【注釈】
■10章の構成について
10章全体は、三つに大別して見ることができます。(A)1節~18節と、(B)19節~30節と、(C)31節~42節です。このように分けたのは、それなりの理由があります。この10章は、先の5章の場合と同じように、錯簡(頁の入れ違い)があるのではないかと見られているからです。錯簡説の細部については諸説がありますが、錯簡説では、(A)を(B)と(C)の間に挟んで読みます〔下巻の補遺「錯簡説に基づくヨハネ福音書」を参照〕。(B)19節~29節→(A)1節~18節→(C)30節~42節のように読むと、9章41節と10章19~30節がうまくつながります。さらに、10章1節以下での説話の相手(6節の「彼ら」)は、22節~30節の説話の聴衆と同じ人たち(24節の「ユダヤ人」)を対象にしているのが分かります。また現行の形では、羊の話がふたつに分かれていますが、入れ替えると話が一つにまとまります〔ブルトマン『ヨハネの福音書』〕。
これに対して、現行のままをとる説も同じくらい有力です。現行のままだと、10章1節~21節を一つのまとまりと見なしますから、19~21節の扱い方が、先の分け方と異なります〔新共同訳〕[フランシスコ会訳]〔新約原典〕。現行の形をとる説は、ヨハネ福音書の編集過程において、少なくとも二人(著者と編集者)がかかわっていると見て、このため、現在の形は、後の編集者による意図的な構成だと考えるのです。確かに、現行の10章6節は9章40節と対応しています。また10章26~28節は10章1~18節を前提にしています〔ドッド『第四福音書の解釈』〕。(A)の部分は、9章の「ファリサイ派」と「人の子」の対照関係を「偽りの羊飼い」と「善い羊飼い」との対照へ移行させたと見ることもできます。だから、9章の物語は、10章21節までで一つのまとまりをなすと見ることもできましょう〔ドッド前掲書〕〔キーナー『ヨハネ福音書注解』(1)〕。現行のままだと、1節以下の「よい羊飼い」と羊をめぐる話は、仮庵の祭り(秋)と宮清め(12月)の二つの祭りのどちらへもつながります。祭りはヨハネ福音書では大事な区切りになりますが、1節以下の内容が、次の宮清めの22節以下へと連続していても不自然ではないと編集者は判断したのでしょうか。したがって、ほんらい9章41節が10章19節へ続いていたところへ、編集者が意図的に10章1~18節を挿入したと見ることもできます。
錯簡の問題については、ここだけでなく、5章と6章との入れ替え、15章~17章と14章との入れ替えがあります。すでに5章「ベトザタの池」の注釈の「錯簡問題について」の項で指摘したように、今回の場合も、編集者が、ヨハネ共同体の始祖の書いたものに、始祖の遺稿あるいは彼が言い遺した説話断片を挿入した可能性があります。現行のままの10章は、10章19節の「分裂が生じた」と21節の「盲人の目を開ける」とあることによって9章と連結されています。9章でファリサイ派が追い出した人をイエスが「見出して」、10章で彼を「羊の囲い」に導き入れるのです。ただし、10章では、善い羊飼いと羊を奪う強盗の狼とが対照されるだけでなく、善い羊飼いと雇いの羊飼いが対照されていて、いわば二重のたとえで語られています。また羊の「門」と「羊飼い」のたとえが並んでいるので、たとえがやや混乱しています。
■10章
1アーメン、アーメン。あなたたちに言う。
羊の囲いに入るのに、門を通らないで
ほかの場所から乗り越える者は、
盗人であり、強盗である。
2門から入る者こそ羊たちの羊飼いである。
3門番はその人に門を開き、
羊はその声を聞き分ける。
その人は自分の羊の名を呼んで連れ出す。
4自分の羊すべてを連れ出すと、
羊たちの先頭に立って歩んで行く。
羊たちは彼について行く。
その声を知っているからである。
5しかし、ほかの者たちには決してついて行かない。
かえって彼らからは逃げ去る。
