イエスの誕生と伝道期間と受難の時期
■誕生と伝道と受難の時期

 ここでは、四福音書に基づいて、イエスの誕生と伝道期間と受難の年とをわたしなりに推定したいと思います。多くの場合、イエスの年代決定には、共観福音が用いられます。現に、ロックモートンも日本基督教団の共観福音書の総合表もこれら三つを基準にしています。ところが共観福音書だけでは、イエスの伝道の期間が今ひとつはっきりしません。
 イエスの誕生については、マタイ福音書に、それがヘロデ大王の治世のことであって(2章1節)、しかもイエスが生まれて間もなくヘロデ大王が死んだとあります(2章19節)。ヘロデ大王がユダヤとその周辺地域を支配したのは、紀元前37年から紀元前4年までの長期にわたります。イエスの家族は、ヘロデ大王が亡くなってからからナザレへ帰るのですから、マタイによるとイエスの誕生は紀元前4年の「少し前」のことになります。ルカ福音書2章1~2節には、イエスの誕生が、皇帝アウグストゥスの人口調査の時で、キリニウスがシリア州の総督の時であったとあります。しかしルカのこの記事を裏づける外的な証拠がありません。アウグストゥスの治世には帝国規模の人口調査が行なわれなかったこと。ローマの人口調査のやり方では、ヨセフはベツレヘムへ戻る必要がないこと。ヘロデ大王の支配下で、ローマの人口調査が行なわれることはありえないこと。シリア総督キリニウスの人口調査は、紀元6~7年であったこと。これらを考え合わせますと、現在ではルカのこの記述は誤りだとされています(これには異論もあります)。ただし、ルカはイエスが伝道を始めたのは「およそ30歳であった」(3章23節)と述べています。イエスが伝道を「始めた」というのは、ルカによれば、洗礼者ヨハネによってイエスが洗礼を受けた時を指しています(使徒10章37節)。またヨハネ福音書によれば、イエスが伝道を始めたすぐ後で、エルサレムの神殿が「建てるのに46年かかった」(2章20節)とあります。ヘロデ大王がこの神殿の建築を始めたのは紀元前19/18年ですから、これから計算しますと、イエスが伝道をはじめたのが紀元27/28年頃になります。これらのことを考え合わせると、イエスの出来事の年代(chronology)を決定するに当たり、約2年の誤差を含めて、イエスの誕生は紀元前4年~6年になりますが、さらにヘロデ大王の死が前4年ですから、イエスの誕生は、それ以前の前5/6年と推定されます。
  さらに問題は、イエスの伝道活動の開始の時期です。これについての手がかりは、ルカ福音書3章1節の「皇帝ティベリウスの治世第15年」に洗礼者ヨハネが活動を始めて、イエスが彼によって洗礼を受けたという記事があります。ルカは、このほかにも5名の支配者たちの名をあげていますが、決め手となるのは、この一句だけです。皇帝アウグストゥスが没したのが紀元14年の8月で、ティベリウスがその後継者となり、元老院がこれを正式に認めたのは紀元14年9月です。ルカが「第15年」と言うのは、この14年の8/9月(秋)から数えてでしょうか? それとも、ティベリウスが引き継いだ紀元14年の1月1日から数えているのでしょうか? この問題はルカの用いた暦とも関係します。ルカはユダヤ暦(新年は過越祭のニサンの月15日)で数えているのでしょうか? それともローマのユリウス歴(新年は1月1日)でしょうか? 現在の定説では、ルカはユリウス歴を用いていると考えられています。したがって、ルカが紀元14年の8/9月から数えているのなら、その「第15年」は紀元29年の秋になります。ただしルカが、皇帝の引き継ぎが行なわれた秋から12月までをもティベリウス治世の「最初の年」として、次の新年から2年目と数えているのなら、「第15年」は紀元28年(の秋)になります。また14年の1月1日から数えているのなら、「第15年」は28年の1月になります。したがって、
洗礼者ヨハネによるイエスの受洗は、紀元27年の秋から28年の初めの期間ということになります。
  次にイエスの十字架刑のことですが、四福音書共に、イエスが十字架にかけられたのは過越祭の時であったとあります。ですから、イエスの受難の過越祭が、年代決定のひとつの重要な基準になります。共観福音書では、イエスの十字架刑は過越祭の当日であり、ヨハネ福音書によれば、イエスの十字架刑は、過越祭の前日ニサンの月の14日であったとあります。どちらが史実か、現在でも両説があります。14日にせよ、15日にせよ、その日は金曜日だったのですから、紀元30年の過越祭の金曜日が何日であったかが分かればいいのですが。紀元30年前後でこれに該当する年は、紀元30年か33年だという説がありますが、ヨハネ福音書によれば、十字架刑はニサンの月の14日の金曜日になります。しかし、どうも最近の傾向としては、共観福音書のほうが史実に近いと見る学者が多いようです。現在の定説から判断して、わたしは
