日本のカミがかり
カミがかりの元祖
 この章では、ギリシア的な熱狂に続いて、日本古来の「巫女のカミがかり」について考えてみたいと思います。日本の巫女のカミがかりと聞いて、私が真っ先に思い出すのは、アメノウズメノミコトです。『古事記』(上巻)の「天の岩屋戸こもり」の箇所に、アメノウズメノミコトの話があります。
 高天の原(たかまのはら)でスサノオノミコトが乱暴を働いて機織りの女を殺す出来事が起こり、アマテラスオオミカミ(天照大御神)が弟の乱暴に怒って、岩屋の中に身を隠してしまいます。太陽が出ないので、高天の原も葦原の中国(なかつくに)も真っ暗になって、国中にさまざまな災いがはびこりました。そこで神々が集い、鏡と勾玉(まがたま)を造らせ、榊(さかき)の枝に勾玉の玉飾りと八咫鏡(やたのかがみ)をかけ、さらに白い幣(ぬき)と青い幣とをかけました。そしてアメノコヤネノミコトが祝詞(のりと)をあげ、岩屋の戸の側にアメノタジカラヲノカミが潜んで待ちかまえます。その時、アメノウズメノミコトが、日陰蔓で編んだ襷(たすき)をかけて、正木の葛(まさきのかずら)を髪飾りにし、天の香具山にある笹の葉を束ねて手に持ち、岩屋の前に桶を伏せ、その上に立って、桶を踏み鳴らして大きな音をたてながら舞い歌うと、「神懸(かむがか)りして」乳房も陰部も露わにして踊り狂いました。
 すると岩屋の中にいたアマテラスが、暗い中でアメノウズメがどうして賑やかに踊って神々が笑っているのだろうといぶかって、岩屋の戸を少し開けると鏡に自分の姿が映り、それがもう一つの太陽に見えたのでしょうか、驚いてその姿をのぞき見ようとしたところを、アメノタジカラヲノカミが、その手を取って外へ引き出し、二度と岩屋に入らないように注連縄(しめなわ)を張ったので、再び天にも地にも太陽が戻ったという話です。
 この話にはすでに、鏡、勾玉をはじめ、榊、注連縄、御幣、祝詞など、巫女のカミがかりの儀礼に関わる道具立てが全てそろっています。また、太陽が隠れるという不作・凶作を象徴する出来事に続いて様々な災いが国を襲ったこと、この災いを「祓(はら)う」ために、歌舞の祭儀がおこなわれ、そこに神が降って巫女がカミがかりになり、再び世の中が明るくなるという、アマテラス信仰に基づくカミがかりの祭儀と、これが生じた社会的な背景が国レベルで語られています。乳房と陰部を露わにするのは、自然の生命力を取り戻すことを象徴しています。スサノオノミコトが機織りの女を殺したとありますが、織物は、古代のヘブライやギリシアでも、霊感の象徴として語られています。ここでも殺された機織り女が、霊感すなわちカミがかりと関係があるとすれば、スサノオの乱暴〔注によれば彼のした乱暴は農耕社会の掟を破ることでした〕のために凶作・飢饉などもろもろの災いが生じたことになります。アメノウズメノミコトのカミがかりについては、「神霊が霊媒者に乗り移り、この忘我の状態で神託を述べる」〔『古事記・上代歌謡』日本古典文学全集、小学館、1982年〕という注がつけられていますから、彼女は、国の政(まつりごと=政治)に関わる重要なお告げをする巫女であったと思われます。
■近代日本のカミがかり
 時代が降って近代になりますと、現在もなお活動を続けている宗教団体の教祖のカミがかりが生じています。その一人が天理教の教祖中山みき(17981887)です。この人は今の奈良県の田舎にある三昧田という部落で生まれ、13歳で庄屋の中山家へ嫁入りさせられました。家は農家で名字帯刀を許された、今でいう中の上くらいの家庭でした。彼女の家の近くには大和神社があります。しかし、両親は浄土宗の熱心な信者で、みきも信心深く、嫁入りの時に毎晩念仏唱名をする許しを得た上で嫁いでいます。結婚後しばらくは子供が産まれなかったり、夫の身持ちの悪さ、子どもの病死などのために心労が重なったようです。
 1838年に息子の善右衛門が足の痛みを患い、これの治癒を祈願するために修験者を呼んで加持祈祷をおこないました。その折りに、たまたま自分もその加持に加わり、突然カミがかり状態に入りました。みきが40歳の時です。しかもそれが、通常の霊や八百万(やおよろずの)の神々の霊ではなく、「天の将軍」と名乗るカミでした。このカミは、
この世の 始まり出しは 泥海のその中よりも 泥鰌(どじょう)ばかりや
