ルカ福音書の聖霊降臨
■「聖霊のバプテスマ 」とは?
新約聖書の使徒言行録2章(1節~13節)に、聖霊が「初めて」教会に降ったときの記事があります。「初めて」にカギをつけたのは、聖書でイエスの御霊について語っている箇所は、ここが最初ではないからです。また、「教会に」聖霊が降ったというのも誤解を招きます。なぜなら、聖霊が降ること、そのことが「教会」を誕生させたとも言えるからです。少なくとも、使徒言行録の著者ルカは、「エルサレムでイエスの弟子たちにイエスの御霊、すなわち聖霊が降ったことによって、地上に神の教会が誕生した」と考えていました。
このとき聖霊は、「突然激しい風が吹いてくるような音」とともにやって来て、「炎のような舌が分かれ分かれに現れて」、二階座敷に集まっている120名ほどの人たち「一人一人の上にとどまった」とあります。するとその人たちは、「聖霊に満たされて」「霊が語らせるままに」「ほかの国々の言葉で」語りだしたのです(聖書からの引用は、特に断りがない限り、新共同訳からです)。
ルカのこの記事は、聖霊のバプテスマ 、特に異言について様々な議論を呼び、また誤解を生じさせました。問題の一つは、「聖霊に満たされる」あるいは「聖霊にバプテスマされる」ことと異言との関係についてです。「聖霊に満たされる」ことを「聖霊のバプテスマ
」と呼ぶのは、使徒言行録1章5節に、イエスが復活の後に、「ヨハネは水で洗礼(バプテスマ )を授けられたが、あなたがたは間もなく聖霊による洗礼(バプテスマ )を授けられるからである」と約束しておられるからです。ルカは、この約束が五旬節(ペンテコステ)の日に成就したと見ていますから、「聖霊の満たし」が「聖霊のバプテスマ」と同じ意味に理解されているのです。もっとも、これに続くペトロの説教の中で、彼は「聖霊を受ける」(2章38節)という言い方もしています。「満たされる」「バプテスマされる」「受ける」は、ひとつながりになっていて、これらの言葉を厳密に区別するのはなかなか難しいのです。ただ、聖霊の具体的な現れが問題になると、特に「異言」との関係でこれらの表現の違いが論じられる場合には、あまりに議論が複雑になり、かえって読者に混乱を来すおそれがあります。だんだんお分かりいただけると思いますが、私はこのような用語の区別にあまりこだわらないほうがいいと思っています。したがって、ここでこれ以上この問題に立ち入ることは控えます。
■「御霊が語らせる」とは?
もう一つの問題は、「霊が語らせるままに」「ほかの国々の言葉で語る」とあるところです。これが何を意味しているのかをめぐって議論が分かれています。これに続く記事で、ルカは、ペンテコステの祭りで世界中から集まってきたユダヤ人たちが、それぞれ自分たちの故郷の言語で弟子たちが語るのを聞いて驚いたと述べています。これから判断すると、弟子たちは、御霊の降臨によって、自分たちの全く知らない言語を突然に、しかもそれぞれが別々の言語で語りだしたことになります。外国語を話せない日本人たちが、NGOの世界大会に出席していて、突然ある人はポーランド語で、ある人はロシア語で、ある人はスワヒリ語で、ある人はインドネシア語で語りだしたら、自分の国の言葉を聞いた各国の代表はさぞびっくりするでしょう。ルカは、これと似た現象が起こったと語っているようです。
ところがルカは、記事の終わりで、「あの人たちは、新しいぶどう酒に酔っているのだ」と言ってあざける人たちもいたと述べています(13節)。酔っぱらいが自分の知らない言語を明瞭に語るとは考えられませんから、この人たちから見れば、弟子たちは、なんだかわけの分からないことを、しかも酔っぱらった人がするようにべらべら語っていたことになります。弟子たちはいわば放心状態で(このような状態を「エクスタシー」と言います)、自分にも人にも分からないことをべらべらぶつぶつ独り言みたいに語ったりつぶやいたりしていた様子がうかがえます。いったいルカは、この記事でどのような状態を描こうとしているのだろう? こういう疑問が生じてくるのです。