十字架刑は紀元30年の4月と推定しています。
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伝道の期間について
 イエスの十字架刑が紀元30年の過越祭(4月)の時であり、イエスが紀元29年の秋に受洗したとすれば、その活動期間はわずか半年ほどになりますから、これではあまりに短すぎます。洗礼者ヨハネによるイエスの受洗が28年の1月とすれば、その時からのイエスの伝道活動は2年3ヶ月ほどになります。ところが、28年の「秋から」数えるのなら、イエスの活動は1年半ほどになります。もしもイエスの受洗が紀元27年の終わり頃から28年の1初めだったとすれば、イエスの十字架刑までに三度の過越祭があったことになります。もしも受洗が28年の秋だったとすれば、十字架刑の時を含めて、過越祭は2回です。どちらが正しいかは、共観福音書からは決められません。なぜなら、共観福音書では、イエスの十字架刑が過越祭に行なわれたと証言しているだけで、「それ以前の」過越祭はいっさいでてこないからです。
  ところが
ヨハネ福音書では、イエスの伝道活動が三度の過越祭にまたがっていると証言されているのです。ヨハネ福音書では、このほかにもユダヤの祭りがでてきますが、その点は省きます。ヨハネ福音書では出来事が再構成されていると言われますが、共観福音書には表われない古い伝承や用語がでてきます。したがって、ヨハネ福音書の記事は、共観福音書に劣らず信憑性があるという見られるようになりました。こういうわけで、ドイグ(Doig)は、マルコ福音書とルカ福音書とヨハネ福音書とを組み合わせて代順を配列しています。彼によれば、イエスの受洗は紀元28年の1月です。したがって、イエスの活動期間は30年の過越までの2年3ヶ月です。ドイグの説だと、共観福音書とヨハネ福音書とが組み合わされて、イエスの活動の時期的な枠組みができています。わたしも、このドイグ説を下敷きにして、『四福音書対観表』を通じてイエスの活動の順序を見たいと思っています。ただしこれは共観福音書講話ですから、ヨハネ福音書は注釈から省いてあります。ただし共観福音書にはイエスの十字架の時の過越のことしかていませんが、その背後には、時期的に三度の過越があったと見るのです。このようなわけで、筆者は、時期的な枠組みとしては、紀元2~2年の1月の間にイエスの受洗があり、2年数かの30年の過越祭に受難があったと考えています。
  なお、ドイグやスロックモートンは、洗礼者ヨハネの出現と彼の説教、洗礼者ヨハネによるイエスの受洗とイエスの荒れ野の誘惑などをイエスの伝道開始の区分の中に含めています。しかし『四福音書対観表』のほうは、洗礼者ヨハネからイエスの誘惑までは、伝道開始にいたるまでの「準備期間」として区分しています。この違いは、イエスのガリラヤ帰還の「前に」行なわれたヨハネ福音書の神殿からの両替人の追放やニコデモとの対話などをどう見るか? という点から来ているのでしょう。共観福音書では、ガリラヤ伝道以前のイエスのユダヤでの伝道が語られていませんから。
  このように、四福音書に記されている出来事をイエスの活動に合わせて「歴史的に正しく」順序立てることは不可能です。結果として『四福音書対観表』を基準に、おおよその順序を設定することになります。そもそも共観福音書とヨハネ福音書とでは、イエスによるガリラヤとエルサレム間の往復の回数が異なるのですから、両者を完全に一致させるのは無理です。したがって、この共観福音書講話では、『四福音書対観表』にでているヨハネ福音書の部分は省いてあります。ただし、『四福音書対観表』は、出来事を順序だてて教えてはくれません(対観表には、同じ出来事が2度でてくる場合があるからです)。したがって、聖書に基づきながらも、どの出来事をどこへ配置するかは、最後には筆者の選択にかかってくることになります。勢いある歴史的な枠を設定して、その中で、時期的に矛盾する様々な形で伝えられた伝承を組み合わせることになります。こうすることによって、イエスの霊的な出来事と復活のイエス像とイエスの御霊にある働きを伝えること、これが、福音書の記者たちの行なった「枠作り」ですから。