「しるし」について
 
■旧約時代の「しるし」について
「しるし」は、もともと一般的な「合図」や「印」の意味で、これが占いなどの宗教的な意味で用いられる時には、吉凶の「兆し」を意味していました。「しるし」とは、目で見分けることができるもののことです。旧約聖書では、「しるし」に当たる言葉が幾つかありますが、「しるし」の基となるヘブライ語は「オース」です。このヘブライ語は、七〇人訳では「セーメイオン」というギリシア語に訳されて、これが新約聖書に受け継がれます。この「オース」には、大別すると、次のように幾つかの意味があります。
(1)人の額などに付ける印(創世記4章15節/エゼキエル9章4節)。創世記のカインの印がどのようなものかはよく分かりませんが、その者に危害を加えることを禁じる神の保護を現わすものであったと考えられます。エゼキエル書の「しるし」とは、ヘブライ語のアルファベットの最後の文字(タオ=T)のことです(文字も「しるし」となります)。おそらくこれは×印のことでしょう。「しるし」はまた、いろいろな「合図」のことで、火や煙の「のろし」(エレミヤ6章1節)、あるいは旗(ヘブライ語では「ネス」)を意味します。
(2)特に神から与えられた特別の「しるし」があります。この意味では、モーセが荒れ野で火の蛇に咬まれた者たちを救うために旗竿の先に掲げた蛇の「しるし」があります(民数記21章8節)。洪水の後で、ノアに与えられた新しい「契約のしるし」は虹でした(創世記9章12節)。さらに重要なのは、出エジプトの際に家の入り口に塗る小羊の血も「過越のしるし」です(出エジプト12章13節)。また、イスラエルの民には、「割礼のしるし」が課せられます。これは確認のための「しるし」です。詩編86篇17節の「しるし」は、具体的に何かはっきりしません。この詩編の作者が病に苦しんでいるのであれば、「善意のしるし」とは、病状が、人の目から見てはっきりと分かるように回復に向かうことでしょう。イザヤ書66章19節では、民の中に「生き残る者たちがいる」ことそれ自体が「しるし」となります。このように「しるし」は、虹のような出来事が、象徴的な意味を与えられている場合もあり、また割礼や過越の血のように、儀礼も「しるし」として象徴的な意味を帯びることに注意してください。
(3)神が顕わされる奇跡的な「しるし」があります。これの最もよい例が、イスラエルの民による出エジプトに先だって、ファラオとエジプト人たちの間にモーセによって起こされた数々の不思議な「しるし」です(出エジプト4章8〜9節)。紅海の水が二つに裂けたのもこれと同じ「しるし」になります。このように神の力が顕われる奇跡は、「しるしと奇跡」あるいは「しるしと不思議」(申命記26章8節)“signs and wonders”と呼ばれています。奇跡は特に「主のみ腕」とか「力ある業」とも呼ばれます。
(4)旧約では、預言者たちが神からの「しるし」として行なう特別な行為があります。イザヤが、アッシリアによるエジプト侵攻を預言する「しるし」として、裸で歩き回ったのがこれです(イザヤ20章3節)。そのほか預言者たちが、自分の子供に神の命令によって特別な名前をつけるのも神からの「しるし」を意味するもので(イザヤ8章1節以下/ホセア1章2節以下)、これらはいずれも預言者による象徴的な行為として現わされます。
(5)後代の初期ユダヤ教の時代になりますと、黙示思想の影響によって、終末が到来するまでの様々な前兆となる「時のしるし」を見分けることが大事になります。これらの「しるし」は、宇宙の天体の運行と関連しながら、「光の子」たちに、神の霊によってその時々に啓示されるもので、クムラン宗団では、これら宇宙の諸霊が、それぞれに顕わす「しるし」を見分けることが重視されました。これによって、神の知恵者は、正義の「人の子たち」の歴史を知り、同時に現在起こっている様々な出来事から、終末の到来を読み取ることができるからです。またこのための預言活動や「時のしるし」を見分ける聖書解釈が大切にされていました(クムラン文書『宗規要覧』V、13〜15節)。
■共観福音書の「しるし」
新約聖書は、旧約聖書の「しるし」の伝統をほぼ受け継いでいます。福音書を中心にした「しるし」(セーメイオン)のおよその分布は、単数と複数を合わせて、マタイ福音書(10)、マルコ福音書(7)、ルカ福音書(10)、ヨハネ福音書(17)、使徒言行録(13)です。ちなみにパウロ書簡では少なく、ローマ人への手紙(2)、第一と第二コリント人への手紙(3)で、ガラテヤ人への手紙やフィリピ人への手紙、コロサイ人への手紙やエフェソ人への手紙には一度も出てきません。ただし、「しるし」と「不思議」と「力ある業(奇跡)」という組み合わせが、パウロ系書簡では3回も出てきます(ローマ15章19節/第二コリント12章12節/第二テサロニケ2章9節)。この言い方は旧約聖書から受け継がれていると思われますが、こういう組み合わせは、ルカ福音書にはなく、「しるしと不思議」が、マタイ福音書とマルコ福音書とヨハネ福音書に一度ずつだけです。共観福音書での「しるし」の用法を大別すると次のようになりましょう。