ほかの者たちの声を知らないからである。
[1]1節~5節では、羊泥棒とほんとうの羊飼いが対照されます。「門」と「門番」は、羊飼いの真偽を区別する要(かなめ)になります。1~5節は、そのまま読めば、9章40節の「彼ら」であり、10章6節の「彼ら」であるファリサイ派の人たちに当てて語られていますから、イスラエルの民を導く者たちです。このたとえの背後には、共観福音書の「飼い主のいない羊の群」(マルコ6章34節=マタイ9章36節)や「失われた羊」のたとえ(ルカ15章3~7節)があるのでしょう。しかし、このたとえはファリサイ派に限定されません。神殿を「強盗の巣」にしたサドカイ派やエルサレムの祭司たちも当然含まれます(マルコ11章17~18節)。これに対する真の羊飼いは、弱い小さな者たちに御国を与える父なる神(ルカ12章31~32節)から「遣わされた方」です〔ブラウン『ヨハネ福音書』(1)〕。
【囲い】パレスチナの村落では、数軒が集合していて、その中庭は共同の場であり、羊を飼う場にもなります。しかし、今回のたとえは、100匹の羊のたとえにあるようなかなりの羊の群れを想定しています。この場合は、人の背丈ほどもある石垣で囲われた羊の檻のことで、門は一箇所しかありません〔フランシスコ会訳聖書ヨハネ10章(注)1〕。だから盗人は、羊の門からではなく、壁/塀を乗り越えて侵入するのです。なお、 ユダのように財布の中身をごまかすのが「盗人」で、バラバのように殺人を犯して反乱を起こすのが「強盗」(マルコ15章7節)ですが、ここではそのような区別はされていません。
[2]この節では、羊飼いと門が区別されています。しかし、7節と9節でイエスは門ですから、二つのたとえが重なります。ほんとうの羊飼いとこれを受け入れる門は、盗み殺す強盗とは対照的に、羊のために命を捨てる(15節)「受難の門」を通る羊飼いです。イエスこそ「そこを通って」父のもとへ羊を導く門です(14章6節)。7節以降でこのことが明らかになりますが、ここはそこへいたる伏線になっています。
[3]【門番】ここは、おそらく幾つかの異なる羊の群れを一箇所にまとめて囲っておく大きな羊の檻とその門番たちのことでしょう。羊にはすべて名前がついていて、羊飼いは「自分の羊」だけを連れ出すのです。だから、「他の羊」はついてこないのです〔バーナード『ヨハネ福音書』(2)〕〔キーナー『ヨハネ福音書注解』(1)〕。羊にはそれぞれ「名前」(あだ名)がありました。また群れ全体を呼び出す場合、笛や口笛の音色で自分の群れだけを呼び出すこともできました。このたとえは、イエスを信じるユダヤ人キリスト教徒たち、信じないユダヤ人たち、異邦人キリスト教徒たちなど、さまざまに異なる羊たちを想定しているのです。
[4]【先頭に立って】モーセが、御霊に満たされたイスラエルの指導者(ヨシュアが選ばれた)を主に求めたときの言葉です(民数記27章17節)。ユダヤ教では、モーセのこの祈りにメシアの到来を待ち望む解釈が与えられていました。ここの「連れ出す」は9章34節の「追い出す」と対応します。一方は「導き出し」、他方は「追い出す」のです。なお「その声を知っている」は10章27節と対応します。ひとりひとりの名前を呼ぶのは、それぞれをかけがえのない人格として扱うからです。
[5]【ほかの者】原語には「見知らぬ人」の意味もありますが、ここは先の「盗人」や「強盗」のことです。12節以下にでてくる「雇い人」のことではありません。
[6]【たとえ】原語「パロイミア」は、ヨハネ福音書では16章25節と同29節にもでてきます。そのほか第二ペトロ2章22節にもでてきますが、新約ではこれ以外にはありません。これに対し共観福音書では「たとえ」には「パラボレー」が用いられています。「パロイミア」は旧約の七十人訳で「箴言」(1章1節)の意味で用いられていますから、この原語は「格言」「諺」のことで、第二ペトロの手紙ではこの意味で用いられています。けれども今回のヨハネ福音書の用法は「諺」ではありません。「たとえ」は「はっきりとあからさまに語る」ことと対照されますから(16章25~30節参照)、ここでは「謎めいた」象徴的な語り方のことです。ヘブライ語の「マシャール」には「諺」「格言」「謎」「比喩」など広い意味がありますから、ヨハネ福音書もギリシア語の区別をせずにヘブライ語の用法に従っているのです。
