「エゴー・エイミ」について
〔一般的な分類〕
 「わたしはある」(ギリシア語「エゴー・エイミ」)"I am" には、一般的に見ると四つの用法があります。以下は聖書をも含む一般的な分類です〔ブルトマン『ヨハネの福音書』〕〔大貫隆・筒井賢治編訳『新約聖書・ヘレニズム原典資料集』東京大学出版局(2013年)〕。
(1)「あなたはだれか?」に対する答えとして。「わたしはバルバル・アドーナイ。すなわち星星を隠す者、天に輝く支配者、世界の主」(『ギリシア語魔術パピルス』)〔『新約聖書・ヘレニズム原典資料集』〕/「わたしはポイマンドレース、絶対の叡智である」〔『ヘルメス文書』1章2節〕/「わたしはトーユト、すなわち治療薬と文学の発明者かつ創始者である」〔『新約聖書・ヘレニズム原典資料集』〕/「わたしはナザレのイエスである」(使徒言行録9章5節。欄外の読みを入れて読む)など。
(2)「あなたは何(者)か?」に対する答えとして。「わたしは哲学者である」〔エピクテトス『語録』〕/「わたしは王の子、アヌビスの最初の大いなる子である」(『デモティック語魔術パピルス』)〔『新約聖書・ヘレニズム原典資料集』〕/「わたしは光の使者である」(『ギンザー』)〔『新約聖書・ヘレニズム原典資料集』〕/「わたしは初めから命である。わたしははるかの太初からクシュター(真理)である」〔前掲書〕/「わたしはあなたの神である」(創世記17章1節七十人訳)/「わたしは初め(である)。そしてわたしは終わり(である)」(イザヤ書44章6節七十人訳では「エイミ(である)」が抜けている)など。
(3)自分を誰かほかの者あるいはほかの事と同一だと言う場合。「なぜなら、君はわたし、わたしは君だからである。君の名前はわたしの名前、わたしの名前は君の名前だからである」(『ギリシア語魔術パピルス』)〔『新約聖書・ヘレニズム原典資料集』〕/「わたしはラー(エジプトの太陽神)として生じた者である」/「わたしは仏陀の生まれ変わりである」などもこれに属します。ただし、この(3)は(2)と区別しがたいところがあります。
(4)「〜する者はだれか?」に対する答えとして、自分をほかの者から区別して「それはわたしである」"It is I"と答える場合で、「わたし」は主語ではなく述語になります。ただし、この場合でも、日本語では「わたし<が>それである」と主語になります。ブルトマンは、ヨハネ福音書の「わたしが命のパンである」(6章35節/同41節/同51節)をこの(4)に分類しています〔ブルトマン前掲書〕。
〔旧約聖書の場合〕
 上にあげたヘレニズム世界の魔術書や特にグノーシス文書の「わたしは〜ある」の形式は、前2世紀頃〜後5世紀(『ギリシア語魔術パピルス』)、あるいは2〜3世紀(『ギンザー』)のものです。これらで、年代的にヨハネ福音書(1世紀末)以前のものは、ヨハネ福音書の「エゴー・エイミ」の背景になっていると見ることもできますが、ヨハネ福音書の形式の直接の出所は旧約聖書に源を持つと見るほうが自然です〔ブラウン『ヨハネ福音書』(1)〕。ただし、同じ旧約聖書に起源を持つ形式でも、知恵思想に起源する形式とヤハウェの自己啓示に起源するヤハウィストあるいは申命記史家(たち)の言い方とがあります。
(1)知恵思想に属する言い方は、エジプト系のイシス神話に起源を持つ言い方から出たと考えられます。以下はギリシア語の碑文からの引用です。「わたしはイシス、全地の女王である」/「わたしはイシスである。わたしはすべての女から神と呼ばれる者である」/「わたしは頭のない霊である。・・・・・わたしは真理である・・・・・」〔バレット『ヨハネ福音書』〕。「わたしはポイマンドレース、絶対の叡智である」〔『ヘルメス文書』1章2節〕もこれに属するでしょう。これらは箴言の「わたしは知恵。熟慮と共に住まい知識と慎重さを具えている」(箴言8章12節)の形式と関連していますが、箴言のこの形式は、おそらくエジプトの『アメンエムオペトの教訓』(前1000年頃のエジプトの宮廷における教訓集)の知恵思想へさかのぼるのでしょう。
(2)これよりもさらにヨハネ福音書の形式に近いのは、「わたしはヤハウェ、あなた(ヤコブ)の父祖アブラハムの神である」(創世記28章13節)の形式です。ヘブライ語原文「アニー・ヤハウェ」には「である」がありませんが、これの七十人訳には「エゴー・エイミ・ホ・テオス」(わたしは神である)とあって、「である」がでています。同様に出エジプト記20章5節「アニー・ヤハウェ・エロヘーハ」(わたしはヤハウェ、あなたの神)の七十人訳も「エゴー・エイミ・ホ・キュリオス(主)・テオス(神)・スゥー(あなたの)」です。「ヤハウェ」の名前は「わたしはある」と訳されていますが(出エジプト記3章14節)〔新共同訳〕、これが~名として用いられる場合には、ほんらい動詞の使役態の「あらしめる/存在させる/創造する」の意味ではないかと言われています。七十人訳のギリシア語では「である」と存在を表わしていますが。