(1)旧約聖書(1)の用法にあたる「合図」の意味があります。ユダは、接吻によってイエスの逮捕を合図します(マタイ26章48節)。この場合は、人間が行なうのですから、特別な神の働きは見られません。
(2)旧約聖書(2)の用法にあたる神からの出来事としての「しるし」があります。例えば、「乳飲み子イエス」が、メシア到来の「しるし」と告げられます(ルカ2章12節)。ただしこの場合は、「飼い葉桶に眠る赤子」それ自体が「しるし」であって、その赤子が特別に不思議な性質を帯びていることが「しるし」だという意味ではありませんから注意してください。このように、「しるし」とこれが表わす「実体」とを区別してください。したがって、この意味の「しるし」は、たとえ神から与えられていても、必ずしも奇跡あるいは不思議を伴うという意味ではありません。
ファリサイ派の人がイエスに「天からのしるし」を求めますが(マタイ16章1節)、これが何を意味するのかはっきりしませんが、イエスはこれを退けています。これはおそらく奇跡ではなく、なんらかの宇宙的な現象を指すのでしょう。イエスの祈りに応えて天から「雷が鳴った」とありますが(ヨハネ12章29〜30節)、これも「天からのしるし」のひとつだと考えられます。このように人々が「しるし」を求めたり、場合によっては要求することもありますが(マルコ8章12節/ヨハネ6章30節)、このような要求は退けられます。また、「しるし」という言葉こそでてきませんが、イエスの洗礼に際して、天が開いて、聖霊が鳩のように「目に見える姿で」(ルカ3章22節)降ったのも「天からのしるし」と見ることができます。
イエスが特にあげた「ヨナのしるし」(ルカ11章29〜30節/マタイ12章39〜40節)の場合は注意を要します。ここは、神が終始ヨナと共にいてくださったこと、その結果、ヨナが、言わば大魚の腹の中という「死の中から」よみがえったことが、イエスの死と復活の「しるし」だと一般的に解釈されています。しかしこの解釈は、マタイの解釈に基づくもので、イエスの復活以後に与えられた解釈であって、ほんらいの「ヨナのしるし」の意味はそうではなかったと考えらえます。「ヨナのしるしのほかには、しるしは与えられない」は、イエス様語録(Q)にさかのぼることができます。「ヨナのしるしのほか」という句だけをマタイによる追加と見る説がありますが、この句はマタイ福音書とルカ福音書に出てきます。ルカはこのような場合に語録集に忠実であること、マタイ福音書とルカ福音書が、全く同じ言葉遣いであることから、この句はイエス様語録から出ていると判断できます。マルコ福音書には「ヨナのしるし」が欠けていますから(マルコ8章12節)、マルコが最もイエスの言葉に近く、語録の編集段階で、復活信仰以後にヨナの句が付加された。こう考えると一応の説明にはなります。しかしこれでは「ヨナがニネベの人たちに対してしるしとなったように、人の子も今の時代にしるしとなる」とある語録の言葉と続きません。だからこの言葉はイエスにさかのぼると考えられます。
したがって「ヨナのしるし」は、ほんらい死と復活を意味しているのではなく、ニネベの人たちが、遠くから来たヨナによって裁きが降ることを聞かされ、その結果、彼の宣教によって悔い改めたこと、同じように、イエスの到来が、イスラエルの民への悔い改めを呼びかける「しるし」となるというのが、イエスの言葉の意味であろうと考えられます。したがってこれが、ルカ福音書11章30節のほんらいの意味です。ここでイエスは、自分を旧約の預言者と同一視しているのです。マタイはここをイエスの死と復活の「しるし」と解釈していますが、彼も「預言者ヨナ」と「預言者」を付け加えることで、イエスの伝道を預言者のそれと見ているのが分かります。
(3)旧約聖書(4)で見たように、新約聖書でも、預言者の象徴的な行為とイエスの行なった業とが重ねられているのに注意してください。なおパウロは割礼を「しるし」と読んでいますが、これも旧約の象徴儀礼の伝統を受け継ぐものです。共観福音書では、洗礼の水や聖餐のパンやぶどう酒など、象徴性を帯びた儀礼を「しるし」と呼ぶことはありません。しかし、旧約の場合と同様に、新約聖書でも、水やパンやぶどう酒などの象徴的な表象を「しるし」と切り離して考えることができません(家紋や国旗のようにある特定のものを象徴する時に、これを「表象」と呼びます)。