■異言と異言語
結論から先に言いますと、ここでルカが描いている異言現象は、今述べたどちらの内容をも含んでいます。ここでは二つの霊的な現象、「異言」を語ることと「異言語」を語ることとが、だぶって語られているからです。まずこの記事から、弟子たちの少なくともある者たちは、「異言」を語っていたと考えることができます。ルカの文言に「炎のような舌が分かれひとりびとりの上にとどまった」とあります。「炎」あるいは「火」は、神の霊を現す旧約以来の伝統的な表象ですから、降臨したのは神の霊、ここでは特に復活したイエスの御霊を指しているのは間違いありません。「舌」については、それが分かれて「一人一人の上にとどまった」とあるように、大事なのは、「ひとりひとりに」(原語ではこの点が強調されています)「舌」が与えられたことです。
「上にとどまった」というのは、それぞれの頭の上に舌がとまっているように聞こえます。エル・グレコの聖霊降臨の絵を見ますと、弟子たちそれぞれの頭の上に小さな炎がちょうど舌のようにちょろちょろ燃えている様子が描かれています。言うまでもなくこれは絵画的な表現ですから、象徴的な手法が用いられています。いったいこれの意味することは何だろうか? これが問われてくるのです。
神の霊が「とどまる」という言い方は旧約にも表れます。民数記には「霊が彼らの上にもとどまり、彼らは宿営で預言状態になった」(11章26節)とあって、ここでもルカが描いている様子とよく似た現象が語られています。民数記の状態は、神の霊がその人たちの頭上にとどまっただけではなく、「霊」がその人たちの内に「宿った」ことを意味しています。だからモーセは、その人たちの状態をモーセ自身に神の霊が宿る状態と比較しているのです。ルカの「とどまる」の背後にあるヘブライ語(「ナーワー」)には、「羊が牧場で安らう」「鳥が木にとまる」「宿舎に留まる」という意味があり、例えば神の霊がエリヤの「上にとどまった」という言い方をします。ですからここでルカは、弟子たちそれぞれにひとつの「舌が与えられた」、あるいは「舌が(その弟子の内に)宿った」ことを意味していると解釈することができます〔Conzelmann; Acts
of the Apostles. Fortress, p.14.〕。
この解釈は、「ほかの国々の言葉で話し出す」とあるところと関連します。なぜなら「言葉で話し出す」は「舌が語り出す」とも読むことができるからです。英語訳ではここを"speak in other tongues" [Conzelmann] / "speak with other tongues"[Young's
Translation]と訳してあります(ただし「母国語」を意味するとき"mother
tongue"と言いますから、"tongue"は「言語」とも読めます)。語る本人の意思や理解と関係なく、舌がいわば「勝手に」語り出すことです。ですから、ルカの記述は、「ひとりひとりに」「舌」が与えられて、その舌の「動くままに」(「語らせるままに」と訳してあるのはこの意味)、自分の知らない言葉(「ほかの国々の」という訳)を語りだした。このように解釈することが可能なのです。こういう異言の解釈は、パウロが第一コリント14章で述べている異言とも一致します。コリントの教会では、異言が盛んに語られていたようです。しかも、自分ひとりいる時だけ異言で祈るのではなく、集会の最中にみんなが祈り出すと、それぞれが誰にも理解のできない異言を声に出して語るものですから、これはずいぶん騒がしかったと思います。かつて私は、フィンランドの先生たちの教会で、韓国の人、中国の人などと一緒の集会に出たことがあります。自由な祈りが始まると、日本語、フィンランド語、韓国語、中国語、それに祈りが熱くなると異言も加わって、相当にぎやかな(しかしそれなりに楽しい!)祈りになったのを覚えています。ただし、こういう場に初めての人が来たら、びっくりして祈るどころではないだろうと思います。
