第4章 残りの者たち
ガラテヤ2章1~10節
1これに次いで14年目に、わたしはバルナバと連れだって再びエルサレムへ上がったが、その際テトスも伴って行った。
2上がったのは啓示があったからである。そこでわたしは、異邦人の地で宣べ伝えている福音を皆さんに呈示し、有力な人たちには個別にこれを行なった。わたしの今の歩みとこれまでの行程が、あるいは無意味にならないかと思ったからである。
3ところが、わたしと共にいたテトスでさえ、ギリシア人であるというのに、割礼を強制されることがなかったのである。
4と言うのは、偽兄弟たちが潜り込んできたからである。この連中が潜入してきたのは、わたしたちがキリスト・イエスにあって得ている自由に探りを入れ、わたしたちを隷従させようと意図したからである。
5わたしは、そういう彼らの強要に一瞬たりとも譲らなかった。福音の真理があなたがたの間に一貫して留まるためである。
6有力と目されるほどの人たちからも(彼らがかつてどのような人であったとしても、わたしには問題ではない。神は人の顔で左右される方ではないのだから)、その有力な人たちもわたしに負担を加えることはなにひとつしなかった。
7それどころか、無割礼の人たちへの福音がわたしに信託されているのを承認してくれた。それもペトロに割礼の人たちへの福音が託されているのと同じようにである。
8ペトロに働きかけて割礼の人たちへの使徒としてくださった方は、わたしにも働きかけて、異邦の諸民族に向かわせてくださったからである。
9柱と目されているヤコブとケファとヨハネは、わたしに授けられた恵みの賜が分かったので、わたしとバルナバとに交わりの意味で右手を差し出してくれた。これは、わたしたちのほうは異邦人へ、彼らのほうは割礼の人たちへ向かうという意味である。
10ただ「貧しい人たち」のことを忘れないようにとのことであったが、このことは、わたしも努めて行なってきたことである。

ユダヤ人からユダヤ人へ
 この段落の特徴は、パウロがガラテヤの信者たちに宛てて語りながら、同時に彼の脳裏には、ユダヤ人キリスト教徒たちのこと、特にエルサレム教会での使徒たちとの出会いへの回想が重ね合わされていることである(1節に「再び」とあるので、ここでのパウロのエルサレム訪問を使徒言行録の記述に合わせて「飢饉訪問」と見て、使徒会議ではないとする説がある。しかし、わたしは本来飢饉訪問と使徒会議とは同一の訪問であったのをルカが誤って別個のものとしたと判断する。使徒教令に資金援助の記述がないことが、同一視を否定する根拠にはならない)。だからここでのパウロの言説は、ガラテヤの人たちに向けられていながら、同時に、あるいはそれ以上に、エルサレムの使徒たちを含むユダヤ人キリスト教徒のほうへも向けられている。現在のガラテヤの人たちの割礼問題が、かつてのエルサレムの使徒会議での割礼問題と重なり合っている。こうして、ガラテヤの人たちとユダヤ人キリスト教徒たちのふた種類の人たちに向けられる言説に過去と現在との割礼問題が重なって、4節以降からは、挿入文がつながって入り込み、構文が中途半端なままで、晦渋(かいじゅう)な文体を形成している。ここでのパウロの思考をたどるためには、と言うよりも、パウロが語り伝えようとしている出来事それ自体をたどるために、わたしたちは、まずもって「自分の視点」を注意深く見定めなければならない。あえて言うならば、パウロ以後の「キリスト教的な」視点をしばらく離れる必要があろう。
 一例をあげよう。かつて日本経済が繁栄を極め、アメリカの経済が不況にあった時に、アメリカ人の間で、日本を引き合いに出して、「このままではアメリカは日本に経済的に支配されてしまう」という声があがった。これを聞いた日本人が、もしもアメリカが本当に日本に支配される時が来ると勘違いするなら、彼はこのような言説の持つコンテキストを全く取り違えていることになる。これは「アメリカ人同士の」議論である。だからこの言説は、同国のアメリカ人に奮起を促すためのレトリックに過ぎない。これをもって日本がアメリカに優るなどとうぬぼれる日本人は、この点を見逃しているのである。逆に日本人が日本の現状を嘆く言葉を、そのままアメリカ人が真に受けて、日本はだめな国だと判断するのも同じ誤りを犯すことになろう。
  私がこのような例をあげるのは、まさにこの部分では、このことが大事な視点となるからである。この場合に限らず、福音書でのイエスの厳しい反ユダヤ教的な発言も、それを現代のわたしたちをも含めて「外部の異邦人」が受け取る際に、果たして同じ過ちを犯していないかどうかを検証する必要がある。新約聖書の時代から現代にいたるいわゆる「ユダヤ人」へのキリスト教的偏見は、案外こういう種類の言説の受け止め方を取り違えたことに起因するのではないか。この点を反省する必要があろう。