(4)旧約聖書(3)の場合と同じように、不思議や奇跡の「しるし」があります。これはイエスによって行なわれるものですが(ヨハネ3章2節)、イエスを信じる弟子たちに与えられる場合もあります(マルコ16章17節/使徒4章30節)。しかしこのような「しるし」を悪用する者も現われます(マルコ13章22節)。ただし、ここで注意しなければならないのは、共観福音書では、イエスの「奇跡」が「しるし」とは一度も呼ばれていないことです。イエスの行なった奇跡が「しるし」と呼ばれるのは、使徒言行録(2章22節)が初めてで、ここではイエスが行なった業が、「不思議」と「奇跡」と「しるし」として語られます。共観福音書では「しるし」と「奇跡」は区別されているのです。
(5)これに対して、旧約からイエスの到来までの時代の(5)にあたる「時のしるし」が、共観福音書では特に重要な意味を帯びてきます。イエスが再び来臨する(再臨)時には、どのような「兆し」あるいは「しるし」が現われるかが、イエスの口からも弟子たちの質問からも語られます。これには天変地異も含まれますが(ルカ21章25節)、地上での自然現象も(ルカ21章11節)、人為的な出来事も(マタイ16章3節/同24章24節)含まれます。ところが使徒言行録では、このような「時のしるし」については全く語られません。
  終末とイエスの再臨に関する「しるし」については、マタイ24章30節に出てくる「人の子の徴が天に現れる」があります。この言葉は、「稲妻が東から西へひらめき渡るように、人の子も来る。死体のある所には、禿鷹が集まるものだ」(マタイ24章27〜28節)とイエスが語った後で、旧約からの引用があり、これに続けてイエスの口から語られます。これの並行箇所はルカ福音書17章24節と同37節にありますが、「人の子が来る」の「来る」(パルーシア)は、マタイだけで、これはマタイが挿入した加筆です。
マタイ福音書とルカ福音書のこれらの節は、イエスが生前に語った言葉にさかのぼると考えられます。イエスの言葉集(Q)では「日の出るところから沈むところまで光が走るように、(その日には)人の子もそのようである」とあり、「死体のある所には、禿鷹が集まる」とあります。ここで言う「人の子の徴」とは、人の子が終末の戦いの時に掲げる「闘いの合図の旗」を意味するという説もあります。しかし、ここで言う「しるし」とは、むしろ「人の子」自身のことで、人の子が顕現することを指すというのが一般的な解釈です。「人の子の徴」とあるこの句に先立って、マタイの24章29〜30節では、ゼカリア書12章にある「人々の嘆き」やダニエル書7章13節の「人の子が天の雲に乗る」、さらにイザヤ書13章10節の天変地異などが織り合わされて引用されています。だからここにも旧約の「時のしるし」が受け継がれていることが分かります。
「人の子」とは、生前にイエスが自分を指す時に用いた言い方です。だから、マタイは、生前のイエスの言葉を踏まえて、「人の子のしるし」をイエス自身の顕現と見て、「人の子が<来る>」とイエスの再臨を告げているのです。マタイのこの「来る」は、旧約の「時のしるし」を受け継いでいるとは言え、やがてメシアが到来するという旧約あるいはクムラン宗団の「時のしるし」とは異なっています。一度到来したメシアである「人の子イエス」が、再び来るという共観福音書の再臨の「しるし」は、旧約聖書には見られなかった新約聖書だけの「しるし」と言えましょう。
■ヨハネ福音書の「しるし」
 メシア」という称号は、ほんらい「油注がれた者」の意味ですから、必ずしも「しるしと不思議」を伴う人のことではありません。だから、クムランを含む初期ユダヤ教が抱くメシア像は、必ずしも「奇跡」や「不思議」のような「しるし」を必要とするものではありませんでした。この意味で洗礼者ヨハネも、「奇跡」や「しるし」を行なわなかったのですが(ヨハネ10章41節)、それでも彼は、預言者と見なされ、彼をメシアと信じる洗礼者宗団のグループが現われました。
   しかし新約聖書では、イエスが「キリスト」すなわち「メシア」であることを証しする際に、イエスがダビデの子孫であることと同時に、イエスが「奇跡と不思議としるし」を行なったことが、メシアの証しとされていて(使徒2章22節)、その上で、イエスが「死から復活した」ことがメシアの証拠とされました(同2章36節)。
