人間の永遠性について
 
【その1:人間の創造】
■血は命
 今回は、イエス様にある「命」についてお話ししたいと思います。今年わたしは、難しい病気にかかっている知り合いの女性にこう書き送りました。
 
 わたしはあなたにぜひ知ってほしいことがあります。それは、イエス様を救い主として信じるすべての人には、全く新しい命が与えられる、ということです。「だれでもキリストにあるならば、そこには新たな創造が起きるのです」(第二コリント5章17節)とあります。これは、わたしたちが、イエス様から全く新しい「からだ」(存在)を与えられることなのです。それは「霊のからだ」です。信じられないかもしれません。しかし、ほんとうです。  第一コリント人への手紙15章42〜44節には、わたしたちイエス様を信じる者たちには、霊のからだと自然のからだとが与えられていると書かれています。「霊のからだ」は、ギリシア語で「プネゥマのソーマ」と言い、自然のからだは「プシュケーのソーマ」と言います。「プネゥマ」のほうは、皆さんすでにご存知の通り「霊/風/息」の意味です。「プシュケー」のほうは「魂/命」を表わすギリシア語です。恋愛はプシュケーに宿りますから、ギリシア神話に、プシュケーとエロースの神話があります。
 通常、聖書は「プシューケー」 と「プネゥマ」とが与える二つの「からだ」を区別して、一方はこの世で朽ちるけれども、もう一方は永遠に存在する、一般的にはこのように説明されています。このほうが分かりやすいからでしょう。しかし、今日わたしがこの二つを採りあげたのは、二つを区別するためではありません。そうではなく、これらのふた種類の「からだ」とそれぞれに宿るふたつの「命」、言い換えると「肉体に宿る命」と「御霊にある命」ですね、これらは、相互にどのように関わり合うのか? という非常に難しい、それでいて、とても大事な問題です。
 では創世記の御言葉を読むことから初めます。
 
「しかし、あなたたちは、肉をその命の血と共に食べてはならない。」
                     (創世記9章4節)
「人の血を流す者は、人によって彼の血も流される。
 (神は)人を神の姿に造られたからである。」
                     (創世記9章6節)
 
 旧約聖書には、「血は命である」とあります(レビ記17章14節)。これはとても大事な御言葉です。「血」と聞けばわたしたちは、すぐにイエス様が十字架上で流された「罪の赦しの贖いの血」を思い出します。でも、旧約聖書に「血は命/命の血」とあるのには、三つの意味が重ね合わされています。第一に、わたしたちが現在用いている医学的な意味での「血液」のことです。血液が大事なことはだれでも知っています。しかし、医学的に見れば、血液が命そのものだとは言えません。ですから、「血は命」というのは、単に医学的な意味で血液を見ているのではないことが分かります。では何かと言えば、「血」が「命」であるというのは、第二に血が命を「現わしている」こと、すなわち、「命」の象徴ですね。日本の国旗が日本の象徴であるように、あるいは十字架がキリスト教の象徴であるように、血は命の象徴なんです。「象徴的」を「霊的」と言い換えてもいいです。だから6節にある「人の血を流す」ことは、人を殺すこと、人の命を奪うことです。「血」には、「血液」の意味と「いのち」の意味、科学的な意味と象徴的な意味とが重ね合わされているのです。
 この二つが重ね合わされているのは、第三に、聖書がそう言っているから、言い換えると、それが「神様の御言葉」だからです。「血」は、赤血球と白血球で成り立つただの液体ではない。それには、その人の命が宿っています。だから「血」は「尊いもの」であり「神聖なもの」です。「神様の御言葉」が、血液を命の象徴にすることで、血を尊いもの、神聖なものにしているのです。これは神様を信じない人には分からない。だからそういう人は平気で人の血を流すのです。
 このように、科学的な意味と象徴的/霊的な意味と、この二つを結ぶ神の御言葉、この三つが一つになって初めて旧約聖書でいう「血が命」ということが成り立つのが分かります。ここでは科学的な意味と霊的な意味とが、神の御言葉によって一つにされています。さらに、霊的な意味は「尊い」とか「神聖な」という価値観を伴うことにも注意してください。神様の御言葉は、このように科学的な「血液」に価値観を与えるのです。イエス様が流された「血」が、「罪の赦しの贖いのため」であるという信仰が、こういう霊的な意味から生まれてきました。だから、価値観は、「〜のために」という目的を与えるのです。血液が命になり、命が神聖になり、神聖な命が目的を与えられるのです。神様の御言葉は、このようにして、物を霊的なものに変え、これに価値観を与え、そうすることで目的を示すことが分かります。
 神様が血は「命」という時には、「命」の血が「流れている」こと、言い換えると常に「動いている」ことが大事です。流れない血は「死んだ」血です。流れて動いている血だけが命を現わすのですね。イエス様は「生きた水」ということをおっしゃった(ヨハネ7章38節)。「生きている水」というは、流れている水のことです。シロアムの水は池の水だから流れていないと思ったらとんでもない間違いで、あの水は地下水でさらさらと流れています。「生きている」というのは、このように常に動くことなのです。聖書の神は「生ける神」だと言うのはこういう意味も含んでいます。神様は、「生きておられる」から、常に働いておられるのです。このようにヘブライ語の「生きる」は、現代の生物学的な「命」のことよりも、むしろ価値観に基づく「生き方」の意味のほうが強いと言えます。「義人は信仰によって生きる」とあるのもこのような「生き方」のことです
■2種類の人間存在
 次に創世記2章7節を読みましょう。
 
「主なる神は塵の人(アダム)を土(アダマー)から造った。
そして、その鼻に命の息(ニシュマット・ハイーム)を吹き込んだ。
すると人は生きた自分(ネフェシュ・ハヤー)になった。」
                  (創世記2章7節)
 
 「土から<塵の人>を造った」とあるところは、「<土の塵>で人を形作った」〔新共同訳〕とも読むことができます。どちらの読み方でも意味はそれほど変わらないと思いますが、神様は、まず土から「塵の人」を造られて、それから、その「塵の人」に神様の「命の息」(ニシュマット・ハイーム)を吹き込まれた。すると、「生きた人」(ネフェシュ・ハヤー)になったと読みたいと思います。このように読むと、人が「塵の人」と「息の人」の2段階に分けて造られたことがよく分かります。
