【注釈】
■5章31~47節について
 5章31節から47節までは、18節で「ユダヤ人」がイエスに向けた非難に対する答えの延長です。18節の「ユダヤ人」の批判に対しては、すでに19~30節で、父から御子に授与された権能という形で答えが与えられています。しかし、この答えは、言わば神からの啓示という<上から臨む>権威/権能に基づくものです。これに対して、31~47節では、視点を全く逆転させて、今度は下から、言い換えると<人間の側から>見た視点で、18節の問いに応えようとするのです〔バルト『ヨハネ福音書』〕。このような上下両方からの「証し」のスタイルは、この福音書によく見られるもので、ヨハネ共同体による伝承か、あるいはこの福音書の作者の説話から出ているのでしょう。また、そこにはこの福音書が書かれた当時のヨハネ共同体とユダヤ教との論争も反映しているのでしょう。
 今回の箇所では、イエスについての証しとして、次の五つがあげられています。(1)別の方(単数)。(2)洗礼者ヨハネ。(3)イエスの行なっている業。(4)父ご自身。(5)聖書とモーセです。後で指摘するように、「別の方」に聖霊の働きも含まれているとすれば、洗礼者と、イエスを通して働く聖霊の業と、父ご自身と、聖書とが、同じひとつのこと、すなわち、御子イエスについて証ししていることになります。
■5章
[31]~[32]
もしわたしが自分について証ししているのなら
わたしの証しは真実でない。
わたしについて証しする方が別に居る。
その証しが真実であることをわたしは知っている
その方はわたしについて証しするのだから。
【自分について証しする】申命記17章6節に、人を死刑にする場合には、必ず二人ないし三人の証言を必要とするとあり、民数記35章30節には、殺人の罪で処刑する場合は、一人の証言で罪に定めてはならないとあります。しかし、これら旧約の事例は、ここでのイエスの証しの場合と必ずしも同じでありません。なぜなら、旧約の事例は、人を罪に定める場合の第三者の証言の真偽に関する規定です。これに対して、ここでのイエスの場合は、証言する人物自身の真偽を確かめるための証人のことです。ここでは、被告自身の偽証が問題になっているのです。ユダヤ教のラビの文書には、誰も自分自身について証言してはならないとあって、このほうが、ここでのイエスの場合に近いでしょう。なお、8章13~18節は、今回のイエスの言葉と一見矛盾しているように見えます。しかし、8章16節にも、イエスが「父と共にいる」とありますから、イエスの証言の真実性という視点では、今回の部分と共通します。
 ある人が自分自身について証言する場合、その証しが真実と見なされ<ない>のは、ユダヤ教だけでなく、広く一般に受け入れられている事実です。自己についての証言が無効だと判断される理由は、ユダヤ人も含めてこの世では、自己証言が自己の利益あるいは名誉を重んじる立場からのものにすぎないことが前提されているからです。だから、イエスの相手は、イエスの証言も<そのような>ものとしてしか理解できません。
 これに対してイエスは、「わたしがわたしについて証ししている」<その間においても>、すでにそこに、「別のお方」が、共に臨在しておられるという事態そのものを指しています。「わたし(イエス)」が、「自分から語るのでない」ことは、「わたし」の証しが自己証言ではなく、父御自身が共にその場で<臨在して働いて>おられること(17節)、その事実が、証言の真実性を証しすることです。しかし、聞いている者たちには、それもイエスの単なる自己証言にすぎないとしか映らないとすれば、イエスを通じて父が啓示されているそのことが、彼らには<隠されている>ことになります。
