共観福音書
ピラトによる裁判
わたしたちが四福音書を通してピラトの裁判とこれに続くイエスの十字架刑の場面を読む時に、そこに四つの基本的な「事実」が見えてきます。こういう結論は、四福音書を検討した後で述べるべきかもしれませんが、これから扱う問題が錯綜しているために、あえて冒頭に掲げることにします。四福音書を通して見えてくる事実とは、
(1)ローマ帝国に反乱を企てたとする訴えについて、イエスは「無実の罪を着せられた」こと。
(2)イエスを告発したのは、大祭司たちユダヤの指導層であって、ユダヤとガリラヤの民衆ではなかったこと。
(3)ピラトとローマ兵たちは、イエスを「ユダヤ人の王」と呼んで嘲ったこと。
(4)イエスは「事実」ユダヤ人(イスラエル)の王であり、メシアであったこと。
四福音書を通して「見えてくる」と言いましたが、これは、四福音書が四つともこれらの事実を証ししているという意味ではありません。それぞれの福音書が、それぞれの視点から、ある点を強調し、ある点をぼかし、ある点を修正しています。また、(4)は福音書を読む信仰者の視点ですから、これは「霊的な事実」であり、したがって一般的な人の視点からは全く理解できない出来事であり、同様に、現在の歴史学的な視野には入らない出来事です。以下では、これらの事実に基づいて、それぞれの福音書で語られるピラトによる裁判の特徴を簡略に記したいと思います。
■マルコ福音書
マルコ福音書15章1〜5節/同13〜14節は次のようです(バラバの件は別個に扱ったので抜いてあります)。
ピラトがイエスに、「お前がユダヤ人の王なのか」と尋問すると、イエスは、「それは、あなたが言っていることです」と答えられた。そこで祭司長たちが、いろいろとイエスを訴えた。ピラトが再び尋問した。「何も答えないのか。彼らがあのようにお前を訴えているのに。」しかし、イエスがもはや何もお答えにならなかったので、ピラトは不思議に思った。(ここで群衆がバラバの釈放を要求)
そこで、ピラトは改めて、「それでは、ユダヤ人の王とお前たちが言っているあの者は、どうしてほしいのか」と言った。群衆はまた叫んだ。「十字架につけろ。」ピラトは言った。「いったいどんな悪事を働いたというのか。」群衆はますます激しく、「十字架につけろ」と叫び立てた。
マルコ福音書の記事は、ルカ福音書やヨハネ福音書にくらべると短くまとまっています。バラバの件が、突然に、押しかけてきた群衆から提起されますが、ここでは、この部分を抜いて裁判を考察します。マルコは、裁判の<場所>について何一つ述べていません(場所についてはコイノニア会ホームページ→聖書講話→四福音書補遺→「イエスの逮捕からピラトまで」→「逮捕後の足取り」の項目を参照)。また、裁判の<法的な>手続きにも関心を持っていません。ただしマルコは、裁判の開始から十字架の死にいたるまでの時間的な経過には注意を向けています。
だからマルコは、実際に起こった歴史的な状況よりも、別のことに関心を向けているのが分かります。その関心とは、イエスが、「神の御心に従って無実の罪で十字架刑に処せられた」ことです。マルコは「この点」に焦点を当てていますから、当然彼の書き方もこの点を強調しています。「ユダヤ人の王」という罪状書きに対して、「それはあなたが言っていること」というイエスの答えは、肯定と否定の両方を含む言い方ですが、ピラトには否定として受け取られたと見ていいでしょう。だからこそ、祭司長たちは「長々とあれこれ」イエスの罪状を述べ立てたのです。ところがイエスのほうは口を閉ざして何も言わないのです。被告が弁明しなければ、有罪にされて、この場合十字架刑に処せられます。ピラトが「驚き、かつ不思議に思った」のは当然です。イエスは、「父の御心を行なう」ために、もはや受難の盃を避けようとはしないのです(マルコ14章36節)。
こういうイエスの姿勢にピラトが「感銘を受けた」〔フランス『マルコ福音書』629頁〕かどうかは分かりませんが、訴える側と訴えられる側との態度があまりに違うことに、ピラトが不審に思ったのは事実でしょう。ピラトは、イエスに同情すると言うより、むしろ、告発者たちの見え透いた意図のほうに反感を抱いたと考えられます。
マルコはイエスの裁判開始から埋葬までを次のように3時間ごとに区切っています〔フランス『マルコ福音書』626頁〕。
(1節)夜が明ける→午前6時。
(25節)十字架→午前9時。
(33節)全地が暗くなる→昼の12時。
