予型と対型について
■原型と写し
 旧約聖書のヘブライ語「タブニート」は、「型」(かた)の意味で、神殿などを建てるための「設計図」などを指します(歴代誌上28章11節)。さらにこのヘブライ語は、主なる神が住まうイスラエルの幕屋を造るために、主がモーセに示した「型」を意味します(出エジプト25章9節/同40節)。「タブニート」は、七〇人訳で「テュポス」(予型“type”)とか「ホモイオーマ」(似姿“likeness”)などというギリシア語に訳されて、新約聖書へ受け継がれますが、これらの言葉が意味する範囲は広く、新約では、「予型」“type”と「対型」“antitype”や「似姿」“likeness”だけでなく、「型」“pattern”、「模型」“imitation”、「模範」“model”、「写し」“copy”などの訳語と関連しています。これら一群の用語は、新約で重要な概念を構成していますので、これについて説明します。
 神からモーセに示された幕屋の「型」で言えば、幕屋を造る元となる天からの設計図、すなわち「原型」とこれに従って造られる地上の幕屋があります。だから幕屋は、天に存在する「原型」の「写し」になります。言わばこの二つは、印鑑とこれを押した印像、本体と模型、文書や手紙のオリジナルとこれのコピーの関係にあると言えましょう。しかし、どちらが本体でどちらが写しなのか、あるいはどちらがオリジナルでどちらがコピーなのか、用語の関係が紛らわしい場合があります。
 例えば天上と地上の対応関係の場合、神がモーセに示した「型」の原型は、「ほんもの」すなわち「本体」として天にあります(出エジプト25章40節)。七〇人訳ではここの「原型」にあたるギリシア語は「テュポス」(タイプ“type”)です。「天にある本体は人間には見えませんから、神はこれをモーセに啓示したのです。だから地上にあるイスラエルの幕屋あるいは神殿は、天の完全な本体に対して地上にある不完全な「写し」であり、天の神殿に比べると地上の神殿はその「模造」に過ぎないことになります。
■ヘブライ人への手紙の場合
 ヘブライ9章23節には、「このように、天にあるものの<写し>は、これらのものによって清められねばならないのですが、天にあるもの自体は、これらよりもまさったいけにえによって、清められねばなりません」〔新共同訳〕とあります。ここで「写し」と訳されている原語(ヒュポデイグマタ)は、ヨハネ13章15節の「模範」(ヒュポデイグマ)と同じギリシア語です。ヘブライ人への手紙によれば、旧約時代のユダヤ教の神殿は、天にある神の神殿(本体)の「写し」にすぎません。不完全な「写し」の神殿では、罪の贖いもまた不完全になり、「律法によって犠牲の動物の血を流す」(ヘブライ9章22節)という贖罪の祭儀によらざるをえませんでした。キリストによって天の完全な「型」が与えられるまで、旧約の神殿と贖罪の祭儀は、このように、「天にあるものを予め写す」(ヘブライ9章23節)ための模型であり続けたのです。
 しかし、イエス・キリストがメシアとして到来しますと、キリストは、天の神殿にある贖いの聖所に「死と復活の受難によって入り」ました(ヘブライ9章24節)。天上の本体の「写し」にすぎない地上の神殿では、動物の血という「写し」による贖罪の犠牲によってしか、罪からの浄めを得ることができませんでしたが、天の本体の神殿では、贖罪もまた「ほんもの」でなければなりません。そうでなければ「ほんものの浄め」は与えられないからです。だからイエス・キリストは、受難の十字架の血という「ほんもの」の贖罪の供え物を天の神殿に捧げてくださったのです。
 ヘブライ人への手紙では、モーセの幕屋にある聖所で捧げられる贖いの供え物は「写し(ヒュポデイグマ)であり影である」(8章5節)と言われています。しかもモーセは神に示された「型(テュポス)どおりに」(8章5節)幕屋とその中のものを造ったとあります。ここで「型」とあるギリシア語は「タイプ」です。モーセは、神から示された「原型」である「タイプ/型」に従って、そのとおりに幕屋を造ったのです。このように、ヘブライ人への手紙では、天にある本体としての「原型」が「タイプ」“type”と呼ばれ、これに対する地上の幕屋あるいはエルサレム神殿とそこで捧げられる犠牲は、天の本体である「原型」(タイプ)に対応するものとして「対型」(たいけい)「アンティタイプ」”antitype“と呼ばれます(ヘブライ9章24節)。
■第一ペトロの手紙の場合
