【注釈】
■ヨハネ福音書の構成
ヨハネ福音書の構成については、諸説があって一致しません。しかし、少なくとも次の構成については、基本的な一致を見ています。
〔Ⅰ〕序の言葉(1章1節~18節):ロゴスとその受肉と父の独り子の啓示。
〔Ⅱ〕しるしの書(1章19節~12章50節):イエスの行なわれた様々なしるしとイエスによる説話と対話。
〔Ⅲ〕栄光の書(13章1節~20章31節):受難と復活を通してイエスが受ける栄光。
〔Ⅳ〕結びの章(21章):復活後のイエスの弟子たちへの顕現。
これで見ると分かるとおり、今回の箇所は、「しるしの書」の結びにあたります。37~43節が、イエスの行なわれたしるしへの結びであるとすれば、44~50節は、イエスの語られた説話への結びです。ここで、ユダヤ人を含む「世の人々」へのイエスによる語りかけが終わります。
■しるし物語の結び
12章37節に、イエスは「このように多くのしるしを行なわれた」とあるように、1章の序の言葉に続く洗礼者の証言から12章のここまでは、イエスが行なわれたいろいろな「しるし」を軸に物語が展開して来ました。この意味で、ここまでを「しるしの書」と呼ぶことができます。しかも、これらのしるしは、ユダヤの祭りと密接に関係しています。すでに見てきたように、この福音書では、ユダヤの祭りとイエス自身とが、比較されたり対照されたりすることで、これらの祭りが、イエスの臨在それ自体によって「置き換えられて」います。この見方からすれば、イエス自身は、神から与えられた「しるし」ですから、13章から始まる受難物語もまた、イエスによる「贖いの祭儀」の「しるし」物語にほかならないことを知るのです。
しかしながら、「彼らは」、イエスによるしるしを見ても、イエスを信じることができませんでした。「彼ら」の意味は多様です。ヨハネ福音書は、イザヤの預言を引いて、彼らの躓きは神から出たと述べています。これらのしるしは、ユダヤの祭儀に関連していて、ユダヤ教の祭儀を<イエスによって>置き換えています。「置き換える」とは、この場合、単に別のものと「取り替える」ことではなく、より新しいもの、よりすぐれたものへと転位することによって、古いものに「取って代わる」ことを意味します。浄めの水がぶどう酒に置き換えられ、エルサレムの神殿がイエスの「からだ」に置き換えられ、ヤコブの時代からの井戸がイエスの与える永遠の命の水に置き換えられ、エルサレムやゲリジムの礼拝の場所が「霊とまこと」の礼拝によって置き換えられ、仮庵祭にシロアムの池から汲む献げの水がイエスの命の水によって置き換えられ、祭りの場を照らす燈火が「世の光」であるイエスに置き換えられ、安息日の安息が神から遣わされた人の子による癒しによって置き換えられるのです。
これらの「置き換え」を見ると、それまで行なわれていた様々な宗教的な祭儀が、イエス・キリストという一人の人格的な存在(ペルソナ)によって置き換えられているのが見えてきます。言い換えると、ヨハネ福音書は、イエス・キリストという一人のペルソナによって、従来のユダヤ教の祭儀を「キリスト化」しているのです。だから、ヨハネ福音書の祭儀は「キリスト論」“Christology”に基づいています。このような「キリスト論的な」“Christological”な観点は、祭儀だけでなく、さらに大きな拡がりをもって語られます。ヨハネ福音書だけでなく、ヨハネの手紙にも、イエス・キリストに対立するものとして、しばしば「世/この世」が現われます。なぜ「この世」がイエスと対立するのでしょうか? それは、イエス・キリストが「この世」に来られたのは、キリストによって、この世全体が「置き換えられる」ためだからです。イエスの到来によって、全く新しい世界創造が始まった。このことをヨハネ福音書は証言しているのです。しかし、イエスの在世中は、まだ完全には成就していません(7章39節)。キリスト化が成就するのは、13章以下で、イエスによって執り行なわれる「贖いの祭儀」が完了し(19章)、そこから、イエス・キリストの御霊が降る時です(20章)。罪の赦しは「贖いの祭儀」なしには決して成就しません。罪の贖いこそ、旧約聖書の祭儀全体の本質だからです。
■12章