 ここでは、人間の側から見た場合、イエスが「肉(人)となったロゴス」であることが、不可避的に「躓きを伴う」ことが明らかにされます。だから、31節からは、30節までの父からの啓示ではなく、人間の側から見る時に生じる「受肉の躓き」が露わになるのです。ただし、イエスと「ユダヤ人」とのこのような論争は、ユダヤ教的な論理の中で行われていますから、その論法には、ヨハネ共同体と当時の「ユダヤ人」との論争が反映していると見なければなりません。
【別にいる】今回の箇所全体が「イエスの父」の証しの重要性を語っていますから、この「別の方」は、父なる神と解釈されています〔ブラウン『ヨハネ福音書』(1)〕。ただし、33~35節だけに目を留めるなら、そこは1章33節~34節での洗礼者の証言を指しています。だから、31~35節全体を一つのまとまりとすれば〔新約原典〕〔NRSV〕〔REB〕、「別の者」を洗礼者だと理解することもできます。しかし、36節では「ヨハネよりも大きな証し」とあり、「今現に父がわたしに行なわせている業」とあり、37節で、改めて31~32節を受けて、「わたしをお遣わしになった父」が出てきます。これから判断すると、31~32節の「別のもの」は、「別のお方」〔新共同訳〕〔フランシスコ会訳〕〔岩波訳〕として、「父」を指すと理解するほうが適切でしょう。なお、32節は3行で読むほうが分かりやすいです〔ブルトマン『ヨハネの福音書』〕〔私訳〕。
[33]~[34]洗礼者に関する他の箇所と同じに(1章6~8節/同15節/同19~34節/3章26~30節)33~35節も散文体です。
【彼は証しをした】32節までの現在形に代わって、ここからは「証しをした」(完了形)、「喜ぼうとした」(アオリスト〔過去〕形)(35節)が用いられていて、洗礼者の出来事がすでに過去のことであり、しかも彼の預言者としての働きが、神からのものだと評価されていたことを示します。だから洗礼者は、ユダヤ教の指導者たちからもある程度の権威を認められていたと考えられます。これは、イエスの時だけでなく、ヨハネ共同体とその相手であるファリサイ派の人たちも、この点では一致していたのでしょう。ただし、ユダヤ人は、洗礼者がいったい<何について>あるいは<誰について>証ししていたのか?その証しの意義を正しく観ることをしなかったのです。
【真理について】ここでは、特に1章15節/同29~30節と3章28~30節を指しています。洗礼者は、これらの箇所で、イエスこそが「真の光」であり「神から遣わされた小羊」であり「天から与えられた花婿」であると証ししたからです。「真理」とは「イエス自身」のことです。なお、「真理について証しをする」という言い方については、洗礼者が関与していたと思われるクムランの『宗団規定』に「裁きの時に真理について証人となる」(1QS8の6節)とあります。
【人間による証し】原文の意味は、「わたし自身としては、だれかほかの人間から(わたしがメシアであることについての)証しを受ける必要がない」ことです。「わたし」と「あなたたち」とが対照されているのに注意してください。「わたし」に関しては、証ししてくれる方が「ほかにおられる」(32節)のです。それゆえ、イエス自身の権威は、誰か他の人間からの評価に基づくものではありません。しかし、イエスはここで、<あなたたちみんなが救われる>ために、あえてあなたたちが納得できる証人(洗礼者)を引き合いに出すのです(第一ヨハネ5章9節参照)。
[35]【燃えて輝くともし火】ここの「灯火」には、詩編132篇16~17節が反映していると指摘されています〔バレット『ヨハネ福音書』〕。それは「主が油注いだ者」としての輝く灯火です。ただし、洗礼者は永続的な「光」ではなく、「しばしの間/ひと時」(ヘブライ語独特の言い方)だけ燃えて輝く「灯火」にすぎません。シラ書48章1節に「そして火のような預言者エリヤが登場した。彼の言葉はたいまつのように燃えていた」とあって、「ともし火」は、メシアの先駆けとしてのエリヤを示唆するという指摘があります。洗礼者はエリヤの再来であると信じられていました(マタイ17章12~13節)。
