『真理の福音』
■ヴァレンティノス
 
わたしたちはここで、2世紀のグノーシスを代表するヴァレンティノス派とその文書に触れたいと思う。と言っても、彼とその弟子、例えばプトレマイオスの神学・思想体系は、ヘブライ、ギリシア、キリスト教の神々とそれらを擬人化して構成された華麗で壮大な神話体系であって、これを理解するのは容易でない。したがって、ここでは、ヨハネ文書と比較対照する意味で、ヴァレンティノス派を代表すると思われている一、二の文書を取りあげて、それらの特徴を概観するに止めたい。なお、同じアレクサンドリア生まれで、ヴァレンティノスとほぼ同時代を生きた人に、天動説の基を築いた有名な天文学者プトレマイオスがいるが、これは、上記のプトレマイオスとは異なる人物である。
 ヴァレンティノス(紀元100?-175?)は、エジプトのアレクサンドリア近辺で生まれ、この地でグノーシス主義やフィロンのアレゴリー的な聖書解釈を学んだと思われる。その学殖のゆえに、紀元140年にローマへ行き、そこで教会の主教職への候補とされた。彼のローマ訪問の目的は、古典的なグノーシス神話を、当時形成されつつあった教会の正統信仰へと改変するためであったようである。したがって、彼自身は、正統教会の諸文書もその信条も受け入れていたと思われる。しかし、その後再び東方のキプロスへ赴いている(160年?)。彼の聖書解釈は、独自のアレゴリー的手法を用いて、テキストの深層の意味を探り出そうとするもので、その聖書解釈の方法は、以後の教会の聖書解釈にも影響を及ぼしている。しかしながら、彼の神学は、殉教者ユスティノス(ローマ)、エイレナエウス(リヨン)、クレメンスやオリゲネス(アレクサンドリア)、テルトゥリアヌス(カルタゴ)、クリュソストム(アンティオキア)たちから異端として厳しく批判されることになった。
 ヴァレンティノスは、多くの優れた弟子を養成したが、彼の死後、ヴァレンティノス派は、アレクサンドリアを中心とする東方系とローマを中心とする西方系とに分かれた。東方系では、マルコスやテオドトスがおり、ローマ系では、プトレマイオスがその代表である。このようにして、ヴァレンティノスの思想は、その弟子たちによって多様な展開を見せると同時に非キリスト教化していった。
 ヴァレンティノスの文書は、彼に対する教父たちの反駁論の中で引用されている限られた部分しか現存していないためにその全貌を知ることができない。その中で、「ナグ・ハマディ文書群」の一つである『真理の福音』は、ヴァレンティノス派に最も近いキリスト教グノーシス文書と言われている。この文書では、ヴァレンティノス派の宗教思想が比較的簡潔にまとめられていて、その内容の深さから、これが彼自身の作であるという説もある。確証はないが、ヴァレンティノスが書いた可能性を含めるなら、この文書が書かれた年代は紀元140年から180年頃の間ということになる〔Robinson 34
  最近荒井献氏による『真理の福音』の訳注が出版された。氏は、ヴァレンティノスの思想それ自体が、直ちにグノーシスに順接しないことを確認した上で、この文書には原始キリスト教の「信仰告白伝承」が用いられているとして、この文書が、正統教会のメンバーに対して、ヴァレンティノス派の神話思想の要綱を示そうとする目的で書かれたと見ている〔『福音書』378〕。氏によれば、『真理の福音』は、ヴァレンティノス派の神話論をその前提としている。したがって、その成立年代については、これのギリシア語原本が書かれたのが2世紀後半から3世紀までとなり、コプト語写本は4世紀前半以前となる〔『福音書』379〕。英訳の解説のほうは〔Robinson 38〕、この文書が、ヴァレンティノス派神話論の成立以前の作と見ているのに対して、荒井氏は、この派の神話論成立以後にこの文書が書かれたと見ているわけである。
 『真理の福音』の言葉は単純で、表現は簡潔であるが、それだけに奥が深くて分かり難い。荒井氏は、この文書に流入しているキリスト教伝承が、ユダヤ教の非主流派で、ヘレニズム・ユダヤ教が重視した知恵文学(箴言、知恵の書、シラ書など)につながると見ているが〔『福音書』378〕、私も賛成である。以下に、誤解と遺漏が混入することを覚悟の上で、これの特徴を概観してみたい。なお以下の訳文は、荒井訳にしたがった。
「グノーシス」による救い
 この冒頭の序の部分では、宇宙の根元的存在である父の恵みが父を知る知識(グノーシス)それ自体であることが、はっきりと定義されている。「プレーローマ」(充満)とは、グノーシスが満ちている霊界のことであり、それは光の充満にたとえられる。全宇宙は、父の住むプレローマ界と、これと対照される無知・無明のもろもろの「アイオーン」(時代・世界)とで成り立っていて、これら無明の諸相は、プレーローマの光明界に対して暗黒界と呼ばれる。「無知」とは、完全なプレーローマが欠如した状態のことであり、したがって、それは不完全で実体を有しない虚空にすぎない。
 このようにして、グノーシスと無知・無明、この二者の相互関係によって、全宇宙が分断される。グノーシスと無明とは、ここでは、「たんなる主観的かつ私的な経験ではなく、客観的かつ全体的な存在原理となる」[ヨナス 238]のである。しかも、この無知はグノーシスの欠如を意味するだけではない。ここでは、無知が「プラネー」(迷誤)として働くことで、無明界の起源となり、かつその諸相を成り立たせている原理そのものなのである。
創造と迷誤の起源