パウロもコリントの人たちにこのことで注意を促しています。いくら「霊によって神秘を語る」異言でも、それを聞く人たちは、「明確な言葉を口にしなければ、何を話しているか、どうして分かるでしょう」とパウロは警告します。側で聞いている「彼には何を言っているのか分からない」のだから「空に向かって語る」のと同じではないかと言うのです。誤解のないように付け加えますが、パウロはけっして異言を軽蔑しているのではありません。同じ14章で、「私は、あなたがたの誰よりも多くの異言を語れることを、神に感謝します」と言っているとおりです。このパウロの手紙から見ると、初代のキリスト教の教会では、このように「異言で語る」(これをギリシア語で「グロッソラリア」と言います)ことが広く知られていたのが分かります(使徒言行録19の1~7を参照)。ですから私たちは、この種の異言が、ルカの語る聖霊降臨の記事にも含まれていると見ることができます。
ところが、先に指摘したように、ルカの語る聖霊降臨では、弟子たちが、誰にも分からない異言ではなく、外国から来た人が聞けばはっきりと理解できる外国語(異言語)で語ったとあります。ちなみに新改訂標準英語訳聖書[NRSV]では、「ほかの国の言葉で語る」を"speak in other
languages" と訳していて、この点では新共同訳と同じです。改訂英語訳では "talk
in other tongues" となっていて、「舌」と「言語」との両方の意味を含ませようとしているようです。岩波訳では「異なる言葉」と訳してあって、注に「異言」と「異言語」の両方の意味を含むとあります。どうやらルカは、異言と異言語とをだぶらせて語っているようです。
■ルカと異言伝承
このことから、ルカは異言も異言語も区別がつかず、彼自身こういう現象を知らなかったのではないかと推測する学者までいます。しかし私はそう思いません。なぜなら、ルカは、パウロあるいはパウロ系の教会と親しい関係にあったからです。パウロが異言に対してどのような考えを持っていたかは簡単に説明できません。しかし、一つ確かなことは、パウロ自身も、また彼によって建てられた教会も異言を大切に保存していたことです。異言に限らず、こういう霊的な体験は、少なくとも2世紀半ばまでは、キリスト教会に持続して保たれていたと考えられます。「少なくとも」と言うのは、2世紀の終わり頃になりますと、いわゆるグノーシス主義の台頭に対処するために、教会の厳しい制限によってこういう霊的な現象が抑えられてしまうからです。
ルカがパウロを直接知っていたかどうかは必ずしも明らかでありません。しかし、ルカがパウロ系の教会あるいは宗団と深く関わっていて、使徒言行録もその中から生まれたのは確かだと考えられます。私は、ルカが、異言語はともかく、異言を語ったのではないか、少なくともそういう現象を身じかに体験していたと思っています。
では、なぜルカは、異言と異言語の二つの現象をだぶらせたのでしょうか? おそらくルカの手元には、聖霊降臨に関する資料なり伝承なりが伝えられていたと思われます。それがどのようなものであったか今では分かりません。ある学者は、ルカの手元に最初に異言語現象の資料なり伝承があって、彼はこれを異言とだぶらせたのではないかと推測します。この説は、ルカの頃には、最早異言語現象は見られなくなっていて、異言が広く語られていたという仮説に基づいているようです。またある学者は、逆に最初に異言が生じて、それにルカが異言語現象を重ねたと判断しています。私は、どちらかと言えば後の説を採ります。しかし私は、異言と異言語とをこのように時期的な差で区別すること自体、誤解を招くおそれがあると考えます。なぜなら、実際には異言も異言語もどちらも同時に生じるからです。では、ルカは、異言と異言語との区別をどのように考えていたのでしょうか?