多様の中の一致
 2章全体を通じて、パウロは、ガラテヤの人たちと向き合うだけでなく、場合によってはそれ以上に、「ユダヤ人」として、同じユダヤ人キリスト教徒の仲間たちに向けて語っている。パウロのこの視点は、「わたしたちは生まれながらのユダヤ人であって、異邦人のような罪人ではないが」(1章15節)に端的に言い表わされている。「異邦人のような罪人」という言い方は、彼のここでの言説が、ガラテヤの「異邦人」に対してではなく、同じユダヤ人同士に向けられていることを示している(「わたしたち」に注意)。このことと、彼が福音的な視野において、保守的なユダヤ人キリスト教徒と鋭く対立していることとは少しも矛盾しない。それどころか、「この視点に」立って初めて、パウロの反ユダヤ教的な言説の本当の意義が洞察できると言うべきであろう。ここでは「わたしたち異邦人」は、いわば茅(かや)の外にいて、仲間内からの声を漏れ聞くだけである。「異邦人のような罪人」というこの言葉は、ユダヤ人パウロと、異邦人への伝道者としての自分とが、内でせめぎ合っているところから発せられている。このことを見逃してはならない。
 この段落には、ユダヤ人キリスト教徒たち同士の間に走る亀裂の深さが露呈しているのは確かである。にもかかわらず、私に言わせるなら、ここに見いだすのは、ユダヤ人キリスト教徒たちの間の「交わりの知恵」である。このことは、先に指摘したパウロの反ユダヤ教的な福音への姿勢や彼の敵対者たちとの間に横たわる溝の深さを考え合わせると驚きに値する(パウロはわざわざテトスを同伴するというきわめて挑発的な行動に出ているのに)。こういう「仲間同士の」対立と一致は、外からはうかがうことのできない深みを感じさせる。江戸時代初期のキリスト教の宣教師の間でも、日本人のキリスト教受容のあり方をめぐって、宣教師たちの間で齟齬があり、ために論争を生んだ事実がある。戦後日本へ伝道に訪れたあるアメリカの宣教師が、日本人による日本人への伝道をその方針としたために、これに反対する同じアメリカの宣教師たちが、彼への伝道資金の援助を断ち切るようにアメリカ本国で運動したのを私は知っている。しかし、わたしたちは、これらの出来事が、言わば「同じ宣教師仲間の間で」行なわれた議論であり対立であったことを見逃してはならない。卑近な例えで言えば、白人同士が人種差別問題を論じ合うのと、差別される当事者である黒人が直接これに参与するのとは、別問題なのである。
 わたしたちがここに見るのは、当時のユダヤ人キリスト教徒たちの間に横たわる亀裂の深さであり、同時にその多様性であり、それにもかかわらず、ともかくも一致を守り抜いた驚くべき柔軟性と寛容である。このことは、先に述べられていたパウロの反ユダヤ教的な姿勢と照らし合わせると注目に値する。わたしたちは、パウロの言説が、どのように複雑なコンテキストで語られているのかを知っている。彼らの周辺には、きわめておおざっぱに分類しただけでも、保守的なユダヤ教徒、比較的自由ないわゆるディアスポラと呼ばれるユダヤ教徒、保守的なユダヤ人キリスト教徒、比較的リベラルなヘレニストのユダヤ人キリスト教徒、ユダヤ教に改宗した異邦人、異邦人キリスト教徒、さらにその周辺には、大多数の異邦の諸民族がいた。また、ユダヤ系キリスト教徒の間でさえも、ユダヤ人、サマリア人、ガリラヤ人がおり、クムランを中心とするエッセネ派、ファリサイ派、洗礼者ヨハネの宗団からの流入者など、その出身と宗派は多種多様であった。これに、イエスの語録集を生み出したQ諸集会の人たちを加えてもいいだろう。パウロを取り巻くこの多様性は、現代のわたしたちを取り巻く「キリスト教」の多様性と複雑な相互関係に匹敵すると言えなくもない。
  こういう状況の中で、ユダヤ人キリスト教徒たちの間には、パウロのような異邦人へ向かう使徒からモーセ律法を固守しようとするユダヤ主義のキリスト教徒にいたるまで、それぞれの立場に応じて無数のヴァリエーションが想像される。言うまでもなく、彼らの周辺には、これもまた多様なユダヤ教の諸派がひかえていた。このような視点から見る時に、ペトロたちを「柱」とするエルサレムの使徒たちの示した「寛容と柔軟性」は、とりわけわたしたちの目を引く(「柱」のひとりであるヤコブとは、本来はゼベダイの子、使徒ヤコブであった可能性がある。彼の殉教以後に、主の兄弟ヤコブがこれに替わったと思われる。パウロが「柱と目されている」とやや距離を置いた言い方をしているのに注意)。