ここには、グノーシス特有の神、すなわち「出来損ないの創造」を行なう出来損ないの半神(デミウールゴス)が、「迷誤」として現われる。宇宙の被造物、すなわち物質界は、迷誤によって創造された実体を伴わない虚無にすぎないことが語られる。迷誤は、忘却の内にあって己の起源を悟らない。しかもこのような忘却の迷誤は、次のように、父から出たものでも、父に由来するものでもないのである。

 「父のゆえに存在したとしても、父のもとに存在しなかった」は、難解な表現である。ここでは、迷誤とこれに伴う「悪」の起源が、不可称不可思議な存在である父から派生したことが示唆されている。父と迷誤の起源との関係は、この文書では微妙である。迷誤の起源を父から切り離して考えるならば、そこにはグノーシス思想特有の二元論が開かれてくることになろう。しかし、この文書では、迷誤の起源に関する二元論的な意味づけはそれほど明確ではない。ヨナスは、この辺の消息を次のように説明している〔Jonas 175。「なぜなら、知識グノーシスこそ絶対者本来の状態であり、この状態が第一義的な事実であり、これに対して無知とは、知識から疎外されたある主体において単に知識が欠如しているという中立的な状態のことではなく、絶対者自身の一部に攪乱をもたらすものなのである。無知は絶対者それ自身に動機付けを有し、しかも、知識の本来の姿に否定的に関わる結果、知識の損失あるいは歪みとなって現われるものである。」発達したグノーシスの世界では、迷誤こそが、宇宙の被造物の創造原理それ自体となる。したがって、グノーシスでは、「創造は、より次元の低い、悪魔的な力のなせる業であるとされる」〔エリアーデ396ことになる。
イエスとキリスト

 グノーシスにおけるキリストの解釈は、ひとつの試金石となる。ここでのキリストは、隠された秘義として、虚無の現実世界と交わることも関わることもないことが示唆されているのだろうか? しかも、キリストを求めて見いだす人々は、そのキリストを「己の内に」において見るのであろうか? さらに、この思想は、人間性それ自体にキリストの性質が宿っているという解釈へと私たちを導くことになるのだろうか?