[37]【しるしを行われた】原文は「かれ(イエス)のしるし(複数)を」です。この言い方は、イエス自身が「しるし」であることを示唆します。37節には、モーセが、かつてイスラエルの民に告げた言葉が反映しています。「あなた〔全イスラエルのこと〕はその目で(エジプト脱出の際の)あの大いなる試みとしるしと大いなる奇跡を見た。主はしかし、今日まで、それを悟る心、見る目、聞く耳をあなたたちにお与えにならなかった」(申命記29章2~3節)。このモーセの言葉は、ヨハネ1章11節へつながり、そこから、ここ12章37節へつながっています。「しるし」は大事な意味を帯びていますが(2章11節)、同時に、「しるし」は必ずしも真の意味での信仰を生み出さないのです(4章48節)。
【イエスを信じなかった】彼らが、見ても信じなかったのは、ほんとうの意味でイエスを信じること、すなわちイエスへの信仰に「留まり続ける」ことをしなかったからです(8章31節参照)。ここで「彼ら」と言うのは、「イエスを信じなかった」人たち全体を指しています。しかし、その中心にいるのは、この福音書に繰り返しでてきた「ユダヤ人」であり「ファリサイ派」です。この「ユダヤ人」については、これまでも注釈してきましたが、大事なことなので、改めてここで確認したいと思います。
(1)「ユダヤ人」が、民族的あるいは人種的な意味で「ない」ことだけは確かです。なぜなら、ここで言う「彼ら」も「ユダヤ人」もイエスに敵対している人たち、あるいは福音書を著わしたヨハネ共同体と対立する人たちを指すからです。ところが、イエスも、またヨハネ共同体の多くの人たちも、人種的、民族的には「ユダヤ人」です。この福音書が<ユダヤ人同士の>論争と対立から生まれたというのは、この見方に立つものです。
(2)ではヨハネ福音書は、敵対者たちをなぜ「ユダヤ人」と呼ぶのでしょうか? これには、この福音書の言語の象徴的な用い方があります。「ユダヤ」「サマリア」「ガリラヤ」などの地名は、地理的な意味だけでなく、<そこに住む人たち>をも象徴的に指しています。だから「ユダヤ」は、「サマリア」や「ガリラヤ」から区別されたエルサレムを中心とする限られた地域に限定して用いられていることになり、「ユダヤ人」は、エルサレムを中心とする「ユダヤ地域の人たち」のことになります。ヨハネ共同体は、その成立の当初から、サマリアやガリラヤや洗礼者の会衆など、反エルサレム的な人たちが多かったという事情が、この「ユダヤ人」という言い方に反映しているのかもしれません。
(3)このような地域的な限定だけではなく、「ユダヤ人」には宗教的な指導者の意味が込められています。ここには、ヨハネ共同体当時のユダヤ教の指導者たちであったファリサイ派が意識されています。だから、歴史的に見るならば、ヨハネ福音書の「ユダヤ人」には、イエスを十字架刑にしたエルサレムを中心とする指導層と、一世紀のエルサレム滅亡以後のユダヤ教の指導者たちとが重ねられています。
(4)ここで注意しなければならないのは、ヨハネ福音書は、「ユダヤ人」をイエスとその共同体に敵対する「この世」の働きと同一視していることです。だから、イエスを十字架につけた「ユダヤ人」は、「この世」に潜む「闇の力」と同一視されているのです。このように「ユダヤ人」は、イエスを十字架につけ、今もなお働き続ける「この世の闇の力」を表わす象徴的な用語であることを確認してください。
ちなみに、パウロは、律法的な「ユダヤ教」と対立し、しばしばその律法主義的な宗教を批判しています。この点で、ヨハネ福音書は、パウロとはやや異なっています。ヨハネ福音書には、敵対する「ユダヤ人」は登場しますが、割礼を重視する「ユダヤ教」それ自体を批判するところは見あたらないからです。ただし、今まで見てきたように、ユダヤ教の祭りや祭儀とイエスとの関わりがしばしば問われています。
[38]【イザヤの言葉が実現するため】この節の引用は、七十人訳イザヤ書53章1節と正確に一致しています。ヘブライ語原典もこれと同じです。イザヤ書53章は、最初期のキリスト教において、イエスが、「受難のメシア」として贖いの業を成就したことを預言する旧約聖書の大切な証言だとされています。しかし、「彼ら」のほうは<こういう>メシアを信じなかったのです。イスラエルの不信仰への預言が「実現するため」とあるのは、そうなることが神の意図されたことであったという意味です。この点についてのヨハネ福音書の見方は、イスラエルの不信仰に対するパウロの見方に通じると言えましょう(ローマ11章7~10節)。しかし、一方で、イエスは「すべての人をみもとに引き寄せる」(12章32節)とも言っています。裁きの厳しさと同時に、これを乗り越える道をも示すというのが、ヨハネ福音書の語り方の特徴です。