この泥鰌 何の事やと 思うている これ人間の 種であるぞや
とあるように、天地創造のカミであったから周囲の人たちは驚きました。これがいわゆる「天理王(てんりおう)のみこと」です。このカミは、みきの口を通じて、中山家に「因縁あるこの屋敷、親子もろとも、神の社にもらいうけたい……返答せよ」と迫ります。 直ちに家屋敷を神の社にせよとお告げを受けたわけです。ついに婚家の中山家もこれを承諾しました。彼女は、貧しい人たちに施しを始めますが、その後もみきのカミは、家族を含む周囲の人たちに受け入れられないまま歳月が経っています。みきが59歳の時に、娘の出産にまつわる霊験があり、またいざりの娘を癒して立たせたのがきっかけとなって、ようやく世間に受け入れられるようになり、本格的な布教活動を始めました。カミがかりからなんと25年も経っています。
 もうひとつのカミがかりは、金光教の教祖香取源七(1814〜83)です。この人は、岡山県金光町の農民の子で、養子に行きましたが、家族を失ったり、自分も42歳の時に大病を患っています。そのことがきっかけでカミ信仰を始め、1859年に、天地金之神(てんちかねのかみ)のお告げを受けて、「お取り次ぎ」を始めました。源七45歳の時です。その時から70歳でなくなるまで、「人は皆生きガミとなる」と説きつつ「人と人との助け合い」を説きました。その教えは安政から明治維新にかけて、混乱期にある人たちを励ましたと言われています。
 さらに今一人は、大本教の教祖出口なお
(1836/71918)です彼女は、京都府の福知山で生まれましたが、家が貧しくて寺子屋へ通うこともできませんでした。19歳で綾部にいた叔母の養女となり、大工の政五郎と結婚、8人の子供を産み育てました。52歳で夫と死別した後に、長男が行方知れずになり、次男が戦死、娘の2人が精神異常に陥るという不幸に見舞われます。56歳の節分の夜に突然カミがかり状態になり、本人の意思とは関わりのない声が口から出始めました。なおが56歳の時です。やがて「筆をもて」というお告げがあって、和紙にその文字を書き留めだしたのです。その後亡くなるまでの27年間に、その「筆先」は20万枚に及ぶと言われています。
 彼女は、自分に降った神を「艮(うしとら)の金神」すなわち国常立尊(くにとこたちのみこと)であるとし、病気治しの祈祷をおこない、やがて「みろくの世」が到来するであろうと宣言しました。もしも彼女一人であったならば、おそらく庶民の中の隠れた一教祖として終わったことでしょう。ところが上田喜三郎
(18711948)という人が、綾部を訪れ、開祖なおのカリスマに惹かれて、教団の組織化と拡大を図りました。彼は出口王仁三郎と改称して、亀岡にある高熊山で一週間の修行し、その後開祖なおの「筆先」を漢字交じりの教典とし、なおと組んで、綾部を祭祀の中心とした大本教の教祖となったのです。この教団は、1921年と1935年に、当時の軍国主義政府から厳しい弾圧を受けたことで知られています。
 以上3人の代表的な庶民信仰の教祖のカミがかりを見ますと、幾つかの特徴があることに気がつきます。それらは、
それぞれ事情は異なるもののカミがかり前に不幸な体験をしていること。
カミがかりが比較的遅く中年あるいはそれ以降に生じていること。
3人ともそれぞれ自分の家や住んでいる土地にゆかりのカミが降ったと宣言していること。中山みきの「天理王のみこと」の場合は、一見そうでないように見えますが、彼女の宣託に「いざなぎと いざなみが 一の神 これ天照皇(てしょこ)の 大神宮なり」とあるように、実家近くの大和神社にゆかりのカミであると見ることができます。
彼らのカミは、いずれも神道系であるけれども、みきは浄土宗に熱心でありながら、加持の最中にカミがかりを体験しています。出口なおは、自分の理想郷を「みろくの世」と述べています。このように、神仏の境がはっきりしないこと。
カミがかりが突然に起こっていること。しかも、それが、みきの突然の宣言やなおの「筆先」から判断するなら、自分と全く異なる霊力によって全人格的に支配されていて、いわばその霊の命じるままに動かされているのがわかります。出口なおの場合、「今夜あたりはお降りあるかもしれない」と言って、信者たちが待ちかまえていたと伝えられていますから、カミがかりがいつ起こるのか本人でさえ予知できない仕方で生じていたと考えられます。