「死からの復活」がメシア像を形成した背景として、マカベア戦争の時代に、大勢の殉教者が神の民のために「贖いの犠牲」として身を捧げたことがあります。神が彼らを死者から復活させるという信仰がこの時代に高まりました。「律法のために命を捨てる者こそ神の栄光に与る」からです(第一マカバイ2章61〜64節)。自ら身を捧げた殉教者に「あらゆる生命を与える世界の造り主は、霊と命を再び与える」のです(第二マカバイ7章23節)。
また、マルコ福音書には、終末に際して起こる様々な苦難の中に、「偽メシアや偽預言者が現われて、しるしや不思議を行なう」(マルコ13章22節)ことがあげられています。これは逆に見ると、メシアには「しるしや不思議」が伴うと信じられていたことを反映するものです(だから真のメシアには、しるしが伴わないという推論は誤りです)。メシアには「しるし」が伴うこと、同時に、偽メシアも「しるしや不思議」を行なうことは、おそらく黙示思想から出ているのでしょう(エチオピア語エノク書8章を参照)。「人の子」を始めとして、新約のメシア思想にはこのように黙示思想が深く関わっています。そのほか、エリヤの再来もメシアに先立つしるしと見なされていました(マタイ11章14節)。モーセとエリヤは、メシアの到来を告げる二大預言者とされたのです(マタイ17章3節)。こうして新約聖書では、「しるしと奇跡や不思議」と「死からのよみがえり」が、メシアを証しする二大特徴とされるようになりました(マタイ11章4〜5節)。
ヨハネ福音書は、このような初期キリスト教のメシア像をはっきりと受け継いでいます。これには、ユダヤ人キリスト教徒たちによる「しるし資料」がこの福音書の基となったという事情が反映しています。しるし資料は、「しるし福音書」と呼ばれる文書にされて、ヨハネ福音書の原型になっていると見ることもできるからです〔フォートナ〕。
ヨハネ福音書では、共観福音書ではっきりと区別されていた「しるし」と「奇跡/力ある業」がひとつになります。カナのぶどう酒の奇跡(ヨハネ2章11節)、役人の息子の癒し(同4章48節)、パンと魚の奇跡(6章26節)などがそうです。ヨハネ福音書では、メシアは「しるし」を行なう者とされています(7章31節)。ところがこの福音書では、これらの「しるし/奇跡」が起こる際に、人々が驚いたり怖れたりする描写がほとんどないのです。これは、例えばマルコ福音書の描き方とはずいぶん違います(マルコ2章12節)。実際ヨハネ福音書を通して見るイエスの奇跡は、パンの奇跡でもラザロのよみがえりでも、これらの奇跡が、まるでイエスと弟子たち、あるいはイエスと姉妹たちとの間に交わされる対話の背景として描かれているかのような印象さえ受けます。そこで語られる奇跡が、それぞれ聖餐のパンやイエスの復活を象徴する「しるし」として描かれているからです。すなわちヨハネ福音書の奇跡は、「しるし」としてのほんらいの意味で、象徴化されているのです。
わたしたちは旧約聖書で言う「しるし」が、「不思議」と「力ある業/奇跡」だけでなく、神から示された預言者の象徴的な行為をもその内に含む広い意味で扱われているのを見ました。ヨハネ福音書でも、「しるし」は、これと類似した扱われ方がされているのに気がつきます。「類似している」と言いましたが、実はヨハネの「しるし」は、モーセの行なった出エジプトの奇跡とつながることが指摘されています〔バレット〕。例えば6章のパンの奇跡は、「どこでパンを買えばいいのか?」と弟子たちがいぶかるほどの「荒れ野」で行なわれます。これに先立って、イエスは「山に登り」ますが、これはモーセが登ったシナイ山を示唆しています。時は過越祭の近づく頃です。パンはイスラエルの民が荒れ野で食べるマンナを想起させます(ヨハネ6章31〜32節)。12の籠はイスラエルの12部族を想わせます。イエスの行なった「しるし」を見て、「世に来られる預言者だ」(ヨハネ6章14節)と人々が言うのは、モーセがその到来を予告した預言者を指すのは明かです(申命記18章15節)。このしるしに続くイエスの説話で、荒れ野のマンナと「天からのパン」とが比較され、モーセとイエスの父とが対照されるのはこのためです。「律法はモーセを通して与えられ、恵みと真理はイエス・キリストを通して顕われた」(ヨハネ1章節)からです。