【わたしたちの知らせを】原文は「わたしたちから彼らが聴いたこと」、あるいは「わたしたちが彼らに聴かせたこと」(ヘブライ語)です。これは、人々が「耳で聞く」ことであり、同時に聞いた内容それ自体のことです。「(知らせを)信じる」は、ヘブライ語で「確固として信頼する」ことです。なお「わたしたち」と複数になっているのは、父と共に御子も語っているという説もありますが、44節以下で説明するように、ヨハネ共同体が「自分たち」の証しをここに重ねていると見ることができます(3章11節を参照)。
【主の御腕は】「腕」は「力」を意味します。ここでは、イエスが父によって行なった力ある業を指します。「耳で聞く」のに対して、こちらは「目で見る」御業のほうです。
[39]【できなかった理由を】原文を直訳すると「彼らはこのために信じることができなかったが、その理由をイザヤはまたこう言っている」です。「このために」とは、次に来る別の引用を指します。
[40]この節はイザヤ書6章10節からです。旧約からのこの引用は、新約聖書では、とても重要な意味をもっていますので、ここで、やや詳しく説明します。先ずヘブライ語の原典訳から始めます。
たちまち、主の声が響いた。
「だれを遣わそうか、
だれがわれらのために行ってくれようか。」
「どうか、このわたしを遣わしてください」
とわたしは答えた。すると主が仰せられた。
「行け、この民にこう語れ。
『どこまでも聞け、だが悟るな。
どこまでも見よ、だが認めるな』
この民の心を鈍くし、耳をふさぎ、目を閉ざせ。
彼らが目で見、耳で聞き、心で悟り、
悔い改めて、癒えることのないように。」
わたしは言った。「ああ主よ、いつまで・・・・・」
主は答えた。
「町はすたれて住む人なく、
家はさびれて人影なく、
土地は荒れはて廃墟となるまで。」
(イザヤ書6章8~11節:中澤洽樹訳)
ここは、イザヤが預言者としての召命を受ける箇所です。イザヤは、自分が完全な罪人であることを悟らされてから、浄めを受けて、召命の内容さえも聞かされずに、主の呼びかけに服従します。主は、「イスラエル」とも「ヤコブの民」とも呼ばずに、「この民」と呼び捨てにします。召命の内容は「過酷なほど背理的」〔中澤洽樹〕です。あまりに異常で、通常の人間の理解では逆説としか受け取れません〔オットー・カイザー〕。だからこれは、イザヤが預言活動に失敗した後で、回想的に述べた箇所だという見方もあります。しかし、この失敗説は、主なる神の言葉が「出来事を創造する」という旧約聖書の信仰を見落としています。ここでは、メッセージの内容よりも、そのメッセージが、聞く者たちに「どのように働く」のかが予告されます。「預言者が語る一言ごとに、聞き手は自分の人間的な賢さにいっそう自信を深め、己の人間的な態度を変えるまいと固く決心するのです。彼らは、それほど固く、己の賢さを確信しているのです」〔ヘルントリッヒ〕というのが、人間の側からの神に対する応答であることが露わになるのです。主は、エジプト王ファラオに対しても同じようにその心を頑なにしますが(出エジプト7章3~4節)、それは、主がなされたことでもあり、同時にファラオ自身から出たことでもあって、表裏一体です。主がイザヤにこのように語るのは、たとえイザヤの語る言葉が民に受け容れられなくても、彼が失望することがないためです。ただし、イザヤは、決して民の外に立っているのではありません。彼は民と共に苦しみ悲しむのです。だが、主の御言葉は最後まで厳しく、ついに、イスラエルの民の国土は荒廃に帰すると告げられます。
次に、七十人訳から同じ箇所の引用を見ることにします。
なぜならこの民の心は図太くなって、彼らの耳は聞くのに鈍く、彼らの目は閉じられている。その目で見ることもなく、その耳で聞くこともなく、その心で悟ることもなく、回心してわたしが彼らを癒すこともないように。(七十人訳イザヤ6章10節)