  グノーシスでは、キリストとイエスとは区別される。なぜなら、キリストは、プレローマの世界から降った者であり、イエスは、この地上にあって、救い主が纏う仮の人間的な姿にすぎない。救い主としてのキリストは、知識と完全を有する者として、人間の地上をただ「通り抜ける」だけである。ただし、先の引用に見るとおり、この文書では「イエス・キリスト」という名称が現れる。しかし、上の引用では、地上に降った救い主を語る場合に、やはり「イエス」が用いられている。しかも、この引用では、知識の果実としての知恵の樹の実は、正統ユダヤ教の「創世記」の神話解釈に反して、これを食べることによって喜びを発見するものという発想へ逆転されている。この逆転は、次に述べる『ヨハネのアポクリュフォン』において、一層明確な形をとることになる。
 ここでは、ヨハネ黙示録を思わせる描き方で、命の書のことが語られている。イエスは、人々の救いのために苦難を忍び、ついに人々に命をもたらす。

 ここでは「自らを死に至るまで低める」というフィリピ人への手紙(2章8節)を踏まえた表現が用いられている。イエスは、十字架で、その「ぼろを脱ぎ捨て」、朽ちないものを着るとあるが、それは、地上を歩む人間イエスと天に昇る救い主キリストとが、異なる次元に属する存在であることを示唆していると見ることもできよう。このような異次元のキリストは、裸の人々の「側を通り過ぎた」という表現からも読み取ることができるかもしれない。しかし、この文書では、キリストの異次元性は、それほど明確にされているわけではない。

 ここで「肉体のかたち」と訳されたところをロビンソンは、"by means of flesh"と英訳している。英訳のほうでは、イエスという肉体的な存在を「通じて」、実は天来のキリストが地上を歩んだという意味に解釈できるだろう。しかし、荒井訳はわざわざそのような誤解を避けて、ヨハネの「言葉は肉体となって」とほぼ同じ表現をここの訳に当てているのである〔『福音書』195頁。注10〕。この文書が、明らかにグノーシス的傾向を帯びながらも、なお正統キリスト教との接点を失っていない事例として注目する必要があろう。
人間の救い

 ここで語られるのは、人間の救済原理が、プレローマ界から降る父からの霊のもたらすグノーシス(知識)によることである。このグノーシスは、人間をして、その無知を消滅させ、グノーシスを通じて「父との融合」を達成させる。人間は、このようにして本来の自己に到達するというのが、ここでの救済論である。
 荒井献氏は、コリントの教会におけるパウロの論敵が、必ずしもグノーシスには当たらないとしつつも、彼らのグノーシス的な傾向の特質を次のように指摘している。「パウロの論敵にとって人間の救済は、人間のうちなる『救わるべきもの』がその『滅ぶべきもの』から分離され、『救われたもの』になることにある。・・・・・すなわち、彼らによれば人間は、人間に固有な『救わるべきもの』(具体的には『霊的なもの』)と人間にとって二次的な『滅びゆくべきもの』(『自然のままのもの』)から成り立っている」〔荒井 173。氏は、このような分析から、グノーシス的な特徴として、人間の内に存在する「救われるべきもの」が「救われたもの」になること、すなわち、「グノーシス・知識」を通じて、人間が霊的に父との合一を成就することが、グノーシスの本質的な構造であると見ているようである。『真理の福音』でも、この指摘が当てはまると見ることができよう。ただし、人間の内にある「滅びるべきもの」が、「救われるべきもの」としての知識それ自体の到来によって、消滅するという意味においてである。グノーシスがすべてであり、それ以外のものは虚無にすぎないというのが、グノーシスの考え方だからである。

 『真理の福音』には、ヴァレンティノス派のグノーシスの特徴が凝縮されていて、しかもそれらが、明確な表現によって、その奥深い消息を語りかけている。私の見るところでは、これらの特徴はいずれも、1世紀以来キリスト教が説いてきた福音の神学的な曖昧性を鋭く突いているように思われる。例えば、聖書は、「悪の起源」について明確な答えを与えていないし、新約聖書においては、イエス・キリストの神性と人間性との二重性について、その構造を必ずしも明らかに示しているわけではない。グノーシスの思想家たちは、正統教会が明らかにしていないまさにその部分に彼らの思索の焦点を当てたのである。ここに見られる特徴は、ヴァレンティノス以後に、その弟子たちにおいて、いっそう多様で徹底した展開を見せることになる。彼らは、聖書を数秘的・表象的に解釈することによって、それぞれに独自の神話体系に基づく宇宙像を形成していった。例えば、プトレマイオスの世界などは、ほとんどグノーシス曼陀羅とも言うべき壮麗な宇宙観となって完成されていくことになる。
戻る