パウロと彼に対立するユダヤ人キリスト教徒たちとの間に潜む亀裂にもかかわらず、エルサレムの教会が、パウロと「断交する」ことなく、ともかく「交わり」を保持したことの意義はきわめて大きい。わたしたちは、ここで語られている事態をパウロの言う「福音の真理」を基準にして解釈する傾向が強かった。しかし、公正な視点から観るならば、パウロの反対者たちが必ずしも「悪者」であったとは言えない。むしろ彼らには、パウロのやり方を批判せざるをえないそれなりの理由があった、と観るべきであろう(エルサレム教会の使徒たちとパウロに反対するユダヤ人キリスト教徒たちは、割礼を無視するパウロの福音が、エルサレムにおける彼らの身に危険をもたらすと判断した。かつてヘレニストのキリスト教徒たちが、このためにエルサレムを追放されたからである)
 こういう事態を踏まえてみるならば、ここでエルサレム教会とパウロたちとが、ともかく「交わり」を保ち得たことは、繰り返すが驚きである。この成果は、ひとりパウロのみならず、彼をそのように遇したエルサレムの使徒たちの度量、またその周辺にいた人たちの裁量と努力に負うところが大きい。特にペトロと義人ヤコブとヨハネ、さらにバルナバを加えてもよい、彼らの果たした役割は大きい。これほどの相互の距離と多様性の中で交わりを維持するためには、よほどしっかりした共通の紐帯と同時に相互の距離を許容する自由がなければならない。わたしたちは、従来とかく見過ごされてきたこれらの人たちの功績をここではっきりと確認する必要がある(例えばバルナバは、パウロの回心に疑い深かった人たちを説得してパウロを教会に受け入れさせ、またパウロにタルソからアンティオケアへ来るよう依頼した)。
 2世紀の教会において、テルトゥリアヌス〔『マルキオン論駁』5巻3章〕やエイレナエオス〔『異端論駁』3巻13章〕などのギリシア系教父たちは、この書簡の2章5節の否定辞と関係代名詞とを削除して、パウロが「偽兄弟のゆえにテモテに割礼を施すことによって一時的に反対者たちに譲歩した」という読み方をした。言うまでもなくこの読みは正しくない。彼らは、エルサレムの大使徒たちが、混乱を避けるために、パウロと敵対者たちとの調停を図る目的でパウロに譲歩させたと解釈したのである。このような読みは、2世紀の教父たちが、この場の事態を観て、それ以外に解決の方法がなかったに違いないと判断したことを示している。一方でマルキオンは、関係代名詞だけを削除して否定辞を残す読みをとり、パウロが飽くまで敵対者に譲ることをしなかったと解釈した。これは、パウロの「福音の真理」と旧約の伝統とが相容れないと判断したからにほかならない。だからと言って、2世紀の教父たちは、ここでパウロがおかれている事態を決して見誤ったのではない。むしろ、わたしたち以上に的確に事態を洞察したのであろう。まさにそのゆえに、このような読みを取る以外に解決の道がないと判断したのであろう。少なくともパウロの時代のエルサレムの使徒たちのほうが、2世紀のこれらの教父たちよりも、はるかに「厳しい」多様性に対処する寛容さを具えていたのをこのことは例示している。
交わりの手
  現代のわたしたちから観れば、エルサレム訪問でのパウロは、薄氷を踏む思いであったろうと想像される。ところが彼は、使徒会議全体の席上で、自分が異邦人の間で教えている福音を人々に向かって公然と力説している(会議の席で「呈示して話した」とあるのは、ヘレニズムでは「同意を取り付けるために解説し説明する」こと)。その上でさらに、有力者と思われる使徒たちには、ひとりひとり「個別に」説明したと述べている。これは決してエルサレムの使徒たちから指導や承認を受けるためではなかったとパウロは言う。エルサレムの使徒たちは、パウロの説く福音を必ずしも全面的に受け入れたわけではないが、パウロたちの立場を否定はせず、結果的に承認した。
  にもかかわらず、パウロがここで「偽の兄弟たち」と呼ぶ人たちは、異邦人へ割礼を課すことをどこまでも主張したと思われる(パウロが、第二コリント11章14~15節で、「偽使徒たち」と呼び、「義の教役者に変装したサタンの手下たち」と呼んでいるのも彼らと同類の人たちである)。彼らがエルサレムの大使徒たちとどのような関係にあったのかは明らかでない。「潜り込んできた」という受動形分詞は、「送り込まれた」とも読めるから、彼らの背後に「大使徒たち」がいたと解することもできなくはない。だから、大使徒たちが、彼らの主張を考慮に入れたために、パウロたちにテトスへの割礼を「要請した」という判断も成り立つかもしれない。