【喜び楽しむ】アラム語の表現で「(ともし火を見て)栄光と誇りを覚える」ことです。後で、神からの「栄光」と人からの「誉れ」(どちらも同一語)について語られますから(44節)、「喜ぶ」には「栄光と誉れを感じる」の意味もこめられています。彼らは、洗礼者の放つしばしの輝きを喜んだのですが、その灯火が「だれを」を指し示し、そこで起こった出来事が「なにを」意味するのか、灯火が燃え尽きるまでに(洗礼者の殉教!)このことを観ることができなかったのです。彼らは人間同士の<人の証し>としてしか聞かなかったからです〔バルト『ヨハネ福音書』〕。なお「喜ぶ」については、8章56節に「アブラハムも、(イエス到来の)日を見て喜んだ」とあります。
[36]
しかしわたしには、ヨハネの証しにまさる証しがある。
父がわたしに成し遂げるようお与えになった業、
つまり、わたしが現に行なっている業そのものが、
父がわたしをお遣わしになったことを証ししている。
【ヨハネの証しにまさる】洗礼者からのイエスについての証しを第一の証しとすれば、次に来るのは、それに勝る第二の証しです。これは「洗礼者がイエスに与えた証しよりもさらにまさった(父からの)証し」という意味です。「洗礼者に(天から)与えられた証しよりもまさった証しが、父からイエスに与えられている」という意味ではありません。イエスは、ユダヤ人のために、あえて洗礼者の証しを引き合いに出したのですが、それよりも「もっと大きな」〔原文〕証しについて語るのです。歴史的に見れば、洗礼者宗団は、かつてエフェソにもいて(使徒言行録19章1~6節)、ヨハネ福音書が成立する90年代にも存続したと思われますが、ヨハネ福音書が書かれた頃には、その影響はすでに失われていたのでしょう(3章30節参照)。
【業】ここで語られる業(複数)は、洗礼者が与えたものより「もっと大きい」と比較されますが、「父がイエスに与える」業は、洗礼者のそれよりも、相手にとってはるかに「大きな意味」と、同時に「大きな躓き」ともなりえるものです。それは、これを見る者聞く者にとって、「裁き」にもなり「命」にもなりえる啓示だからです〔ブルトマン『ヨハネの福音書』〕。イエスは、自分が表わす出来事(しるしを含む)を「業」と呼んでいます(4章48節)。ただし、ヨハネ福音書で言う「イエスの業」とは、イエスが行うしるし/奇跡のことだけでなく、イエスの言葉と行為を含むその出来事全体を指します。「わたしが行なう業そのもの」が繰り返されているのは、これが洗礼者の証しよりも、はるかに決定的な出来事を、見聞きする者にもたらすからです。「父がイエスを遣わしている」という「この事実/真実」を受け入れて、<イエスを信じる>こと、これが求められているのです。
【成し遂げる】4章34節にも「父の業(単数)を成し遂げる」とあります。「業」はイエスを通じて起こる出来事ですが、その出来事それ自体が指し示すのは、目の前の事だけでなく、それが<どこから>生じているのか? そして<どこへ>向かうのか? このこともまた業の出来事に含まれます〔バルト『ヨハネ福音書』〕。そこに見えてくるのが「父から子への証し」です。だから「成し遂げる」は、19章28節にあるように、イエスが十字架の贖いを最後まで成就することを指すのでしょう(17章4節参照)。
[37]~[38]37節前半と38節後半を直接結ぶと、「また、わたしをお遣わしになった父が、わたしについて証しをしてくださる。(それなのに)父がお遣わしになった者を、あなたたちは信じない」と論旨がつながってきます。したがって、この中間の部分は後からの挿入ではないかという見方があります。しかし、その中間部分には、「ユダヤ人」が父の姿を見失っていること、彼らが「神のロゴス」を宿していないことなど、ヨハネ福音書にとって重要なテーマが語られています。この福音書では、後からの編集部分と元の形を区別するのが難しいのです。