(34節)イエスの叫びと死→午後3時。
(42節)埋葬→夕方6時。
これらの出来事は、過越祭の当日、すなわちニサンの月(現在の4月)の15日(金曜)の後半にあたります。ただし、当時のユダヤ暦では、1日は<午後>6時から次の<午後>6時までです〔コイノニア会ホームページ→聖書講話→四福音書補遺→マルコ福音書とヨハネ福音書の受難週の対照表を参照〕。これはマルコ自身による区切りでしょうか? だとすれば、彼はなぜ特にこの部分を3時間ごとの時刻と関連づけたのでしょうか? 物事は「時計の針のように」正確には起きませんから、このままを事実と考えるのは無理があります。おそらくこのような区切りかたは、すでにマルコに伝えられた伝承において、それも口頭伝承の段階から、こういう形で伝えられていたのではないかと推定されます。特に重要な出来事を、それらが起こった順序通りに誤りなく口頭で伝えようとする際には、出来事をこのように「時計の針」に合わせて伝達する方法が採られたのでしょう。これも口頭伝承の形式の一つだと思われます〔France,
The Gospel of Mark. NIGTC. 645.〕。したがって、この時間通りではありませんが、ほぼこの時間帯に、ここに伝えられる順序で、イエスの受難が進行したと見ることができます。ただし午前9時では早すぎるという説もあります。また、33節の「全地は暗くなる」は、終末の日のしるしを表わす旧約聖書の伝承(アモス8章9節)が、ここに反映していると見るべきでしょう。
しかし、口頭伝承で、起こった出来事をこのように「時刻に合わせて」順番に語るのは、単に記憶に便利だからだけではありません。出来事をその「時間順に」並べるのは、物語 "story" の最も基本的な形です。こうすることで、物語の「始まり」と「終わり」とが形成されるからです。物語で言う「始まり」と「終わり」とは、時間的な「始まり」と時間的な「終わり」のことだけではありません。それは、「物事のそもそもの始まり」と、その出来事がどのような「終わり/帰結」を迎えたかという意味で、出来事の「内容の始まり」とそれがたどった「帰結/結果」を意味するからです。だから、イエスの十字架から埋葬にいたるマルコの「受難の時間割」は、マルコ福音書の語りの基本的な構造を示しています。
マルコは、現代のわたしたちが関心を抱くようなこと、イエスは何時生まれて、どのような環境に育ったのか?イエスが伝道を始めたのは何時のことなのか? いったいイエスは、何年間伝道したのか? エルサレムとガリラヤとの間を何度往復したのか? これらのことを何一つ語らないし、語ろうともしないのです。なぜなら彼は、現代の歴史家たちが真っ先に考えるであろうこれらのことには、全く関心がないからです。彼の関心は、そういう「歴史的な」ことではなく、イエスの伝道の出来事の「始まり」と、イエスの出来事がたどったその「結末」とを一直線で結ぶこと、それだけなのです。「神の子イエス・キリストの福音の初め」(マルコ1章1節)に始まり、その死に際して「ほんとうにこの人は神の子だった」という告白があり、「あの方は復活なさってここにはおられない」(マルコ16章6節)で終わる帰結なのです。
これで分かるように、マルコはイエスの「福音」、すなわちイエスの出来事を「物語る」のであって、イエスの出来事を意図的に「歴史化している」とは言えません。ただしマルコは、イエスの物語 "story" を「時間順」に語ることによって、物語に「歴史」 "history" 的な性格を持ち込んだことになります(例えば日本神話やギリシア・ローマ神話には、出来事の「時刻/時間」が語られることはありません)。これは、マルコ福音書の記者自身も意識しなかったことなのかもしれません。
15章2節で、ピラトはイエスに「お前がユダヤ人の王なのか?」と問いかけます(「ユダヤ人の王」については前回の「イエスとピラト」を参照)。ところが同12節には「ユダヤ人の王<とお前たちが言う>あの男」とありますから、ピラトが言う「ユダヤ人の王」は、祭司長たちが彼らの訴えの中で用いた言い方だったことになります。しかし、ユダヤ人が自分の口で「ユダヤ人の王」と言うのは不自然です。「お前たちが言う」が抜けている有力な写本がありますので、この句は後からの挿入だと見ることもできます。ただし、文法的に見ると、この句は、マルコのほんらいの原文と切り離せないと見て、一応括弧付きで認められています〔『新約テキスト批評』118頁〕。