 しかしパウロは、「福音の真理が、あなたたちの間に一貫して留まるために、一瞬たりともそういう従属に屈服しなかった」と言う(「そういう従属」とは割礼を課せられること)。彼にとって、「キリストにある自由」こそ、福音の真偽を見定める重要な基準のひとつであった。この用語は黙示的・終末的な意味を帯びていると思われる(「福音の真理」は、ユダヤ教黙示文学での「律法の真理」に対応している)。しかし黙示文学で、「真理」が「終末的」であるとは、「現在自分の周辺で」生じている同時的な出来事が、神の救済史全体の流れの中でどのような意味を有するかを「霊的に示される」ことと切り離せない。したがって、事の真偽は、「この示し」から観て聖書の言葉をいかに理解するか、という聖書解釈の方法論に基づくことになる。「福音の真理」という表現は、ここと14節に出てくるだけである。14節でこの語は、ペトロの一貫した行動の規範を指すともとれるが、しかし必ずしも客観的な規範だけを意味するのではなく、むしろペトロの内面的な信仰の有り様と切り離すことができない(これに類する表現では、第二コリント11章14節に「キリストの真理/真実」があるが、ここでもパウロは、客観的な規範よりもむしろ「神の前での」自分の良心の証しとしてこの表現を用いている)。だから、「偽り」と「真理」との区別は、神が「現実に働いているかどうか」が重要な基準となってくるのである。
 こういう緊張を孕みつつも、エルサレム教会の使徒たちは、パウロに「負担を加える」ことをせず、むしろ彼に無割礼の人たちへの福音が託されているのを彼らは「見てとった」のである。これには、御霊の働きによって、彼らに「示された」ことが含まれているのであろう。もっともパウロは、この出来事の後で、ペトロが「福音の真理」に従って歩んでいないことを「見てとる」ことになるが(2章14節)。
  エルサレム教会は、割礼が異邦人の救いにとって不可欠ではないという条件をひとまず了承した。ただし、ユダヤ人キリスト教徒については、いぜんとして律法を遵守する義務がある、というのがエルサレム側の意見であろう。だが、ユダヤ人はすでに割礼を受けているはずだから、彼らがキリストを信じても、割礼の必要について問題は生じない(このことは、パウロがユダヤ人キリスト教徒には割礼が「必要である」と考えたことを意味しない)。「無割礼の福音」が認められるのであれば、割礼はすでに救済の不可欠な手段ではなくなるから、「無割礼の福音」が妨げられない限り、彼はエルサレムと提携できると考えたのである。パウロの側から言えば、これは決して「譲歩」ではない。神は、キリストの御霊にあって、「私を通じても働いて、異邦人に向かわせてくださった」、とパウロは言う。神の御霊が、無割礼のままの異邦人の間でも「現実に」働いて、さまざまな霊的なしるしを表している。割礼を施すペトロたちにも御霊は働いているが、割礼を施さず、律法からの自由を唱えるパウロを通じても御霊は同じように働いて、パウロの使徒職を証ししているのである。
  こういう状況の下で、エルサレムの柱である使徒たちは、パウロに「右手を差し出した」。これは友情の誓いのしるしである。だがこれは本来、敵対するもの同士が和解のしるしとして、特に強い者、目上の者が、弱い者、目下の者に向けて「差し出し」、これを受ける相手は、服従の意味をこめて相手の右手を戴く行為である。しかし、ユダヤでは、捕囚以後の第二神殿時代から、このような服従関係ではなく、単なる和解の意味でも行われたようである(第一マカベア書6章58節/11章50節など)。ここでは、互いに対等な関係であるから、パウロは「交わりの」という語を付加したのであろう。ユダヤ人キリスト教徒の中には、パウロたちとの交わりを断とうとする動きがあったことも予想される。
  だが、ここでの「交わり」は、民族的、文化的な相違に基づく棲み分けを前提にしたものではない。また、パレスチナと異邦世界という、地域的な区分を前提にしているのでもない。「異邦人へ向けての」という言い方は、「割礼の者へ」と対句をなしていて、地域ではなく福音の相手となる人間を意識している。このことは、パウロにとって決定的に重要である。「割礼の者へ」の福音とは、すでに割礼を受けている者への福音であり、またユダヤ人が割礼を受けることを認める福音でもある。ここでの両者の関係は、むしろ、割礼をも含めてモーセ律法全体をどのように扱うべきかという律法の「継承関係」における区分として考えるほうが適切であろう。ユダヤ人キリスト教徒と異邦人とでは、福音を宣べ伝える場合に、律法の「継承関係」が違った仕方で行われる、ということであろう。このような継承関係における違いを孕みながら、しかもなお「交わり」が保たれるのは、それが人間的な関係ではなく、神の御霊にあって授与された「恵み」であることと切り離すことができない。これが福音の理解において、「異なる立場」に立ちつつ、しかも「対等」で、互いの形態を保持しつつ与えられる「交わり」なのである。