 この2段階は、エゼキエル書37章7〜10節の「枯れた骨の生き返り」にもつながります。エゼキエル書の37章は、イスラエルの復活信仰を知る上でとても大事なところです。預言者が枯れた骨たちに語ると「骨と骨とが近づいて、その上に筋と肉が生じて、皮膚がその上を覆った」とあります。ちょうど現代の考古学者が、大昔の人類の骨や動物の化石から、粘土のようなものを使ってその人の顔や動物の姿を復元するのと似ています。これが第1段階で、創世記の「塵の人」にあたります。でも、姿形(すがたかたち)はできたけれども、そこにはまだ「霊がなかった」のです。そこでエゼキエルがもう一度預言すると、「霊が四方から吹いてきて」それらの姿形に入り込むと、彼らは生き返って立ち上がったのです。これで見ると、先ず人の姿形ができて、それから「命の息/霊」が入り込んだことになります。ただし、創世記では、人が最初に創造される時のことですが、エゼキエル書のほうは、おそらく戦場で死んだ人たちの骨が「生き返る」ところです。創世記の記事は、このように、後のイスラエルの「生き返り」や「復活」思想へつながる大事なところです。
 では創世記2章7節の用語について説明します。「主(ヤハウェ)なる神」とあって、「ヤハウェ」と「神」(エロヒーム)の両方が結びついていますが、これは創世記2章に11回、同3章に8回でていて、聖書全体から見ても、この部分に集中して表われます。このように「ヤハウェ」と「エロヒーム」が結びついた神の御名がでてくるのは、創世記のこの部分が、おそらく捕囚期に編集されたからでしょう。
 「土」は「アダマー」ですが、「塵」は「アファル」です。「土の人」ではなく「塵の人」となっているのは、創世記3章19節の「塵にすぎないお前(人)は塵に帰る」から来ています。だから「塵の人」は「土の人」と同じです。
 神様は、土で造った人間の姿形に「ニシュマット(息)・ハイーム(命)」を吹き込んだとありますが、これに類似する話は、古代のバビロニアにも、古代エジプトにも、ギリシア神話にも、アジアの神話にも見られます〔Wenham Genesis chap.2, v.7〕。「ニシュマット・ハイーム」の「ニッシャーマー」は「息/息する物/生きている動物/霊魂」を指しますから、これは、人間だけでなく、他の動物をも生かす「息」のことです。「息」だけでなく「もろもろの命」(ハイーム)と複数なのは、動物一般を含めているからでしょう。だから、この段階の人間は、動物並みの「息の人」で、鼻で息をして動く人間のことです。
■解釈の仕方について
 古代ヘブライの宗教を学術的な見地から見て、創世記の記事だけに限定して歴史的に解釈するならば、ここは、人にも他の動物と同様に生物的な命の息が与えられたことだけを述べていることになるのでしょう〔John Skinner. Genesis. The International Critical Commentary, T.&T. Clark (1930).57.〕。しかし私の読み方は、こういう立場とは異なっています。なぜなら、わたしは、創世記の記事を後のエゼキエル書の記事と結びつけて解釈しようとするからです。言うまでなくこれは、エゼキエル書に創世記のこの箇所が反映しているからです。エゼキエル書だけでなく、わたしはこの創世記の記事をイエス様ご自身の「生命観」とも結びつけて観ようとしています。こういう見方は、単なる学術的で歴史批評的な聖書解釈とは異なる視点です。と言ってもわたしの見解が<非>学問的だという意味ではありません。学術的に言えば、わたしのような解釈は、「神的な火花」が人間に入ったという神話学的な解釈に分類されるのでしょう〔Gordon J. Wenham. Genesis 1-15. Word Biblical Commentary. Texas; Word Books (1987). Electronic Edition by Logos Research System.Chap.2;verse 7.〕。しかしわたしは、ここで神話学を扱おうとしているのではなく、聖書全体をナザレのイエス様の霊性に近づく鍵として読み解こうとしているのです。
■生きている「自分」
 しかし、ここでは特に人間の創造が語られているのですから、この「命の息」は、単に動物的な生命を支える「息」を意味するだけでなく、さらに高次な内容へつながる可能性を秘めています。「ニッシャーマー」には、「息」だけでなく「霊」の意味もありますから、「ルアハ」(息/風/霊/知力)とほぼ同じ意味でも用いられます。だから、ここの「命の息」は、「命の霊」にも通じる内容を含んでいると言えましょう。だとすれば、エゼキエル書37章にでてくるように、死んだ骨が人の姿になり、これに「霊が吹き込まれる」ことで、民全体の回復が、「人の生き返り」として表わされていることになります。
 創世記2章7節には「生きた自分(ネフェシュ・ハヤー)になった」とありますね。「ネフェシュ」というヘブライ語は「息/命/魂/自分」などの意味ですが、これを「命」と訳すと「生きた命」になりますから、同じことの繰り返しで少しおかしいです。聖書は、人間を「肉体」と「心/精神」と「霊」の三つに分けて観ると言われますが、「ネフェシュ」には、生物としての「生命」の意味があります。息をしている、心臓が動いている、動くことができることで、これは動物が「生きている」のと同じです。
 ただし、人間はほかの動物と同じように息をしているけれでも、ただそれだけではない。神様と交わることのできる人格が具わっています。食と性を中心とする動物的な自己保存の本能だけでなく、動物にはない霊的な自己意識ですね。すなわち「自分」という人格性を具えています。創世記2章7節での「ネフェシュ」は、全人格的な存在を表わします。「ネフェシュ」は、「からだ」と不可分であり、その「形姿」を意味します。したがって、この言葉は、人間の個人性である「エゴ」を指すのです〔TDNT(9)620〕。
 だから、「生きたネフェシュ」のことを「生きた自分」と訳しておきます。「生きた自分になった」のなら、「死んだ自分」もあるはずです。だからここを「生き生きした自分」と訳してもいいです。人間は神様から「命の息/霊」をいただいて初めて、ほんとうに生き生きとした自分になることができるのです。こういう解釈をこの創世記の記事から読み取ることができるのは、人間が他の動物と違って「神の像/似姿に」造られたからです(創世記1章27節)。だから、エデンの園で神と霊的に交わっていた頃の人間には、ほんらい、このような霊的な輝きが具わっていたのです。