 37~38節には、「その(父の)声」「その姿」「その言葉」と「その」(父の)が3度繰り返されています。「証しをしてくださっている」の動詞は完了形で、すでに完了した事が現在も続いていることを表わします。洗礼者と父からの証しに続いて、第三の証しとして、イスラエルの父祖たち以来、ユダヤ人に与えられてきた神の声と姿と言葉を提示しているのでしょう〔バルト『ヨハネ福音書』〕。
【お姿を見たこともない】1章18節でも、「神の姿」についてこのように言われています。ここには、モーセがシナイ山で神の顕現に接した出来事が反映しているのでしょう(出エジプト記19章9~11節/同20章18~21節)。そこには、民の「見ている前で」神が降臨したとありますが、申命記4章12節では、民が神の声を聞いたけれども姿は見えなかったとあって、叙述がやや矛盾しています。今回のイエスの言葉は、「神の姿を見る」ことを否定しているとも受け取ることができましょう。しかし、父からの啓示は、この世の人には見えないけれども、<イエスを父なる神の子と信じる者>には、「神を観る」ことができるとヨハネ福音書は言うのです(14章8~9節/マタイ5章8節参照)。ただし、「あなたたち」(ユダヤ人の指導者たち)は、今までも、神の声、神の姿、神の言葉を見逃し聞き逃してきたのです。今もまた、神が遣わしたイエスを前にして、「啓示の民でありながら、啓示を前にして、啓示の何であるかを知らなかった」〔バルト『ヨハネ福音書』〕のです。
【父のお言葉】原語は「父のロゴス」です。この表現は、この部分全体を解く鍵語です。ここは、「神の言葉があなたたちに留まっていないのは、彼(父)が遣わした方を信じないからである」とも「彼(父)が遣わした方を信じないそのことによって、神の言葉があなたたちに留まっていないことが分かる」とも解釈できます。神のロゴスは、父が御子イエスを遣わしたことを通して証しされています。しかし彼らは、イエスを信じることができません。与えられた啓示のみ言(ことば)の内にとどまろうとしないからです。神から遣わされた「ロゴス」その者を信じないのなら、どうして「ロゴス」としての聖書を信じることができるだろうか。これが39節につながる主題です。
[39]~[40]
あなたたちが聖書を研究するのは
聖書に永遠の命があると思うからである。
だがそれは、わたしについて証するものである。
それなのにあなたたちは、わたしのところへ
命を得るために来ようとしない。
【聖書を研究する】「聖書」の原語は複数で、「諸文書」のことです(英語の"the Scriptures")。「研究する」は「調べる/調査する」などの意味ですが、ここは、ユダヤ教で律法を「研究する」ことを指す専門用語です。ユダヤ教では、特に45節にでてくるモーセ律法は命の泉でした(詩編36篇10節)。オリゲネス、テルトリアヌス、エイレナイオス、ウルガタ訳など、古代の教父は、ここを「あなたたちは、永遠の命があると思っている聖書を調べてみなさい」と命令法に読んでいます。「聖書を調べてみるがいい」〔岩波訳〕。
 1935年にイギリスで発見されたエジャトン・パピルスⅡには、この部分が含まれていて〔注釈の「付記」を参照〕、そこでは「〔あなたたちが〕その中に命があると思っている聖書を調べてみなさい」となっていますから、これも命令法の読み方です〔教文館『聖書外典偽典』(6)新約外典(Ⅰ)〕。しかし「思い込む」とあり「それなのにあなたたちは~」とありますから、ここは命令法ではなく平叙文に読むほうが適切でしょう。
【命があると考えて】「聖書の中にこそ永遠の命があると<思う>」とあるのは「思い違いをする/誤ってそう思い込む」という意味にもなります。ただし、「聖書研究が永遠の命を<もたらさない>」という意味ではなく、「彼らの」聖書研究の姿勢そのものが、彼らを永遠の命から<逆に閉め出す>結果になっているという意味です(ローマ10章3節参照)。