ヨハネ福音書では、モーセは決してイエス・キリストと対立関係におかれているのではありません。そうではなく「モーセはわたしについて書いている」のです。だから「モーセを信じたのであれば、わたしをも信じたはず」なのです(同5章46節)。イエスを殺そうとする者たちは、「モーセの律法を守らない」者たちです(同7章19節)。このようにヨハネ福音書のイエスはモーセと深いつながりにあります。したがってイエスの行なうしるしもモーセの行なったしるし、特に過越祭が象徴する出エジプトのしるしとつながっています。この意味で、ヨハネ福音書に表われる「しるし」は、旧約聖書とタイポロジー関係にあるのです。モーセがイスラエルの民をエジプトから脱出させて、約束の地へと導いたように、イエスは、「自分の者たち」を「罪のこの世」から脱出させて「父の住まい」へと導くのです。だからこのようなイエスの業にこめられた「しるし」の意味を言い表わすのにイザヤ書53章1節ほどふさわしい言葉はありません(ヨハネ12章38節)。イザヤ書のこの節は、出エジプトの出来事を指していて、終末の主の顕現へといたるものです(イザヤ40章10節)。
ヨハネ福音書のイエスは、天からこの世へ降り、再び天へと戻る超越的で「この世離れした」キリストであるという解釈があります。これはおそらく、この福音書が、グノーシス的な思想に基づいて書かれているという前提に立つものですが、このような解釈は、この福音書とこれが伝えるイエス・キリストを大事なところで見誤らせるおそれがあります。ヨハネのキリストは、その旧約聖書とのタイポロジー的なつながり、すなわち「予型」とこれの成就としての「対型」との関係において、「歴史的な」見方に立つキリストです。この意味では、基本的に共観福音書と一致しています。もしもこう言ってよければ、ヨハネ福音書の歴史観は、象徴性を帯びたタイポロジー的な歴史観です。天と地とを二分する哲学的な存在論から出ているものではありません。イエスの与えるパンは、「この世に命を与える」(ヨハネ6章51節)ものですから、この「しるし」は、創造的な、そのゆえに救済史的な歴史観に基づいています。これはタイポロジー的で象徴性を帯びた「霊的な」歴史観と言うべきです。
共観福音書では、「奇跡と力ある業」は「しるし」と区別されていて、それだけ「奇跡」は、限定された意味で用いられています。ところがヨハネの「しるし」には、共観福音書の「力ある業」に相当する奇跡理解と共通するところがあります(3章2節/9章6節)。しかも、そのような奇跡理解は、より広い象徴性へと高められ広げられているのです。「このほかにも、イエスは弟子たちの前で、いろいろなしるしを行なったが、それはこの書物に書かれていない」(ヨハネ20章30節)とありますが、この節は、ヨハネ福音書の「しるし」のまとめです。ここには、復活の記事に続いて、「このほかにも」イエスは「いろいろなしるし」を「行なった」とあります。ヨハネがイエスについて「行なう」と言うのは、イエスの行なう「業」を指しています。だから奇跡も「業」、すなわちイエスの「働き」なのです(ヨハネ7章21節)。イエスの兄弟たちが、イエスが行なっているさまざまな「しるし」や「奇跡」を「あなたの行なっている業」と呼んでいるのはこのためです。兄弟たちはイエスに密かに行動するよりも、これをもっと公にするよう勧めているのです(ヨハネ7章3節)。ちなみに7章21節で、「業」と割礼とが比較されている点にも注意してください。旧約では割礼などの儀礼も「しるし」と見なされていました。
このように、ヨハネ福音書でイエスの「業」と言う時には、それはイエスの「業」それ自体が広い意味での「しるし」であることを意味します(5章20節/同36節/9章3節/10章25節)。だから先に引用した20章30節の「いろいろなしるし」とは、イエスが行なったほとんどすべての業、その行為を含めていると見ることができます。ヨハネ福音書では、イエス自身が、天から降った神のロゴスの「しるし」だからです。
ヨハネ福音書のイエスは「わたしの業」とは決して言いません。兄弟たちから「あなたの業」と言われた時に(7章3節)、イエスはすぐに「わたしの時は」まだ来ていないと訂正します。イエスは「わたしが行なう業」(5章36節/10章25節/14章12節)とは言いますが、「わたしの業」とは言わないのです。ここでは「行なう」が強められています。この「行なう」は、イエスが父との交わりにあって、父からイエスに「働きかけ」があることを言い表わすものです(5章20節)。だから、父が「行なう」時にだけイエスも動くのです(13章1節)。イエスは、水をぶどう酒に変える時も嵐の湖を歩んでこれを鎮める時も「父の神」とひとつになって「業」を「行ない」ます。だからイエスは「自分を父と同じにしている」と非難されるのですが(10章33節)、父と子がひとつであると言いながら、イエスは父と子との区別を決して見失うことがないのです。