 以上で用語の説明を終わりますが、ここで大事なことを指摘しておきます。アダムが「生きた自分」になったのは、神様の「ルアハ」(霊/息)が人に宿ったからです。どんなふうにして、神様のルアハが宿ったのかと言えば、神様が「御言葉を発した」からです。ここでも、生物的な意味での人の「生命」と、神様の霊から来る「命」と、これらを創り出す「神の御言葉」と、この三つが一つに重ね合わされています。
■死んでいる人
 もう一箇所引用します。イエス様に従おうとする人が、その前に父を葬りに戻らせてくださいと願った時に、イエス様は「死人を葬る仕事は死んだ人たちに任せて、あなたは神の国を伝えなさい」(マタイ8章22節)と言われました。「死人」とあるのは死体のことですから、これは霊の宿っていない「塵の人」のことです。ところがイエス様はここで、動物と同じに「息」をして動いている人たちのことを「生きた人」とは言わずに、「死んだ人たち」と言われたのです。神の御霊が宿ることで、人は初めて「生きる自分」になるからです。このように、人が本当の意味で「生きる」とは、「命の息/霊」「生き生きした自分」「神の似姿」として生きることだとイエス様は言われたのです。人間が本当の意味で「生きる」とは、動物的な生命以上の価値観を顕わすことであり、人はこのために創られていることを指し示しておられるのです。
 この原稿を書いている8月15日の朝、BS3で午前9時から10時まで、「硫黄島の玉砕」と題する番組がテレビで放映されました。わたしはこれを見て、驚くと同時にショックを受けました。なぜなら、それまで、硫黄島の日本兵は、栗林中将以下、全員が最後の玉砕突撃で戦死した。こう思い込んでいたからです。けれどもこれは、当時の軍部の偽りの発表であることが米軍の記録などから分かったのです。実は、栗林中将以下の総攻撃の後でも、島内のたくさんの豪の中には何千人という日本兵が生き残っていたのです。彼らのほとんどは病気で、食糧も全くなく、ただ死を待つ状態だったのです。もはや戦争することもできず、司令部も存在しませんから、戦争そのものが無意味な状態でした。アメリカ側は、最初は、彼らに拡声器で投降を呼びかけました。島の戦争は完全に終わったからです。
 ところが、日本兵は投降しませんでした。と言うよりも、投降を許されなかったのです。呼びかけに応じて、一人の若い日本兵が豪の入り口まで出てくると、日本の将校によって後ろからピストルで射殺されるのを一人のアメリカ兵が目撃して、テレビで証言していました。生き残ったわずかの日本兵たちが、61年経ってから、ようやくテレビの前で、本当のことを語ってくれたのです。大本営は、全員玉砕したと嘘の報道を発表していました。こういう報道をした以上は、生き残って投降する兵隊が、たとえ一人でも「いてはならなかった」のです。兵士たちも、このことをよく知っていました。たとえ投降して、生き残って日本へ帰ることができたとしても、数日後には銃殺される。そう考えていたと生き残った人が証言しています。
 アメリカ兵たちは、なぜ日本兵が投降しないのか不思議でならなかったようです。しかし、だんだんと真相が分かってくると、アメリカ側は、豪の中の日本兵を徹底的に殺す作戦を実行し始めました。これに参加したアメリカの兵隊たちは、いったいなんのためにこんなことをするのか、理解に苦しんだとテレビで証言していました。殺すアメリカ兵たちも上官の命令に従わざるをえなかったのです。その中の一人がこう言っていました。「わたしたちはずいぶん惨いことをしたと思っている。しかし、責任はわたしたちにあるのではない。彼ら日本兵をこのように仕向けた日本の教育にある」と。「教育」と言うよりは、国民を欺いて、せっかく生き残った日本兵たちをアメリカ軍に殺させるよう仕向けたのは、実は日本の大本営の軍部だったのです。これは太平洋戦争中に起こったほんの一例です。日本だけではなく世界中で、現在でも姿形を変えて、全く同じ流血と殺人の行為があちこちで行なわれています。
 このような「死」は、病気で死んだり、老衰で死ぬという自然の死ではありません。なぜならこれは、人間が意図的に「作り出した死」だからです。「自然死」ではなく「歴史的な死」なのです。その人が1日生きることによって、その日に100人の人が殺されていく。こういう暮らしを平然と行なった人たちが過去に大勢いたし、現在でも大勢います。聖書はこういう人たちのことを「死」を作り出し、憎しみを生み出し、偽りを語る「罪人」と呼ぶのです。イエス様を初め聖書は、このように、「死を作り出す」人たちをいかなる意味においても「生きている人」とは呼ばないのです。彼らは「死んでいる人たち」だからです。「生きている人」なら、自分の周囲に命を育て産み出そうとするはずです。しかし、「死んでいる人たち」は、自分の周囲に死を作り出そうとするのです。これで分かるように、イエス様が「生きている人たち」あるいは「死んでいる人たち」と言われるのは、身体的に地上に存在しているか、いないかは、直接かかわりがないのです。この地上には、「生きている人たち」と「死んでいる人たち」とが存在しているのです。
■まとめ
以上をまとめると次のようになります。
(1)人間は、肉体の姿形を神から与えられています。でもこれだけでは生きているのか死んでいるのか分かりません。「生きている」とは「動く」ことで、死体は動きません。「生きる」は価値観を伴う「生き方」の意味です。
(2)人間は姿形だけではなく、さらに「息」をします。息が与えられると生きて、息を引き取ると死ぬのです。「引き取る」は、神によって息が「引き取られる」ことです。神が息を与え、息を引き取るのですから、命は神から来ています。だから聖書の神は「生ける神」であり「命の神」です。「命」は神のものであり、個々の人間を超えて、神が命を左右しておられるのです。これが聖書の基本的な信仰です。「主は生きておられる」と聖書に度々でてくるのも、ここから来ています(サムエル記上25章34節/列王記上22章14節)。ただし、ここまでは、人間と動物とは変わりません。
(3)ここからが、特に人間の創造に関係してきます。「命の息」とあり「生きた自分」とありますが、「息」は「霊」の意味をも含んでいますから、人間には神から来る「命の霊」が与えられています。これは生き物としての動物の「息」とは違う意味です。動物には「正義」や「愛」などの倫理的な生き方、あるいはっこれと反対の「罪」や「不義」の生き方という区別がありません。「ネフェシュ」は「息/命/魂/自分」の意味ですが、ここでは、特にその人のほんとうの「自分」、すなわち「人格κ」のことであり、その「ほんとうの自分」が、その人の「真の命」になるのです。人には神様から授与された人格的な霊性があります。神様からの御霊の働きによって、人は初めて「生き生きした自分」になるのです。