そのカミがかりが、周囲に受け入れられ、宗団として認められるまでにかなり長い時間がかかっていること。中山みきの場合は25年という長い期間があり、出口なおは組織力のあるマネジャーを得ることで初めて宗団として成長することができました。

現代日本の巫女
 以上に述べた古代から近世に至る巫女へのカミがかりの伝統は、ほとんどそのまま現在の日本にいる巫女たちにも受け継がれているようです。この意味で日本は、先進国の中でも珍しい国であると言えます。私自身は、直接に巫女のカミがかりを見たことも体験したこともなく、いわゆる教祖様を信仰している人や天理教徒の人たちなどを身じかに見知っているにすぎません。そこで、この問題を扱った本、川村邦光著『憑依の視座』巫女の民俗学U(青弓社、1997年)を基にして、私なりの考察を加えてみようと思います。この本の著者は、現在大阪大学の大学院で民俗学の講座を担当しておられる教授です。
 現在この国で巫女と言われる人たちは、寺社に仕える「神社の巫女」と民間で加持祈祷をおこなう「口寄せの巫女」とに大きく分類されるようです。口寄せの巫女たちは、さらに死者の霊が憑依するいわゆる「イタコ」と呼ばれるタイプとカミがかりする「カミサマ」との二つのタイプに分けることができます。中山みきや出口なおなどが、「カミサマ」の典型的なタイプです。「神社の巫女」は教団などの組織の中で訓練と指導を受けて巫女になるのですが、口寄せの巫女たちの場合は、ごく普通の庶民としての暮らしの中で、突然に憑依あるいはカミがかりを体験して、それが病気癒しや予言などの霊験を現すことで周囲の人々の信仰を集め、次第に巫女として職業的な役割をはたすようになっていきます。もっとも、カミサマの場合は、ある特定の教団から承認されて、その教団の「看板」をもらうことで組織の分教会になる道があります。

 私は主として口寄せの巫女たちのほうに関心があり、これについて自分なりの考察を述べてみます。これらイタコやカミサマのいろいろなケースを読みながら、まず私が感じるのは、先に指摘したように、カミとホトケ(ホトケはしばしば死人を意味する)との境界がはっきりしないこと、いわゆる神仏混淆の宗教形態にあることです。
 例えばある巫女の場合は、お稲荷さんが憑いたと言われた子どもの病気を治そうと仏壇の前で祈祷を始めます。すると六部さんというカミが出羽三山から降ってきて、カミがかりします。彼女の曾祖父が、法華経を寺に奉じる出羽三山の行者だったという因縁があったからでしょう。しかし彼女は、それ以後も祝詞を唱えながら行商を続けています。46歳の時に初めて病気治しの霊験を現して、ある教団から教師の免許を与えられます。それから「昭和大神」というカミが降って、六部さんから大神へとカミサマの位が上がることになります。〔川村
43-45〕
憑依霊の名称
 しかし、私が最も興味深く思ったのは、憑依(ひょうい)する霊の呼称、すなわち名前に関してです。ほとんどの巫女は、それぞれに苦しい体験をした後で突然に憑依を体験します。しかし、憑依した霊がどのような霊なのかは、当初本人にもわからない場合が多いようです。憑依霊とこれの名前については、次のような幾つかの例があげられます。
 ある場合は、憑依した巫女が狂乱状態になって、いわゆる「暴れ巫女」になります。この場合、その霊がただの「もの憑(つ)き」なのか「邪霊」なのかそれとも「カミサマの霊」なのかは、必ずしも定かでありません。例えばある巫女の場合、真言宗の僧侶と結婚して、護摩火を焚くようなことをしているうちに、「眼はヒカヒカ光って」暴れ巫女となり柱に縛り付けられています。〔川村81〕
 場合によっては、本人がどこそこのカミの霊が降ったと称しても、周囲の人々からただの「もの憑き」と見られたり、既成の教団から「邪霊」扱いされたりする場合があります。しかしその場合でも、病気癒しなどの霊験が現れると、周囲の人たちに認められて、やがていわゆる「人助け」のカミサマとして承認されるようになります。ただし、そのようなカミサマとして承認されるまでに、人によってはずいぶん長い期間がかかることがあります。また、たとえ承認されても、教団などの組織に加わらなければ、職業的な巫女として生活するのはなかなか難しいようです。
