょう/しようではないか」と勧告するのはおかしいと思うかもしれません。しかしこれが「救われて救いを求め」「御国に入って御国を求め」「キリストを知って知ることを求める」福音の道です。だから「御霊が命の源なら、歩みも御霊に導かれよう」〔改訂英訳聖書〕です。なお「準じる」は、ほんらい軍隊が列を作って「行進する」ことですが、ここでは学派的な用語で、ヘレニズムの哲学では、ある主義や教えの「基準/規範に従って生きる」ことです。パウロはこのことをヘレニズム化したユダヤ教から学んだのでしょう。だから彼の言葉は、ヘレニズムの哲学者の言葉と重なるところがあります。25節は、言わば福音による新しい生き方の基準なのです。
26【うぬぼれに陥る】「うぬぼれ」(ここでは形容詞)は、「見栄を張って」「虚名的」「誇らしげ」と訳すこともできます。この言葉は新約聖書のパウロ書簡に二度出てくるだけですが、フィリピ人への手紙2章3節が、ここでの「うぬぼれ」についての一番いい解説でしょう。「うぬぼれ」と欺瞞は、聖霊体験のある人が陥りやすい罠になるからです。ヘレニズムの哲学でも、「うぬぼれ/虚栄/虚名」が、知的な堕落のもとになると考えられていました。
【互いに挑み合い、ねたみ合う】「挑む」は、挑戦的になり相手を攻撃することです。「ねたむ」は、逆に相手に背を向けることでしょうか。どちらの動詞形もここだけです。御霊に導かれる道を誤ると、その人は他者を攻撃するか、あるいはねたみから相手に背を向けたりするものです。ガラテヤの信徒たちは、律法の問題をめぐって、互いに攻撃し合ったり、律法からの自由を唱える人たちを「ねたんだり」したのでしょうか? 1章7節の「惑わす」の注釈を参照してください。
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