七十人訳で注意しなければならないのは、ヘブライ語では「心を鈍くし、耳をふさぎ、目を閉ざせ」と動詞の使役形(英語の“make their heart dull”)が用いられているのに対して、七十人訳では「心は図太くなって、彼らの耳は聞くのに鈍く、彼らの目は閉じられている」と現在の「状態を」表わしていることです。それだけ背きに対する責任が<人間の側に>あることになります。後半は、ヘブライ語原典の「悔い改めることがない<ために>」よりも「悔い改めることもないように」と結果を表す言い方になっていて、人の心を支配する神の意図が弱くなっています(英語の“so that?…may not”と“lest?…should”の違いに近い)。だから、ここで言う人間が「回心する」は、人間が自己の理性的な思いをもって主の言葉を聞き、主の業を見ることによって、自分の思いから主体的に「向きを変える」ことになります。
では次にマルコ福音書からです。
「それは、『彼らが見るには見るが、認めず、聞くには聞くが、理解 できず、こうして、立ち帰って赦されることがない』ようになる ためである。」(マルコ4章12節)。 マルコ福音書で、イエスは、神の国の秘密を弟子たちだけ特別に「たとえを用いずに」説き明かしますが、外部の人たちにはたとえを用いて語ると述べてから、イエスは、イザヤ書のこの箇所を弟子たちに向けて引用します。マルコ福音書の引用は、イザヤ書6章10節の前半を省いて後半からですが、ここでも、先の七十人訳と同じく、人々の頑迷が神から出たというよりも、人間の側に責任があるという解釈に近いでしょう。注意すべきは、イザヤの「癒される」が、ここでは「赦される」に変わっていることです。また「~ようになるためである」〔新共同訳〕とあるところは、「赦されることがないように/からである」と読むこともできます。マルコ福音書では、前後の内容から判断して、イザヤのように決定的な拒否と破滅を神の意図として告知するのではなく、「彼らが見るには見るが、認めず、聞くには聞くが、理解できないからだ。なぜなら、彼らが立ち帰って赦されることなど、決してないのだから!」〔ホレンバッハ〕と批判をこめた皮肉な言い方になっています(ヘブライ語原文もこの意味かもしれません)。とは言え、神の国の神秘を説き明かしてもらう弟子たちだけでなく、イエスのたとえを聞いている一般の人たちの中にも、御国の神秘を悟る人たちがいたと見るべきでしょう。
ちなみに、タルグム(アラム語訳旧約聖書)は、紀元前のクムランの時代から長期にわたって成立したものですが、そのアラム語訳では、「それは、『彼らが見るには見るが、認めず、聞くには聞くが、理解できずにいたからである。彼らが、立ち帰って癒されることがないように/ならば』」とあります。ここでは、「~できずにいた」とあるように、民の状態がイザヤ預言よりも「以前のこと」になっています。また「癒されることがないように/ならば」のように、結びの部分の接続詞は、英語の“lest”と“unless”のどちらにも解釈できますから、癒される余地を残しています〔R・T・フランス『マルコ福音書注解』〕。マルコの場合もこのタルグムの解釈に近いのでしょうか。
次にマタイ福音書は、イエスの言葉として「見ても見ず、聞いても聞かず、理解できないからである」(マタイ13章13節)とあって、ここでは、ヘブライ語原典とは異なり、「~からである」と責任を神の意図からはっきり人間の責任へ転移させています。マタイ福音書では「理解する」ことが大切ですから、この点でも、人間の側にその責任があります。マタイ福音書はさらにイザヤの引用を繰り返して、「あなたたちは聞くには聞くが、決して理解せず、見るには見るが、決して認めない。この民の心は鈍くなり、耳は遠くなり、目は閉じてしまった。こうして、彼らは、目で見ることなく、耳で聞くことなく、心で理解せず、悔い改めない。わたしは彼らを癒やさない。」(マタイ13章14~15節)と重ねて強調していますが、そこでは、マルコ福音書の「こうして、立ち帰って赦されることがないようになるためである」が抜けています。メシアの秘密を理解できない人間への皮肉をこめたマルコ福音書よりも、マタイ福音書はさらに一歩人間の側に責任を求めていると言えましょう。
ルカ福音書では「他の人々にはたとえを用いて話す。それは『彼らが見ても見えず、聞いても理解できない』ようになるためである」(ルカ8章10節)とあって、こちらはヘブライ語原典に近いようです。
使徒言行録28章25~28節には次のようにあります。
