え 過越と食事について
(2023年9月10日)
以下は、TDOTの「ペーサハ」"Passover"の項目から、筆者(私市)が読み取ったものです〔Theological Dictionary of the Old Testament. Vol.XII.Johannes Botterweck, Helmer Ringgren, Heinz-Josef Fabry eds. Trans. by Douglas W. Stott. Eerdmans(1988--89).1--24.〕。
【過越の由来】
ヘブライ語の「ペーサハ」(過越)は、ほんらい「通過儀礼」、「月祭り」"a lunar festival"、「魔除けの儀礼」などから生じたという説があります。「ペーサハ」(過越)とは、語源的には、「跳びはね廻る悪魔」から身をかわすための「魔除けの跳躍」を意味するようです。英語の"lunatic"(月の/狂気の)が表わすように、月の満ち潮に絡んで、とりわけ春期の満月には、「魔力が働く」という言い伝えがありました〔TDOT(12)13頁〕。
出エジプト記12章1〜8節は、過越に関する最古のテキストです(祭司資料編集者たちによる捕囚期後のものではない)。過越は、ほんらい遊牧民の一神教に由来するもので、イスラエル共同体よりも以前の時代に属していて、災いをもたらす魔力から「家族の安全」を守るための祭儀でした。出エジプト記12章11節に「ヤハウェに向けた過越」とあるのは、ほんらいのものではなく、後からに加えられたのでしょう。ちなみに、出エジプト記12章21節で、モーセがイスラエルの長老たちに「急いで」と言うのは、「朝から始まって」、昼間を「できるだけ長く採り」、民に過越への備えを促すためです。過越は、その日の夕刻から始まって、「次の朝まで」(同22節)続きますから、その日の夕刻から翌朝までの「夜間の(家族の)安全」を祈願する祭儀でした〔TDOT(12)11〜12頁〕。
【過越と除酵祭】
出エジプト記12章21〜23節には、「モーセがイスラエルの長老たちを呼び寄せた」(12章21節前半)とあり、「ヤハウェがエジプト人を打つために行きめぐる」(12章23節)とあります。だから、過越は、出エジプトの出来事と結びついています。しかし、この部分は、まだ、申命記16章1〜8節に見る除酵祭とは無関係です。申命記16章1〜8節の過越で、過越と除酵祭(種なしパン)との関わりが明白になります(申命記16章3〜6節)。これによって、ほんらい家族ごとの祭儀であった過越祭が、イスラエル民族の公的な祭儀の性格を具えることになり、過越は、イスラエルがカナンに定着した後の祭儀である除酵祭と一体化します。両者の一体化によって、過越は、「ヤハウェがその名を置くために選ぶ場所で」(エルサレム神殿)とあるように、エルサレムの中央聖所における民族国家の祭儀として、救済史的な意義を持つようになります〔TDOT(12)14頁〕。
このように、過越は、家族的な祭儀から、中央聖所の(国家)祭儀へ「移行した」と言えますが、注意してほしいのは、(エルサレムの)中央聖所の祭儀となることで、従来の「家族全体」への過越だけでなく、その「個人の祭儀」としての特徴をも具えるようになったことです。ただし、詩編の場合にしばしば見られるように、「わたし」「あなた」という単数は、個人と同時に、イスラエル共同体全体への呼称であることを忘れてはなりません〔TDOT(12)17頁〕。
過越の祭儀は、その後、バビロンでの捕囚期において、疫病の災いから身を守るための「ヤハウェによる魔除けの功徳」と見なされて、諸民族の間にも多大の影響を及ぼすことになります。
その後、前3世紀以降のいわゆる「ヘレニズム時代」(ギリシア系の王朝によるイスラエルへの支配)では、モーセ五書の過越の規定に、祭司資料編集者たちによる編集が加えられて、さらに、その後、申命記史家たちによる編集が加えられます。これによって、エルサレム神殿(中央聖所)を中心にして、過越と除酵祭が一体化した祭儀が完成します(歴代誌下30章1〜27節/同35章1〜19節)。こうして、「夜の祭り」であった過越は、除酵祭を伴う8日に及ぶ祭りとなり、ほんらい「災いを免れるための夜の」祭儀が、国を挙げての喜びの祭儀へと変容します(歴代誌下30章21節)。
【過越の「日」とは?】