(4)「生きた自分」の反対は「死んだ自分」です。これは死体のことではありません。この意味での「死」は、生物学的に死ぬことではありません。そうではなく、「罪によって死ぬ」ことなのです。聖書の「死」は罪がもたらす結果のことです(ローマ6章23節)。「生き生きした自分」と対立する「罪によって死んだ自分」のことです。
(5)「生きた自分」とは、神様の御霊を宿して輝く自分のことで、これが「神の似姿」の自分です。「愛」や「信仰」や「希望」などの尊い価値観は、こういう霊の人の人格から生じます。「神の姿」には、神の「御栄光/輝き」が具わっています。御栄光を顕わす神の似姿こそが、人にふさわしい人格的な霊性なのです。人間は、神の霊を宿すことによって霊存する存在です。「生きる」というのはこの意味です。創世記からヨハネ黙示録まで、聖書が言う「命」の本当の意味がこれです。このような「命」は神に属していますから、「命」は本質的に永遠性を帯びています。この「命」の反対が「死」です。ここで言う「永遠」も古代ペルシアで言われていた、時間・空間を超絶した絶対的な抽象概念としての「永遠」のことではなく、「いついつまでも終わりなく続く」という具体的な時間の継続のことですから、ある意味で現代の私たちが考える宇宙の「永遠性」に近い時間観念です。
(6)最後にこのような生命の霊存は、神の御言葉から出ていることを知ってください。
 
〔用語解説〕H(ヘブライ語)G(ギリシア語)
H「ヤハウェ」は「神の御名」。「エロヒーム」は「神」。
H「塵(アファル)の人(アダム)」→創世記3章19節「塵にすぎないお前(人)は塵に帰る。」
H「ニッシャーマー」は「息する動物/霊魂」→人間は動物並みの「息の人」。
H「ネフェシュ」は「命/魂/自分」の意味→新約の「プシューケー」に対応。
H「ハーヤー」は「命/生きた」の意味→新約の「ゾーエー」に対応。
H「ルアハ」息、風、霊、御霊→新約の「プネゥマ」に対応。
G「プネゥマ」息、風、霊、御霊。
G「プシューケー」魂、生物的な命、自己/自分。
G「ゾーエー」救いの命、霊的な命。
■言葉現象
 「まとめ」の(6)に神様の御言葉がでてきましたから、ここで「言葉現象」について説明します。わたしたちは普段言葉を用いていますが、実は言葉は大きく二つに分けて考えることができます。科学的な言葉と、霊的な言葉です。「今日は天気がいい。」「この机は四角だ。」これらは科学的な言葉です。「今日は天気がいい」と言われたら、わたしたちはすぐ外の天気を見て、それがほんとうかどうかを確かめることができます。「この机は四角だ」と言われたら、目で見てそれがほんとうかどうかを確認できます。このように、言葉を言葉の外の出来事や物とを結びつけて、目で見て確かめることができるのが科学の言葉の特徴です。
 ではこれに対して、「霊の言葉」はどうでしょう。「霊の言葉」に近いものとして、「詩の言葉」を例にとります。「古池や蛙(かわず)跳び込む水の音。」芭蕉のこの句を読んで、「池」とあるのはどこの池だろう、蛙はどこにいたどんな蛙だろう、と一つ一つの言葉をその言葉の外にある事物と結びつけようとすれば、かえってこの句の意味をとらえ損ないます。この句は、読む人それぞれの心にイメージとして働くからです。言葉が作り出すイメージが大事なので、そのイメージを目に見える具体的な事物と結びつけようとすれば、逆にイメージは壊れてしまうのです。
 電気器具のマニュアルは、そこに書かれている言葉一つ一つを、言葉の外にある器具と結びつけなければ意味がありません。どんなに美しい言葉で書かれていても、言葉と器具とが一致しなければ、その器具を動かして使うことができませんからね。詩の言葉とマニュアルの言葉とは、この点が全く違います。一方は、言葉の外にある実際の事物を目で見て耳で聞いて手で触って確かめなければ意味を持たない言葉です。だからこれは科学的な言葉です。21世紀のわたしたちは、こういう科学的な言葉に慣れていますから、言葉とはそういうものだと思い込んでいるところがあります。
 「それゆえ、信仰と、希望と、愛、この三つは、いつまでも残る。その中で最も大いなるものは、愛はである」(第一コリント13章13節)。皆さんは、この言葉を聞いて、「信仰」とはどこにあるのだろう? 「希望」とはなんだろう? と確かめるために、辺りをきょろきょろ見回しますか? これらは、霊的な言葉です。「霊の言葉」は、科学的な言葉よりも詩の言葉に近いです。なぜなら、それは、言葉そのものを聞くことだけに集中することが大切で、言葉を外部の状況と結びつけようとしてはいけないからです。「わたしを信じなさい」「あなたを愛している」「希望を持ちなさい」、これらの言葉は、その言葉が「発せられる」こと、「語られる」ことに意味があって、発せられた言葉が、外の実際の事物とどう関係するのかによって判断すべきではないのです。「僕を信じてください」という言葉は、その言葉が「発せられる」ことそれ自体が「出来事」です。言葉の外に別の出来事や現象が、目に見える形で存在するのではありません。こういうのを「ことば現象」と言います。「言葉現象」は、目で見たり、手で触ったりできる現象ではありません。
■働く言葉
 では、神様の「御言葉」は、外からは全く見えないのかと言えば、そうではありません。ある会社の社長さんが、「我が社はこれからこれこれの方針で行く」と発言したとします。「これこれの方針で行く」のですから、「これこれ」は、その言葉が発せられた段階では、まだ会社のどこにも存在していません。社長の発言は、この段階では「言葉現象」です。でも社員にとっては、この言葉現象は大きな出来事です。社員一人一人は、早速その日から、社長の言葉に従って行動しなければならないからです。言葉現象がどこまで力を持つのかは、これを語る人の人格にかかっています。社長がしっかりしていれば、その言葉は社員を動かします。言葉が「発せられた」段階では、言葉現象ですが、その言葉が実際に「働き出す」ともはや言葉だけの現象ではありません。会社は、外からでもはっきりそれと分かる目に見える形で動き出すからです。すると経済のアナリストたちは、早速この会社の有り様を分析し始めます。外部からはっきりと見える数字やデーターを集めて、社員一人一人の動き方や会社全体の仕組みや、営業成績や事業状況などを細かくチェックします。大きな会社だと、これの分析には膨大な資料とデーターが必要です。具体的な一つ一つの業績やデーターを根拠にして判断しなければならないから、これは大変な仕事です。