  繰り返すようであるが、従来この辺の事情については、とかく、パウロとその敵対者たちとの関係、あるいはパウロとエルサレムの指導者たちとの間に潜む相違点のみが注目される傾向があった。しかし、わたしたちはここで、原初キリスト教会のユダヤ人キリスト教徒たちが見せた「交わりの一致」に注目して、この手紙に露呈している厳しい対立にもかかわらず、なお交流が行なわれていたその寛容と度量とこれを支えたに違いないイエスの御霊にある恵みを改めて評価したい。では、このようなユダヤ人キリスト教徒同士の交わりと異邦人へ向かう使徒というふたつの狭間におかれたパウロの立場は、どのようなものなのであろう? 次にこの点を考えてみたい。
神の怒りと憐れみ
 わたしたちはここで、ローマ人への手紙9章へ目を転じることにしよう。この章でパウロは、ユダヤ人のことを「人間的には自分の同族である私の兄弟たち」と呼んで、彼らがキリストの恵みを受け入れようとしないことを深く悲しんでいる。しかし彼は、神が決してユダヤ人を見捨てたのではないと言う。「なぜなら、イスラエル出身の者たち全部が、全員イスラエルとは限らない」からである。神は全イスラエルの中から「真実のアブラハムの子孫」だけを選ぶ。しかし「アブラハムの種から出た者たち全員がアブラハムの子とは限らない」。「すなわち人間アブラハムの子孫が、そのまま神の子と見なされるのではなく、神の約束によってアブラハムから生まれた子供(直接的にはイサクを指す)だけが神の子と認知される」のである。このように、人間的な血縁や民族的な血筋とは全く別に、「神によって選ばれた」者たちだけが、「アブラハムの信仰」を継承する「正統な嫡子」、すなわち「正統な継承者」として、キリストにある神の恵みを受ける民と見なされることになる(ガラテヤ3章29節)。パウロは、この者たちを神による「約束の子」と呼ぶ。約束(エパンゲリア)の子だけが福音(エウアンゲリオン)の子となることが、このようにして生じる。
 パウロはさらにローマ人への手紙9章で、陶器師の例を引いて、神は、その自由な意志によって、陶器師が粘土の混ぜ方とねり方を変えて、「尊い器」と「卑しい器」とを造り分けるように、人を神の「怒りの器」と「憐れみの器」とに造り分けると言う。「選び」とは「造り出す」こと、すなわち「創造する」ことにほかならない。続いてパウロは、9章22節から29節までで、パウロの同族であるイスラエルの民と異邦人キリスト教徒たちとの関係について重要な視点を導入する。だが、この部分も構文が破格になっていて難解である。22節では「怒りの器」について語られ、23節では「憐れみの器」について語られている。構文的には「もしも~」で始まる条件節であるから、これを二つの条件節とは見ずにひとまとめにして読むなら、たとえ今は「怒りの器」であっても、将来神は「憐れみの器」としてくださると解釈することもできなくはない。しかしこの読みは「この段階では」正しくないであろう。確かに11章の後半では、イスラエルの救いが語られている。しかしそれを9章のこの部分に反映させることは適切でない。
 9章22節は、これに先立つ17節でのファラオの例と対応していて、ここでパウロはイスラエルが憐れみを受けることではなく、逆に神によって拒否されることを述べているのである(新共同訳で「寛大な心で耐え忍ばれた」とあるのは的確でない。「怒りを抑えて」終末の裁きの時まで「大きな忍耐をもって待つ」ことである)。したがって、22節と23節とは、内容的に対立するふたつの条件節として読むべきである。なおこの部分は、「もしも」で始まりながら、疑問符で終わっているが(英語のWhat if…?)、この疑問符は23節の終わりに付けるべきであろう。したがって24節からは新たな段落として読むほうがよい。このように読むことで、22節と23節とが対応し、24~26節と27~29節とが対応して、「怒りの器」であるイスラエルと「憐れみの器」である神の民との対照が明確に浮かび上がってくる。22~23節を訳せば次のようになろうか。

 ローマ人への手紙9章17節では、異教の王ファラオによって苦しみを受けたイスラエルの民が、神の「憐れみの器」として救われ、ファラオのほうは、神の「怒りの器」として、裁きに委ねられていた。ところがその同じ神が、今は、同じ怒りをかつては自分が選んだイスラエルの民の上に注ごうとしている。ただし神がイスラエルに救いの可能性を残していることは、11章にいたって明らかになるが、ここはまだその段階ではない。