【ファリサイ派】ここを9章40節からの続きだと見ることもできますが、ヨハネ福音書では「ファリサイ派」と「ユダヤ人」はほとんど同じ意味です。
7アーメン、アーメン。わたしはあなたたちに言う。
わたしは羊の門である。
8わたしより前に来た者は皆、盗人であり、強盗である。
しかし、羊は彼らに従わなかった。
9わたしが門である。
わたしを通って入るなら救われ
門を出入りし、牧草を見いだす。
10盗人が来るのは、盗んだり、屠ったり、
滅ぼしたりするためにほかならない。
わたしが来たのは、羊が命を得るため、
しかも豊かに得るためである。
[7]「アーメン、アーメン」で新しいたとえが始まり、イエスはここから18節まで「わたしは」と一人称で語ります。この部分は、「門」のたとえと「盗人・強盗」に対する「羊飼い」のたとえの両方がごちゃ混ぜになっているという批評もありますが〔ブルトマン『ヨハネの福音書』〕、これは現代的な論理思考で解釈しようとするからで、古代ではこのような混合的な比喩は珍しくありません(例えばエレミヤ書1章10節/同24章6節/第一コリント3章9節)〔キーナー『ヨハネ福音書注解』(1)〕。7~10節を注意深く読むと1~5節を受けて、その比喩を巧みにずらしながら、先の1節~5節をさらに深めるヨハネ福音書独特の語り方が見えてきます。7節でイエスは「門」です。しかし、その「門」は「わたしは~ある」ですから自然に人間の「羊飼い」と重なり、この羊飼いが盗人・強盗たちと対照されます。羊は彼らに「従わない/言うことを聞かない」のです。この悪い者たちが、今度は9節で「羊たちがその人を通る善い門」と対照されてきます。2節の「羊飼いが通る」門が、ここで「羊が通る」門へ移行します。邪悪な泥棒が「乗り越える塀」と、善い羊飼いの「正しい門」の対照を受けて、10節は、「門」と「羊飼い」の二重性を帯びる表象が善悪二組の対照をなして1~9節までの比喩を締めくくります。
【羊の門である】ヨハネ福音書の原典がアラム語であったとすれば、ここはもともと「わたしは羊の羊飼いとして来た」であったのに、アラム語をギリシア語に訳す際に、綴りを切り間違えて、「わたしは羊の門である」と読んだという説があります(この場合9節は後の加筆です)。この説は興味深いですが、ヨハネ福音書の原典がアラム語であったという証拠はありません。したがって、この説は現在では支持されていません。なお「門」を「羊飼い」と読む異読もありますが、これも後からの訂正です。この門のたとえは詩編118篇20節の「これは主の門。正しい者はそこから入る」から来ているのでしょう。「門」あるいは「戸口」のたとえは、神へ近づく比喩としてイエスがしばしば用いていますから、この門のたとえもイエスによって用いられたのでしょう。
[8]【わたしより前に来た者】イエスの「前に」来た人たちの中には、旧約の預言者たちがおり、イエスに比較的近い時期では、クムランの「義の教師」と呼ばれる人物、さらに洗礼者ヨハネがいます。またファリサイ派やサドカイ派もその中に入ります。けれども、旧約の預言者や洗礼者ヨハネをここでの「盗人」や「強盗」に含めるのは不可能です。前2世紀半ばのマカバイ戦争以来、イドマヤ出身のハスモン朝では、エルサレムの大祭司の地位をめぐる醜い争いが続いてイエスの時代にいたっています。これにサドカイ派とファリサイ運動が絡みますから、「先に来た者たち」とはこれらの者たちを指すのでしょうか〔ブラウン『ヨハネ福音書』(1)〕。