 皆さんは、今お話しした会社のたとえが、どういう意味なのか、ほぼ察しがついたと思います。先ほどのまとめの最後に、「命」は、神様の御言葉から出ていると言いました。神様が御言葉を発すると「発せられた」御言葉は、そのまま言葉現象となって、現実に働き始めます。すると、その御言葉に従って、人々が動き始めるのです。と言うよりは、人々が、神様の御言葉の働きかけによって動かされるのです。その働きは実に様々です。社長の発言は、比較的短く目に見えない抽象的な言葉ですが、これが具体的に社員一人一人に働きますと実にいろいろな動きになって外部に現われます。神様の御言葉は、大会社よりもはるかに大きく、全世界の教会やクリスチャンたちの行動として外に現われます。過去から現在に至るキリスト教の歴史は、神様の御言葉の現われですから、これの分析は膨大です。
 学問的な分析や研究は、外から見える客観的な数字やデーターによらなければなりません。その会社の経営方針や実体を外から客観的に見えるデーターの分析だけで判断するのは大変な努力が要ります。もしも、社長の本音の発言を直に聴くことができたら、あるいは、社長が重役連中だけに密かに語った内部文書を手に入れることができたら、アナリストたちは大いに助かるでしょうね。その会社を動かしている根本の「言葉」を知ることができるのですから。社長の発言は、目には見えません。客観的に何一つ存在しませんから外から判断することができません。しかし彼の見えない言葉が、実は見える社員たちの全部の行動を支配しているのです。
■根源の言葉
 同じように、現代だけに限って見ても、キリスト教の現われ方は実に多種多様です。互いにまるで正反対の動きをしているように見える場合も多々あります。でも、これらの現象の奥には、目に見えない神様の御言葉が働いているのです。「信仰」と言い「希望」と言い「愛」と言いますが、これらはどれも抽象名詞です。目に見える具体性が全くありません。こういう一番大事なところは目に見えないのです。現在起こっている大小様々なキリスト教現象をその奥で動かしている根源の御言葉、これが「み言(ことば)」"The Word" です。この「み言」を知ることができれば、み言の多種多様な現われも自ずと分かってきます。聖書の膨大な学問的な分析もいいですよ、こういう分析によって、客観的に聖書の根源のみ言を聴きとるのは大変な仕事です。しかし、学問的で客観的な分析に頼らなくても、聖書の御言葉を直に読めば、そこに神様の根源の発言を聴き取ることができるのです。聖書がわたしたちに語っている一番大事な御言葉、それはいったいなんでしょうか?
 「初めにみ言(ことば)がおられた。み言は神と共におられた。み言は神であった。万物はこれによりてできた。できたものでこれによらないものはなかった。このみ言に命があった。命は人の光である。」これが根源の御言葉です。目に見えない神様のご発言です。「言葉は肉体となってわたしたちの間に宿った」のですから、これはナザレのイエス様のことです。イエス様を通して啓示された御言葉、これすなわちイエス様の霊性とそこに働く「命」です。ナザレのイエス様の御臨在、これが根源の「命の御言葉」なのです。どうぞ皆さん、この根源の御言葉を知ってください。この霊性にある命に入り込んで、そこから様々なキリスト教の現象を眺めてください。一番大事なのは、イエス様の御霊にある愛の命の御言葉です。これを受け入れて、イエス様の霊性に浸されて、イエス様との交わりに入ってください。そうすれば、そこからすべてが自ずと開かれてきます。
 
【その2人格と永遠性】
■ふた種類の命
 昨夜は「生きている人たち」と「死んでいる人たち」についてお話ししました。その際に、ただ鼻で息をしている状態の生き方は、聖書で言う意味での「生きている人」とは言えないこと。神の御言葉によって霊的に生きている人だけが、本当の意味で「生きている」と言うことができるとお話ししました。これを聞くと、では、鼻で息をする状態と霊的に生きる状態とはどのように関係するのだろうか? こういう疑問を抱いた方々がおられると思います。今朝は、この点についてお話しします。
 イエス様は、荒れ野でサタンの誘惑に逢われた際に、「人はパンだけで生きるのではない。神の口から出る一つ一つの御言葉によって生きる」(マタイ4章4節)と言われました。ここでイエス様は、パンを否定しているのではありません。パンよりももっと大事なものがあるんだよと言っておられるのです。パンだけで生きていては、サタンの誘惑にかかって「死んだ人間」にされてしまうよと言っておられるのです。
 イエス様は「自分のプシューケーを愛する者はこれを失い、この世で自分のプシューケーを憎む者は、これを保って永遠のゾーエーにいたる」(ヨハネ12章25節)と言われました。ところが、ここを注意して読めば、「これを保って(永遠のゾーエーに)」とあります。「これ」というのは「ゾーエー」のことではなくて、「プシューケー」のことですから、「プシューケー」と「ゾーエー」との関係は単純でありません。
  ここでマルコ福音書10章29〜30節を読みましょう。
 
 アーメン、あなたがたに言う。わたしのため、また福音のために、家、兄弟、姉妹、母、父、子供、畑を捨てた者は、だれ一人として、今のこの世で、迫害と共に、家、兄弟、姉妹、母、子供、畑の百倍を受けない者はいない。また、来るべき世では、永遠の命(ゾーエー)を受ける。
 
 皆さんは、これを読んでどう思いますか? 百倍ももらえるのなら、イエス様を信じようと思いますか。それとも、こんなうまい話はないから、これはこの通りの意味ではなく何か裏があるのだろうと思いますか。実際、ここをこのままには受け取らずに、ここで言われているのは、地上の家族を捨てた者は、その家族の代わりに、霊的な意味での別の家族(クリスチャンの兄弟姉妹のような)が与えられる。こういう解釈があります。この解釈だと「畑/土地」とあるのは、地上のことではなく「天国の相続」のことになるのでしょうね。でも、「今のこの世で」とありますから、ここで言われているのは天国のことではありません。この解釈は、半分は正しいけれども半分は誤りです。「霊的な」というのはそのとおりです。しかし、自分の家族や土地の「代わりに別の」と解釈するのは誤りです。どう読んでみても、ここでイエス様が言われているのは、現在地上で自分が所有している家族や土地のことです。イエス様のためにこれらを捨てた者は、それが百倍になって戻って来る。こういう意味です。