「業」と並んでイエスの語る「言葉」があります。ヨハネはイエスの言葉を「しるし」とは言いません。洗礼者ヨハネについては、むしろ「業」と言葉とが対照されています(10章41節)。ところが、イエスの場合には、その語る言葉が、イエスの業と同じ働きをすると言われるのです(14章10〜11節)。そこではイエスの語る言葉と業とがひとつです。それはイエスが語る時に、そこに顕われる父の臨在が、父の業と同じ働きをするところから来るのです。
イエスの「しるし」についてもうひとつ大切なことがあります。それは「しるし」が、「栄光のしるし」となることです。イエスが行なう「しるし」はその栄光と結び付いています(17章4節)。カナのしるしでも(2章11節)、ラザロのよみがえりでも(11章40節)、これらの「しるし」を通じて見るイエスは、神の御子としての本性を最も透明な姿で輝かせるのです。
栄光を通じて顕われるのは父なる神の創造の働きです。ヨハネは、冒頭の序の言葉を創世記の初めの書き出しで始めていますが、栄光は創造と深く関与しています(17章24節)。旧約聖書では、「しるし」は神への信仰のためであり、同時に神の栄光を顕わすものでした。この二つの要素はそのままヨハネ福音書の「しるし」にも受け継がれているのです。ヨハネ福音書には出エジプト体験のタイポロジーが流れていると言いました。これは、この福音書にでてくる「ユダヤ人」の不信仰とこれに対する裁きにも通じています(民数記14章10〜11節)。預言者モーセによる出エジプトとイエスとのタイポロジー(ヨハネ3章14節)、これと並んで過越の小羊とイエスとのタイポロジー(同1章29節)、これがヨハネ福音書の「しるし」を特徴づけているのです。
■「しるし」の働き
共観福音書では、イエスによる癒しや力ある業が、よくも悪くもイエスの宣教活動において大きな役割を果たしています(マルコ1章32〜33節/同39節)。使徒言行録では、弟子たちがイエスのみ名によって行なう「不思議」や「力ある業」が、伝道の手段として大きな役割を担っていると言えましょう(使徒4章30節/同5章12節/同19章11〜12節)。
マタイ福音書では、イエスに癒されたペトロの姑はイエスに奉仕します(マタイ8章15節)。百人隊長の僕の癒しでは、隊長の「見上げた信仰」にイエスが感心します(同8章10節)。カナンの女の不屈の信仰がついにイエスを動かして癒しをもたらします(同15章28節)。このように、これらの例では、イエスによる癒しが、これを受ける人たちの姿勢や生活態度と関連して語られています。ルカ福音書では、イエスが若者を生き返らせると、人々はこれを見て神を賛美し、イスラエルの神をたたえますが、その結果が「ユダヤ全土に」広まります(ルカ7章16〜17節)。イエスによって悪霊から解放されっふぉた女性たちは、持ち物を出し合ってイエスに奉仕します(同8章3節)。徴税人のザアカイは、イエスの突然の訪問(それ自体ひとつの不思議ですが)に接してその生活態度を改めます(同19章8節)。逆にらい病を癒された10人の中で、神を賛美して、イエスに感謝を捧げるようになるのは、外国人ひとりだけです(同17章18節)。このように、共観福音書では、イエスの行なう奇跡や言動が、人々の生活態度や生き方と関わって語られるのです。共観福音書では、イエスの言動を含めてその奇跡は、これに関わった人たちの生活に変化をもたらす場合もあり、逆にそのような結果を生まない場合もあります。また癒しが、これが行なわれる安息日の問題や癒しに続く議論によって、イエスの敵対者の殺意を生む結果ともなります(マルコ3章6節)。言い換えると奇跡や癒しが、善くも悪くもこれに関わる人たちの「倫理的な生き方」と結び付いてくるのです。あるいはいっそう激しい敵意を誘発することになります。
ヨハネ福音書でも、共観福音書と同じように、癒しが安息日問題と絡んで敵対者たちの殺意を生じさせます(ヨハネ5章18節)。特にラザロのよみがえりのしるしによって、祭司長たちによるイエスの殺害が決定されます(同11章53節)。しかし、ヨハネ福音書では、イエスの言動による「しるし」の働きは、共観福音書の場合とかなり違っています。ヨハネ福音書では、「しるし」は、共観福音書や使徒言行録のように宣教の「手段」ではありません。この福音書では、イエスの行なう「しるし」それ自体が、イエスが神の御子であること証ししていて、人々はこれによってイエスを信じるか、逆にイエスを拒んで裁かれるか、どちらかの選択に自分を曝すことになります。だから、ヨハネ福音書においては、「しるし」とイエスの「業」とイエスの語る「言葉」をその人がどのように「観る」あるいは「聴く」のかが、決定的な意味を持つことになります。