レビ記23章5節には、「第一の月の十四日の夕暮れに主の過越、その月の十五日から主の除酵祭」(聖書協会共同訳)とありますから、「夕暮れに」は、十四日の過越から十五日の除酵祭へ移行する境目になります。ここで言う「夕暮れに」には、次のような訳あるいは注がつけられています。
(1)"between dusk and dark" [REB}/"at twilight" *Note. Hebrew: between the two evenings [NRSV]
(2)「夕暮れは」への注として、原文は「夕暮れと夕刻の間に」だとあり、これは、出エジプト記29章39節によれば、「朝、一匹の雄の小羊を献げ、夕暮れにも、もう一匹の雄の子羊を献げる」ことだと説明しています〔『出エジプト記 レビ記』木幡藤子/山我哲雄訳。岩波書店(2000年)157頁/354頁〕。
(1)では、過越の犠牲を屠る祭儀が始まるのは14日の午後からですから、過越の「日」が、「夕方に始まり夕刻まで」だとすれば、14日午後の「(小羊が屠られている)薄暗くなる夕暮れから、(14日が終わり15日が始まる)暗くなる夕刻まで」の比較的短い間のことだと理解することができます。1日は日没から始まり日没に終わります。その上で、イエスの頃までの伝統的な夜の区分は、日没から日の出までを夜としてこれを三つに区分しました。第一は18時〜22時/第二は22時〜午前2時/第三は午前2時〜6時となっていました〔「ヨベル書」49章:『聖書外典偽典』(4)旧約偽典(U)教文館(1975年)156頁/(注5)336頁も参照〕。「二つの<夕>の間」というヘブライ語の言い方は、夕方の6時前後の「黄昏(たそがれ)時」を意味するようです〔TDOT(6)21頁〕〔「ヨベル書」49章:前掲書336頁(注)6〕。だから、この言い方をそのままとれば、過越の「日」が始まる14日の夕刻から、14日が終わる次の夕刻までの「丸1日」の期間を表わすとは受けとれません。
(2)では、過越の「日」を「朝から始まり次の朝まで」と理解した上で、犠牲を14日の朝と14日の夕方に、二度に分けて屠ることだと理解することができます。
このように、過越の祭儀の「日」(14日)と、過越・除酵祭の始まる「日」(15日)との「境い目」への記述が、明確ではありません。14日、15日という「日にち」がはっきりしているのに、その「日」の境い目、言い換えると「日」が始まる「起点」と、過越から除酵祭への移行の時刻がはっきりしないのです。
過越の時間的な過程は、申命記16章6〜7節と出エジプト記12章6節では、漠然としていましたが、紀元後からエルサレム神殿の崩壊(70年)までの頃には、これが、「昼の第3部」(正午〜15時?)から「夜の第3部」(0時〜3時?)までと規定されます。なお、クムラン宗団の祭儀は、はっきりと太陽暦(364日)に準じています。しかし、この太陽暦による祭りと(太陰暦による)安息日規定との間の暦日の摩擦には触れていません〔TDOT(12)23頁〕。
【イエスの頃の過越の食事】
過越の祭とその食事については、主として、紀元70年以後に、ユダヤ人によって明文化された「ミシュナ」によるところが大きいです。したがって、1世紀前後のイエスの頃のイスラエルでの過越祭とその食事については、まだ分からないことが多く、その実態が掴めていません。それでも、イエスの頃の過越の食事は、およそ以下のようであったと推定されています〔エドワルド・シュヴァイツァー『マルコによる福音書』NTD新約聖書注解。高橋三郎訳。ATD.NTD聖書註解刊行会(1986年)399頁〜400頁による〕。
(1)ニサンの月の14日の午後に、神殿で罪の贖いへの犠牲として屠(ほふ)られた一歳の傷のない小羊、あるいは子山羊の肉をエルサレムの市内で、夕刻遅くから夜に、家ごとに食べる。一匹の羊を残さず食べるには、女性を含む十人くらいの人数が適当であろう。
(2)食卓には、種なしのパンがおかれ、青菜とサラダが、しばしば果物の砂糖煮と共に出され、そこには、ショウガなどを用いたソースもあった。
(3)最初に、家の主人による感謝と讃美の言葉が語られ、同時に第一のぶどう酒の杯が飲まれました。ただし、ラビの伝承によれば、過越の食事の場合は、それぞれに杯が用意されたと言い伝えられています〔R.T.