 このマルコ10章29〜30節は、同じマルコの8章35節「自分の命(プシューケー)を救いたいと思う者はそれを失うが、わたしのため、また福音のために命(プシューケー)を失う者は、それを救う」と同じことを言っておられるのです。イエス様は、「自分のプシューケー」という代わりに「自分の家、兄弟、姉妹、母、父、子供、畑」と言い換えておられるのです。自分の大事な家族と畑、これこそが、その人自身を成り立たせているからですから、その人の「プシューケー」です。「プシューケー」が「自分」なのです。家族や畑と切り離された現代的な個人主義は、イエス様の時代にはまだ存在しません。「畑/土地」とありますが、旧約聖書は、人間を彼が住んでいる「畑/土地/国土」と結びつけています。イスラエルの「民」が回復されるのは、イスラエルの「国土」が回復されることと同じです。だから「畑/土地」は、その人自身です。ここでイエス様は、イエス様と福音のために「自分のプシューケーを捨てなさい」と言っておられるのです。
 ここでイエス様の言われている「プシューケー」には、ギリシア語で言う「魂」の意味とヘブライ語の「ネフェシュ=自分」の意味と二つに解釈されるのでややこしいのです。イエス様の言われる「プシューケー」とは「自分」のことです。だとすれば「自分」の「プシューケー」とは、同じことを言っているのですね。「自分の持っているプシューケー」のことではなくて「自分がプシューケー」なのです。「自分の命」〔新共同訳〕と訳されているのは「自分自身」と訳す方が分かりやすいでしょう。だからマルコ8章35〜37節を訳し換えるとこうなりましょう。
「自分自身を救いたいと思う者は、自分自身を失うが、わたし(イエス)のため、また福音(キリスト)のためにに自分自身を失う者は自分自身を救うのである。人は、たとえ全世界を手に入れても、自分自身を失ったら、なんの得があろうか。自分自身を買い戻すのにどんな代価を支払えようか。」
 英語では16世紀頃まで"my+self"と書かれていました。「わたしのセルフ(自分)」です。これが18世紀には"myself"(自分自身)になりました。だから、英語で言えば、「自分のセルフを求める者はセルフ(自身)を失い、イエス・キリストのために自分のセルフを捨てる者は、キリストにある自分("self")を見いだす」ことになります。イエス・キリストのためのセルフとは「キリストにあるセルフ」" self in Christ"のことです。
自分のセルフをキリストのために捨てるならキリストにあるセルフを得ることができるという意味です。これがパウロの言う「キリストにあるわたし」です。
 したがって、イエス様のために自分のプシューケーを捨てるならば、その人には、イエス様にあるゾーエーによって、自分と自分に属するすべてが、全く新しい意義を帯びて与えられるのです。「百倍」とは、イエス様のゾーエーの働きによって、プシューケーそれ自体がゾーエーに属するものへと変容することなのです。パウロが「すべてが新しくなった」(第二コリント5章17節)と言い、「大切なのは新しく創造されること」(ガラテヤ6章15節)と言うのも、このような創造の業を指しています。
 同じことがナインの未亡人の息子の生き返りでも言うことができます(ルカ7章11〜17節)。イエス様の一行と息子の弔いの一行とが、町の門で出逢います。一方は「命の列」でもう一方は「死の列」です。このふたつが出逢う時に、イエス様は、嘆いているやもめを観て、死んだ息子を生き返らせます。これをただの「生き返り」の奇跡だと思ってはいけません。イエス様は、全く新しい息子をそのやもめにお与えになったのです。死んだ人間が、再び元どおりになったのではありませんよ。「再び元に戻る」ことではなくて、この親子に、全く新しい命が与えられたのです。共観福音書の講話の時に、二人はそれまでとは違った生き方、「違った命」に歩む存在にされたとわたしが語ったのはこのことです。息子の「プシューケー」が「ゾーエー」によって、新たによみがえったのです。
■パウロの用語
 パウロの場合、プシューケーとゾーエーとの関係は、第一コリント15章42〜49節に表わされています。彼は、創世記にでてくる神に造られた人間(アダム)と神から新しく与えられた人間(キリスト)とを予型論(タイポロジー)的な観点から見ています。パウロは創世記のアダムを「最初のアダム」と呼び、これは「プシューケー・ゾーサン(生き身) 」であると言います。「生き身」と訳したのは、「生きた体を具えた身( 自分)」という意味です。このアダムに対してキリストを「最後のアダム」と呼び、これは「プネゥマ・ゾーオポイウーン(命を創り出す霊)」であると言います。「生き身」の人間は、「ソーマ・プシュキコン(身の体)」を具えており、一方、「命を創り出す霊」は「ソーマ・プネゥマティコン(霊の体)」を新たに人間に与えます。「身の体」の「身」とは「自分」の意味を含みますが、パウロは「身の体」を「朽ちる」と形容していますので、正確には「朽ちる身の体」と訳すほうが分かりやすいでしょう。これには、「朽ちない霊の体」が対応します。
  したがって、生まれながらの人間は「生き身」であり、「朽ちる身の体」を具えています。これに対応して、イエス・キリストは「命を創り出す御霊」として働き、人間に新しい「朽ちない霊の体」を与えるのです。「生き身」の人間と「命を創り出す霊/御霊」とは、必ずしも矛盾対立するものでありません。どちらも命の源である主なる神から出ているからです(創世記2章7節)。したがって、両者の関係は、パウロが言う「肉」(サルクス)と「霊」(プネゥマ)との関係とは少し違いますから注意してください。「肉」には「罪深い肉」の意味があり、これに対立する「霊」は「キリストの御霊」の意味で、パウロは「肉」と「霊」とは相互に対立すると言っています(ガラテヤ5章16〜17節)。以上のことから分かるように、パウロにあっては、イエス・キリストの永遠の命「ゾーエー」は、「命を創り出す霊」として「生き身」の人間に働いて、「朽ちる身の体」において「朽ちない霊の体」を創造するのです。ただし、「身」にも「霊」にも「自分」という人格が含まれますから、「朽ちる/朽ちない」は、「身」と「霊」にかけるよりは、「体」のほうにかけるほうが分かりやすいでしょう。パウロはこのことを「朽ちるもの(自分)が朽ちないもの(自分)を着る」と言います。「着る」は、霊的なものを身に「まとう」ことです。「ゾーエー」の神は、このようにして、ご自分が造られた「生き身」のアダムに「霊の体」としてのキリストをお与え下さったのです。だから、パウロが「生きているのはもはやわたしではない。キリストがわたしにあって生きておられる」(ガラテヤ2章20節)と言う時に、「わたしではない」とある「わたし」は「生き身」のことであり、「わたしにあって」とある「わたし」は「命を創り出す御霊」のことなのです。