だから、この「お前たちが言う」は、「ユダヤ人の王」という称号が祭司長たちの口から出たものとして、その責任を祭司長たちに負わせようと後から加えられたと考えられます。フルッサーは、マルコ福音書とルカ福音書との十字架刑の記述を比較して、ルカ福音書のほうが伝えられた資料に忠実で、それだけ信憑性があるとした上で、マルコ福音書では、出来事が「反ユダヤ的に」編集されていると指摘しています〔フルッサー『ユダヤ人イエス』17章「十字架につけられた者とユダヤ人」〕。同様のことが「群衆」でも言えます。マルコ福音書では、「十字架につけよ」と群衆が二度叫んだとありますが、ルカ福音書では、イエスを告発した者たちと、イエスの受難を悲しむ群衆とが区別されています〔フルッサー前掲書〕。
裁判に先立つ最高法院では、大祭司が「お前はほむべき方の子、メシアか」と、ユダヤ的な称号を用いてイエスに訊ねています。だから、最高法院でイエスを死刑に処すことが合意された後で、大祭司たちは、ローマ側から確実に死刑を引き出すために、慎重に案を検討してから、イエスが「王」を僭称して<政治的に>ローマに反抗しようとしたかどで訴えたのです。ユダヤ人なら「イスラエルの王」と言いますから(15章32節)、「ユダヤ人の王」という称号それ自体は、訴訟の内容を汲んだピラトが、彼なりの言い方で初めて口にした可能性があります。その証拠に、ここ2節から25節まで、この称号が繰り返しでてきて、それらがすべて嘲りをこめて用いられています。
ユダヤの指導者たちは、ピラトが自分たちの要求を飲まざるをえないように予め仕組んだのでしょう。おそらくピラトは、このような彼らの意図を見抜いて、自分を操ろうとしている「ユダヤ人」に対する皮肉をもこめて、「彼らの王」を嘲ったのです。だから、その嘲りは、イエス個人に向けられていると言うよりも、むしろユダヤ人全般に向けられているのです。このピラトの姿勢は、続く彼の兵士たちのイエスへの嘲りにもはっきりと見て取れます。ピラトは巧妙ですから、あからさまにユダヤの群衆を愚弄することはしません。しかし、イエスの扱いについて、ユダヤ側の思惑にはめられて、不本意な同意を与えさせられたことを不快に思ったのでしょう〔フランス『マルコ福音書』625頁〕。マルコがイエスの裁判全体を通して、イエスの無罪を意図的に強調することができたのは、ピラトのこのような姿勢がその背後にあったからだと考えられます。
ただし、ピラトが示したユダヤ人に対する「嘲り」のほうは、マルコのテキストの背後から、そのような事実を読み取ることができるだけで(ヨハネ福音書の場合はこの事実がはっきりと見えてきます)、マルコ自身は、これを意図的に表に出そうとはしていません。イエスの無実とイエスに向けられる嘲りとは、一見矛盾するようにも見えますが、実はこの二つは表裏を成していて、イエスが、どう見てもローマ側の抱く「ユダヤ人の王」のイメージにそぐわないことが、イエス本人への嘲りの理由であり、それが同時に、ユダヤ人が抱くメシア像、ローマの支配から解放してくれるイスラエルの英雄像へ向けられるローマ側からの嘲笑と重ねられているのです。
■マタイ福音書
マタイはマルコの記述を簡潔にまとめた上で、妻の夢の話と、「手を洗う」行為を含むマタイ27章24〜26節とを加えています。どちらも、マタイ福音書以外に並行記事がありません。これで見ると、マタイもマルコ同様にイエスの無実を強調しています(妻がピラトに「あの義人」と言うのは裁判に際して「無罪」だという意味)。
しかしマタイは、マルコ以上に、イエスの十字架が「ユダヤ人」の責任であることを強調していて、これを次のように表わしています。
(1)ピラトがイエスの無罪を確信していること(「妻の夢」と「手を洗う行為」と、判決が「騒動を恐れた」からであることは、いずれもマタイだけの編集)。ヨハネ福音書19章8節にもピラトがイエスに対して「恐れ/畏れを覚えた」とあります。マタイもピラトがイエスを前にして覚えたある種の恐れを「妻の夢」として伝えているのでしょう。マタイは、後になってローマ帝国がキリスト教に対して覚えることになる脅威を、ピラトの妻の夢として伝えているのかもしれません。
(2)ユダヤ人が一体となってイエスの処刑を要求したこと。マルコ福音書では「群衆」は単数ですが(マルコ15章11節)、マタイ福音書では「群衆」が複数に変えられていて、複数の「群衆」(27章20節)から「全員」(同22節)へ、そして群衆全体が一つになって単数の「群衆」になり「一斉に」(同25節)イエスの十字架刑を要求します。祭司長たちの説得が波紋のように広がって、次第にユダヤの民全体を巻き込んでいく様子が描かれています。