彼らが互いに意見が一致しないまま、立ち去ろうとしたとき、パウロはひと言次のように言った。「聖霊は、預言者イザヤを通して、実に正しくあなたがたの先祖に語られました。『この民のところへ行って言え。あなたたちは聞くには聞くが、決して理解せず、見るには見るが、決して認めない。この民の心は鈍り、耳は遠くなり、目は閉じてしまった。こうして、彼らは目で見ることなく、耳で聞くことなく、心で理解せず、立ち帰らない。わたしは彼らをいやさないように。』だから、このことを知っていただきたい。この神の救いは異邦人に向けられました。彼らこそ、これに聞き従うのです。」
ここは、パウロが、ローマのユダヤ人キリスト教徒たちに向けて語る締めくくりの言葉です。引用はほぼ七十人訳の通りです。ただし、これはイザヤの預言であると同時に、聖霊が「今現在の」聞き手に対して語っています。しかも、その語りは厳しく、イザヤの原典に近いほどです。しかし彼らの頑迷が、予め定められた神の意図の成就であると同時に、聞く側の責任でもあることが、「それゆえに、このことを承知しておくがよい」と28節にあることで分かります。彼らがその責任を免れえないことを言い表わしているのです。
イザヤ書6章9~10節は、このように、人々が預言者や伝道者の言葉を受け容れない場合に、その理由づけとして引用されることが多いのです。特にパウロでは、ユダヤ人から異邦人へ神の福音が転移されていく原因とされています。この事情は、ローマ11章8節の引用の場合も同じです。ただし、そこには「今日にいたるまで」が挿入されています。これは、イザヤの原典の「いつまでですか?」という問いと関連するのでしょうが、出所はイザヤではなく申命記29章3節「主はしかし、今日まで、それを悟る心、見る目、聞く耳をあなたたちにお与えにならなかった」からでています。
ヨハネ12章40節へ戻ります。ヨハネ福音書の引用は、全体として見れば、マタイ福音書に近いのですが、ヨハネ福音書では、引用の仕方がより自由で、「見る」「かたくなになる」などの動詞が七十人訳とは異なっていて、また七十人訳とヘブライ語原典にある「この民」と「彼らの耳は聞くのに鈍い」がありません。「耳」が抜けているのは、おそらく、ここで問題にされているのがイエスによる「しるしを見る」ことだからでしょう。「見えなくした」「かたくなにした」はアオリスト(過去)形で、「見ることをしない」「悟らない」「立ち帰らない」はアオリスト形の接続法です。最後の「癒さない」だけが未来形で、これは七十人訳から採ったと考えられます。また、新共同訳では「わたしは彼らを癒さない」とありますが、原文では「~しないために/ように」(“so that?…may not”)とあって、マタイ福音書の「決して~しないように」という結果よりも、やや目的に近い言い方がされています。それだけ、人々の不信仰が神の意図されたことになり、イザヤのヘブライ語原典に近づくと言えましょう。以上で分かるとおり、イザヤ6章9~10節は、新約聖書に出てくる旧約からの引用の中でも、特に大事なところです。同時にまた、解釈の難しいところとされています。
[41]【イザヤは栄光を見たので】イザヤは、その召命に際して「主の栄光」に接しますが、「主の栄光」とは、主ご自身のことではなく、主の「御臨在」(シェキナ)のことです(イザヤ6章3~4節)。「シェキナ」は、しばしば「雲/煙」で象徴されます。その時イザヤは、自分の汚れを悟り、祭壇の火によって罪赦されて汚れを取り除かれます。それから、彼は初めて、「王なる万軍の主」(宇宙を支配する神ご自身のこと)を「観る」のです。ヨハネ福音書はここで、イザヤが「イエスの栄光」を見たと言っています。これは、イザヤが直接神ご自身を見たことを指して、イザヤが「神自身であるイエス」を見たと言っているのではありません。ヨハネ福音書にはタルグムの影響が見られると言われますが、ここイザヤ書6章5節でも、タルグムには「主の御臨在(シェキナ)を見た」とあります。おそらくヨハネ福音書も、タルグムと同様の意味で「イエスの栄光を見た」と言っていると思われます。まだだれも神ご自身を見た者はいないからです(1章18節)。ただ、独り子のイエス・キリストだけが、神の御栄光(御臨在)を顕したのです(1章14節)。アブラハムもまた、ここのイザヤと同様に、イエスの御栄光を予見したとイエス自身が証言しています(8章56節)。ただし、この場合、アブラハムは、イエスの栄光を「未来に望み見て」喜んだとあります。なお原文は、「栄光を見たから」と「栄光を見た時に」のふたとおりの読み方がありますが、「~から」とある写本のほうが信憑性が高いと考えられます。ただし、アラム語の「~時に」をギリシア語で現わす際に、「~から/ので」と誤訳した可能性もあります。