France. The Gospel of Matthew. NIGTC. Eerdmans
(2007).993〕。
(4)第二の杯を飲む時に、家長から、出エジプトにちなむ過越の由来が語られ、「あなたがたは、エジプトの地から出た日を生涯想い起こさなければならない」(申命記16章3節)という主旨の言葉が語られます。
(5)詩編113篇〜118篇から「ハレル」の唱和が謡(うた)われますが、その合間に、「感謝の祈り」が唱えられます。詩編の讃美/朗唱は、ユダヤ教のミシュナ(紀元70以後とされる)の規定によれば、食事の前には、113篇〜114篇が謡(うた)われ、第三の杯の後の讃美では、115篇〜118篇が謡(うた)われるとあります〔R.
T. France. The Gospel of Mark. Eerdmans/The
Paternoster Press (2002)574.〕 。
(6)食事が始まる前に、家長は、種なしパンを取り上げて、祝福(感謝)の祈りを捧げてから、種なしのパンを割(さ)いて、各人に与えます。伝承されている祈りは、「私たちの主なる神、世界の王、ぶどうの実を造られた方よ。あなたは褒(ほ)むべきかな」です。全員が種なしパンと共に犠牲の小羊の肉を併せて食べます。食事が始まります。
(7)感謝の祈りと共に第三の杯を飲みます。これは「祝福の杯」と称されます。
(8)全員でハレル賛唱を唱えます。第四の杯を飲むことで、ハレル賛唱が終わります。
このように、過越の食事の席には、焼かれた犠牲の肉があり、四つのワインの「杯」は、家の主人の手で祝福され、裕福な家では、体を横たえるギリシア・ローマ式の宴席が行なわれました。
この式順に従って見るなら、イエスが告げた「受け取りなさい。これは私の体である」(マルコ14章22節)は、(6)のパン裂きの式順での祝福/感謝の祈りに相当します。イエスが行なった食事についての説明は、過越の食事では、(4)の食事が始まる前のことになります。したがって、主の晩餐(聖餐)は、過越の食事ではないことが分かります。ただし、最後の晩餐のほうは、過越の食事にちなむ祭儀性を具えていたと言えましょう。当時のユダヤでは、友人同士の普段の会食でも、始めに杯を飲み、めいめいが讃美(感謝)の祈りを唱えることが行われていました。だから、最後の晩餐が、普段とは異なる過越の食事を採り入れていたとも言えません〔シュヴァイツァー『マルコによる福音書』398頁〕。結論として、最後の晩餐は、当時のユダヤ教の過越の食事と、その祭儀において、同位置におかれていたこと、しかも、その晩餐は、食事の後に起こるであろうイエスの受難と処刑を予兆するものであったと言えます〔シュヴァイツァー『マルコによる福音書』401頁を参照〕。
現代のユダヤの過越祭では、四回にわたって飲む杯には、第一から第四まで、「聖化」と「疫病」と「贖い」と「賛美」の四種類の異なる意味が込められています。食卓の上には、参加者一人一人の前に、一つずつ杯が置かれています。杯は、それぞれに二つずつ置かれる場合もあり、三つの杯が、それぞれに用意されることもあるようです。参加者は、食卓の上の大きな葡萄酒の器から、それぞれが、四度にわたって、自分の杯にワインを注がなればなりません。しかし、多くの場合、隣同士で、互いの杯に注ぎ合う慣習があるようです。
イエスの頃の過越祭では、過越の食卓が具体的にどのようであったのか、また、その式順の実態を確かめることができません。ルカ22章16節にあるように、一つの杯を全員で回して飲んだのでしょうか?(シュヴァイツァー『マルコによる福音書』399〜400頁には、「まわして」飲んだとあります)。しかし、杯の「回し飲み」は異例でしたから〔Howard
Marshall. The Gospel of Luke.