(3)ところが七十人訳のギリシア語「エゴー・エイミ」は、ヘブライ語の訳を指すだけでなく、このギリシア語それ自体が~名として用いられるようになります。これの起源はイザヤ書43章25節のヘブライ語「アニー(わたし)アニー(わたし)フー(者)ミヘ(ぬぐう)ペシェーゲーハー(あなたの罪)」(わたし、わたし、あなたの罪をぬぐう者)です。この「アニー、アニー」の七十人訳は「エゴー・エイミ、エゴー・エイミ」です。ここは「わたしはあなたの不法をぬぐう者エゴー・エイミである」のように読むことができますから〔ブラウン『ヨハネ福音書』(1)〕、この場合の「エゴー・エイミ」は、神ヤハウェに代わる~名として用いられていると見なすことができましょう。全く同じことが、イザヤ書51章12節の七十人訳「エゴー・エイミ・エゴー・エイミ・ホ・パラカローン(慰める)・セ(あなたを)」(わたしこそエゴー・エイミ、あなたを慰める者)にもあてはまります。ここは「僕の歌」に属する大事な箇所です。同52章6節の七十人訳「その日にわたしの民はわたしの名を知るだろう、なぜなら語っている者はエゴー・エイミ自身であるから」は、民が「その日に」知るのは神の名前「エゴー・エイミ」であることを意味しますから、後2世紀のラビは、イザヤ書のこの箇所を「その日彼らはエゴー・エイミが彼らに語っていることを知る」と解釈しました〔前掲書〕。  
〔共観福音書の場合〕
 共観福音書にはヨハネ福音書の「エゴー・エイミ」に通じる用法が全部で四つあります〔ブラウン『ヨハネ福音書』(1)〕。
(1)大祭司の「お前はメシア、ほむべき方の子なのか?」という問いに答えて、イエスは「エゴー・エイミ(わたしである)」と答えます(「『わたしがそれだ』とはあなたが言うことである」という異読もありますが、これはルカ福音書の読みを反映した後からの挿入)。ルカ22章70節では「『エゴー・エイミ』とはあなたたちが言うことである」となっています。この「エゴー・エイミ」にはイエス自身が神的な存在であることが含まれていたので、大祭司たちは、この言葉を神への冒涜だと断定したのでしょう。
(2)マルコ6章50節=マタイ14章27節で、イエスが湖上を歩く姿を見て弟子たちが怖れると、「エゴー・エイミ。怖れるな」と言います。マタイ福音書では、このすぐ後で弟子たちが「あなたはほんとうに神の子です」と言ってイエスを拝んだとありますから、ここでも「エゴー・エイミ」はイエスの神性を啓示していることを示しています。
(3)ルカ24章36節では、エマオへ向かう弟子たちに復活のイエスが顕れた後で、エルサレムの弟子たちのところへ戻ってこのことを報告していると、イエスが弟子たちの間に立ち顕れます。弟子たちが「霊」を見ているのだと怖れると、イエスは「あなたたちに平安あれ。(エゴー・エイミ。怖れるな)」と言ったとあります。ここはヨハネ20章19節と並行しています。( )内が抜けている異読があり、このため、ルカ福音書の後半は、ヨハネ福音書から採り入れて挿入されたと見ることもできますが、ルカ福音書とヨハネ福音書には、それぞれ独立に伝えられた共通する伝承があったと考えられますから、ルカ福音書のこの後半部のテキストは真正でしょう〔新約原典テキスト批評〕。この場合の「エゴー・エイミ」は復活したイエスを表わします。
(4)マルコ13章6節(=ルカ21章8節)に「多くの者たちが、わたしの名を名乗って現われ「エゴー・エイミ」だと言って多くの者を惑わせるだろう」とあります。マタイ24章5節の並行箇所は「わたしはキリストである」ですが、これはマタイ福音書の記者がほんらいの形を分かりやすくするために「キリスト」を補(おぎな)ったと考えられます。
 以上の四つで、(1)〜(3)は、「わたしは〜である」と言うべきところを「わたしは(それで)ある」、あるいは単に今いるのは「わたしである」の意味にも理解できます。しかし、内容的に見れば、どれもイエスの神的な存在を啓示していることに変わりありませんから、ヨハネ福音書の「エゴー・エイミ」に通じると見ていいでしょう。特に(4)では、「エゴー・エイミ」が「わたしの名」と結びついていますから、この用法はヨハネ福音書の「エゴー・エイミ」(~名としてのイエスの名」に近いでしょう。
〔ヨハネ福音書の場合〕
 ヨハネ福音書の「わたしは(〜)である」を考察すると次の三つに分類できます〔ブラウン『ヨハネ福音書』(1)〕。
(1)「エゴー・エイミ」が述部を伴う表現をとる場合で、以下の七通りです。
「わたしは命のパンである」(6章35節/51節)。
「わたしは世の光である」(8章12節/9章5節)。