 さらにもうひとつ、第一ペトロ3章21節にも「タイプ」と「アンティタイプ」の関係が表われます。第一ペトロ3章19節以下は、内容的に問題の多いところですが、ここではノアの洪水が洗礼の水にたとえられています。また、この水をくぐって救われたノアとその家族も、イエス・キリストを信じて洗礼を受けた信仰者たちを予め現わしていることになります。ここにでてくる「水」と「ノアの家族」は、後から啓示される「洗礼」と「キリストを信じる者たち」のことを予め現わしていたという意味で「予型」と見なされています。ところが、原文には「洪水の対型(アンティタイプ)である洗礼が今やあなたがたを救う」とありますから、洪水の水は、「対型(アンティタイプ)としての洗礼の水」を予め指し示す「予型」(タイプ)になります。同様に、ノアの家族も予型(タイプ)として、これの対型(アンティタイプ)となるキリストを信じる人たちを指し示していることになります。
 ここで注意しなければならないのは、「洪水」と「洗礼」との関係、あるいはノアの家族とキリスト信者の関係は、先にでてきたモーセの幕屋の場合とは異なって、天上と地上の関係ではないことです。そうではなく、旧約時代と新約時代、すなわち時間的に見て「過去と未来」の関係に置かれているのです。しかも、この場合、本体は新約時代、すなわち「後に来る」ほうです。洪水が「予型」であって、後から啓示されるキリストのみ名による洗礼は、これの本体であり「対型」となります。予め示す洪水の水よりも後から来る洗礼の水のほうが、あるいはノアの家族の救いよりもイエス・キリストによる救いのほうが、神から出たはるかに優る「ほんもの」であり、したがってこちらが本体なのです。
■「予型」と「対型」関係のねじれ
 ヘブライ人への手紙で語られるモーセの幕屋の場合は、「写し」のほうが「対型」(アンティタイプ)と言われますから、本体である「原型」が「タイプ」であり、「写し」のほうが「対型」(アンティタイプ)です。しかし第一ペトロの手紙では、本体のほうが「対型」(アンティタイプ)になり、これを予め現わしているほうが「予型」(タイプ)になるのです。
 このように、「予型/タイプ」と「対型/アンティタイプ」の関係は、第一ペトロの手紙とヘブライ人への手紙ではちょうど逆になります。この違いは、歴史的な対応関係と宇宙的な対応関係の違いから来るものです。歴史的な関係においては、「予め示すために写された型」という意味で、先のほうを「予型」(タイプ)と言い、後に啓示される本体を「対型」(アンティタイプ)と呼びます。しかしこの見方だと、ヘブライ人への手紙の場合でも、歴史的に見て後に来るイエス・キリストのほんものの犠牲の血は、モーセ律法の捧げる「写し」としての犠牲に対して「対型」(アンティタイプ)にあたることになります。また、「写し」にすぎない幕屋や神殿の犠牲は、キリストの血を予め現わしていたのですから「予型」(タイプ)になります。
 ところが、先に見たように、ヘブライ人への手紙の原語では、天に存在する「まことの型(ヒュポデイグマ)」に対して「写し」のほうを「アンティテュポス」(対型“antitype”)と呼んでいるのです(ヘブライ9章24節)。だからヘブライ人への手紙では、七〇人訳に従って、天にある本体が「タイプ」となり、地上の幕屋が「アンティタイプ」と呼ばれます。しかし、イエス・キリストによる贖いの血の捧げ物に関して言えば、歴史的な視点から観て、地上にある幕屋の「写し」の犠牲の血のほうが「タイプ」(予型)となり、天上で捧げる本体の犠牲の血が「アンティタイプ」(対型)にあたることになりましょう。ヘブライ人への手紙では「本体」(タイプ)と「写し」(アンティタイプイ)と呼ばれますが、第一ペトロの手紙では「予型」(タイプ)から「本体」(アンティタイプ)へ移行するのです。
 したがって、宇宙的な本体である原型(タイプ)は、歴史的な本体では対型(アンティタイプ)になりますから、ここでは、「本体」とその「写し」の関係で、「タイプ」と「アンティタイプ」が、ねじれた用語の使い方になってくるのです。
 これから判断すると、「型」(タイプ)と「対型」(アンティタイプ)の関係は、必ずしも「本体」と「写し」との関係に対応するとは限らないようです。これらふたつは「対」(つい)をなしていますから、一方が「型/タイプ」であれば、対応するもう一方は「対型/アンティタイプ」になるのでしょう。だから「アンティタイプ」は対型(たいけい)というよりも対型(ついけい)と呼ぶべきでしょうか。
 このように、予型論“typology”では、天上と地上のような宇宙的な対応関係(本体は天上のほう)と、旧約と新約のような歴史的な対応関係(本体は新約のほう)とがあって、これによって「予型」と「対型」の関係が内容から見て変わるので、紛らわしい場合があります。しかし予型論は聖書、特に新約聖書を理解する上でとても重要な概念です。用語としては、天と地の対応関係の場合には「原型」と「写し」を用い、旧約と新約の場合には「予型」と「対型」を用いるのが適切ではないでしょうか。あるいはこれらを「原型」と「写し」、「予型」と「成就」のように訳し分けるのも分かりやすいと言えましょう。
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