【来ようとしない】意図的に拒否することです。彼らは「別の方」(32節)として聖書から語りかけてくる「神の声」を聴こうとはせず(37節)、神を自己の研究対象に置いて、自分は、神から解放されて自由に研究を企て、自力で神を見いだそうとすることで、人間としての自分自身に対して根本的な誤解を抱いているのです〔ブルトマン『ヨハネの福音書』〕。だから彼らは、かつては神が語り命の泉が流れ出た過去のモーセの律法に固執して、これにとらわれるあまり、父が彼らに遣わして<今の時に>語りかけている御子イエスの声に耳を閉ざすのです。聖書は「わたし(イエス)について」証ししているのに、聖書のイエスが語りかける証しを受け入れなければ、聖書はただの古文書であり、あらゆる聖書主義も無意味です〔バルト『ヨハネ福音書』〕。だから、ほんものの神の言葉、永遠の命の泉である御子イエスは、彼らから隠されたままになっているのです。
 ヨハネ福音書は、聖書を通じて神のロゴスが、今この時にも「あなたたちに」働きかけていますから、聖書を学び研究する最大の目的は、知識を得るためでも宗教家になるためでもなく、一人一人が<神からの永遠の命に与る>ことだと告げるのです。
[41]~[42]【誉れ】原語「ドクサ」には「栄光」と「誉れ」の両方の意味があります。これが、「人から受ける<栄誉>」と「神から与えられる<栄光>」の二つの意味に使い分けられています。ここで言う「(人からの)栄誉」とは、5章34節で言われている「人からのイエスについての証し」のことです。先にイエスも、洗礼者のイエスに対する証しを引き合いに出して、相手のユダヤ人たちを<救いに導こう>としました。歴史的な偉業だとか、聖書の知識だとか、他人から受ける評価などを求めていると言えば、彼らはそれなりに納得するでしょう。ところが、イエスはここで、そういうことを<しない>のです。その代わりに、最も重要な事、<別のお方>が遣わす御霊の働きかけ(15章26節参照)の証しを彼らに想い起こさせようとするのです。しかし、結果は逆で、彼らが、「闇を好んで光のほうへ来ようとしない」(3章19~20節)ことが暴露されます。
【知っている】原文は「わたしがあなたたちについて分かったこと、それは~」です。
【神への愛】原文は「神の愛」ですから、「神を愛する」ことと「神があなたたちに与える愛」のように、「神」を目的格と主格の両方に解釈することができます。ここでは目的格のほうが適切でしょう。ただし「神の」を目的格の属格と解しても主格の属格と解しても、あるいはその両方の意味を重ねても、内容的には同じです〔ブルトマン『ヨハネの福音書』〕。
 旧約聖書では「神の愛」こそ、律法が求めている最も大事な本質です(申命記6章4~5節/ルカ10章25~28節/ガラテヤ5章14節)。イエスの相手のユダヤ人たちは、洗礼者の灯火を喜び、イエスのしるしを見たり、旧約の啓示を思い出したり、聖書を研究することもできます。ところが、これらすべての事を生じさせている「別のお方」こそが、それらのほんとうの主体であること、このことに心を向けません。だから「神を愛する」ことができないのです〔バルト『ヨハネ福音書』〕。
[43]【父の名によって来る】「父の名」(御名)は10章25節/12章28節/17章6節にでてきます。「父の名によって来る」とは、父の代わりであることだけではなく、父そのものを父のロゴスであるイエスが啓示していることを意味します。