[42]先のイザヤからの引用は、イスラエルの不信仰が、神の意図によって定められていたという厳しいものでした。しかし、このように、救いを全面的に否定しながら、そのすぐ後で、これの例外をも述べるのがヨハネ福音書の特徴です。
【議員の中にも】「イエスを信じた議員」の中には、具体的には、ニコデモ(3章1節)とアリマタヤ出身のヨセフ(19章38節/マルコ15章43節)がいます。ニコデモは夜イエスを訪問しており、また、イエスのことでファリサイ派に抗議しています(7章50~51節)。しかし、ヨセフのほうは、「イエスの弟子でありながら、ユダヤ人を恐れてこれを隠していた」とあります。身分の高い金持ちであったこともその原因の一つかもしれません。
【会堂から追放される】会堂からの追放の具体的な例については、9章22節の注釈を参照してください。ここ12章42節には、イエス当時の状態と同時に、ヨハネ共同体の当時の事情が反映していると言われています。この事情は、すでに説明しましたので、繰り返しませんが、マーティンは、この12章42節の背景をヤムニアの学院と結びつけて詳しく説明しています〔J・ルイス・マーティン著『ヨハネ福音書の歴史と神学』原義雄/川島貞雄訳、日本基督教団出版局。第2章〕。
[43]【人間からの誉れ】神からの栄誉よりも人からの誉れを好むことについては、5章41~44節を参照。「好む」の原語は「愛する」ですが、ここでは「光よりも闇を好む」ことを指しています(3章19~20節参照)。「人からのほまれ」については、パウロも同様のことを言っています(ガラテヤ1章10節)。「人の賞賛を欲することは偶像礼拝のひとつである」〔C・K・バレット〕。
■説話の結び
12章44~50節は、イエスによる説話の結びの部分です。ところが、後半のこの部分には聴衆がいません。このために、この部分を12章36節の前半の「光のあるうちに、光を信じなさい」と、36節の後半の「イエスはこれらのことを話してから」との間に挿入するのがほんらいの形だという説があります。こうすれば、37節~43節が、最後の結びとして一つにまとまるからです。この説だけでなく、この部分は、後の編集者による挿入だとする見方があります〔岩波訳注〕。ブルトマンは、8章12節→12章44~50節→8章21~29節→12章34~36節の順につないで、ここをイエスが世の光であることを啓示する一連の説話として編集しなおしました。ただし、これはブルトマン流の文献批評に基づく推定によるものです。これでも分かるように、ヨハネ福音書では、イエスの説話が、しるし物語の合間に、同じテーマで繰り返される場合が多いのです。このために、ページの入れ違い(錯簡)説や文書を意図的に分断して編集したとする説や後の編集者が挿入したとする説などがあります。
しかし、たとえ編集が行なわれたとしても、いったいその意図は何であろうかという疑問が絶えずつきまといます。だから、ヨハネ福音書が、様々な編集過程を経ていることを認めながらも、これを現在のままの姿で再検討する解釈が今も続けられています。特に今回のように、どう見ても孤立した「断片」が、結尾に置かれていて、しかも、しるし物語の結尾と別になっているのは、いったいどういう意図から出ているのだろう? という疑問が湧いてくるのです。
「しるしの結び」の部分で指摘したように、ここまでは、さまざまなしるし物語を軸に物語が展開してきました。これらの「しるし」は、言わばこの福音書の「筋書き」(プロット)を形成していると言えます。このしるし物語の筋書に沿って、これに付随する形で、イエスの説話、あるいはいろいろな人々との対話が挿入されているのをわたしたちは見てきました。これらイエスの説話部分の主なものは次の通りです。
3章5~21節/4章21~24節/同34~38節/5章19~47節/6章35~40節/同43~51節/同53~58節/7章16~24節/同37~38節/8章14~18節/同23~29節/同42~47節/同54~56節/10章1~5節/同7~18節/同25~30節/同34~38節/12章23~27節/同44~50節。最後に、最も長い説話として、弟子たちの言葉を挟みながら続く14章から17章までの「別れの説話と祈り」があります。