イエスの「しるし」を見ても、すぐにはイエスを信じることができない者もいます。ニコデモは、イエスのしるしを見聞きして、夜密かにイエスを訪ねますが、イエスを信じるまでにはいたりません。彼がイエスをメシアだと信じたかどうかは、最後まで不明のままです(ヨハネ7章50〜51節/同19章39節を参照)。先に指摘したように、ヨハネ福音書では、イエスの行なう言動それ自体も広い意味での「しるし」と考えられていますので、人々はイエスのこれらの「しるし」を見て、イエスに対する信仰と不信仰の狭間で揺れ動くことになります(ヨハネ7章12〜13節/同7章31節)。
信仰と「しるし」とのこの関係は、カナでの二つの「しるし」において見ることができます。水をぶどう酒に変える「しるし」を通して、イエスは神の御子としての栄光をはっきりと「顕わす」、すなわち「啓示」します。弟子たちは、イエスが行なった業によってその栄光を「観て」、イエスがメシアであることを深く信じる、すなわち霊的に「悟る」のです(ヨハネ1章11節)。弟子たちはここで、「しるし」を通して、イエス自身を「知る」のです。ヨハネが「観る」「知る」と言うのは、このように、イエス自身を「観て知る」こと、すなわちイエスが神から遣わされたメシア(キリスト)であると深く信じることです。
カナにおいての二度目の癒しで、イエスは「あなたがたはしるしや不思議を見なければ決して信じない」(同4章48節)と言います。ヨハネ福音書全体で「不思議」が表われるのはここだけですが、この句は旧約以来の伝統ですから、「しるしや不思議」は自然の出来事も超自然の奇跡も含むと見ていいでしょう。イエスはここで「しるし」に頼る信仰を否定しているという解釈もありますが、必ずしもそうではありません。むしろここでは、「しるし」を見ることによって、これを通じて顕われる神の御子としてのイエスの「栄光を観る」ことができるかどうか、見てイエスを深く信じるにいたるかどうか、これが試されているのです。ヨハネがここの癒しをカナの婚宴での奇跡と結びつけているのはこのためです(ヨハネ4章54節)。ここでは、「しるし」がもたらす倫理的な結果よりも、イエスを信じることが、ただ「しるし」を見た結果なのか、それともさらに深い霊的な洞察から来る信仰なのかが問われているのです。
イエスとの深い交わりは、「しるし」を見たことだけでは生じません。むしろ信仰の眼で「観る」ことこそが、「しるし」が真の意味で「しるし」であることを悟らせるのです。信仰が「しるし」を「しるし」として見分けるのであって、「しるし」が信仰をもたらすとは限らないのです。だから、究極の信仰とは、「しるし」を必要としないところにあります。「見ないで信じる者は幸い」なのです(同20章29節)。4章の役人の場合も9章の盲人の場合も、癒しの「しるし」が、イエスを信じる信仰へと人を導くことになります。このように、ヨハネでは「信じる」こと自体が、ひとつの過程なのです。だから「信仰」には様々な段階があるのです。ヨハネ福音書では、奇跡としての「しるし」はただひとつ、「イエスが神の子キリストであること」だけを証ししていて、人々はイエスを「観て悟り」、イエスに従う歩みの内に留まるか、それとも無明のうちに留まるかに関心が集中しているのです。この福音書では、イエスによる「しるし」の結果として生じる人々の生き方の変化や倫理的な姿勢が語られることがほとんどないのは、この理由によります。
イエスの言動もイエスの奇跡もヨハネから観れば基本的に同じ「しるし」です。先に指摘したように、「しるし」とは、ある事柄を別のことを通して指し示すことです。イエスの身体が霊の神殿への指標となり、洗礼の水が霊的な誕生を象徴し、盲人の癒しが人の子の栄光を観ることへつながるのです。だからヨハネの「しるし」が帯びる象徴性は、これによって「しるし」とは別のことを指標すると言うよりも、「しるし」が帯びている象徴それ自体が、人を信仰へと向かわせるように「働きかける」のです。象徴としての「しるし」が指し示す本体を認識するだけでなく、「しるし」を信じ、これに従うことによって、その「しるし」が象徴しているものをより深く「知る」ことになり、その過程を通して本体に近づく。このように仕向けるよう働きかけるのです。20章31節で「イエスが神の御子キリストであることを信じるため」であり、「イエスのみ名を通じて永遠の命を受ける」ためであるというのは、このような「しるし」の働きを言い表わしています。イエスそれ自体が、永遠のロゴスが肉体となった「しるし」だからです。イエスの「語ること」(レーマタ)もまた「しるし」です。だから「しるし」の出来事と、これに続くイエスの「語り」それ自体もまた「しるし」の延長であって、決して出来事に付随しているのではありません。