[9]【門】「門」は、古代では、都市の門あるいは神殿の門扉のことです。しかし、ここでは特に「天国の門」が考えられているのでしょう。「天(国)の門」は、旧約にも(創世記28章17節)共観福音書にもあります(マタイ7章13節/ルカ13章24節)。新約では、この門扉は終末的な意味を帯びる場合が多いようですが(黙示録4章1節)、ヨハネ福音書では終末性が後退して、むしろイエスこそ唯一の門であることが強調されます。この「出入り自由な門」は民数記27章15~17節から来ているのでしょう。この門を入る者は、救われて自由を与えられ、霊的な糧(かて)に与ることができるのです。ヨハネ共同体が同時代のユダヤ教の会堂から「閉め出された」出来事が(例えば9章)ここにも反映しているのでしょうか。
[10]【屠ったり、滅ぼしたり】「屠(ほふ)る」は動物を食用や犠牲のために屠殺(とさつ)することです。ヨハネ福音書では、ここ以外に用いられません。これに対して「滅ぼす」は、ヨハネ福音書に繰り返し表われます(3章16節/6章39節/18章9節)。「滅ぼす」に対して「命を与える」もこの福音書の基本的な思想です(3章16節/20章31節)。
11わたしは良い羊飼いである。
良い羊飼いは羊のために命を捨てる。
12雇い人の羊飼いで、
羊が自分のものでないは者は、
狼が来るのを見ると、
羊を置き去りにして逃げる。
狼は羊を奪い、追い散らす。
13彼は雇い人だから、羊を心にかけない。
[11]【よい羊飼い】ここからたとえが「善い羊飼い」に絞られ、狼が襲って来る時、羊のために「命を捨てる」羊飼いと逃げ去る雇いの羊飼いが対照されます。旧約聖書のヤハウェは、イスラエルの牧者で、民全体を導きます(民数記27章15~17節)。これに対して、主から委ねられた羊の群れを見捨てる羊飼いの例がエゼキエル書34章にあります(特に23節~24節)。マルコ6章34節には、エゼキエル書で見捨てられた羊が主イエスに見いだされて導かれる姿がでてきます。共同体全体だけでなく、その一人一人の「メンバー」(イエス・キリストの肢体)を導く羊飼いが詩編23篇です。主にある自分の幸せが、エクレシアの幸いへ、さらに人類の幸いへ広がる視野を持つことが「神の祝福」です。御霊に導かれる個人の祈りが、主の御霊にあるエクレシアへ、さらには民が属する社会的な広がりへ働くときに、聖書はそういう人を「神と共にある人」と言うのです。このような「個人の祈り」は必ず聞き届けられます(15章16~17節)。なぜなら、イエスこそ、神に向いて人のために執り成す「真のよい羊飼い」だからです(ヘブライ9章23節~26節/同13章20節~21節をも参照)。
【命を捨てる】「命を捨てる」はイエスの受難を表すヨハネ福音書独特の言い方で、特に10章で3回でてきます(11節、15節、17節/15章13節/第一ヨハネ3章16節)。共観福音書では「命を与える」です(マルコ10章45節)。「羊を奪う」敵と闘う「よい羊飼い」(ダビデ)の例がサムエル記上17章34節~36節にあり、これが牧者の受難(死)としてマルコ福音書に受け継がれます(マルコ14章27節)。ヨハネ福音書の羊飼いも、マルコ福音書のそれを受け継いでいるのかもしれません。
[12]【雇い人】ヘレニズム時代の地中海世界では、善い羊飼いと悪い羊飼いの対比が広く行なわれていました。羊が自分の所有でない怠け者の羊飼いは羊の病気などに不注意で、特に奴隷の羊飼いの場合は、羊が盗まれる場合が多く、時には自分が羊を盗むことさえありました。せっかく善い羊飼いに恵まれても、その後を継ぐ者が泥棒に転じたり、悪くすると羊を奪う狼になることさえあったようです〔キーナー『ヨハネ福音書注解』(1)〕。ただし、盗賊に襲われて羊を奪われたり、複数の狼に羊が襲われた場合には、その償いが羊飼いに求められることはなかったようです(狼が一匹だけの場合は赦されなかった!)〔キーナー前掲書〕。羊飼いとその主人とのかけひきを含む両者の関係を表す例が創世記30章31~43節にでています。ヤコブは、誠実な羊飼いの例を自分に重ねています(創世記31章38~40節)。羊や山羊を奪う盗人と狼の組み合わせは、前1世紀のローマの詩人の作に「小屋に忍び寄る盗人も、狼どもの襲撃も」(ウェルギリウス『農耕詩』第3巻407行。河津千代訳)とあります。なおラテン語エズラ記5章18節を参照。