【ほかの人が自分の名で】偽預言者を指しています。紀元132年から133年にかけて、バル・コクバを指導者とする反乱が起こりました。この反乱は、紀元70年にエルサレムに破壊をもたらした反乱に次ぐ大規模なものです。反乱は、時のローマ皇帝が、破壊されたエルサレム神殿をジュピターの神殿として再建しようとしたことに加えて、ユダヤ人に割礼を禁じようとしたことなどがその原因だと言われています。しかし、乱の勃発に先立って、すでにローマによる土地の没収が行われていたから、これら経済的社会的な要因も反乱の背後にあり、緊張は久しい以前から続いていたと思われます。事件の経過については必ずしも定かではありませんが、一時はユダヤ側がかなりの成功を収めて、自分たちの貨幣を発行することさえしていました。当時ローマでは、ユダヤ戦争での勝利を刻んだ貨幣が発行されていて、ユダヤ側の貨幣はこれに対抗するためであったと思われます。しかし、ハドリアヌス皇帝は軍団を送り、ユダヤ人の頑強な抵抗を徹底的に鎮圧し、その結果、先のエルサレム破壊よりもさらに徹底した破壊が行われました。これが「第二次ユダヤ戦争」(132~35年)で、ユダヤ人の最後の抵抗となります。
 反乱の指導者である「バル・コクバ」は「星の子」という意味で、彼はメシアと仰がれて、ユダヤ人の希望の星として反乱の象徴になりました。この当時は、ユダヤ教とキリスト教とがいまだはっきりとは区別されておらず、キリスト教もユダヤ教の一宗派であると思われていたので、ユダヤ側からキリスト教の側にも反乱への参加を求める呼びかけが行われました。しかし、イエスをメシアと仰いでいたキリスト教徒は、バル・コクバをメシアとは認めなかったのです。このことから、バル・コクバの反乱は、ユダヤ教とキリスト教とが異なる宗教であり、キリスト教はユダヤ教の一宗派ではないことを内外に印象づける事件となり、ユダヤ教とキリスト教との対立がいっそう厳しくなりました。
 ヨハネ福音書が編集されたのは、実際に反乱が勃発した時期よりも先ですから、ここでヨハネ福音書が、直接この反乱に言及しているとは思われません〔ブルトマン『ヨハネの福音書』〕。しかし、この福音書が、共観福音書と違って、この時期の「ユダヤ人」との対立をより鮮明に出しているその背景には、これに類する事情があったと見ることができます。「ほかの人が自分の名で来る」というのは、このような偽メシアを示唆しているのでしょう。ちなみに、反乱の鎮圧後、ユダヤ教徒の間でも、バル・コクバに対する評価が分かれ、彼をバル・コシバ(騙しの子)と呼ぶ者も出てきました。
[44]【互いに相手からの】ユダヤ教では、師と仰がれるラビには最大級の賛辞が贈られるのが慣わしでした。ユダヤ人指導者の躓きの原因は、多くの民衆に誉めてもらおうという願いにもあったのです。
【唯一の神】4章で「神は霊であるから、礼拝する者も霊とまことをもって」礼拝しなければならないとあります。このような意味で<唯一の神>からの栄光を「求める」ことこそが「イエスの父」を知ることであり、イエスを通して初めて、彼らが知っている様々な人間的な出来事や歴史の背後に「別の方」が隠れていることを悟ることができます。これは、ユダヤ人だけのことでなく、エフェソでもローマでもアテナイでも同じです。
[45]~[47]
わたしがあなたたちを父に訴えると思ってはならない。
あなたたちを訴える方がいる。
 それはモーセである。
あなたたちが望みを抱いてきたその方である。
あなたたちがモーセを信じたのであれば、
わたしをも信じたはずだ。
彼はわたしについて書いているからである。
しかし、モーセの書いたことを信じないのなら、
どうしてわたしが語ることを信じることができようか。
【父に訴える】「訴える」は法廷用語です。「告発する」〔岩波訳〕。「告訴人」(ギリシア語「カテーゴロス」)と「弁護人」(「パラクレートス」)はギリシア語の発音のままヘブライ語とアラム語に採り入れられて、ユダヤ教の文献でも用いられていました。だから、ここでイエスは、自分が、父に対して人間を告発する「告訴人」ではなく、逆に人を慰め弁護する「弁護人」(14章16節その他の「パラクレートス」参照)であると言うのです。人間を神に対して訴え告発するのはサタンの仕業です(ヨハネ黙示録12章9~10節/ヨブ記1章6~11節参照)。