 このように述べてから、パウロは「神はわたしたちをイスラエルからだけでなく諸民族からも召し出してくださった」(24節)で始めて、ホセア書からの引用に入る。
 パウロはここで、七十人訳のホセア書2章(1節と25節)からの引用をひとまとめにして、独自の編集を加えている。この引用では、「愛されない」と「わたしの民でない」とが、七十人訳とは順序が逆になっている。また七十人訳では「言う」とあるのを「呼ぶ」に、すなわち「召し出す」と言い換えている。「召し出す」とは「選ぶ」ことであるが、これには「名前を呼ぶ」という本来の意味が活きており、名前を呼ぶことそれ自体が、そのような出来事を造り出す神の創造行為とつながることを示唆している(「愛されなかった者」は、七十人訳の別の版では「憐れまれなかった者」となっている。このほうがヘブライ語の原語に近いから、パウロはこの意味で引用したのであろう)。
 神は今や、「自分の民でない」異邦人を「わたしの民」と呼び、「憐れまれなかった」異教徒を「憐れみの器」と宣言する。ここではかつての「選びの器」であったはずのイスラエルが、神の「怒りの器」に転じ、これとは対照的に、かつて偶像礼拝のゆえに神の「怒りの器」であったはずの異教の民が、「憐れみの器」に転じる。しかもこの逆転が、神の律法を守ることによって「わたしの民」と呼ばれていたイスラエルと律法を知らない民として神に呪われていた異邦の諸民族との間で生じたのである! 律法を守ろうと努めてきた民が神の怒りの的とされ、律法を知らなかった諸国民が神の憐れみの対象となるというこの逆説、これがパウロをして「いったいどういうことなのか?」と言わせた謎である。
 この逆転と逆説は、ひとえに神の「選び」と「召し出し」から出たものにほかならない。「選び」も「召し出し」も神の創造行為を意味するから、その創造は、神の「選び」から出た転位によって生じることになろう。こうして、今まで誰も予測しなかった形で、神の救済史における「正統な継承者」が誕生することになる。神は、常にその自由な意志をもって、被造物としての人間に対して創造主として臨む、ということであろう。それでも人間は、神に対して「言い逆らう」(9章20節)ことが許される立場にはないのであろう。こうして救済史の始めから終わりまで、神は常にその自由な意志によって行動し、結果としてイスラエルが福音に敵対することになり、パウロに深い悲しみをもたらす。いったいそのようなことがどうして起こるのか? これが23節でのパウロの驚きであり、同時に問いかけでもある。だがここでは、このような救済史の謎に立ち入ることはしない。
 パウロはさらにイザヤ書10章(22~23節)から引用して、「たとえイスラエルの子らの数が海辺の砂のようであっても、残りの者が救われる」(9章27節)と述べる(「海辺の砂」はイザヤ書からでなくホセア書の2章1節から入り込んだもの)。ここでわたしたちは、「残りの者」というユダヤ=キリスト教の救済史における独特の概念に出合う。「残りの者」(集合名詞で単数。英語のa remnant)とは「ごくわずかの残り物」を意味するが、ここでは神の怒りの器として滅びに至ろうとするイスラエルの民の中からも、神の「憐れみの器」として残される者たちがなお存在することを指している。
 9章24節でパウロは「憐れみの器として、神はわたしたちを、ユダヤ人からだけではなく、異邦人の中からも召し出してくださった」と言う。ここでの「わたしたち」は、先のガラテヤ人への手紙に出てきた罪人である異邦人から区別された「わたしたち」とは異なっている。先には「ユダヤ人」キリスト教徒として語ったが、ここでは、自分を「異邦人と共に」おいているからである。言うまでもなく彼の脳裏には、ユダヤ人と異邦人とが共存するキリストの教会がある。パウロの「わたしたち」はこのようにして、ユダヤ人キリスト教徒のみの領域と異邦人をも交えたユダヤ人キリスト教徒の領域と、このふたつが重なり合う部分の中を行き来する。そして彼は、この重なり合う部分にあるユダヤ人キリスト教徒としての極めた限られた領域の中に「残りの者」の存在を見いだすのである。このようにして、「憐れみの器」から神の「怒りの器」へと転じたイスラエルの民と、偶像礼拝の民としてかつての「怒りの器」から新たに「憐れみの器」へと生まれ変わった異邦人キリスト教徒と、この境界の狭間にのみ存在しうるのが、パウロの言う「残りの者」なのである。だが、いったいそれはどのような意味を持つのだろうか? 