(3)ピラトが、自分は「この人の血については潔白だ」と言うのを受けて、民衆は「彼の血は我々と我々の子孫の上に」と応えます。
ただし、マタイ自身はユダヤ人であり、マタイの教会の人たちも、おそらく大部分はユダヤ人キリスト教徒たちです。だから、マタイのこのような記述は、ユダヤ人への憎しみや差別からではありません(不幸にしてマタイ福音書のここの記事がユダヤ人への差別に悪用されたのは周知の通りですが)。マタイのこのような描写には、二つの理由がその背景にあると考えられます。
一つは、マタイ福音書の伝えるイエスの「神の国」が、ユダヤ人だけでなく、異邦人にも向けられていることを表わすためです。この点は、すでにガリラヤ伝道でのイエス自身の宣教に含まれていたもので(マタイ4章14〜16節)、マタイの教会はイエスのこの遺志を受け継いでいます。この傾向は、エルサレム神殿の喪失とユダヤの滅亡(70年)によっていっそう加速されました。マタイが同族のユダヤの民に厳しい目を向けるのは、ユダヤの国の滅亡が、救い主であるイエスを拒んだ結果招いた神の裁きだと考えているからでしょう。
もう一つの背景には、ユダヤ教とキリスト教との対立があります。70年代以降、生き残ったファリサイ派ユダヤ教は、いち早くユダヤ教の再編成に着手しました。ラビ・ヨハナン・ベン・ザッカイやガマリエル2世のような優れた指導者が現われて、パレスチナ以外の地に広がるヘレニズム・ユダヤ教の諸会堂を拠点に、新たなユダヤ教の正統化を図ったのです。彼らのユダヤ教は、もはやかつての民族主義的な「ユダヤ主義」ではなく、世界に通用する普遍性を有する「汎(はん)ユダヤ主義」に基づいていました。
ところが、同じ頃、ユダヤの滅亡という同じ理由から、キリスト教の諸教会もまた、それまで自分たちが拠点としていたヘレニズム・ユダヤ教の諸会堂から独立して、シリアのアンティオキアや、小アジアのエフェソやスミルナなどの諸都市を拠点に、ヘレニズムの異邦人世界への宣教を志していたのです。ユダヤ教もキリスト教も、どちらも、離散のユダヤ人の会堂を中心にして、小アジアからエジプトとローマなど、地中海世界への宣教を目指していました。
こういうわけで、1世紀の終わり頃から2世紀前半にかけて、ユダヤ教とキリスト教とは相互にライバル関係に立つことになり〔Frend, The Rise of Christianity. 120-21/123-24.〕、この事態が、両者の厳しい対立と敵意を生み出す原因になったのです。ユダヤ教側の新たな「汎」ユダヤ主義が、これも異邦世界を目指すキリスト教側からの「反」ユダヤ主義を招いて、これがまた正統ユダヤ教からの反キリスト教となってキリスト教側に跳ね返ったのです。四福音書が書かれたのは70〜90年頃ですから、このような時代背景のもとにあって、イエスの時代とは異なった意味で、マタイ福音書やヨハネ福音書を始め、四福音書に「反ユダヤ主義」の陰を落とす結果になりました。
■ルカ福音書
ルカ福音書の描写は、マルコ福音書=マタイ福音書のそれとはかなり違っています。ルカ23章2節/同4〜16節はルカだけの記述ですが、特に6〜16節(イエスとヘロデとの会見とヘロデによる無実の裁定)はルカ独自のものです。また17節は後からの挿入で、ほんらいのルカ福音書にはなかったと考えられています〔『新約テキスト批評』179〜180頁〕。しかし17節を抜くと18節で突然バラバがでてきて、16節とのつながりが分かりません。17節はマルコ福音書15章6節から採り入れられたと考えられますから、そうなると、ルカ福音書23章13〜25節の死刑の判決部分全体も、マルコ福音書に依存するものでは<ない>ことになります。ルカは独自の資料とマルコ福音書の記述とを組み合わせているようです。今回の部分の扱い方でルカの特徴をあげると次のようになります。