■御霊が授ける言葉
ルカによる福音書に、主の弟子たちが迫害を受けて、王や総督の前に引っ張って行かれたときに、どのように証を立てたらよいかについてイエスはこう語っています。「だから、前もって弁明の準備をするまいと、心に決めなさい。どんな反対者でも、対抗も反論もできないような言葉と知恵を、わたしがあなたがたに授けるからである」(21章14節)。このことは、主を信じる者が、予期しない出来事に出会った場合、その場の状況に応じて主から「言葉が与えられる」こと、しかもその言葉は、語る本人さえも予期しなかった仕方で、「その時その場で」主から直接「授与される」ことを意味しています。したがって、この時語る言葉は、もはや語る本人が自分の意志で選んだり考えたりできる性質の「言葉」ではないことになります。イエスのこの言葉は、ルカが、「主から与えられる言葉」をどのように考えていたかを知る大切な手がかりを与えてくれます。
ルカがここで描いている場面は、終末の時に起きるであろう状況に関連しています。ですから、ここでのイエスの言葉は、イエスの在世当時の出来事よりも、むしろイエスがこの世を去って、教会が主イエスの聖霊の導きを受ける時代に入ってからの状況を踏まえていると解釈できます。「主の御霊がその時々に応じて信者ひとりひとりに授ける言葉」、ルカのこのような考え方は使徒言行録でも随所に見られます。特に、ユダヤ教の指導者たちや高官たちの前に引き出された時に語るペトロやステファノやパウロの語る「言葉」にそれが表れています(例えば、4章19節と29節/5章29節/7章51節/9章17節/23章6節)。
■言葉を授かる「時」とは?
このように、ルカにとっては、主から与えられる御霊の言葉が、「とき」と深く関係していることが分かります。ここで言う「とき」は、24時間の「時間」のことではありません。ある特定の状況にある「その時」「その場」のことです。こういう「とき」の概念は、ルカではとても大切で、ルカ福音書全体がこの「とき」の思想で貫かれているとさえ言えるほどです。では、「とき」に応じて与えられる御霊の言葉とはどのようなものでしょうか。これを、以下の4点にまとめて考えてみたいと思います。
(1)御霊の言葉は、複数の人たち全体に臨む場合もあります。しかし、人それぞれに与えられる「とき」は、必ずしも複数の人々が共有できるとは限りません。特に迫害の時には、敵意に囲まれてただひとり裁判の場に立たされることがしばしばあります。したがって「とき」は、本質的に、「ひとりひとり」がその時その場に置かれた状況によって異なることになります。こうして、御霊の言葉は、基本的には個人に臨むのです。御霊は同じ一つの御霊です。しかし、その御霊が「舌」となって語るためには、一人一人の時期と場合に即応していなければなりません。ルカの記述で、舌が「分かれ分かれに現れ、一人一人に」与えられるのはこのためなのです。
(2)御霊の舌が語る言葉は、その時が来るまでは、全く予測できません。語る本人があらかじめ準備することも考えておくこともできません。どのような言葉が与えられるかは、「その時その場」でしか分からないからです。なぜか? その「とき」は一度だけの状況であって、けっして繰り返さないからです。永遠の神が、この地上でお語りになるのは、このような「とき」を通じてだけです。この場合、前もって自分であれこれ思案することは、御霊の舌の語りを助けるどころか逆に妨げるおそれがあります。神を信じるとは、このような「とき」に、神が「語られる」ことを信じることなのです。
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御霊の言葉を授かる人の意識は?
(3)しかし、それが個人の危機的な状況の中で行われる場合に、語る本人は非常な緊張状態に置かれることになります。普通の人なら「頭が真っ白になる」、いわゆるパニック状態になる場合です。「いざとなったら」自分の努力や思惑や心構えが、いかにもろく役に立たないかを私たちが悟るのはこういう場合です。御霊の平安が私たちに訪れ、御霊ご自身の舌が語り出すのは、まさにこういうときなのです。これは私たちが何かを「する」状態ではなく、何も「しない」状態の中で起こります。福音書の中で「恐れるな」とイエスの語る否定命令形は、御霊の舌を与えられた人が、自らの一切の働きを停止して主の御霊に委ねる状態に入ることを意味しています。
