「ガリラヤのユダヤ人」とは?
 四福音書を読む場合、「ガリラヤのユダヤ人」に注目する必要があります。イスラエルの歴史では、ガリラヤは、エルサレムのユダヤ人から見るなら、伝統的に「排除されるべき呪われた土地」であるという見方があります。この偏見は、どこから生じたのでしょうか?
 士師記によれば、イスラエルの十二部族が、カナンに侵入した初期に、ガリラヤ地域一帯の諸民族をその地域から「追い出す」ことができなかったとあります(士師記1章27節〜33節)。士師記が語る前12世紀頃のイスラエルでは、ガリラヤ湖の西には、アシェル族、ナフタリ族、ゼブルン族などの非イスラエルの「異邦の」民が住んでいました。
 前10世紀頃のダビデ王とソロモン王の時代には、ガリラヤ湖からその北部までが、イスラエル王国の支配下に組み込まれます。ところが、王国は、その後、 北イスラエル王国と南ユダ王国とに分かれます(前931年)。その後、北イスラエル王国は、アッシリア帝国によって滅ぼされ(前720年頃)、その際に、帝国による大規模な「住民の入れ替え」が強制されたと伝えられます。ただし、その実態はよく分かりません(北イスラエルの部族の一部が日本まで渡来した!?)。
 こういうわけで、ガリラヤ一帯と、イスラエルの北部との間に、「歴史的な亀裂」が生じたと考えられますが、その「亀裂」の実態がよく分かりません。北王国の滅亡で、サマリアとガリラヤ一帯に大きな変化が生じたと考えられますから、捕囚期以前でも、「ゼブルンとナフタリの地」である「異邦人のガリラヤ」は、「イスラエルの国土」でありながら、エルサレムのユダヤ人から偏見を持って見られていたのでしょう。「ゼブルンとナフタリの地」もやがて主の栄光を仰ぐという預言は、逆に、この事実を裏書きしています(イザヤ書8章23節/同9章1節〜6節も参照)。
 捕囚期直後の前6世紀後半〜前5世紀半ばの著作であるヨエル書には、エルサレムを中心とする「ユダの民」に「復讐しようとするペリシテの全土」とあります(ヨエル書4章4節)。この「ペリシテの全土」は、七十人訳のギリシア語では、「ガリラヤの異邦人の全地域」と訳されています。「異邦の民」を意味する「ペリシテ」という言葉が、「ガリラヤ」へ置き換えられているのです。これで見ると、捕囚期後では、「異邦人のガリラヤ」という概念(偏見?)がすでに形成されていたことが分かります。
 前2世紀の第1マカバイ記5章1節〜2節/同14節〜15節には、捕囚から帰還したユダヤの民が、エルサレム神殿を築こうとした時、「周囲の異邦人」たちが、これに激しく反対したので、シモンが率いるユダヤの民は、この「異邦人のガリラヤ」から、そこに住む「ユダヤの民」を奪還したとあります(第一マカバイ記5章22節)。これから判断すれば、前2世紀のガリラヤでは、ユダヤ人は少数であったことにもなりましょう[Collins. Mark. 661.]。
 しかしながら、北部ガリラヤでも南部ガリラヤでも、前12世紀からイエスの頃の1世紀まで、一貫してヤハウエ礼拝が行われていたという説もあります。また、捕囚期以後のガリラヤは、もはや「異邦の民の地」ではなく、ユダヤ人の地であるとされますが、ガリラヤの「ユダヤ人」は、律法の解釈においても、その実践においても、エルサレムのユダヤ人とは「異なるユダヤ人」だと見られていたようです[Collins. Mark. 662--663.]。
 このような歴史を背景に、イエスの頃の1世紀のガリラヤには、異邦人もユダヤ人も混在していました。その上、そこに住むユダヤ人は、エルサレムとは異なる風習を具えていると見なされたために、エルサレムのユダヤ人からは、「ガリラヤのユダヤ人」として扱われていました[Collins. Mark. 665.]。
                共観福音書補遺へ