■ラザロの「復活のしるし」
 よみがえりの最もいい例は、ラザロの「復活のしるし」です。ヨハネ福音書11章のあの出来事は、病気で完全に死んでしまった(墓の中に4日いたこと)ラザロが、再び元のラザロへと生き返ったのだと思われているようです。しかし、実はそうではありません。「もとのラザロに」戻ったのではなくて、全く新しいラザロが生まれたのです。だからこそ、あの奇跡は、イエス様の復活を予兆する「復活のしるし」なんです。元に戻ったように見えるのは、ラザロのプシューケーがよみがえったからですが、しかし、よみがえったラザロのプシューケーは、死ぬ以前のプシューケーと同じではないのです。イエス様の御言葉による「ゾーエー」の働きで新しく活かされたプシューケーなのです。だからこそ、大祭司たちは、ラザロもイエス様と共に殺さなければならないと考えたのでしょうね(ヨハネ12章10節)。言うまでもなく、ラザロのプシューケーは、この世に属していますから、再び朽ち果てます。しかし、イエス様の「ゾーエー」は、この世にあっては人のプシューケーを活かし、人のプシューケーが消え去ってもなおなくならない永遠の「ゾーエー」として、いつまでも存続するのです。地上のプシューケーと永遠のゾーエーとを区別するなら、「永遠のゾーエー」は、人間の空想の産物に過ぎない単なる欺瞞にされてしまう危険性があります。だからこそ、ナインのやもめの息子のよみがえりがあり、ラザロのプシューケーのよみがえりが生じたのです。これらは、ゾーエーが、この地上のプシューケーにおいてすでに働いていることを証しするための「しるし」なのです。ラザロの出来事は「このこと」、イエス様の「ゾーエー」こそ人のプシューケーに働く永遠の命であることのしるしであり、だからこそこれは、もとの体への単なる「生き返り」ではなく「復活のしるし」なのです。
 わたしたちの身体は、プシューケーですから、この世限りです。しかし、イエス様の「ゾーエー」は、この世にあるプシューケーに働きかけて、プシューケーを通して神の「ゾーエー」を証ししてくださるのです。「ネフェシュ」も「プシューケー」もこの世限りですが、永遠の「ゾーエー」は、これらを通して働き、これらが消え去っても、なくならないで永遠に残るよと聖書は教えているのです。だから、聖書の神様から来る命はただ一つです。神様からの命は、わたしたちの身体がある/なしにかかわらず一貫してひとつの命です。イエス様がマルタに「わたしが命(ゾーエー)である」と言われたのはこの意味です。「エゴー・エイミ」が「ゾーエー」なのです。聖書が「生きる」というのは、この意味です。
 ラザロのプシューケーは、墓の中で死んでしまいました。ところが、イエス様の御言葉をとおして働く神様からのゾーエーが、死んだプシューケーをよみがえらせたのですから、「ゾーエー」によって全く新しいプシューケーとしてよみがえったのです。ヨハネ福音書には、「プシューケー」と「ゾーエー」が区別された二元性があると言われますが、実はこれは、人間のプシューケーと神様からのゾーエーとの間に存在する二元性ではありません。そうではなく、人間のプシューケーそれ自体のうちに、死んだプシューケーとゾーエーの働きによって活かされるプシューケーとが存在するのです。だから二元性は、プシューケーのほうにあるのです。したがって、二元論と言い二元性と言うのは、「人間の側から」観た場合のことであって、神様の側から観れば、「ゾーエー」ただ一つです。活かすも殺すも「ゾーエー」しだいです。
■一麦のたとえ
 このようなプシューケーとゾーエーとの関係は、ヨハネ12章24〜25節の「一粒の麦」のたとえについても言えましょう。
 
アーメン、アーメン、あなたたちに言う。
麦の種が地に落ちて死ななければ、一粒のままであろう。
  死ねば、多くの実を結ぶ。
自分の命(プシューケー)に執着する者はそれを滅ぼし、
この世で自分の命(プシューケー)を憎む者は、
  これを保って永遠の命(ゾーエー)にいたる。
               (ヨハネ12章24〜25節)
 ここには「自分の命(プシューケー)を憎む者は、永遠の命(ゾーエー)にいたる」とありますから、一見すると、<プシケー>と<ゾーエー>とが区別されている様にも見えます。ところが、これら二つの間に「これを保って」があります。「これ」とは「自分のプシューケー」を指しますから、「プシューケーを保って永遠のゾーエーにいたる」ことになります。だから、これら二つの相互関係は単純でありません。
 麦の粒それ自体が死ぬことは、一見すると麦粒だけの中で生じる出来事のように思われます。しかし、先のマルコ福音書のイエス様の御言葉と考えあわせると、このたとえは、はるかに広く深い比喩内容を含んでいるのが分かります。「自分のプシューケー」とは、自分が属している家族であり土地/畑のことです。だから、麦粒は、これが属している土地そのものと不可分一体の関係にあることが見えてきます。ここでは、土地が麦を育み、その過程の中で麦の死と新たな命の芽生えが生じるのです。このことは、ゾーエーがプシューケーと相互関係にあり、この関係によって、プシューケーから新たなゾーエーが創造されることを指し示しています。したがって、一粒の麦の御言葉は、人が自分のプシューケーを憎む/捨てるならば、その者は、イエス様にあるゾーエーによって、彼の「プシューケー」それ自体が全く新しい意義を帯びることを表わすのです。イエス様のゾーエーの働きかけによって、プシューケーそれ自体がゾーエーに属するものとなり、ゾ−エーの働きを証しする存在へと変容するからです。ここでは、ゾーエーとプシューケーとの区別よりも、むしろ、ゾーエーによらない「プシューケー」とゾーエーに活かされる「プシューケー」という、ふた種類のプシューケーの有り様が語られているのです。「プシューケー」には、動物的な命の意味だけでなく、同時に「自分」という自己認識が含まれています。だから人間のプシューケーには、動物的な生き方と人間の自己意識すなわち「自分」というふた種類の「プシューケー」が具わっていることになります。