 ある巫女は、教団での修行に参加している最中に「伊勢の皇大神」が憑依して「口開き」すなわちお告げを受けます。しかし教団はそれを認めず、彼女には「マガミ(魔神)」が憑いたと認定されます。彼女は教団を去りますが、そのためか病気になっています。またある巫女は、湯殿山の黒龍のカミに憑かれたと称して暴れ回ります。彼女の母や教団の人たちは、邪霊が憑いたと熱心にお祓いをしますが、暴れて手におえません。結局彼女は「湯殿山の主、黒龍」に祀られている湯殿山大権現が降ったと「自分が自分で納得して起きあがった」と言っています。その後で彼女の予言が当たったことで、母親もついに彼女の霊能を認めるようになりました。ところが、その後、彼女には伊勢神明が宿って、「私の胸のなかに言いに来るのは、伊勢神明だよって、お前は伊勢神明だということは、私が私自身で悟っていた」というようになります。〔川村
88-91
 ここに見られるように、六部さん、千手観音、石原薬師、毘沙門天、天照大神、伊勢神明〔川村108〕など、巫女によって様々な名称の憑依霊が降ります。しかも同一の巫女でも、その霊の呼称が時には変化する場合があります。降った当初から憑依霊が自分の名称をお告げで知らせる場合もあるのでしょうが、今あげた例から見ますと、その名前は当人でも憑依した後もしばらくはわからないと思われます。「憑依霊が名をもって立ち現れるためには、相応の時を要する」〔川村107〕のです。また自分の主張するカミの名前と周囲の人たち、特に組織の教団が下す判定とが違ったり対立したりする場合があります。
 憑依霊の多様性は、それらが、それぞれの巫女のイエや土地に因縁なりゆかりがあることと関係していると思われます。また、霊の呼称が変わるのは、霊の位と秩序に関係しているように思われます。一般的に、一地方のカミよりもより広範囲な信仰を集めるカミやホトケが上位にあり、特に伊勢のアマテラスを一つの頂点とする神々の序列によって、霊位が決まるようです。もっとも、最近では、「世界救世(メシア)教」のように、世界規模のカミ名称を用いる教団がありますが、この名称などは明らかにキリスト教の影響を受けていると考えられます。
 以上ように、巫女によって降る霊の呼称が神仏様々であること、降るまでは本人にもどのような名前の霊かが全くわからないこと、憑依の後でも、その霊の呼称について必ずしも一定しないこと、場合によってはお告げによって霊の呼称が変化することなどが注目すべき点であると思います。
■憑依と巫女の人格
 しかし、なによりも重要なのは、憑依の際に生じる巫女の内面的な状態です。ほとんどの巫女は、憑依によって完全に自己喪失の状態に陥ると思われます。
「一所懸命、お願いするんです。そうすっと、お降りになられるんです。心はね、何だかさっぱりわかんなくなるの。カミサマ、お呼びして、拝んでいるときはわかります。だけど、カミサマ、お降りになったとき、自分の気持ちはこう夢見た様なんだわね、何にも映んなくなって、(依頼者が)病気のときは、自分の体に、脳溢血の人は、(巫女自身の)頭、病むんですね。そのとおりに、こうかぶされると思って、そのたんび、しゃべるんですね。自分の胸のとこ、苦しくなって、自分がべらべらとしゃべるわけなんです。それは覚えてるつうわけにはいかないんです。…」〔川村146
 この様子から判断すると、この巫女は自分の理性も感覚も喪失した状態にあって憑依していることがわかります。そこまでいかなくても、多くの巫女では、自分の意志や判断が停止した状態にあると考えられます。例えば中山みきも出口なおも、そのお告げやお筆先の状況から判断すると、憑依霊に完全に支配されていて、自分の意志や理性の働く余地が全くなくなっていると考えられます。ただし、この場合本人の理性や意志がどの程度自由な状態にあるのか定かには見えてきません。
 「カミサマ、憑くと、ひどい、うんと荒立ってね、拝むのいやだったんだ、だけど拝まないと、カミサマ、許さない」〔川村136〕というある巫女の言い方から判断すると、彼女自身は、その意志も理性もはっきりしていて、いわば憑かれた霊に引きずり回されている様子がうかがわれます。出口なおの信者たちが、「今晩は降るのではないか」と話し合って待っていたということも、その霊がいつ何時巫女に臨むのかが、全く予想できなかったことをうかがわせていて、それは本人の意思と無関係な状況で生じていることがわかります。