しるし物語の「筋書き」の合間に挿入されているこれらの「イエスの御言葉」を、いったい、わたしたちはどのように読めばいいのでしょうか? 従来、ともすれば、これらの説話部分は、それぞれのしるし物語に「付随した」イエスの説話として扱われてきました。それらは、あたかも物語の進行のための「つなぎ」として解釈される傾向が強かったのです。だからこそ、これらの説話が、一連の文書の断片と見なされたり、ヨハネ福音書の編集者による挿入や入れ替えや追加だと考えられたりしてきました。そのような挿入や入れ替えや追加がなかったとは言いません。しかし、いったい、何のために、どういう意図で、そのような編集がなされたのか? この点が、物語の筋書きに注目するあまり、とかく見過ごされてきたと言えましょう。
わたしたちは、ここで、この福音書は、そもそもイエスの出来事を「物語る」ために書かれたのか? という根本的な疑問に出遭うことになります。もしも、これらの説話部分を、物語の合間の挿入とは見ずに、物語と説話とを逆にして見るならば、それぞれのしるしの物語のほうが、これらの説話の合間に挿入されたエピソード(物語/挿話)とはならないでしょうか? ヨハネ福音書とは、イエスの語られる御言葉それ自体を伝える書、ちょうどパウロの手紙のように、神学的な福音書として読まれるほうが、いいのではないでしょうか? 少なくとも、わたしたちは、共観福音書の物語様式によってヨハネ福音書を解釈しようとするあまり、この福音書のもうひとつの神学的な側面を軽んじてきた恐れがあります。語りの部分と説話の部分の両方を同じ重さで受けとめるならば、挿入や入れ替えや追加などの編集が、実は大事な意味を持っていることが見えてくるのです。この意味では、ヨハネ福音書も共観福音書と同じような意味で編集されていると言えます。だから、ヨハネ福音書も、共観福音書と同様に、まさに「現在のままの」姿で読まれるべく意図されていることが洞察できます。ガリラヤとユダヤとの地理的な不統合や対話の内容のつながり方の不自然さなど、錯簡の問題もないとは言えませんが、フォートナが指摘するように、この福音書は、現行のままで読んでも、その真価が損なわれることは少しもない。わたしはこう思うようになりました。
では、これらの説話の「神学的な」意図とはなんでしょうか? これらの説話は、いずれも、「イエスは言われた」あるいはこれに類する言い方で始まっています。C・H・ドッドは、これらの説話が、しるしからしるしへと移行するに連れて、あたかも音楽のように、主旋律や副旋律を繰り返しながら、ある時は変奏されたり、別な旋律と合体したりしながら終曲へ向かっていると指摘しています。それは、主旋律が、違った姿で繰り返し現われること、すなわち、これらの説話はすべて、基本的に同じテーマを奏でていることを示唆しています。その基本テーマは、説話の冒頭に来る「イエスは言われた」にあります。ヨハネ共同体は、聖霊を尊ぶ人たちです。復活のイエスが、その御霊を通して弟子たちに語る御言葉は、イエスが在世中に語ったと同じ意味で、「イエスが言われた」言葉です。だからこそ、ヨハネ福音書では、イエスの御言葉が、福音書の語り手の言葉と重なり(3章16~21節)、イエスの在世当時の状態が、現在のヨハネ共同体の状態と重なるのです。
12章44~50節は、先に指摘したように、聴衆もなく、全く独立したイエスの説話「断片」です。しかしこの説話は、12章の最後に置かれていて、「イエスは今もなおわたしたちに語っていること」を語るのです。ここには、今まででてこなかった言葉はほとんどありません。繰り返し表われてきた言葉ばかりです。しかも、そこには共観福音書や申命記と共通する部分があり、この説話の結びは、これまでのまとめであるだけでなく、これから語られることも含むのです。
■12章
44イエスは叫んで、こう言われた。
「わたしを信じる者は、わたしを信じるのではなく、
わたしを遣わされた方を信じるのである。
45わたしを見る者は、わたしを遣わされた方を見るのである。
46わたしは光として世に来た。
わたしを信じる者が、だれも暗闇の中にとどまることのないように。
47わたしの言葉を聞いて、それを守らない者がいても、
わたしはその者を裁かない。
わたしは、世を裁くためではなく、
世を救うために来たからである。
48わたしを拒み、わたしの言葉を受け入れない者には、
彼を裁くものがある。