【羊を奪い、追い散らす】「散らす」は七十人訳から出た言葉で(ゼカリヤ13章7節)、ヨハネ福音書の「散らす」は、マルコ福音書から来ているのかもしれません。ただし、今回の箇所には、ヨハネ共同体が置かれていた厳しい状況が反映しているのでしょう。60年代から始まったユダヤ戦争とその後の混乱の中で、「羊を見捨てた雇いの牧者たち」が数多く出て、その結果「羊が散り散りになった」からです。この時期に、ヨハネ共同体自身もパレスチナからエフェソへ移住したと想定されます〔(2)「ヨハネ共同体の形成」を参照〕。そうだとすれば、パウロがエフェソで「狼ども」について語ったこと(使徒言行録20章29節)と今回の箇所に何らかの関連があるのでしょうか〔ブラウン『ヨハネ福音書』(1)〕。なお、「散らす」は神の裁きをも指しますが(創世記11章7~8節など)、主はまたそれらを「集める」こともしますから(イザヤ書49章18節など)、今回の「散らす」とは異なります。
[13]ここで語られる雇いの牧者と反対の例が第一ペトロ5章8~10節にでています。パレスチナでは、羊の番は家族や近隣の人たちに依頼するのが通常ですが、人手が足りないときには「よそ者」を雇うこともありました。また預かった羊が盗まれた場合は羊の番人はその償いを求められますが、野獣にかみ殺された場合には番人が償う必要がないという定めがあったようです(出エジプト記22章節9~12節)。今回出ている羊飼いの例は、ヘレニズム世界に共通していて、ローマ人の羊の所有者でも、「一家の父は、自分の羊を1日に2度数え、さらに子山羊の数まで調べると」とあります〔ウェルギリウス『牧歌』第三歌34行『牧歌・農耕歌』川津千代訳〕。
14わたしは良い羊飼いである。
わたしは自分の羊を知っており、
わたしの羊もわたしを知っている。
15それは、父がわたしを知っておられ、
わたしが父を知っているのと同じである。
わたしは羊のために命を捨てる。
[14]牧者と羊の繰り返しによって、イエスと信じる者たちの交わりが深まっていく語り方に注意してください。ここの「知る」は、ヨハネ福音書独特の思想で(ただしマタイ11章27節)、ギリシア的な「知識」や「知」とは区別されます。ヨハネ福音書では、イエスと信じる者たちの交わりは、先ず御子とその父(神)の交わりに結びつけられます(第一ヨハネ1章3節)。ここでの「知る」は、御霊にある愛の交わりから生じるのです。ただし「交わり」とは、いわゆる神秘的な「合体」のことではありません。また、このような「合体」に伴って人間それ自体が「神聖化」されたり「神格化」されることでもありません(15章9~10節/17章6~8節)。なお、ここでの「知る」を契約に基づく結婚愛の類比で理解する解釈もあります〔キーナー『ヨハネ福音書注解』(1)〕。
[15]ここは次のように訳すほうが正しいでしょう。「父がわたしを知っておられるちょうどそのとおりに、わたしも父を知っている。だから羊のために命を捨てるのである。」父が御子を愛し御子を知るがゆえに、御子も父を知ることができるのです。それゆえに、人類を救うために、父の御心に「死に至るまで従う」(フィリピ2章8節)ことができるのです。なお、「捨てる」を「与える」と読む異読がありますが、共観福音書からの反映でしょう〔新約原典テキスト批評〕。
16わたしには、この囲いにいないほかの羊もいる。
その羊をも導かなければならない。
それらもわたしの声を聞き分ける。
こうして、一人の羊飼い、一つの群れになる。
17父がわたしを愛してくださるのは