NIGTC. The Paternoster
Press.(1978).798〕、イエスの当時の過越の食卓には、参加者それぞれの前に、少なくとも一つの杯が用意されていたと考えることができます〔Joseph
Fitzmyer.The Gospel According
to Luke X--XXIV.
Doubleday(1983).1397.〕〔F.Bovon.
Luke 3. Hermeneia.
Fortress Press (2012).158.
Note(34)〕。ただし、「回し飲みがなくはなかった」という説もありますが〔マーシャル前掲書〕。ルカ22章17節では、イエス自身はその杯を口にしなかったという見方もできますが、主人が先ず先に杯を飲む習わしからすれば、ここでもイエスは、そのしきたりに従ったと見ることができます〔前掲書〕〔Joseph
Fitzmyer.The Gospel According
to Luke X--XXIV.
Doubleday(1983).1396.〕。
【ユダヤ滅亡以後】
ユダヤ教の過越の食事と過越祭の諸規定は、紀元70年のエルサレム神殿の崩壊とユダヤの滅亡を境にして、いっそう明確かつ厳密に規定されるようになりました。上記の過越の食事規定も、ユダヤ教の規定集「ミシュナ」(70年以降に成立)によるところが多いです。ミシュナの規定は、70年以前にも適用されていたと見られています。ちなみに、70年以降から1世紀の終わり頃までは、四福音書が書かれ成立した時期にあたります。ところが、最近(2023年頃)、古代のユダヤを扱うユダヤ人の学者の間(あいだ)から、そもそも、イエスの時代を含む1世紀の前半に、それほど厳格な過越の食事規定が存在していていたのか?という疑問が提起されています〔W.D.Davies
& D.C.Allison. The Gospel According to Saint
Matthew. Vol.3. ICC. T &T Clark
(1997).469.〕。ただし、ヨベル書やフィロンなどを根拠に、上に述べたような規定が実際に存在していたと「概(おおむ)ね」認められているようです。
ティトスの率いるローマ軍団が、エルサレムを占領し、神殿が破壊された(70年)後では、過越に、エルサレムの再興を祈願する「終末的な期待」が加わります。しかし、それは、伝統的な「出エジプトによる解放」と結びついています。過去の体験(出エジプト)の記憶が、未来への希望(神殿の再興)と結んで現在を創るのです。悲しみから喜びへ、嘆きから祝賀へ、暗闇から光へ、隷従から贖いの解放へ、これが過越の祭儀の意義となります〔TDOT(12)21頁〕。
過越祭の週の二日目は、「麦束の奉納」の日です(レビ記23章1〜8節が過越で、レビ記9〜14節が「初穂の麦束の奉納」)。この時期に収穫される麦は大麦です。これは、過越際の第2日目から五旬節(ペンテコステ)の第1日目まで、49日にわたって奉納されます。ここで、犠牲を屠りこれを食する「過越」と、続く除酵祭へ移行するその「時間関係」がやや曖昧な点が問題になります。