わたしの語った言葉、これが終わりの日にその者を裁く。
49なぜなら、わたしは自分から語ったのではない。
わたしをお遣わしになった父がお命じになったからである
わたしの言うべきこと、語るべきことを。
50わたしは知っている、
父の命令は永遠の命であることを。
だから、わたしは語る
父が語れとわたしに命じられたままに。」
〔私訳〕
[44]【イエスは叫んで】ヘブライ語の「カーラー」には、「叫ぶ」と「宣べ伝える」の両方の意味があり、七十人訳では、ふたとおりに訳されています。ヨハネ福音書では、イエスが大事なことを「伝える」時にこのように「叫ぶ」のです(7章28節参照)。
【わたしを遣わされた方を信じる】マタイ10章40節との関係が指摘されています。この結びは、このように共観福音書とつながっています。
[45]この節は、前節と並行関係になっています。御子を信じる者はその父を信じる者であり、御子を観る者はその父を観る者です。ここは1章18節へさかのぼるだけでなく、14章9節をも指しています。
[46]原文は、次の通りです。「わたしは光として世に来た。わたしを信じるすべての者が、闇にとどまることのないためである。」8章12節では「わたしは世の光である」です。ここ46節は「光として来た」です。ここの「来た」は、「今現在ある」ことと変わりませんから、どちらも、「わたしはある/来ている」(エゴー・エイミ)という意味です。
[47]【それを守らない者】「聞く」と「留まる」「守る」は、ヨハネ福音書ではひとつです。ここの「守らない」は、マタイ7章26節の「御言葉を聞くだけで行なわない」とつながることが指摘されています。「裁き」と「救い」が表裏一体であることは、すでに繰り返されてきました(3章16~19節/8章15~16節)。
[48]【わたしの言葉】原語「レーマタ」(中性複数名詞)は、ひとつひとつの「ロゴス」(単数)を集合的に表わす言い方で、言葉よりも語られる内容を指しています。
【拒む】この言葉は、ヨハネ福音書ではここだけにでてきます。これについてはルカ10章16節とのつながりが指摘されています。マルコ8章38節も参照してください。なおこの節に申命記18章19節のモーセについての言及を読み取る説もあります。
【わたしの語った言葉が裁く】「言葉」は「ロゴス」(単数)ですが、イエスの御言葉全体を指しています。ここと全く一致する言い方は、今まで一度も出てきませんでした。9章39節が、内容的に見て近いでしょうか。むしろ、5章45節には、これと反対のことが言われています。イエスと父による「裁き」については、5章22~30節を参照してください。なお「裁くものがある」は現在形で、「終わりの日にその者を裁く」は未来形です。このように、現在と未来の両面を含むのがヨハネ福音書の終末観の特徴です。
[49]【自分勝手に語ったのではなく】「語った」(アオリスト形)とあるのは、今までイエスが語ったこと全体を振り返ってこう言うのです。なお「自分から(語る)」については7章17~18節を参照してください。節の後半の「言うべき」と「語るべき」は同じ意味です。
【わたしをお遣わしになった父】「わたしをお遣わしになった父/方」という言い方は、ヨハネ福音書で23回ほど繰り返されています〔新共同訳〕。
[50]【父の命令は永遠の命】この節には申命記32章45~47節が反映していると指摘されています。ただし、申命記では、モーセが授与する「律法の言葉」が「あなたがたの命」です。律法と永遠の命との関係については、ルカ10章25~28節以下とマルコ10章17~22節を参照してください。ヨハネ福音書では、イエスとその御言葉に永遠の命があります(5章39節)。なお「命令/戒め/掟」と訳されている原語は「エントレー」です。「命」と父の「命令/掟」とについては、10章18節にイエスの証言があります。「互いに愛し合うこと」が、イエスの教える最も大事な「命令/掟」です(13章34節/14章21節/15章12節/第一ヨハネ3章23節)。
【父がわたしに命じられたままに】イエスの語ること、行なうことが、「自分から出た」ものではなく、ことごとく父から出ていること、この意味で、イエスは「神の言葉(ロゴス)」であること、これが、「これまでの結び」の意味することです。
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