(1)ルカ福音書では、ピラトが3度もイエスの無罪を提示しています(ルカ23章22節)。すなわち彼は、イエスが無実の罪で十字架刑に処せられたことを明確にしようとしています。この点はほかの福音書とも共通しますが、「ユダヤ人の罪」については、ルカ福音書はマタイ福音書とは違っています。マタイは、ユダヤ人全体の罪を問おうとしていますが、ルカは、ヘロデの前で「祭司長たちと律法学者たちが、イエスを<激しく>訴えた」とあって、その場の群衆全体よりも、むしろ、指導者たちの責任を重く見ているのがわかります。「群衆」が初めにでてきますが(23章13節)、おそらくこれはルカの資料からでしょう。それ以外は主語が曖昧で、誰が「十字架に付けよ」と叫んだのか、はっきりしません(新共同訳では「人々」を入れて訳しています)。
(2)ヘロデとイエスとの出逢いはルカ福音書だけです。ルカが資料に忠実であることを考えあわせると、これはルカだけの伝承資料に基づくと思われます。この部分がルカの創出であるとは考えられません。逆にルカは、ヘロデについての独自の資料を持っていたと考えられます(ルカ1章5節/3章1節/8章3節/23章6〜12節/使徒12章)。それだけに、この伝承の信憑性が問題になりますが、ヘロデ・アンティパスがイエスの出身地ガリラヤの領主であることから、彼はイエスに特別の関心を寄せていましたから(ルカ9章7〜9節)、祭りでエルサレムへ来ていたのなら、イエスとの会見を図ったことは十分考えられます。しかし事の真偽を確かめることができません。
(3)ルカは、ここでヘロデを登場させることによって、彼の前で口を開かなかったイエスをイザヤ書53章7節の「ほふり場に引かれる小羊のように口を開かなかった」受難の僕の姿と重ねています。それはルカが、この「油注がれた」受難の僕を詩編1篇1〜2節と結びつけているからです(使徒4章25〜27節参照)〔シニア『ルカ福音書におけるイエスの受難』168〜73頁〕。
(4)ヘロデがイエスに「きらきらの」衣を着せたのは、天界から来た光り輝く天使を連想させるもので、この衣は、身をかがめて黙して語らないイエスをメシアだと信じる人たちへの嘲りを現わすためでしょう〔シニア前掲書〕。
(5)イエスを訴える者たちの見ている場で、イエスの処分をめぐって、ピラトとヘロデとが互いに責任を押しつけ合っている様子が見て取れます。これによってイエスの無実がいっそうはっきりと読者に伝わるのは確かです。
(6)ピラトは、イエスを釈放するために「懲らしめの鞭打ち」を提言しています。ただし、23章16節と22節とがダブっている印象を受けますから、ルカは、同じ出来事を伝える二つの伝承を二つながらそのまま用いた形跡があります。「懲らしめのための鞭打ち」という点では、ルカ福音書とヨハネ福音書とは共通します。これは、マルコ福音書=マタイ福音書の十字架刑に先立つローマ兵による鞭打ちとは異なっています。
(7)以上のように、ルカはマルコ福音書と共通するものの、独自の経路で伝わった伝承資料を持っていたと考えられます。彼は、これに基づいてピラトの裁判の場面を構成していますが、ローマ兵からのイエスへの侮辱行為が抜けていることなどから、ヘレニズム世界の統治者であるローマ側に配慮した描き方になっていると言えましょう。
以上で分かるように、ルカはローマ側が、イエスの無実を提示したことを強く印象づけています。その上で、イエスの処刑の責任がユダヤ人の指導者にあると見ていて、この点でも、ルカ福音書はヨハネ福音書と共通します。ルカ福音書に従うなら、ピラトは始め、「懲らしめの鞭打ち」だけでイエスを釈放することを提言したのですが、ユダヤの指導者たちに受け容れられず、結局、十字架刑に先立つ鞭打ちに変更されたことになります。あるいはこれが実際の出来事に近いのかもしれません。
ルカはその福音書の冒頭で、「すべてのことを詳しく調べて」「順序正しく」書き記したと述べていて、ルカが「歴史家」と呼ばれるのはこの理由からです。これは次の三つのことを意味します。
(1)ルカは起こった出来事の「順番」に注意を払っていること。
(2)ルカは、ヘレニズム世界の人たちが理解しやすいように、パレスチナ的な語句を言い換えていますが、基本的には、伝承された資料を重視していること。
(3)出来事を順序立てて物語るためには、全体を一貫する「理念」あるいは「神学」が必要であること。
(1)の点でルカは、マルコ福音書の時間枠を下敷きにして、その枠の中で出来事を順序づけています。(2)の点でルカは、語録集を扱う場合などに、マタイよりもはるかに伝承資料に忠実です。マタイ福音書の山上の教えよりも、ルカの平地の教えのほうがイエスにさかのぼる伝承に近いのもこの理由からです。(3)では、ルカは、福音書と使徒言行録とを結んで、全体をひとつの福音史としてとらえようとしています。