■教会のサクラメントについて
わたしがここで「祭儀」と言うのは、目に見える宗教的な儀礼や祭りや祀りを意味していますから、これは宗教学的な用語です。これに対して、キリスト教、特に新約聖書では、イエス・キリストの「しるし」に関連して「サクラメント」“sacrament”という用語が遣われています。もともとはローマの軍人が服従を誓うこと“sacramentum”を意味しましたが、キリスト教の場合は、新約聖書のギリシア語「ミュステリオン」からでた「神秘/奥義」“mystery”の意味に近いでしょう。この言葉は、教会では「秘跡」(カトリック)、「聖礼典」(プロテスタント)、「聖奠(てん)」(聖公会)、「機密」(ハリスト正教会)などに訳されています。
   これによれば、十字架のイエスこそが、神の神秘と知恵の現われとして「サクラメント」の原型になります。だから、イエス・キリストが「原サクラメント」です。ここから「洗礼」や「聖餐」など複数のサクラメントがでてきます。アウグスティヌス(354〜430)は、サクラメントを「見えない恩恵の見えるしるし」と意義付けました。これによれば洗礼の「水」は、御霊によって新しく生まれるという見えない恩恵を現わすための見える「しるし」となります。だから洗礼の水は、キリストの御霊にある新生の恵みを現わす「しるし」です。同様に、聖餐のパンとぶどう酒は、十字架のイエス・キリストの「からだ」と命の「血」を現わす「しるし」となります。アウグスティヌスのこのような解釈は、「見えるしるし」と「見えない御霊の恩恵」とを区別する解釈へ道を開くことになりました。
   サクラメントをこのように「しるし」と「実相」とに分ける見方は、宗教改革の時代に激しい論争を引き起こすことになります。カトリックでは、秘跡としての洗礼の水や聖餐のパンとぶどう酒は、教会によって任命された司祭によって聖別される時に、それぞれ新生の御霊の働き(洗礼)、あるいはキリストのからだ(聖餐)と結合してひとつになります。これを「化体説」と言い、13世紀初頭に正式にカトリック教会の教義とされました。これに対してルターは、洗礼の水も聖餐のパンも、物それ自体としての性質に変化はないけれども、聖礼典においては、水やパンに「伴って」、それらの「内に」聖霊の働きが現臨すると解釈しました(共存説)。他方ツヴィングリは、ルターの解釈に対して、水もパンもそれぞれキリストの御霊の恩恵の働きを「象徴する」ものにすぎないという立場をとりました(象徴説)。ちなみにカトリックでは、洗礼、堅信、聖餐、告解、終油、叙階、結婚を七つの秘跡と定めていますが、プロテスタント諸派では、洗礼と聖餐の二つのみを聖礼典と定めています。
このように、キリスト教の教会においては、特に宗教改革時代に、見えない御霊の恩恵の働きとこれを見える形で現わす「しるし」とを分けて、その関係をめぐる論争が生じました。しかし福音書では、洗礼も聖餐も、見える「しるし」と見えない御霊の恩恵という分け方はしていません。特にヨハネ福音書では、イエス・キリストは、神のロゴスが地上に現われた「しるし」ですから、イエスの言葉もその奇跡もその祭儀行為も、原サクラメントとしてのイエス・キリストそれ自体に深く結び付いている「しるし」なのです。これらの様々な「しるし」の現われを見て、そこに神の御子のしるしを観ることができるかどうかが問われているのです。
   このような「しるし」と霊的な実体との関係を学問的に追究するとすれば、諸宗教を視野に入れた宗教学、特に宗教現象学、宗教心理学、宗教哲学、宗教言語学(意味論)、心霊学などによって、これに文化人類学の分野を加えてもいいと思いますが、これらの諸分野の研究をとおして初めて解明されると思っています。わたしが教会用語の「サクラメント」を避けて「祭儀」と言うのは、このような意図に基づいています。言うまでもなくこれは、サクラメントが、単なる精神的な状態を象徴するにすぎないという見方に立つからではありません。そうではなくて、そこに現われ表わされている霊的な恩恵が、「キリスト体験」というはっきりとした実体を有する現象として、学問的な研究の対象に値すると思うからです。
〔以上は主としてGerhard kittel and Gerhard Friedrich eds. Theological Dictionary of The New Testament. Vol. 7.pp.229〜61のK・H・レングストルフによる「セーメイオン」の項目を参考にして、筆者なりにまとめたものです。〕
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