 人間は動物と異なって、立って歩く存在ですね。プシューケーの二面性は、このような人間存在と関係してくるのでしょうね。人間は、地上に属するだけではなく、天にも属しているのです。地上の自然の命から天の神様の命へ、地上の生物的な命から永遠の命へ向けて「立ち上がる」ように造られているのです。ヘブライ語の「クゥム」には、「立ち上がる」という意味と「生き返る」「復活する」という意味とがあります。新約聖書は、人間に与えられているプシューケーが、単なる生物的な「いのち」に終わるのではなく、永遠性を帯びていること、しかも目的を与えられて「生きる」という特徴を持っていることを教えています。永遠性と目的性とが、人間に啓示された「ゾーエー」に具わる二つの特徴なのです。 人のプシューケーは、このことを証しするために地上に存在していて、地上のプシューケーにあって永遠のゾーエーの働きが現実に働くことを証しするのです。言うまでなく、プシューケーの宿る肉体はこの世限りです。しかし、この世限りの身体でも、そこには永遠の命の働きが行なわれる、というのが新約聖書のメッセージです。
  「義人は信仰によって生きる」とあるとおり、聖書の「生きる」(命)には、神と共に歩むという価値観が具わっています。したがって、これをまとめて観るならば、聖書が言う「生命」は、大きく三つに分けることができます。
(1)生物全般に具わる命のことで、人間で言えば、動物的な生命力がこれに当たります。聖書の価値観から観ると、そこには、野獣的な欲望や暴虐や流血を平然と行なう恐ろしい罪性も具わっています。
(2)動物とは異なる「神の似姿」として造られた人間性で、「義人」「聖なる者/民」とあるように、神と共に歩む高次な価値観を具えています。これは、現在キリストに贖われた者たちが、地上において歩んでいる「命」のことです。したがって、「永遠の命」とは、終末に初めて啓示されるのではなく、イエス・キリストの御霊あって歩む人には「すでに現在」与えられている命のことで、御霊が授与する「愛、喜び、平安」などの「価値観」によって成り立つ命です。この命は、人格的な命ですから、人間の「自己」「自分」と深く関わってきます。
(3)終末において啓示される聖なる義人としての人間で、これには罪性は全く存在しません。この人間は、現在はまだ隠されていて、終末にイエス・キリストにあって初めて完成された姿で啓示される人間性です。
 この三つの段階は、別個ではなく、命を創造する神のお働きとして、人間創造の初めから最後まで神と共に歩む価値観によって一貫した「命」として人間を導いています。だから殉教者たちは、このこと、自分のプシューケーを捨てる者は、これを保って永遠の「ゾーエー」にいたることを知っていたのだと思います。殉教は「死ぬ」ことではありません。肉体が「殺される」ことです。しかし、殺されるのは、本当の自分に「生きる」ためなのです。病気や災害で死ぬこととは全く違います。もしもその気になれば、いつでも信仰を捨てて、自分のプシューケーを救うことができるからです。ところが彼らはそれを選ば<ない>のです。どうしなのか? ほんとうの自分に生きるためです。だからこれは「死ぬ」ことではない。これは「生きる」ことです。「生きる」ために殺されるほうを選ぶことです。殉教は、殺されることによって自分が生きることなのです。
■人間の永遠性
 人間は、人間以外の動物の世界に所属することもできず、また、神あるいは神々の世界に属することもできませんから、「白鳥(しらとり)は哀しからずや、空の青海の青にも染まずただよふ」(若山牧水)とあるように、孤立した孤独な存在としての自己を知るのです。それでも人間には、動植物の自然界をどのようにコントロールするのかという課題を神様から与えられています(創世記1章26節)。それなのに、人間は神様に反逆したために、人間の内には、原初の動物的な生き方から受け継いだ暴虐と流血の暗い衝動が潜んでいます。自己目的のために自然を利用し略奪することで自然に荒廃をもたらす欲望を抱えています。もしもこのような衝動と欲望に身を委ねるなら、わたしたちは、遠からずノアの洪水と同じような自然と人類の破滅に陥ることになりましょう。
 ある人たちはこう言うかもしれません。ことさらに神を持ち出さなくても、自己努力で自然をコントロールして、これをうまく支配していくことができると。このような考え方は、人間がその理性の力で自然を支配しコントロールできるという自信過剰であり、自己欺瞞からくる「誤り/エラー」(これは「罪」の語源)です。少なくとも、現在の人知や理性の力では、とうてい及ぶことのできない力が、この宇宙に働いていることを知らなければなりません。人間は、はたして自分自身と自分を取り囲む大自然を正しくコントロールできるでしょうか? これができなければ、暴虐と流血がわたしたちを待ちかまえているのです。わたしたちは今、人間の誤った自然観や宇宙観が、やがて人類それ自体を破滅へ導くのではないか?という運命に怯えているのです。
  このような悲惨から逃れるためには、自然と宇宙を人の欲望が産み出す目的のためではなく、謙虚になって、人間に具わる霊性を通して、神様が啓示する正しい価値観へと導き入れられることが求められています。ヘブライの人たちが「ネフェシュ」と呼び、新約聖書が「プシューケー」と呼んだ、本当の自分、これを人格的な霊性によって正しく洞察することが「神の霊に与る人間」に求められているのです。人が高慢と反逆の心に支配されている限り、このような霊的な価値観に到達することはできないでしょう。こういう価値観は、人間だけが認知することのできる「神様からの啓示」によって、自然と共に生きるだけではなく、自然と一つの命を霊的に生きることです。神様に敵対する存在ではなく、神様との交わりの霊性に生きるように、新たに造りかえられることが今神様から求められているのです。
 今日ご参加の皆さんのうちには、すでにイエス様の御言葉の種が蒔かれています。その種は、皆さんのプシューケーのうちで、永遠の命にいたる神の「ゾーエー」を育み成長させようと働いています。どうぞ、その御言葉の命を大事に守り育ててください。朝夕祈りの水をやり、聖書の御言葉の光を浴びて、お一人お一人のプシューケーが、御霊にあるイエス様に導かれて、神様からの「ゾーエー」に生きる者となってください。自分のプシューケーを思い切ってイエス様に全託して、イエス様の「ゾーエー」に生きてください。そうすれば、自分の知らない自分が、自分のプシューケーから生まれ出てきて、「ゾーエー」にある栄光の姿が啓示されます。これこそ、「あなたがたの内にいますキリスト、栄光の希望」(コロサイ1章27節)なのですから。
〔注記〕この項は、2009年8月の夏期講話をもとに、これに補足したものです。
                    戻る