残りの者たち
 ガラテヤ人への手紙へ戻ろう。エルサレムの使徒たちとパウロたちとは、互いに厳しい対立を抱えていた。しかもその対立を直視しつつ、しかも「対等に」、しかも分裂も排除もなしに、「交わり」の握手を交わすことができた。パウロがガラテヤ人への手紙2章1節から10節までで語っているのは、まさに「このこと」にほかならない。両者それぞれの背後には、ユダヤ民族とヘレニズムの諸民族とが控えている。この膨大な人海に囲まれて、彼らユダヤ人キリスト教徒たちはほんの一握りの存在にすぎない。それはほとんど存在することが奇跡に等しいほどわずかであることをローマ人への手紙9章29節は語っている。これがパウロの見ている「イスラエルの残りの者」の姿であった。
 ローマ人への手紙9章26節と27節では、「私の民でない者たちを私の民と呼ぶ」ことと「イスラエルの残りの者だけが救われる」こととが結びつけられる。ここには、原初教会のユダヤ人キリスト教徒たちが、「イスラエルの残りの民」としての自己をどのように自覚していたかが示されている。ユダヤ教で「怒りの器」とは、メシアの到来の際に周辺の偶像礼拝の民に向けられる裁きを意味していた。ところがパウロを始めとする「残りの者」は、この裁きを同胞のユダヤ教徒に転位する。その上で、イザヤが本来意味していたはずの「律法を最後まで遵守する残りの者」をして律法を知らない異邦人の側に立たせるのである! このようにしてパウロは、旧約からの一元的な継承関係をユダヤ人キリスト教徒と異邦人キリスト教徒とのふたつの継承関係へと転換させる。2世紀のギリシア教父たちから見れば考えられないような彼らの交わりが、どうして可能だったのだろうか? その謎は、パウロたち「残りの者」の多様性とこのような交わりの確かさに秘められている。
国土と御国

 この間、「ミュンヘン」と題する映画を見る機会を得た。ドイツにおいてオリンピックが開催された時に、イスラエルの選手たちが、「黒い九月」と名乗るイスラムのテロ組織によって人質となり、ドイツ側の奪回作戦にもかかわらず、ついに全員が殺されるという事件があった。この映画は、この出来事に続いて、イスラエルの諜報機関が、「黒い9月」の指導者11人のうちの9人までを復しゅうのために殺害した事実に基づいている。ユダヤ人とパレスチナ人とが互いに復しゅうを繰り返すのは、ただひとつ「国土を守る」ためであることが、この映画のテロリストたちの会話の中から明らかにされてくる。
 申命記4章1節にあるように、イスラエルの土地取得と国土の保全こそ、イスラエルに与えられたヤハウェからの祝福の契約の内容であり、契約に伴う律法の目的でもあった。イスラエルの国土が栄えることが即ち祝福であり、これを失うことが呪いにほかならない。申命記28章15節以下では、神の呪いが、これに先立つ祝福よりも倍の長さで語られている。この部分には捕囚以後の編集が行なわれているが〔Rat 173〕、このことは、バビロンの捕囚が、神の律法に背いたイスラエルへの罰として理解されていることをはっきりと表わしている。だからイスラエル民族は、ヤハウェとの契約とその律法を遵守することによって、国土の保全と繁栄を祈願してきたのである。
 ところがイエスの霊的で終末的な神の国は、イスラエルの伝統的な国土保全に基づく契約と律法観を根底から逆転させるものであった。したがって、ユダヤの指導者たちは、ほんらい国土保全とそこでの生存を目的とするアブラハム契約と律法による祝福が、イエスの伝える神の国によってその意味を失い、イスラエルの保全が脅かされると見なしたのであろう。ここにユダヤ教とイエスとの衝突の根本的な原因がある。ただし、イエスの神の国は、イエスにおいて突然に始まったわけではない。国土保全に基づく契約とその律法観は、特に捕囚以後のユダヤ教において、「無力な貧しい者たち」こそが、神の国を相続するという信仰へと切り替わりつつあった。この間に、詩編37篇11節やイザヤ書60章21~22節/61章7節に預言されているように、貧しく謙虚な者が地を受け継ぐという「意味の転位」が、すでに行なわれてきたのである。イエスの神の国は、この霊的な御国観の終末性をいっそう徹底させたと言えるであろう。マタイ福音書の「柔和な者は地を受け継ぐ」(5章5節)は、ほんらい5章3節と並列関係にあり、「柔和な者は霊的な御国に与る」という意味でもあろう(「無力/謙虚な者」が祝福を受けることは、マタイ11章29節/同20章26節に示唆されている)。