「わたしは羊の門である」(10章7節/9節)。
「わたしはよい羊飼いである」(10章11節/14節)。
「わたしはよみがえりであり命である」(11章25節)。
「わたしは道であり真理であり命である」(14章6節)。
「わたしは真のぶどうの樹である」(15章1節/同5節)。
 これらの用例を見ますと、「命のパン」はモーセが荒れ野でイスラエルの民に与えた天からのマナと対照されており、「羊の門」は偽りの教えに対して、「よい羊飼い」は民を搾取する強盗のような牧者に対立しています。「ぶどうの樹」も実を結ばない樹と対照されていると言えましょう。これらはどれも隠喩であり、しかも旧約聖書から受け継がれてきた隠喩に基づくものです。したがって「まことの」は、旧約時代とのタイポロジー関係(予型とそれの成就としての対型)として理解すべきです。「よみがえりであり命である」もユダヤ教の終末での「よみがえり」と対照していますから、これもタイポロジー的な関係にあります。ちなみに共観福音書では、こういう場合に「神の国は〜のようなものである」という譬えの形式で語られます。だからヨハネ福音書では、共観福音書の「神の国」がイエス自身の霊性として人格化されているのです。
? ヨハネ福音書の「エゴー・エイミ」は、御子イエスの神秘の御臨在を表わす究極の「実在」だと言えましょう。だから、これだけで出てくるのは希(まれ)で、この御臨在がわたしたちに<どのように>語りかけ働きかけるのか、これを言い表わすために述語的な「〜である」が補われるのです。この補いの部分は、どれも暗喩/隠喩"metaphor"の形式であることに注意してください。霊的なことは暗喩で語られるのです。
(2)ここで問題なのは、「世の光」と「道であり真理であり命である」の場合です。これらは「あなたは何者なのか?」という問いに対する答えとして理解することができます。しかし、同様のことを唱えた人はヘレニズムの世界にもおり、古今東西に幾人もいました。では、イエスはここで自分をほかの人たちから区別して「エゴー・エイミ」を用いているのでしょうか。先にあげたブルトマンの分類では、「何者か?」に対する答え(2)と自分を他者と区別する排他的な用法(4)と、これらの二つが区別されています。(4)であれば、日本語では「わたし(だけ)<が>〜である」になります。しかし、これらの「エゴー・エイミ」は、必ずしも「唯一性」を強調しているのではなく、他の人たちとの同一性をも含みながらも、イエスこそが人間にとってほんとうの光と真理と命の「源泉にいたる」道であることを言おうとしているのでしょう〔ブラウン『ヨハネ福音書』〕。
 なお、これらとは少し違いますが、この用法に属するものとして8章18節「わたしは自分自身についてとわたしを遣わされた父について証しする者である」と同23節「わたしは上からの者である」があります。ただし、最後のこれらふたつは、次に述べる~名としての絶対的な「エゴー・エイミ」の用法に近づいていると言えます。4章26節でのサマリアの女への答え「あなたと語っている者がエゴー・エイミである」も同様です。
(3)先に旧約聖書の七十人訳にでてくる「エゴー・エイミ」が~名として用いられる例をあげましたが、ヨハネ福音書の場合にもこれと同じ例が二つあります〔ブラウン『ヨハネ福音書』(1)〕。
(A)8章28節「あなたたちが人の子をあげた時、その時エゴー・エイミだと知るだろう」。この「エゴー・エイミ」は述部を持たない絶対的な用法であり、イエスを遣わした神自身を啓示するものですから、旧約の「わたしはある(ヤハウェ)」に近いと言えます。
(B)18章5節では、ユダが兵隊と共にイエスを捕らえようとした時に、イエスが「だれを求めているのか?」と尋ねると、彼らは「ナザレのイエスを」と答えます。すると「『エゴー・エイミ』と彼らに言った」とあります。この部分は「<イエス>は言った『わたしは<イエスで>ある』」と「イエス」がでている異読があります。しかし、「イエスの位置が前後していることから、これは、筆写の際にその場の内容を判断した挿入だと見ることができます〔新約原典テキスト批評〕。ここでも、イエスは自分の名前を告げる代わりに、「エゴー・エイミ」と名乗ることで、自分を遣わした父の~名を啓示しているのでしょう。このために、「エゴー・エイミ」を聞いた相手方が、思わず後ずさりして後ろへ倒れたのです(6節)。このような「エゴー・エイミ」は、イエスと父とが一つであることを啓示するものですから、「イエスの名」で祈り求めることは、何事でも「父の栄光を顕す」ためにかなえられると告げられるのです(14章13節/16章23節)。
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