 巫女に降った霊が、邪霊かそうでないかは、その霊威によって病気治しなどの「人助け」がおこなわれるかどうかが決め手となるようです。しかもその人助けは、行商をやりながら出会った病人であったり、近所の人であったり、巫女の生活圏で直接ふれあう人たちが多いようです。しかし、たとえ邪霊と判断された場合でも、そのこと自体で、巫女としての霊的な資格を失うことにはなりません。彼女が、その邪霊を「祓う」、すなわち浄めたり鎮めたりする方法を体得することによって、巫女の資格をいっそう高めることも可能だからです。そのような方法としては、修行道場にこもる、祝詞を唱える、お遍路参りをする、水垢離(みずこり)をとる、太鼓をたたくなどがあります。巫女は、教団などで訓練を受けたり、自分自身で経験を積んでいくうちに、しだいに憑依霊を自分でコントロールする術を身につけて、意図的に自分から憑依状態へと移っていくことができるようになります。
 巫女はこのようにして、自分に憑く霊が、悪い霊か善いカミかを判別することを体得していきます。こういう訓練を重ねることによって、すなわち自分の意識的な努力によって、「人助け」のカミへと霊を浄めていくことができるようになります。この場合、始めは自分の意志や思いと全く無関係に降った霊を、次第に自分の意志によって意図的に変容させていく術を身につけたことになります。すなわち、自分の人格を完全に操っていた憑依霊を自分の主体性によってコントロールすることが可能になるわけです。したがって、この段階で、憑依霊と巫女の人格との間の関係が逆転していることになります。
憑依(ひょうい)を解釈する
 最後に大切な問題として、憑依とこれに対する「解釈」があります。憑依した霊が邪霊であるかカミサマの霊であるかは、巫女自身がこれをどのように「解釈する」かに大きく依存しています。例えば霊が巫女の首を締め付けるというように、憑依は身体的な兆候を示します。こういう場合には、それがどのようなゆかりの霊であるかを判断することが、巫女にとってきわめて重要な意味を持つことになります。この段階で、それがある種の精神病であるという「医学的な解釈」が与えられると、精神科の医者の治療を受けることになるでしょう。しかし、それでも治癒しない場合は、宗教団体による宗教的な解釈に従って、その枠組みの中で悪霊を祓い浄める修行を積むことになります。
 たとえ巫女が、ある特定の名称を持つカミからのお告げを受けても、周囲の人たちがこれを受け入れない場合があります。この場合は、巫女自身が、自分の解釈と周囲の解釈との間に立たされます。すなわち彼女は、それが邪霊であるという周囲の解釈と闘わなければならないのです。それが邪霊だとする解釈と闘うためには、その霊がカミ(善霊)であることを証明する必要に迫られるのです〔川村124〕。このような場合には、病気癒しなどのなんらかの霊験を示すことで、初めて共同体に認知されることになります。日本では、巫女としての認知が、その家族や周囲の人たちのように、まず限られた周辺の人たちから始まるのが特徴です。また、先に見たように、自分に降った霊が、次第にその霊位を高めていく傾向があり、これによって霊の呼称も変化します。
 しかし、憑依の状態を主体的にコントロールして、邪霊から善霊へと移行ないしは変容させる手段は、宗教団体などのシステマティックな指導を受けている者のほうが容易であると言えます。例えば、ある巫女は、教団で一週間、水垢離をとったりして拝むことで、自分に憑いた霊を祓い浄める「サバキ」の行をおこなっています。彼女は「そうすっと、おれの体、楽になんだね。そのサバキがなかなかむずかしい。そういうのを修行すんだね。そうでないと、カミ様、なかなか乗り移ってこないからね」〔川村128〕と述べています。
 この例のように、邪霊と善霊を識別する身体感覚が追求されるのが行の中心課題になるようです。幻聴、幻覚をともなうマモノでも、このような過程を経ることで、精神分裂、幻覚妄想、祈祷性精神病、精神異常などの「医学的解釈」を受け入れることなく、また近所の「気違い」解釈に支配されることもなく、宗教団体の「行」によって、そういう幻聴や幻覚自体も、霊の祓いのために生じる事態と「解釈される」ことによって克服されていく過程をここに見ることができます。