 このような国土保全と律法との結びつきから霊的な御国観への転位は、パウロにも引き継がれている。だがパウロの場合は、国土の保全よりもイスラエル民族へ向けられた神の祝福あるいは呪いとして、この問題が意識されている。パウロが「ユダヤ人/ユダヤ教徒」という時に、どこまで民族的なイスラエル共同体のことを意識していたのか、それとも純粋に信仰的な視点から「イスラエル民族」と「諸民族」(異邦人のこと)との対比を考えていたのか、この点は必ずしも定かではない。しかし彼が、「肉にある同胞のイスラエルの民」(ローマ9章3~4節)と言う時に、自分がイスラエル民族の数少ない「残りの者」の一人であることを意識していたのは間違いない。
 パウロは、イエス・キリストにある信仰とイスラエル民族とをどのようなつながりにおいてとらえていたのだろうか? 宗教は、特に聖書的な信仰は、一般に人間の文化、特に特定の民族の文化と対立関係にあるという見方が根強い。しかし、イスラエル民族を含む人間の文化は、それがどのようなものであれ、その根底において宗教的な霊性が基層を成していると見るならば、宗教と文化とを対立関係においてとらえることは正しいとは言えない。むしろ、国家権力や社会的構造物によって支えられたその国の文化が、そのような世俗的な要因を失う時に、民族固有の霊性に支えられた真の意味での文化が、露わにされると見るべきではないのか。
 だから西田幾多郎に言わせるなら、「民族信仰は、その民族と盛衰をともにする」が、「イスラエル人は単なる民族信仰を越えて、彼らの民族信仰を世界宗教にまで深め高めた」のである。「バビロンの俘虜として国土を失っていた中にも、彼らは彼らの宗教を失わなかった」〔西田410〕からである。さらに西田は言う。

 宗教と文化とは、一面に反対の立場に立つと考えられる。今日の弁証法的神学というのは、反動的に、この点を強調する。しかし私は、どこまでも自己否定に入ることのできない神、真の自己否定を含まない神は、真の絶対者ではないと考える。それは鞫(さば)く神であって、絶対的救済の神ではない。それは超越的君主的神にして、どこまでも内在的なる絶対愛の神ではない。絶対者の自己否定即肯定的内容として、真の文化というものが成立するのである。〔西田413〕

 このような視点から観るならば、パウロたち「残りの者」こそが、真の意味で、イスラエルの国土と宗教によって支えられはぐくまれたイスラエル民族の文化を担っていたと観ることができるであろう。「パウロにおいても、神の救済が、『イスラエルの民と異邦人』という視点で遂行されるという見地が残存しているのである。つまり、神の国の実現、あるいは人類の救済は、民族を中間的媒介とすることによって、あるいは民族単位にされることによって追考されうると考えられているのである」〔川村84〕という見方に賛同する。イスラエルの国土が育んだ霊性に基づく宗教と文化は、パウロたち一握りのユダヤ人キリスト教徒たちによって、真の意味で受け継がれている。彼らを通して、旧約の信仰とこれが支えた文化が、「ヘブライの文化」として世界に拡がり、今もなお生き続けている。これらのユダヤ人キリスト教徒こそ、「地を受け継ぐ者」となった。
 パウロがローマ人への手紙を書いてからわずか十数年後に、イスラエルの国土が失われることを予知していたかどうかは分からない。「不従順で反抗する民」(ローマ10章21節)に神の裁きが降ることをあるいは予感していたかもしれない。しかしながら、同時に、イスラエルの宗教とその文化とが、再び神によって立てられる可能性もまた、彼ら残りの者たちに託された希望であることをパウロは見抜いていたのである(ローマ人への手紙11章28節以下)。
 やがて時代は、ユダヤ人キリスト教徒たちの時代から異邦人世界のキリスト教へと移っていく。トインビーは、その『歴史の研究』で、ひとつの文明が衰退して新たな文明が生まれる際に、その橋渡しをするのはごくわずかの人たちであると指摘する。しかし彼は、その一握りの人たちが、ただの「架け橋」ではなく、己の民族の宗教的霊性とその文化を創造的に受け継ぎつつ、これを世界に伝える大事な役目を神によって課せられていることを見落としている。だから、彼らユダヤ人キリスト教徒たち「残りの者」は、ユダヤ教からキリスト教への継承の過程で埋もれていったひとつのエピソード(挿話)ではない。継承される側とする側との狭間にあった彼らこそ、新たな創造へと導く「継承それ自体」なのであり、同時に彼らは、「失われたイスラエル」を復興させる鍵なのである。わたしたちは最初期のキリスト教において、ユダヤ人キリスト教徒たちが、「その全体として」果たした大きな役割を改めてここで確認する必要がある。彼らは相互に驚くほど多様で、しかも厳しい論争や対立を体験した。しかしながら、キリスト教は、彼らなしには成立しえなかったことを忘れるわけにはいかない。このことは、なによりも新約聖書が、彼らユダヤ人キリスト教徒たちによって書かれたことを思い起こせば十分であろう。

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