 モーセが預言し律法を書き記したのは、その言葉(39~40節で言われている「聖書」のこと!)を読み、その声に耳を傾けて、神からの語りかけを「聴き取る」ためであり、これによって「永遠の命を得る」ためです。だから、ちょうど今、イエスが彼らに向かって語っているのと事情は全く変わらないのです! ところが今、ユダヤ人の指導者たちは、この律法を人を束縛し告訴する「宗教制度」へ作り変えてしまったのです(5章9~10節)〔バレット『ヨハネ福音書』〕。その結果、律法は誤解され誤用されて、神の栄光(ドクサ)ではなく、人が褒め合う栄誉(ドクサ)へ転じることになりました。その結果、今や、モーセ(律法)が、人に命を与える代わりに人を告発する働きに転じたのです。そして今、モーセが彼らのこの欺瞞性を告発することになったのです〔ブルトマン『ヨハネの福音書』〕。彼らはモーセに弁護者(パラクレートス)を求めていたのに、皮肉にもモーセが彼らへの告訴人(カテーゴロス)になっているのです。彼らは、モーセを遣わしている「別の方」の声に聴くことをしなかったからです。かつてのモーセと今のイエスとは、同じように「別の方」からの「語りかけ/言葉」を語っていることに、彼らは気づかないのです。
【モーセ】この言葉は通常「モーセ五書」を指しますが、ここでは「モーセ五書」だけではなく(旧約)聖書全体を指しています。
【わたしについて書いた】申命記18章18節に、モーセが自分の後に偉大な預言者が来ることを預言したとあります。ここのユダヤ人たちは、メシアの到来を「未来に」待ち望んでいたのでしょう。未来を知ることを聖書研究の目的とすることで、聖書を通じて今の時に与えられる神の声を聴かず、神への愛が忘れられたのです。このために「ユダヤ人」は、イエスが「語ること」(原語「レーマタ」はモーセとイエスに共通する「語りかけの内容」のこと)を悟ることができないのです。なお、「エジャトン・パピルス」では45節の後に9章29節が来ています。
■付記
「エジャトン・パピルス」Ⅱ:第1葉(1~21行)
「・・・・・イエスは律法学者たちに言われた。『わたしではなく不正を行ない律法に叛く者を皆罰するがよい。・・・・・彼がなすごとく、行なう・・・・・』。そして民の役人たちのほうへ向き直り、この言葉を述べた。『あなたたちが、その中に命があると考えている聖書を調べてみよ。これは、わたしについての証しをなすものである。わたしがあなたたちをわたしの父に訴えるために来たのだと思うな。あなたたちを訴えるのはあなたたちが希望を託しているモーセその人である。』そこで彼らが、『わたしたちは神がモーセに語られたということは知っている。しかし、あなたについてはどこから来たのか知らない』と言うと、イエスは答えて彼らに言われた。『今や、あなたたちの不信仰に対する訴えがなされた・・・・・』」。〔松永希久夫訳『聖書外典偽典』(6)。訳者が訳文中に補った部分を指す括弧印は略してあります。〕
 「エジャトン・パピルス」は、1935年にイギリスで発見されました。パピルスは2葉で、その裏表に書かれていますが、ここにあげたのはその一枚目の表です。ここには、ヨハネ5章39節/45節/9章29節がひとつになっています。これが書かれたのは2世紀の中頃だと推定されていますが、現在のところでは、このパピルスの作者が四福音書のどれをも知っていて、これを記憶によって書いたのか、あるいは、四福音書で用いられている原資料と共通する原資料を持っていたのか、そのどちらかは分かりません〔松永希久夫「エジャトン・パピルス」Ⅱ概説。前掲書〕。
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