 これでわかるように、病気あるいは悪霊をどのように「解釈する」のかは、それの治療法と直結しています。宗教的な治療では、祓いや祝詞など、儀礼という隠喩的な媒介によって病気の原因を排除し、心身の回復をもたらそうとするのです〔川村180〕。この場合、どちらの解釈を受け入れるのか、あるいは宗教的な解釈を信じるか否かは、個人の意志によって決められるべきで、強要することはできません〔川村182〕。
 またある場合には、巫女自身の憑依霊に対する解釈と周囲の人、特に教団が下す霊位とが食い違うことがあります。そのような場合、巫女と教団との間で対立が生じます。そこで、巫女が自分の呼称する霊の力を発揮して霊験を現す必要に迫られることになります。このように、憑依霊がどのような性質のものであるかは、その憑依の「解釈」に大きく依存しています。その解釈は、第一に憑依を受けた本人によっておこなわれるものですが、同時に、周囲の人々、あるいは教団などの「解釈」が大きく関わっていることがわかります。この意味で憑依とは自分を意味づける文化的なコンセプトであるだけでなく、他者の評価も伴う社会的なコンセプトであると言えます〔川村106〕。
 どの巫女にも共通して見られるのは、自分の憑依体験が、避けることのできない因縁ないしは定めであったと解釈していることです。もっともこのような「生まれ」意識〔川村94〕は、体験直後からあったわけではなく、長い間の経験を経るうちにそういう解釈へとたどり着いたと見る方が正しいかもしれません。自分の霊能についても、実際は自分なりに努力したり教団での訓練を受けていたりで、いろいろと試行錯誤を繰り返しているのに、結果的には、それが「自然に身についた」と語る巫女が多いようです。
■先祖の霊との共存
  死霊はしばしば「ホトケ」と呼ばれます。特に顕著なのは先祖霊の供養あるいは祓いの場合です。先祖の霊は、恩恵をもたらす場合もありますが、巫女への憑依という状況では、むしろ怨念や祟りをもたらします。したがって、祖霊は、善悪どちらの可能性をも秘めていて、恩恵と祟りとが表裏をなしていると見ることができます。そのホトケが、悪い因縁をもたらす場合には、カミの霊威によって、ホトケの因縁〔病気の原因〕を取り除く必要が生じてきます。つまり先祖の「罪を祓う」必要があるのです。「先祖の罪つうのは恐ろしいものである。それから、世を救うためには、先祖の罪を先にお清めして、先祖つうのを先にしなければ、そなたの運勢は開けない」〔川村129〕と告げられることになります。こうして悪い霊を浄めてから、初めて正当なカミが降るのです。ただし一般的に、カミサマの場合は、先祖やホトケの因縁を祓う行事はおこないますが、死者を呼ぶ「ホトケ降ろし」はしないようです〔川村193-94〕。
 ここには、先祖からの因縁が自分の「障り」となる、すなわち現在の自分の病気あるいは不幸は、その原因が過去の先祖の罪障から来ているという信仰があります。先祖の罪障なり苦しみが、そのまま子孫の苦しみとなって今に現れるという解釈です。つまり死者の住むあの世と現在自分がいる世界との間に「交流」あるいは「呼応」が存在していると解釈するのです。したがって、現在の病人に対しては、イエと先祖の身代わりとして苦しみを受ける、いわば「先祖の犠牲」という意味づけが与えられます〔川村180〕。日本の祖霊信仰には、このようにして、あの世の先祖と関係を結ぶことによって、病気や災いだけでなく、子孫の家庭の無事平安を回復するという意義付けがなされています。そこでは死は、個人の問題ではなくて、イエの問題であり、家族を中心とするその共同体全体の問題と解釈されるのです。仏教の檀家制度などは、このような宗教的背景なくしては理解することができません。
 先祖の霊は恩恵と祟りが表裏をなしていますが、この祖霊信仰は、そのまま死者との交霊あるいは共存という日本古来の風習によるところが大きいと思われます。これが、先祖だけではなく、恨みを抱いて死んだ人や死んだ動物の霊などが取り憑くと信じられる根拠にされています。このような死霊との交流は、霊魂の生まれ変わりあるいは輪廻の思想がその背後にあると考えることができます。生者と死者とのこの二つの世界の霊媒こそが、巫女の機能であり、巫女の存在理由であると言えましょう。
              共観福音書補遺へ