これはけっして「何がなんだか分からない」状態ではありません。それどころか、御霊がその人を通じて語っている間、今自分が語っている言葉が何を意味するのか、それがどういう状況の下で語られているのかを、「語らしめられる」本人自身は明瞭に意識しています。ここで「委ねる」というのは、人間がとりうることのできる「最も積極的な」姿勢のことであって、ルターが「信じる」ことこそ、神に対して人間が献げることのできる最大の「行為」であり賛美であると言った時、彼はまさにこのことを指しているのです。したがって、「委ねる」とはまさに委任することであり、彼は自らの意志によって御霊の語る舌に身を委ねる行為を「選び取って」いるのです。厳密にこの意味においてのみ、御霊の舌が語る言葉は、それを発する本人にコントロールされていると言えます。彼はその状況の中で、周囲の人たちに語ります。しかし彼は、時として、人を忘れて今自分をして語らしめている神ご自身に直接向かうこともあるのです。そのような場合、彼の舌が、人間に理解できる「言葉」を語るという保証はなくなります。私たちは、御霊に満たされた説教者が、大勢の会衆の面前で語りながら、時折、まるで独り言のように異言で語るのを聞くことがあるのはこのためです。ここでは、異言と言語との境界が、語る人間が誰に向かっているのかによって揺れ動くのです。
御霊が語る舌の言葉は、語る者が「積極的に」御霊の働きに委ねている状態のもとで初めて可能になります。それにもかかわらず、あるいはまさにそれゆえにこそ、彼はパウロのように「わたしたちが、正気でないとすれば、それは神のためであったし、正気であるなら、それはあなたがたのためである」(第二コリント5章13節)と言うことができるのです。「異言語」は、自分には理解できない言語ですから、通常の意味での言葉とは違います。しかし、御霊が、人間の理解できる言葉で、その場に居合わせた様々な言語の人たちに語るために、ペンテコステで弟子たちに異言語が与えられたというのがルカのメッセージです。ルカが、異言と異言語とを重ね合わせることができたのは、この理由によります。
■だれに宛てて語るのか?
(4)「ことば」とは、誰かに「宛てて」語られるものである以上(英語のaddressには「宛てる」と「語りかける」の両義があります)、御霊に導かれて語られる言葉は、ある特定の状況の下にあって語る「相手となる人々」、すわなち御霊の言葉を聞いている人々に、はっきりとしたメッセージを伝えます。したがって、そこで語られる言葉は、一般論ではなく、何よりも「その場に居合わせた人たちに宛てられた」言説なのです。その意味で、御霊の言葉は、宗教的な意味をもこめて「社会的な」状況に対応する言葉であると言えます。
ルカ福音書も使徒言行録も、紀元90年以降に、すなわちエルサレムの陥落(70年)とユダヤの滅亡以後に書かれたと考えられています。だからルカの時代は、キリスト教が、パレスチナから異邦の世界へとその舞台を移して行く時期でした。ルカは、イエスがパレスチナの地上を歩んだ時代とユダヤが滅んで異邦人の世界に福音が広がった時代とをはっきりと区別しています。パレスチナはかつてイエスが歩んだ地であり、その首都である聖なるエルサレムこそ、イエスが十字架によって贖罪のみ業を成就させた場所でした。ルカにとって、御霊によって教会が誕生した場所は、このエルサレム以外ではありえなかったのです。
「あなたがたの上に聖霊が降ると、あなたがたは力を受ける。そして、エルサレムばかりでなく、ユダヤとサマリアの全土で、また、地の果てに至るまで、わたしの証人となる」(使徒言行録1章8節)。
これが、復活のイエスが弟子たちから離れる間際に言い残した言葉です。ルカが、2章9節と10節にあげている地名は、パレスチナを中心とした当時の全世界を12に区分しています。ただし、現在のヨーロッパはまだ含まれていません。厳密には、ユダヤは「外国」ではありませんが、ここでのルカの意図は明瞭です。イエスの御霊によって誕生したキリストの教会は、エルサレムから始まって全世界に向かってその福音を語る使命を与えられているというのが、ルカのメッセージなのです。「地の果てまでも」は、メシアが全世界を征服することを預言する言葉ですから、御霊の「炎」の表象と考え合わせると、ルカは終末の時をもこの聖霊降臨に読み込んでいるのかもしれません。
私たちは、ルカがなぜ異言伝承を異言語と結びつけたのか、その理由を今理解できると思います。おそらく彼は、本人にも周囲の人にも理解できない異言伝承を、そのままの形で保存することができなかったのでしょう。彼が異言と異言語とを意図的に重ね合わせたのは、このような理由からではないかと思います。