グノーシスとナグ・ハマディ文書群
■グノーシスの複雑さ
 私の論考の目的が、ヨハネ福音書の源流を探ろうとすることにあるのなら、これとグノーシスとの関係について触れないわけにはいかない。ただし、両者の関係を解明することは容易でない。一つには、グノーシス自体が様々な変容と遂げていて、これの概念を明確に描くことが極めて難しいことがある。さらに、周知のとおり、グノーシスは、いわゆる「正統キリスト教」によって厳しい弾圧を受けることで、いわば「異端思想」の代名詞とされていることがある。当然のことながら、神学的にどのような立場をとるかによって、グノーシスに対する見方も大きく分かれてくる。こういうわけで、「聖霊運動」、「熱狂主義」、「フェミニズム」、「正統と異端」、「人間性と神性」、「教会制度」、「終末論」などの基本的な問題をめぐって、グノーシスと「正統教会」の間で、相互に対立する見解が出合うことになった。さらに、これらの論争が、はたして、現代の私たちが考えるような意味での「神学論争」であったのかどうか、実は、それらの「神学論」の背後には、高度に政治的な意図が秘められていたのではないかという疑念が提起されている。すなわち、ローマの権力を背景にした「教会政治」までがこれに絡んでくるとなると、問題はいっそう複雑になる。そもそも「正統派」と呼ばれる教会制度とこれの神学思想自体が、グノーシスとの対決の中から生じてきたと言ってもよいほどである。だから、例えばヨハネ福音書とグノーシスとの関係を問うことは、いったいグノーシスそれ自体をどのように定義し、かつこれをどう評価するのかという問題と密接に関わってくることになる。この意味で、グノーシス問題は、「知恵」の系譜が最後に行き着いた地点であると言えるのかもしれない。
■グノーシスの定義
 グノーシスの起源についてごく一般的に言うならば、これの宇宙観、すなわちその神話体系から判断して、女性を魂の隠喩と見るプシュケー/ヘレネー神話(ギリシャ系)、エジプトの神話がヘレニズム化したイシス神話(エジプト系)、ユダヤの「知恵」文学の流れを汲むソフィア神話(ユダヤ系)、反現世主義で二元論的な性格の強いペルシア系の神話・思想(パルティア王国の影響か?)などに大別することができよう。例えば、使徒言行録(8:9ー11)に出てきて、グノーシスの元祖と見なされているシモン・マガスは、ギリシア系のヘレネー神話に属する「魔術師」と見ることができるし、紀元前3世紀から紀元後3世紀にわたる『ヘルメス文書』群などは、エジプト系のイシス神話に属する。また、ユダヤ・グノーシスは、ソフィア神話に属することになる。ちなみに荒井献氏は、グノーシスを、ヴァレンティヌス派のようなアレクサンドリアの教派型、密儀宗団型、そしてユダヤ・キリスト教分派型(『ソロモンの頌歌』『クレメンス偽書』『ピリポ福音書』『ヨハネのアポクリュフオン』など)の三つに分類する説を紹介している荒井 276-78〕。
 イシス女神のエジプトでの原名はアウセットで、「イシス」はヘレニズム的な名前である。それは「大地の王座」を意味し、太母をあらわす。アレクサンダ-の時代に至って、これがイシスとオシリスの神話としてギリシア化され、やがてこれが、グノ-シスの知恵とみなされるに至った。イシスの姿は月にたとえられ、その姿はアプレウスの『黄金のロバ』に描かれている〔Matthews 64-79〕。このイシス神話は、キリスト教化されることで、聖母マリアとその子という姿へと変容することになる。「マリア」という名で呼ばれる女性は、イエスの妹であり母であり、グノーシス文書では妻でもある〔リーチ 83〕。彼女は太陽を着てルシフェルを踏む「ソフィアのマリア」とも重なる。
 ギリシアの女神デ-メテ-ルとコレ-の神話は、イシスとオシリスの神話に吸収されて、ネオプラトニズムに受け継がれ「処女の光」とされた。「プシュケ-とエロ-ス」の物語では、プシュケ-が、ちょうどキリスト教神秘思想が神との合一を求めるように、エロ-スを求めて彷徨う。マシューズによれば、デメ-テール神話とイシスの神話は、教会のサクラメントによって置き換えられるまでは、ロ-マ帝国に広く行き渡った秘義であった。これらの女神たちによる救いの業に共通するのは、ばらばらにされた肢体を集めることと失われた者を再び見出だすことであった〔Matthews 60-67〕。
 グノーシスとキリスト教との関わりは単純でない。なぜなら、グノーシスは、そもそもキリスト教の発祥自体と深く関わっていたと考えることができるからである。もしも、聖霊によるペンテコステ的な運動をグノーシス的な「熱狂主義」と結びつけるのであれば、最初期のキリスト教は、まさにイエスのみ霊による「熱狂主義」によって産まれたことになろう。したがって、このような聖霊の人間への働きかけを「グノーシス」的であると言うのであれば、グノーシスそれ自体は、必ずしも反キリスト教ではないことを、ここではっきりと確認しておく必要がある。しかしながら、私は、この論考では、「グノーシス」を主として<キリスト教に対立して、紀元2世紀に生じた異端思想>という意味に限定したいと思っている。しかし、仮にそう限定したとしても、この定義自体がすでに問題を提起する。そもそも「グノーシス」とは、キリスト教の<内部から>生じたものなのか、それとも、キリスト教とは異なる思想を源流にしてキリスト教と対立することになったものなのか、という疑問が生じるからである。前者は、キリスト教がグノーシス化した場合と言えるであろうし、後者は、本来キリスト教とは別個の思想が、キリスト教との対決の過程において、逆にキリスト教の影響を受けた(あるいはキリスト教的な装いを付けた)と考えられる。この辺の事情は、現在の日本で、聖書の思想を採り入れたり、キリスト教的な思想を教義に採り入れたりしている新興宗教があるのと幾分類似していると言えようか。また、キリスト教の「内部から」発生したと言っても、最初期のキリスト教は、ユダヤ教と密接なつながりを有しているから、ユダヤ教から派生したと考えられるグノーシス、いわゆる「ユダヤ・グノーシス」に関しては、これをキリスト教の「外部に」属するものだと単純に割り切ることができない。私は、主として、キリスト教の内部から発生したグノーシス思想、言い換えるなら、本来キリスト教でありながら、それがグノーシス化し、このグノーシス化の過程において、キリスト教の正統派の非難を受けることになった思想に自分の関心を向けたいと思うのだが、これがなかなか難しい。