わたしが命を捨てるからであり、
再びその命を受けるためである。
18だれもわたしから命を奪うことができない。
わたしは自分からそれを捨てる。
わたしはそれを捨てることもできるし、
それを再び受けることもできる。
この掟めをわたしの父から受けている。
[16]【ほかの羊】ここで再び「囲い」「導く」「声を聞く」など、1~5節に戻ります〔ブルトマン『ヨハネの福音書』〕。「この囲い(の羊)」とあるのはイスラエルの民の中からイエスを信じた者たちのことです。イエスの活動は、パレスチナのイスラエルの民が中心でした(マタイ15章24節)。「ほかの羊」を離散のユダヤ人たちの意味にとる解釈もありますが(エゼキエル書37章22~23節を参照)、「ほかの羊」は異邦人キリスト教徒たちを指すという解釈が一般的です(イザヤ書56章6~8節を参照)。なお、ヨハネ共同体も、その前半期では、ユダヤ人キリスト教徒たちが中心だったのですが、エフェソに移住してからは、異邦人を多数含む共同体へ変貌していったと思われます。
【一つの群れ】イエス・キリストを信じる人たちが、将来は「ひとつの群れ」になるという意味で、終末におけるエクレシアの一致を目指す大事な箇所です(エフェソ4章4~5節を参照)。ただし、これは「ひとつの<組織>に」なるという意味ではありません。カトリックの標準ラテン語訳(ウルガタ)では「ひとつの囲い」"unum ouile"と訳してあり、それ以後英訳の欽定訳までこの訳"fold" が採られていますが〔現在ではフランシスコ会訳聖書〕、これは「ひとつの群れ」が正しい読みです〔共同訳〕〔NRSV〕〔REB〕。
[17]ここは「わたしが命を捨てるから、父はわたしを愛しくださる」という解釈が一般的です〔新共同訳〕〔「それ故、父はわたしを愛してくださる」フランシスコ会訳聖書〕。ただし、ここを「父がわたしを愛してくださるそのゆえに、わたしは(進んで)自分の命を捨てる。その結果父から命を再び受けることになる」という意味に解釈することもできましょう。新共同訳では「命を、再び受けるために」と目的を表わす訳になっていますが、ヨハネ福音書の当時のギリシア語では、必ずしも目的を意味するだけではありません〔英語の“so that”が目的と結果の両方に用いられるのと似ています〕。
[18]【奪う】「奪った者」と現在完了に読む異読があります。「わたしから命を<奪った>者は誰もいない」とイエス復活後の視点から見ているのですが、この読みはエジプト系の異読に数が限られるために現行の聖書の訳は現在形を採用しています〔新約原典テキスト批評〕。
【できる】「できる/可能」と訳した原語は「力・資格・権威」を意味します。また「掟」とあるのは、それが父の「命令」ではないという意味です。イエスの十字架が、どこまでも、父と御子との交わりの愛から生まれた自発的な行為であることをはっきりと示すためです。「掟」はヨハネ福音書では、最後の晩餐の後で、イエスが「新しい掟」として弟子たちに愛を教えるときにも表われます(13章34節/15章12節)。
[19]錯簡説では、この節は9章41節からつながるのですが、10章1~18節は福音書の編者によって意図的に挿入されたと考えられますから、現行の順序を変える必要がないでしょう。したがって、「これらの話をめぐって」とあるのは、1~18節のよい羊飼いについてのイエスの言葉を指します。イエスの言葉をめぐる対立については、先に幾度か出てきましたので(6章66節/7章43節/9章16節)、ここでは繰り返しません。「分裂・対立」については、3章19節~21節を参照。エクレシアの一致は分裂から始まるのです〔キーナー『ヨハネ福音書注解』(1)〕。
[20]【悪霊に取りつかれて、気が変に】これは二つのことではなく、同じひとつのことです(8章52節を参照)。
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