■ナグ・ハマディ文書群
 1945年に、エジプトを南北に縦断するナイル河の中程に位置するナグ・ハマディで、一人の農夫によって偶然発見された「ナグ・ハマディ文書群」は、カリフォルニアのクレァモント大学ジェイムズ・ロビンソン教授たちによって編集・英訳され、1977年に出版された。これの発見は、クムラン宗団の死海文書発見と並んで、キリスト教においての今世紀最大の出来事と言えよう。時期的に見れば、これら二つの文書群は、その書かれた時代が連続している。
 ナグ・ハマディ文書群によって、これまで正統教会の批判文書を通してしか知ることができなかったグノーシスが、「グノーシス主義者たちが著わそうとしたままのグノーシスの立場」〔Robinson 3〕として知ることができるようになった。エジプトで発見されたとは言え、本来はギリシア語で書かれたものがコプト語(文字はギリシア語の大文字を用いたエジプト語)に訳されたものである。ロビンソンによれば、グノーシス諸派は、キリスト教及びネオプラトニズム学派と同時に生まれたのであるが、これら両者から、一致して、「異端のグノーシス」〔Robinson 2〕として排除されることになった。
 しかし、キリスト教・グノーシスに関する文書に限って言えば、これらは、「キリスト教の最初期に中心となった超越主義を本来の立場で再確認しようとする」〔Robinson 4〕上で、大きな役割を果たすものであった。したがって、キリスト教・グノーシス宗団の人たちは、自分たちこそ本来のキリスト教を純粋に保持していると考えていたのである。ところが、彼らとは別の「もう一つのキリスト教」の人たちは、グノーシス主義者たちを本来のキリスト教に対する裏切りと見なすようになった。第二テモテへの手紙(2:16ー18)で非難されているヒュメナエウスとフィレトスも、こうしてグノーシスと見なされたのである。だが、「ナグ・ハマディ文書群」の中には、「異端」とされているグノーシス的なキリスト教徒のほうが、通常「正統」とされているキリスト教徒よりも、はるかにキリスト教的な場合さえ見いだされる〔Robinson 4〕。グノーシスを異端視するこの傾向は、キリスト教がローマ帝国の国教とされた段階で、いっそう激しさを増して、ついに「ナグ・ハマディ文書群」のようなグノーシス・キリスト教は、その存続を断たれるに至った。この文書群は、このような立場に追い込まれたキリスト教徒が、そのコレクションを保存するために埋めたと思われる。
 先に指摘したように、グノーシスがキリスト教の「内部から」派生したのか、それとも、グノーシスと一括されている文書群は、キリスト教に先立つ、あるいはこれとは別個に生まれたものをも含むのかが、長らく学会の論議の的とされてきた。「ナグ・ハマディ文書群」の発見によって、そこには「キリスト教グノーシス」よりも、はるかに広い分野のグノーシスが存在していたことが明らかになった。このことは、グノーシスのキリスト教徒たちが、正統派よりも、これらの文書に対して寛容であったことを示している。
 キリスト教グノーシス以外の文書の中で、特に注目されるのが、「ユダヤ・グノーシス」の場合である。そもそもキリスト教自体が、ユダヤ教の中から成長したのであるから、キリスト教諸派の中には、ユダヤ教に直結する宗団もあった。しかし、「Q資料を担っていたガリラヤの第1世代のキリスト教宗団は、パウロやヘレニスト〔ユダヤ教徒〕からさえ異端と思われたであろうし、その気持ちはQ宗団の側からもパウロに対しても同様であった。パウロは、キリスト教の<ユダヤ化>を明らかに異端視していた」〔Robinson 6〕というのが実状だったようである。もっとも、「ユダヤ・グノーシス」などという言葉それ自体が、そもそも意味を持つのであろうか? いったい、旧約聖書の神を信じる人たちが、創造の神は悪意に満ちた半神のデミウールゴスであるなどと信じるだろうか? こういう根本的な疑問がここで生じることになる。ただし、キリスト教グノーシスの場合には、このような「異端」が確認されるのである〔Robinson 6〕。
 ナグ・ハマディ文書群によって明らかにされたもう一つのことは、正統派による異端非難についてである。例えば、エイレナエオスがキリスト教グノーシスとして非難していた「バルベロ派グノーシス」の文書『セツの三つの柱』が、ナグ・ハマディ文書群に含まれているが、これは、キリスト教を含まないグノーシス文書であった。同様に、ヒポリュットスが引用している「セツの釈義]も、ナグ・ハマディ文書群にあるその文書は、キリスト教的な要素を含んでいない〔Robinson 7〕。セツ系の文書には、キリスト教を含まないものと、後からの編集や加筆によって「キリスト教化」されたものとが混在しているようである。しかし、例えば三体のプローテンノイアは、後の編集によって「キリスト教化」されたものであるが、この文書の出所はユダヤの知恵文学に直結していて、この点でヨハネ福音書のロゴス賛歌と類似しているところがある。
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